自分の加害者としての側面を隠して生きるのはお利口なことだ。
人に断罪されるし、語ることの暴力で人を傷つけることもある。
けれど、状況が許すのであれば、自分の加害者としての側面について考えたい。
なぜなら、語ることで、自分が檻にいれていた自分自身と対面できるからだ。
よく、加害者を治療すべきだというが、その通りで、自分自身を治療したいのだ。
そのことで、新たに他の人を傷つけたり、また踏み返すことになったとする。
そのことの責任はどうなるのか、というと、まだ考えはない。
けれど、わたしは自分が再び加害者になることよりも、自分が加害者だったことを認めてそれを回避したいし、よりよく生きたい。
それは身勝手なことなのだ。
被害者が加害者や、加害を許す理由は全くない。
しかし、加害者が、成長することを看過する可能性はあっても良いのではないか。
わたしは被害者でもあり、加害者でもある。
加害者であるわたしは、癒されたがっている。加害をすることをやめたがっている。
一人で完結して一人でやめてろよ、と被害者のわたしは思う。
でも、助けがないとできないのだ、と加害者のわたしが言う。
http://c71.hatenablog.com/entry/2015/09/19/231514
そして、加害者が真摯に語るところを読んで、癒されて納得した全体のわたしもいる。
c71.hatenablog.com
c71.hatenablog.com
c71.hatenablog.com
c71.hatenablog.com
c71.hatenablog.com
追記しました
いろいろ考えが変わりました
スポンサーリンク
広告