子どものころは友達ができなかった。「だからc71はダメなんだよ」と言われて、言われ続けたけど治んないし、一緒にいることが苦痛だった。
そういうのをわたしは結構バッサリ切る。
大学に入ってからも、我慢しないまま過ごしていた。勉強は好きだったので、ゼミにはどんどん出て、どんどんプレゼンした。
発表すると、面白いと思ってくれる人が友達になってくれた。友達はみんな辛抱強くて、わたしのエキセントリックな部分を大目に見てくれた。
そして、わたしのどこがだめなのか、教えずにいてくれた。
働き始めるまで時間がかかった。働くことに納得がいくまで時間がかかったからだ。でも、働くことは恐ろしくなかった。
夜になると孤独だなと思うことはあるんだけど、本当の孤独じゃない。大学で知り合った友達が、会ってくれるし、話もする。今日もお茶して、卵とキャベツだけでもお好み焼き風にできると教えてもらった。
仕事を始めてから、嫌なところもある人でも、認めるところがあればまあまあ付き合うという風に変化した。メリットがなければ、つまり、一緒にいて楽しいということがなければそれほど親しくもしないんだけど、仕事の情報交換をするうちに、話すようになった。
あまり行かないけど飲み会には誘われる。この前面倒くさいこと言われたからもう行かないと決めたけどまた誘われた。どうしようかなと思ったけど、向こうが内心でも悪かったと思ってるならまた行ってもいい。ちょっと柔軟になったかも。
ルール違反をする人が許せない傾向はあって、映画館で話している人がいると、頭が取れそうなくらい腹が立つ。
時間になったらすぐ帰る。周りを気にしない。自分のルールが一番大事。決められたことは守るけど、決められてないことは自由にする。
それでも笑ってくれる人が友達になってくれた。子供のころの自分に教えたい。
表現すると、嫌なことを言われる以上に、いいことを言ってもらえる。わたしが自己開示をすると、わたしがどんな人かがわかるので、わたしに近づいたら面白そうという人も出てくる。自己表現しないとそれはゼロだ。もちろん、負の反応もあるけれど。でも、友達ができることのほうが嬉しいから。
友達がほしくてそういう態度をとっていたわけじゃないんだけど、結果的に自分の快適で気持ちがいいことをしていたら、だんだん、不快な人が視界からいなくなった。我慢をするのは意味がない。我慢すると状況が変わらないから永遠に我慢しないといけない。
わたしは嫌だったらすぐに逃げて、環境を変える。それに関する人間も。一人の人間を避けるためには、全員を避ける必要があるんだけど。一つのことが減ると、空き容量が増えるから、新しい友達に巡り合いやすい。どこかに出かけたり、話したりすると友達はできる。
わたしはそんなにいい人間じゃないけれど、いいところもあって、いいところを見てくれる友達がいるから幸せだ。そういう友達を作ることができた自分の力量にも信頼を置いている。わたしは変だけど。変でも許された。わたしも許したい。
悪いところもあるから、死ぬまでに少しずつ気づいたら直したい。わたしの成長は段階的だから、伸びかけた植物を引っ張っても伸びないでちぎれるのと同じで、わたしもちぎれてしまう。だから、人から言われるペースでは成長できない。
人はそんなに成長したりまともだったりしないらしいことをだんだんに学んで、じゃあ、わたしもそれほど悪くないんじゃないかと思い始めてから、生きにくさが減った。今でもできないことはたくさんあるけど、悩まない。
分かってもらえてるという実感は孤独のつらさを減らす。
孤独自体も絶望自体もあることには変わらないけど。