差別が可視化されるところ

セックスワーカーは悪、セックスワーカーがいるせいで、女性を差別してもいいんだと思う男性が増えるから、セックスワーカーにはいなくなってほしいという意見を読んで悲しくなった。セックスワーカーが差別の加害者とまで言う人もいた。それは違う。

差別があるから、セックスワーカーが差別されるのだし、それを使って、女性をより軽んじる輩がいたとしても、その輩が悪いですよね。
仕事を変えればいいじゃないか、という人も、間違っている。仕事、そんなに簡単に変えられないですよね。
人には事情がある。どんな事情でも、口を出すべきじゃない。だって、セックスワークって、人をだましたり傷つけたりする仕事じゃないから、わたしは反社会的な仕事だと思わないんですよね。
それに、実際に「いる」んですよね。いる人間を否定することは誰もしたらいけない。差別をする人を批判するのはいい。でも、差別されている人を一緒に「存在することが悪」と言ったら、いじめでしょう?あんたがいるから、差別が存在するんだ、あんたがいなければ差別がなくなるんだって。見えなくなるだけじゃん。差別されるあなたが悪いと地続きでしょ。

goodnightsweetie.net

椎名さんのブログ、このエントリは、客商売の最前線の知見としても読めてとても面白いです。
イソジンのことについてももちろんだけど、たとえば、

店を通じてわたしのサービスを買う。ということは、わたしが所属する店のルールに乗っかる、ということだと思うんですよ。

最初のお約束を守ってね、乱暴しないでね、お金や物を盗まないでね、清潔にしてね、写真撮らないでね、痛いと言ったら止めてね、私生活を邪魔しないでね。
ぜんぶぜんぶ本当は当たり前のことです。

このへんは客商売をしているととてもよくわかる。
最初のルールを守らない客は何かあとで大きいことをするものだ。

図々しさって強いですよね。心の耳を力一杯塞いで気を強く持たないと、屈してしまいそうになる。どうかこれを読んでいる人が、図々しさや傲慢や無邪気や勢いや狡猾さや大人の幼さに、できる限り傷つけられませんように。

これは、わたしの気持ちの柔らかいところをいやした。そうなんだよね、図々しいって強いんだよね。

そして、セックスワーカーをなくせ、という人は、たとえば、わたしにとって、椎名さんの暮らしが成り立たなくなることを望む人がいるということになって、そうすると、わたしはもうこの文章に出会えないとも思うんです。

同じ人間だと思っていたら、そんなこといえないでしょう?
仕事を辞めろってことだけじゃない、セックスワークの存在が悪だって言われたら、セックスワークと、その人の人格が一緒みたいな話になる。
それって、人間扱いしていない。

セックスワークはセックスワーカーの暮らしを支えていたり、人生の一部だったり、経験だったりするだろうけれど、セックスワーカーだって、家族がいたり、子どもがいたり、一人だったり、生活をしていて、お金を使ったり、食べたり、飲んだりしていることを忘れてはいけない。
わたしが、100パーセント、塾講師じゃないのと同じことだ。
塾講師であることはわたしにとって大事だけど、それだけじゃないことと同じように。

塾講師は非正規雇用だから、人によっては差別する。
それで、わたしは殺されないけど嫌な気持ちになる。
でも、セックスワークの現場ではそれが「善い」事みたいに、行われる。
ひどい。

差別をなくすのが大事であって、誰かの生存を脅かすことをしてもいいわけじゃない。

働いている人がいて、その人が生きていて、わたしはその文章を読める。読むためには、彼女が生きていないといけなくて、彼女は生きるために、セックスワークを選んだ。*1

そして、セックスワークをしている中での知見を分けてくれる。

わたしが塾や、コンビニの話を差しさわりのない範囲で書くように。
それと同じことだ。

セックスワークについて考える時、当事者を置き去りにしてはいけない。
おっぱい募金を禁止する署名も、わたしはつらかった。
セックスワーカーの自己決定権の話にしたことも、労働環境の話にしたことも。
わたしも間違っていた。
当事者じゃないから、セックスワーカーの気持ちはわからない。
だから、わたしはおっぱい募金を、基本的に自分の気持ちが嫌だからって書いた。
でも、セックスワーカーを置き去りにして、セックスワーカーのために禁止しようっていうのは、おかしかった。

セックスワークの現場は差別が可視化されるところだ。
それを見たとき、わたしたちは、そのまなざしで、自分が、差別する立場なのか、差別していることを自覚するのか、選択を迫られる。
わたしは、セックスワーカーの前ではマジョリティとして、存在する。圧倒的に強く、裁くことも、黙殺することもできる。
言葉一つで殺すことができる。
わたしは殺したくない。
学ばないといけないと思う。

差別が可視化されるところだからと言って、その消滅を願ったら、元も子もない。差別に加担する最大の行為になる。
差別が可視化されるところをなくしたら、見なくて済むかもしれないが、それは単なる弱さで怠惰で、攻撃だ。
人を殺すことだ。
心を殺すことだ。

誰かの暮らし、誰かの選択、誰かの思い、喜びも悲しみも、そのほか何であれ、尊重されるべきだ。
そのことは、理解とは関係がなく、ただ、ただ、されるべきなのだ。

セックスワークが嫌いな人だろうと、軽蔑する人だろうと、利用者だろうと、当事者だろうと。
誰も、誰かの暮らしや選択や事情や好みを、喜びを、悲しみを、怒りや経験や知見を、お金の発生の仕方を、殺してはいけない。
それは職業選択権だから。それだけで十分で、それを忘れてはいけない。

追記

とのことでした。
考えが足りなくてごめんなさい……。
それと、理由がなく、つまり、誇りを持っていようと持っていなかろうと、パートタイムだろうと、フルタイムであろうと、いかなる形態、いかなる立場の人も差別されてはならないです。
そういう風に次は書きます。

*1:そうじゃない人も差別されたらダメです

c71の著書

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