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わたしは、今も傷ついている。
わたしに対してだんまりを続けることは、わたしがいくら傷ついていても、事情がわからないため、苦しんでいても、週刊金曜日にとっても、G氏にとっても、別に大したことじゃない、という扱いを受けていることに等しい。
週刊金曜日は、発売日前の記事の写真を渡し、記事を書いたわたしにG氏を通して、あれこれ注文を付けた。
記事の写真のしたに、「上の人が気にするから」週刊金曜日の文字を入れるように言われたのが、もっとも象徴的なことだ。
週刊金曜日は黙っていれば、G氏を傷つけないでいられるかもしれないが、第三者として、働いたわたしの気持ちはどうでもいいのだろう。
しかし、わたしは週刊金曜日の沈黙は、人を傷つけないようにするためだけだとは思えない。
隠したいことがあるのだと思っている。
電話の応対からも、会社ぐるみで、事情をわかった上で、あしらおうとする姿勢を感じている。
週刊金曜日からは、業務部から、発売日前の時点で、お礼のDMが来ている。それ以降も、おかげで大義を掲げる機運ができたと、重ねて感謝の言葉が来た。
「上の人」「記者」「業務部」が少なくとも関わっている。それほど大きな会社というわけではないだろうから、わたしの記事を利用するという方針だったのは、一部の人が、というよりも、会社全体の問題だとわたしは判断している。
会社ぐるみで、わたしを利用したのだ。
週刊金曜日は、マスメディアなのだから、被害者の言い分をそのままコピーした内容の記事も書くべきではなかった。せめて、菅野氏に取材するべきだった。電話一本でも済む話だったのだから。
それを怠っている。
そして、理由はわからないけれど、わたしが利用されて傷ついているのに、わたしが個人なのをいいことに、そのまま、連絡を取らずに、黙殺しようとしている。
グループチャットのログを検証し、名前の挙がっている人に、取材したり、内容を検分すると、G氏は嘘をついていることがわかった。
どんなに好意的に解釈しようとしても、どうにも説明できない部分がある。
わたしの考えでは、一つ嘘をつく人は、どの発言でも信用がおけなくなってしまう。すべてが嘘でないにしても、わたしからみると、すべてが嘘だと疑ってかからないといけなくなる。
みんな、性暴力被害者、というだけで目が曇っているけれど、性暴力被害者になったとたん、人格が変わって、嘘つきに変貌するなんてことはない。
性暴力被害者になったから、嘘つきになったのではなく、もともと、嘘つきだったのが、性暴力被害者だからといって、より甘く見られて、嘘の際限がなくなった、というところだと思う。
性暴力被害者だから、他人を利用したり、利用した後、いらないとばかり、ごみのように扱ったりしてもいいわけではない。
通すべき筋は通せる。
それは、わたしが強い性暴力被害者だから、というわけじゃない。
ただ、性暴力を受けて、どれだけ弱っていたとしても、もともと嘘つきでなければ、嘘をついたり、自分のためにネットリンチを計画したりする発想が出ないだろうということだ。もともと、そういう人なのだ。
週刊金曜日のしたことを、一部の人がしたことだと考えたい人もいるようだけれど、それは違う。
証拠は何もないけれど、週刊金曜日に言われて、わたしは記事を何度も直した。週刊金曜日の都合の良い形の記事を書かされた。わたしの知っている限り、週刊金曜日の上層部、業務部、記者が関わっている。
記事は一人で書くものではないから、記者の上長も把握しているだろう。
それに記者一人で、記事の写真を配ったり、中島氏が記事のpdfを定期購読の発売前に配ったりもできない。
そんなことをしたら、記者本人が首になってしまうだろう。
それを許可した人がいるはずだ。
G氏たちは、菅野氏をうんこと呼んでいた。記者は、自分の書いたゲラの原稿に、うんこ.pdfとつけていた。それを許していた人がいる。会社ぐるみで、そうしていたということだ。
自分の部下が、うんこ.pdfという名前のファイルを出してきてもそれを許していた人がいる、ということは、会社がそういう体質なのだ。
G氏は、ゲラの名前が、うんこなのだと、うれしそうに言っていた。わたしだったら、たとえ加害者が憎くても、うんこと呼ばれていたら、うれしくない。
記者が、本当に、ゲラの原稿名をうんことしていたとしたら、倫理観を疑う。
そして、それは本当なのだと思う。
記者にとって、菅野氏は加害者ではない。だから、記者が菅野氏をうんこ呼ばわりすることも、会社に提出するゲラにうんことつけることも、倫理的に悪いことだと思う。加害者になら、何をしてもいいと思うのならば、それは大間違いだ。
人には人権がある。誰にでも。
