貧困特集で、出演した高校生が、バッシングを受けているようだ。
細かいことは、追っていないけれど、本来国の貧困を解決する立場の政治家まで、そのバッシングに加担していた。
彼女がバッシングされるのは「貧困」「女性」という二点を持ちながら、「語った」ことに理由があるのだろう。
女性が何か語るとき、言葉を持とうとするとき、「攻撃的」だとバッシングされる。
貧乏な人や、病気の人、障害を持つ人など、弱いとみなされる人は、「弱い像」からはみ出たとき、「本当の弱い人ではない」と言われる。
わたしも、「強い」「怖い」と言われる。言葉で語っているだけなのに。
攻撃的だともいわれる。感情的だともいわれる。理屈で語れば、「冷たい」ともいわれる。どんな語り口を選んでも、なじられる。
あらゆる方向から攻撃が飛んでくるので、わたしは言葉選びに慎重になる。
そうして、語ることは押し込められる。特殊な訓練を積んだ人にしか語れなくなる。
わたしは専門家でもないし、女性を代表してもいないし、障碍者も代表していない。けれども「障害を売りにしている」と言われることもあるし、「日本から出ていけ」と言われることもある。
教育を受けていないと、適切に言葉を発するのも難しい。自分の内面を整理して、困っていることや怒りをむき出しにすることも難しい。むき出しにすれば、社会の怒りを買う。
教育を受けていなくても、絞り出される怒りや悲しみがあって、その言葉は、届くべきなのに、「不備」ばかり注目されて、「正しい」言葉遣いを求められて、その過程に抹殺される。言葉を獲得したり、将来を獲得するために、もっと教育を受けたいと願うこと自体も「贅沢」だとバッシングされる。
教育を遠ざけることは、言葉を奪うことと同義だ。どんな言葉でも、それが絞り出されたものならば、受け止めなければいけないのに、社会通念や、体制批判になると、庶民同士で監視が始まり、「正しくなさ」を見つけられる。
文化的な生活を最低限保障されている。憲法で。それが人間らしい生活だから。
でも、趣味を持っていたり、楽しみを持っていたりすると、「贅沢だ」と言われる。
人は、食べて寝るだけでは生きていけない。楽しみがないと、誇りがないと、未来に向かう夢がないと、生きていく気力を失う。死んでもいいかと思ってしまう。
普通の人は、趣味がなくても生きていけるのだろうか。疑問に思う。趣味を持たない人たちもたくさんいる。その人たちはどうやって、今日も生きていこうと思えるのだろうか。苦しいことを乗り越えて。
「弱い」とみなされている側が「言葉」を発すると、徹底的にたたかれる。
弱い側の言葉は、攻撃的だといわれる。
それは、社会を傷つけるものだと思われる。そう、弱い人の言うことは、今の社会を肯定しないから。否定するから。
「普通」の側にいるつもりの人たちは、自分のアイデンティティが傷つけられたと思って、興奮する。
差別があると、指摘すると「傷ついたのはこちらだ」と逆上する人たちをどれだけ見てきただろうか。どれだけそういう人たちがいただろうか。
差別した人に、差別を指摘すると、差別する人は「傷ついた」「慰めろ」と言ってくる。わたしは、自分の尊厳が脅かされたことを横において、その対応を迫られる。
傷つけてくる人たちは、どうあっても、弱い人に弱い立場でいてほしいようなのに、まるで、こちらが強い人間化のように、甘えてくる。傷ついたのは、被害者なのは、こちらだと、迫ってくる。
いやちがう、最初に攻撃して、わたしを脅かしたのはあなただ、というと「悪気はなかった、今までそれで困っていなかった、勉強するのはめんどうだ」と答えが返ってくる。
差別する人は、差別を指摘すると「差別しているとは知らなかった。それを知って傷ついた」という。じゃあ差別されることで、傷つけられたこちらの尊厳はどうなるのだろう。傷つけた相手に、「説明」や「謝罪」をいくらでも求めてくる人たち。
わたしたちが、弱い人間の立場に甘んじているのは、社会の枠組みのせいなのに、彼らは、社会の枠組みのことは知りたくないという。知るためのコストを払いたくないという。社会の枠組みの中にいるから、差別者になってしまうことも、知りたくないという。
