フェミニズムが魔法のスティックじゃなくても

新宿ベルクに関して、「フェミは魔法のスティックじゃない」というツイートをみました。

わたしのスタンスを書きます。

「デマ」と言われているのは「新宿ベルク店長は女性差別をした」とということを指していっているようです。

わたしは、それについてはデマではないという立場をとっています。

根拠を提示します。

デマとは、͡コトバンクによると

政治的な目的で、意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報。
事実に反するうわさ。流言飛語。「人を中傷するデマを飛ばす」

ということですので、虚偽じゃないということを示します。

なぜなら、「アホフェミ」「すっぴんの女性店員もいて」「BGMも女性アーティストで」「だから、フェミニズムの本をたくさん読んだ僕はフェミニスト」「新宿ベルクはフェミニズムカフェ」というような内容の発言をツイッターやフェイスブックでしていること、それが女性蔑視であり、女性差別だからです。

すっぴんの女性店員も働いていることがなぜ親フェミニズムにならないかというと、それは、女性が本来自己決定してしかるべき容姿についての判断を店長がしているからです。女性がすっぴんをして、それを許容しているのは店長だ、ということです。本来は許可もいらない、女性が好きな容姿でいることに対して、ことさらにいうこと、それ自体がセクシズムルッキズムに基づいています。

「本来女性は化粧をして働くべき」という前提がなければ「すっぴんの女性店員もいる」ことが、発言する価値のあることだと発想しないでしょう。

「化粧をするべき」という規範と「すっぴんの女性もいる」という現実の間には「それを許可している男性」の存在が暗示されています。「すっぴんの男性もいる」と女性が言うことの奇妙さを考えてみてください。これが奇妙だと感じたとしたら、そこには何かがあるのです。なにかって、女性差別ですが。

 

「BGMが女性アーティスト」かどうか、というのは、「消費者として、女性のアーティストを好む」ということですよね。それは、フェミニズムとは、関係ないです。(女性蔑視が強すぎると女性のアーティストの才能や技能を認めることができないということはあるでしょうが)

それでいったら、これはたとえ話だと理解してほしいのですが、「ポルノに出ている人物の姿は女性の姿が好ましい」というのと、原理的には変わりません。客体としての女性が好き、ということなんですから。

「アホフェミ」という言葉を使いながら「フェミニズムカフェ」という言葉を使うのは、フェミニズムという言葉を収奪した行為です。

それを説明するために、少し長い話をします。前提を共有するために必要なことです。

公教育はなぜあるんでしょう?私立に子供を入れる人や、子供を持たない人にとっては無駄な出費と感じるかもしれません。

しかし、デモクラシーには、公教育が必要不可欠です。

100人の村で、99人がおろかで、1人が賢かったとします。

その一人がリーダーになって引っ張っていけばいい、と思います?

しかし、このたとえでは、その賢い人がリーダーに選ばれることはありません。

それは、残りの99人がその人を理解することも賢さの価値を妥当な評価することもできないからです。

「こいつはおかしい」と言って隔離されたり迫害されたり、最悪の場合殺されることもあるかもしれません。

わたしは「勉強のできるバカ」と言われたことがあります。その人は勉強ができるということは、理解できたんですね。それは、公教育の賜物です。しかし、いろいろと考えることができるから、人と違い、それはバカと言えることではない、ということは彼は理解できませんでした。

新宿ベルク店長のフェイスブックをみたところ、全部をみたわけじゃありませんが、ツイッターアカウントをさらすのが趣味みたいだと思いました。たくさんのスクリーンショットが張られており、その多くは女性アカウントのように見えました。わたしもブログに批判対象のツイートを貼ります。だから、その点では彼を非難できる立場かというと微妙ですけどね。彼の場合、引用や、批判とは考えられないやり方をしています。そこがわたしとは違うと思っています。

ある種の人は、攻撃する相手を選ぶようです。「弱い」と認定した人を選んで攻撃します。

弱いとみなされる属性の一つに「女性」というものがあります。

女性たちは、「怖い」と言いました。「怖い」という人々は攻撃されていました。謝罪する人に暴言を吐いて、「この人は謝罪しているのだから、きついことを言ってもいい。この人はそれが平気だから」ということを言っている人もいました。

「怖い」という人を攻撃する人は、どういう思考なのか考えました。

「怖いなんてはずがない。だから、これは嘘だ。嘘をついてあおっているのだ。デマだ。デマを言って、味方を探しているのだ。許せないから攻撃しよう」と思っているのと同時に「謝罪をした。怖いと言った。つまり、これが弱点だな。弱点をさらすということは、攻撃するべきだな」と思っているんじゃないかと思いました。これは推測です。

 