しかも、今は係争しているところで、菅野氏は二次加害を防ぐためにすべて認めると言ってはいるが、だからと言って、うんこと呼ぶことが正当化できるはずもない。
人間を、うんこと呼ぶことは、どんなときであっても許されない。
まして、係争中で、何も決まっていないのだから。
勝手に、第三者が、菅野氏をうんこと呼んで、彼の尊厳を傷つけてはならない。
わたしが記事を書くことを拒否することは難しかった。わたしは、性暴力被害者だったから、自分のしてほしかったことをした。だから、記事を書いた。
あのとき、わたしは被害者に寄り添うことを第一義にしていたから、G氏の伝言で来る言葉を拒否することは難しかった。G氏が、週刊金曜日の意に添う記事を書くことを望んでいたから。
わたしは、今、黒幕は、中島岳志だと思っている。クリティカルな証拠はない。(クリティカルな証拠はないけど、実際にこの記事を仕組んだのが中島氏だという証拠はある。これ。中島氏は、週刊金曜日の編集員で、G氏に週刊金曜日の紹介したのは中島氏だ)*1
実際に、職権乱用をして、発売日前の記事、定期購読者に届く前の時点で、pdfを配布しているし。
おそらく、G氏が接触してから、菅野氏を社会的に葬るための絵をこの時点で描いたのだろう。
なにか、スキャンダルがないか待っていて、それが来たのだから渡りに船だったのではないか。
菅野氏の言論停止をG氏は求めている。それで得をするのは、中島氏だ。あの記事には、G氏の主張だけが書いてあり、一方的で、中立とはとても言えない。
また、中島氏は慰安婦問題でも、セクハラ問題でも、適切とは言えない行動をとってきた。
その中島氏が、この問題にコミットすることに違和感がある。
この件を利用して、自分が性暴力問題で、知見があること、運動でもきちんと女性問題にも目配りできているという、アピールをしたかったのではないか。
そして、G氏が菅野氏に求めている、言論停止が実現したとき、もっとも利益を得るのは中島氏だ。
中島氏はメディアを私物化して、自分のために使った。自分の評判をあげるために、免罪符のために、性暴力も利用している。
中島氏は、菅野氏だけでなく、菅野氏を批判する人にまで、菅野氏をとりあげるなと言っている。
普通に考えて、これは常軌を逸している。
菅野氏の言論停止が実現したら、中島氏の思惑通りになる。
わたしは、中島氏の女性差別問題のアリバイにされた。自分で書かなかったのは、彼が女性差別者だから、自分の言葉で書けなかったからだ。
だから、黒幕は中島氏だ。中島氏はこの件にコミットすることで、自分の今までしてきた女性差別を帳消しにできると踏んだのだろうし、菅野氏の言論も封殺できる。
週刊誌が中立であらねばならない、ということはないにしても、裏を取っていないということ、菅野氏に取材していないということは、たとえ、被害者を保護したいとしても、取材をしないというのは、怠慢だ。
わたしに記事を書かせたのは、G氏とその弁護士と、週刊金曜日だ。
誰もが、わたしからの連絡を拒む。何も、対話してくれない。わたしは、論破したいわけでも、抗議したいわけでもなかった。ただ、事情を知りたかっただけだ。それでもなお、対話は拒絶され続けている。
暴言のことを考えると、わたしは人間扱いされていなかった。単なる便利な道具。そして、都合が悪くなって、ケアなどの面倒ごとが持ち上がると、壊れたおもちゃのように捨てられた。
それで、わたしは、今も傷ついている。
週刊金曜日が黙っているのは、これ以上誰かを傷つけないためなのかもしれないと言っている人もいたが、その文脈だと、傷つけない人間の中に、わたしは含まれていない。残酷だ。
わたしのこの苦しさは、なかったことにされている。これ以上誰かを傷つけない、の中に、わたしは含まれていないわけだから。
わたしが記事を上げた直後に、お礼のメッセージを残せるのならば、わたしが苦しんでいるときに、私に対して、対話するべきだ。都合のよい時だけいい顔をするのは良いことではない。
わたしは、人間扱いされたい。道具ではなく。
わたしは傷ついている。人間扱いされていないから。
彼女の嘘の範囲がどれだけかわからない。でも、彼女は嘘をつくことにためらわない。わたしは、それを検証することにコストをかけたくない。だから、今では、真実がいくらあったとしても、彼女の言うことは全部嘘だと考え、行動しようと思っている。
彼女は、筋の通らない、卑劣なことをした。週刊金曜日も、まったく同じことをしている。
わたしは、人間扱いされたかった。だから、対話を望んだ。しかし、対話は行われなかった。
わたしは人間でいたい。人間扱いしてこない相手を、わたしは容赦しない。
わたしが望むのは、わたしをなかったことにしないで、きちんと、人間扱いしてもらうことだ。
*1:証拠はないって書いたら、証拠は出そうよ、と言われたので出します