愛と頭数は相容れないのよ

愛は自由と同じ。
愛が自由を育てる。
(愛がなくても自由は育つけれど)
塾で働いていると、お迎えのアウディが軽に変わっている。親御さんは清々しい顔をしている。わたしはもっと懸命に正直に働こうと思う。
親御さんは子どもの自由を育てるために、愛を注いでいる。わたしはそういう現場にいられて嬉しい。選ばれて嬉しい。

子どもたちは、何にでも興味を持つから、わたしは平和や戦争についての話もする。
貧乏になったら戦争をするの。飢饉があれば、施政者のせいにするの。権力がはびこれば、おごって、滅亡するの。
ほら、鎌倉時代では、頼朝のね、駆け落ちした北条政子が賢かったから、140年続いた。法律を整備し、跡継ぎ問題でもめなかった。だけど、元寇が来て、お給料が払えなくて滅んだ。

そういうことを話す。

時代は移り変わり、戦争は激しくなっていく。どんどん過激になっていく。弓と矢が、原子力爆弾に成長する。冷戦も通り過ぎて、彼らは、高度成長期とバブルの違いを知らない。

「わたしには何もないの」
「わたしはダメなの」と彼女たちは言う。
「あなたは美しくて綺麗で若くて、何でも持っているじゃないの。可能性もなんでもあるじゃないの。勉強をしてどんなことでも選べるよ」とわたしは答える。
「でも」と彼女たちは言う。
「先生、不安なの」「集中できないの」「疲れているの」「悲しいことがあったの」
子どもの頃には悲しいことがたくさんあって、毎日めまぐるしくって、ついていくのがやっとだった。その世界が、大人になっても押し寄せてくるのは怖いだろう。
「大人になるとね、楽になるんだよ。自分で稼いで自分一人の家に住むんだよ。楽しいよ。好きなものを買って、食べて、遊んで、勉強するの。わたしはねえ、中学生のときが一番苦しかった」とわたしは言う。
「ひきこもりだったこともあるんだから…。会社員が合わなくてやめたこともあったし。今はねえ、みんなどの子も好きだし可愛いし、勉強を教えるのは楽しいよ。お金はもっと欲しいけれど」
「先生お金持ちじゃん」
「そうかなあ」
そういう会話をする。
「どの教科も、記述問題が苦手だねえ。主語を書かないで述語だけ書いてあるから何について書いてあるか分からないよ」という話の合間に。
そうすると、彼女たちは花のように笑うのだ。

「勉強できるようになったらどうなるの?」
「いろいろなことがね、自分で判断できるようになるよ。世界が広がるし、悲しいことや頭の中のことが整理できたり人に言えるようになるよ。お金を稼ぐための能力のもとになるよ」
「でも、数学直接役に立たないじゃない?この方程式知らなくても良いじゃない?好きじゃないこれ」
「頭をね、鍛えるんだよ。使い方が分からないと、使えないままだからね。どう組み立ててどういう風に順番をつければ良いかわかるようになるためにするの。今、あなた、聞かれたことに答えることが、そもそもできないでしょ。何を聞かれたか分かるようになるんだよ」

女の子たちに生きるすべを与えたいと思って、保護者の方はわたしに子どもを預ける。わたしは何かを渡したいと思って働く。
嘘をつかないで。わたしの持っているものを全部渡せるだけ渡したいと思って。
限られた領域と限られた時間の範囲で関わっていくこと。
勉強をすること。ひとつひとつ手間をかけていくこと。
愛情があってもなくても、繰り返しに付き合うこと。
そうした長い時間がかかって、子どもは大人に成長する。
そのころには、自由があって、愛があって、いや、愛はなくても良いの、ともかくも自由に生きられる大人を夢見ているんだ。
他でもないわたしが。

今子どもの人たちが、それぞれ思った現在を生きられる大人になる手伝いをしたい。わたしが彼女たちを愛していても愛していなくても、彼女たちは、勉強を学んで育っていく。わたしの両手から自由に出入りしていく。その子らしさのなにがしかが、わたしの中に残る。わたしはそのことを懐かしむけれど、次にまた新しい出会いがある。その繰り返しみたいな幸福なことが、続くように。
自由な大人が増えるように。
夢見ているんだ。

c71の著書

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