「最初から差別していないふり」をすることが大事なわけじゃない。

いろいろな職業があるんだけど、どうしてか、やらない理由を考えないといけないと思い込んでいたセックスワーク。

やらない理由がなければ、自分が差別者だから、やらないのだと思われてしまうんじゃないかと、わけのわからないことを考えていた。
やりたくないから、やらないでいいのにね。それに、差別してたしね、実際に。
でも、差別していると思われることがとても怖かったんだ。
今となれば、たいしたことじゃないってわかったんだけど。差別するよ、してるよ。それに気づくことが大事なのであって、「最初から差別していないふり」をすることが大事なわけじゃない。差別は無知と優しくない心から起こると思う。物事を簡単に考えたいとき、常識って便利だものね。

今は、どうやって、差別しないで済むか考えるようになった。
差別することを知られるのが怖かったときには、どうしたら、差別しない自分になれるのか考えられなかったから、差別する自分を認められるのは一歩前進だ。
もちろん、差別感情をむき出しにするということとは全然別の話で。

わたしが他の職業を選択しないように、セックスワークも選択肢に入らなかった。
セックスワークは困ったからするっていう思い込みがある。そのうえで、困ったら選択するし、選択したら、すぐに採用されて、働けて、できるはず、って傲慢もどこかにあるから、だから、困ったときのセックスワーク、ってみんなが思ってるんだと思う。わたしだけでなく。

でも、わたしは容姿がすぐれないから、男性が苦手だから…、いやいや、立派な仕事だと思います、人をいやす仕事だから、とかなんとかかんとか言っちゃって、結局自分がやりたくないってことはごまかして。

わたしはそれをしたくない、でいいじゃんね。

セックスワークをしたら、貧困からも抜け出せるんだという思い込みがある。そして、≪でも、わたしには「できない」から「やらない」≫っていうのは、この言い訳の仕方は、差別なんだよね。ごまかしがある。セックスワークにはいろいろなサービスがあるから、絶対できないってことはない、らしい。やったことがないからわからないけれども。ただ、絶対仕事に就けるわけでもないらしい。じゃあ、ほんとの理由はなんなのって。
セックスワークの仕事に就けないってこともたくさんある中で、「できない」っていう傲慢。
電話かけたり、面接したりして「できなかった」んじゃなくて、接客してみたら向いてなかったのでもなくて、ただやる前から「できないからしたいんだけどそれもできなかった」という傲慢。

それならやりたくないから、しないでいいんじゃないかなって。向いてなさそうだしでもいい。自信がないからできないとかでもいい。
わたしはセックスワークをしたいのかどうかわからない。わからないけど、今はしたくない。
セックスワーカーに同情的にいたいから職業は否定できないんだけど、とか、立派な仕事だと思うけどわたしには無理、とかって結局、壁で隔てることになるんだと思うんだ。そんなことわたしには言われたくないものね。まあ言っているときの口調にもよると思うんだけど。
ただ、「なれなかった」というと、語弊が生まれて、その語弊が重いと思うのよね。

理由を人のせいにしたり、環境のせいにしたりすることはやっぱり卑怯なことで、自分がしたくない、やりたくない、だから選択肢から外すんだ、ってことのほうが、いいんじゃないかと思う。

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