差別は、政治の世界の中で、巧妙に作られて、運営されている。政治の仕組みや、社会の仕組みを知らなければ、構造的に、誰かを差別してしまうことは避けられないのに。
誰でも「弱い」面を持っていて、「強い」面も持っている。「真の弱者」を探しているうちに、全員死んでしまうんじゃないかと思う。一人一人に差異があるから、その差異を分解していく過程で、失われていくものがある。
一人の子供が、貧困について、考えてほしいといった。その子供の貧困が、真の貧困ではないと、行政や立法を担う人まで参加して、彼女をたたく。放送の自由も侵す。それが異常だと気付くのは、どうして弱い人ばかりなのか。
弱い人、強い人、と本来は対立できないはずなのに、「自分は弱い側ではない」「強い側でもない」と思っている「普通」の人が、どうしてこんなに攻撃的になるのか。そして、自分の攻撃性に気づかずに、一人の子供の言うことを「攻撃的だ」と判断して、自分を顧みないのはなぜなのか。
教育を受けていても、受けていなくても、自分が「社会の枠組みの中で、順応してやっていきたい人」たちは、人をたたくことで、連帯感を高めたいのだと思う。自分が弱い人間だと認めずに生きるために、それが必要なのだと思う。
自分の弱さを認められないこと自体が、弱いことなのだけれど、弱さを認めれば、楽になる部分もあるのだと思うのだけれど、それをしたら、つぶれてしまうくらい、ぎりぎりの世界で生きている人たちに、届きそうな言葉がまだ見つからない。
言葉を持たない人たちが、語ろうとすると、攻撃的だとみなされる。
お前などが、言葉を持つなと、恫喝される。不満があるなら、日本から出て行けと、言われる。
不満や悲しみ苦しみ痛みを語ることがそんなにも悪なのだろうか。
誰もが沈黙して、日本が素晴らしいと言っていたら、それが幸せなのだろうか。
わたしたちは、不断の努力をして、国を見張っていかなければならないのに、唯々諾々として、国の権力に従い、国が求める作法に従い、沈黙していくことは、誰にとって、有利に働くことなのか、考えてほしい、そう思うことが罪なのか。
わたしは罪だと思っていない。
わたしたちは、誰もが幸福に生きる権利も、教育を受ける権利も、言葉を獲得する権利もあるのだから。
差別される側が、「攻撃的」だといわれて、差別する側が「きれいな言葉」を使える世界。
きれいな言葉によって、人がどんどん死んでいく。居場所をなくして、死んでいく。
差別者は、きれいな言葉を使えという。きれいな言葉じゃないと、届かないよ、という。
差別者はどんな言葉でも自由に使ってもよいのに、「弱い人」は使ってもいい言葉と、使ってはいけない言葉がある。
差別者は、あえて、汚い言葉を使わないといけない状況に、そもそも追い込まれない。
わたしが、訴えると「汚い言葉」と言われる。裁く余地のある人たちがそういうことをいう。
差別は悪いことだと思いすぎて、自分が差別者だと知れば、「悪い人間だ」ということになるから、そこから目を背けるのだ。
わたしは、目を背けさせないから、差別者であることを突きつける、わたしを排除するために、日本から出て行けという人がいる。
差別者でありたくないから、差別される人間を追い出すような人々が残る国で、いったいどんな幸せがあるというのだ。
弱い人間の不便を訴えることが、どうして、攻撃的だと思われるのだ。
誰もが委縮し、教育や学ぶことから離れて、誰かに操られて生きることが幸せなのか。
弱い人間でも、言葉の世界では自由に生きられる。戦うための言葉を獲得するために、学ぶことを、わたしを、泊めることができる人は誰もいない。
それは、わたしが強い人間だからではない。ただ、自分を自分として、尊厳を冒されずに、生きていくために、わたしは戦うと決めたから。それがわたしにとって、生きるということだから。
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