平和の象徴「待っているおかあさん」は周縁化される

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このエントリに対して、個人攻撃が加えられた。わたしも「はげまし」というリストに入れられた。
わたしは、正直に言って「待っているおかあさんが平和の象徴」という言説にはひくし、詳しくない人間からすると「美人が多い」と宣伝している場所には行きたくない。そういうところは一時が万事で、セクハラの温床になる場合があるからだ。
そして、詳しくない人間からすると、聞こえてくるのは「SEADLsは悪くないけど、大人が悪い」という言葉だ。
美人が多いというまとめが作られたり、被害者だという声である。そのへんはわたしにはわからない。
わからないが、「デモ至上主義」みたいなところも感じる。感じるだけだから、違うのかもしれない。言葉は間接的に伝わってくるので、本当のところはわかっていない。

以下のエントリに書いたように、精神的、健康上理由で、わたしはデモには参加しない。c71.hatenablog.com
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参加できない時点で、わたしは自分から周縁化された存在であることを選んでいるのである。
生きたいが行けないと言う事情を抱えているにしろ、「行かない」という選択をしているのだから、やっぱり
周縁化されている。周縁化されるのは楽しい経験ではない。
自分から選んだにしても、選びたくはなかったという気持ちはうずいている。
わたしの言葉は届かない。「頭数」にもなれない。
「頭数」という言葉を使うところに近づきたくない。人を人扱いしないところで、楽しいことがあるとは思えないから。
楽しいことは、平和のために大切なことだと思うから。

ここで「おかあさん問題」である。スピーチでおかあさんの個人的思い出を語ることについて、どうなのか、わからない。
わたしにわかるのは、「おかあさんは周縁化されたのだな」ということが分かる。
家で帰ったときにおかあさんが待っていて、ごはんを作っていてくれるのが平和、ということだったらその人のおかあさんは、デモに参加しておらず、いわゆる頭数になっていないだろう。
わたしにはこのおかあさんが何を考えているのか、ぜんぜん伝わってこない。
それは、スピーチをした人が、「おかあさんの考えていること」に興味を持たないからではないかと疑ってしまう。
それに、それに賛同した人たちも「一度子どもを産んだ人は家で待っているもの」と思い込んでいて、「子どもを産んだらおかあさんになって、思想的になにかもつことはないはず」と考えているのではないかと思ってしまう。
これは、怖い。
わたしは当面、子どもを産む計画はないが、わたしがおかあさんになっても、他の人のおかあさんになる気はないし、自分の政治信条が、先鋭化はしても、衰えることがないと思っているからだ。
そのとき、わたしは自分がいつの間にか、子どもを産んだというただ一点で、周縁化されたことに激怒するだろう。

個人的なスピーチだとしたら、個人的にわたしは「周縁化されたくない」というのもまた正しいだろう。
子どもたちは自由にすごせて、おかあさんは家で待つ、ということを、個人の経験を語るにしろ、人前で語ることそれにはメッセージ性が帯びるのだから、そのことは批判される。メッセージ性がないのなら、スピーチの価値がないのだし。

おかあさんは、子どもを産んで育てただけで、「平和の象徴」にされるから、「語る機会」からのけ者にされてしまう。
待っていることが平和の象徴とワンセットだから。
また、「象徴」という言葉を使っていないのは知っているけれど、何かを体現する存在は、人間扱いされていない。「天皇」が「国」を象徴しているのと同じこと。象徴たる存在は、政治的言葉を奪われると相場が決まっている。

どこかで、「社会の内側から起きた運動」というフレーズを見た。ぼんやりみているから、どこで見たのか問いつめられても答えられない。わたしは、そういう意味で「普通」だから、普通の人間はこの程度にいい加減だと思ってサンプルとしてほしい。言葉がこの程度に届いていると。
そうそう、わたしは社会の内側ではなく、外側にいる自覚がある。
その自覚は、嬉しく持ったわけじゃなくて、長い間のあきらめの蓄積によって得た自覚。
それは、内側の人たちが与えてくれた自覚だと思っている。
だから、自分たちで、自分のことを「社会の内側」と言えて、そして、そのことを特別のように「社会の内側にいるのに社会運動をするわたしたち」と思えるのは、すごいなと思う。これは皮肉です。
何も欠けるものがなく、すくすくと育ったから、精神的、金銭的、健康上の理由で行けない人のことを「デモに行かないでごちゃごちゃ言う人たち」と認識できてしまうんだろうか。そうだとしたら、なかなか虚しいなと思う。
わたしの周縁化されたという、うずくおき火のような気持ちを刺激する。

わたしはサエボウ先生と意見が近いと勝手に思っている。(えっへん)
おかあさんは、なぜ家にいるのか?
そのことは正しいのか?
戦いたいおかあさんや、表現したいおかあさんを、今までたくさん見て来た。
それができない人は、病気になっていた。おかあさんが何かすると、とても責められる世界なのだ。
そうした世界で「待っているおかあさんが平和」というのは無邪気だ。もしその前提がなければ、もちろん個人の話と受け入れられたけど、おかあさんは家にいるべきという規範がある以上、それを肯定するのは、規範の強化だ。
無邪気なことが悪いときもある。

家にいるおかあさん、家にいないおかあさん、何がおかあさんの平和なのか、わたしはそのことを考えて来たし、考えていくだろう。
そうして、考えること自体が、わたしの平和であって、反戦の一部だ。

c71の著書

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