フェミニズムは、確かに魔法のスティックではないのかもしれません。

だったら、それぞれが自分の信じるやり方で、自分のしたいことをしましょう。

それは、女性が奪われてきたことです。女性が自分の信じる意見を言うこと、たったそれだけで、叩かれ脅されてきた姿を知っていますよね。知らない人は観察眼が足りないと思います。打ちのめされ、痛い思いをし、つらいと思い、黙る人や、つらいと感じる心を封印して、戦う人もいますよね。

どちらも、女性が抑圧されているがゆえに起きることです。女性は、人のケアを優先し、自分のケアをおろそかにするように常に圧力をかけられてきました。

常ににこにこしてふんわりと優しく振る舞うことを強制的に期待されてきたから、信念を貫いて発言することも、怖がって黙ることも、どちらも非難されてきました。

痛いものを痛いと認めることからしか、自分をケアすることはできません。戦うことも、痛いことは痛い、不当なことは不当だ、ということを認識しなければできません。体力や気力がなければ戦うこともできないのに、それさえ、してはならないと規範を押し付けられてきたのが「女」という性です。

 

 

誰かと連帯することは難しいことです。

1人で行動することも難しいことです。この二つを女性は、してはならないと引き裂かれてきました。つまり、女性たちは、自分のためには、何もするな、と言われて育ちました。

女性は、信念を貫くこと、間違うこと、連帯することを「女らしくない」と封じられてきました。女らしくないという言葉の消費期限が切れると「人間としてどうかと思う」という言葉を女性だけに向けられることによって、封じられました。

 

闘うことがフェミニズムの本質です。これは運動だからです。

闘えば、それを気に入らない人も出ます。自分の持つフェミニズムと違う考えの人もいます。

叩かれるのも批判されることも侮辱されることも全部痛いし、攻撃としか感じられない状況の時に、それらを区別することは困難を極めます。

 

だから、それを認めたいと思います。女性は、難しいことを強いられています。

ネットでは、批判とも侮辱ともつかないツイートが、女性アカウントに集まります。女性はそれで恐怖や驚きに疲弊します。そのうえで、上記の難しい作業をしなくてはいけないとしたら、それって不可能ですよね。ほとんどの人ができません。男性は、女性よりも、侮辱するようなツイートが集まりにくいのです。

叩かれるのも批判されるのもつらくて痛い、だからこそ、誰のために戦うのか、それを明確にすることが大切です。自分のために闘い、人の代弁を避け、人の代弁をするときにはその結果を受け入れること。

ケアをすることも信念をつらぬことも、闘いです。

後悔しないためには、1人の活動を大切にすることです。

人間関係のしがらみにがんじがらめになり、「あの人は友人だから」「知り合いだから」「人気があるから」といって、フェアネスよりも人付き合いを優先したとき、悲劇が起きます。

足並みをそろえることを忌避しましょう。自分の判断で動きましょう。

足並みをそろえようとするのは、全体主義の始まりです。それは圧力に変質します。

天皇の名のもとに、第二次世界大戦で、多くの無辜の人々が犠牲になりました。

連帯していたはずなのに、総括といって、反省を迫った挙句、なじった相手を左翼は殺しました。左翼の女は凄惨な殺され方をしました。

結果的に連帯できたら幸せなことですよね。でも、最初からそれを目指していたら、苦しくなるでしょう。

みんなが賢くならなければなりません。

今、大人の人たちで、生きる過程で、フェミニズムや女性の権利を学べて来た人は少数派です。

誰からも理解されません。それどころか、「違い」のせいで、攻撃の対象になります。アホだのバカだのののしられます。

愚かなのがどちらか、最後になるまで分かりません。だから、一人一人が自分の判断で行動することが大切です。

 

日本の社会では、構造的に女性差別が前提となっています。民法一つとっても、女性に不利益のある条文はたくさんあります。刑法もそうです。家事育児介護は女性の役割とされています。日本女性の睡眠時間は、世界で一番少ないのです。日本男性のほうが女性よりも睡眠時間が長いのです。

家事育児介護を女性が担っていると、日本政府(今年の内閣は一人を除いて男性です)や男性は、楽ができます。それらをなかったことにして、「女性は非生産的だから」といって、罵り、自分が素晴らしいもののように感じるまでがセットです。

女性差別撤廃条約を批准していても、実際に改善しようとしていない、と国連から勧告が出ましたね。条約は、批准していればいいというものじゃないのに。

日本のジェンダーギャップは2017年で114位です。日本の医療水準は非常に高く、そのため、順位が底上げされているのにかかわらず、この低さです。

つまり、女性が生活するにあたって、すべての場面で差別的な扱いを受けていると考えるべきです。

女性は、不断の人間関係、買い物、食事、労働、政治、すべての場面で差別されています。

政治の場面から排除されているので、女性は、自分たちの境遇を変えることがまだできていません。

人生を少しでもよくするために、女性はずっと闘ってきました。

その恩恵を、新宿ベルク店長をはじめとしたすべての人が得ています。

女性は子供の権利のためにも、子供の公教育の水準をあげるためにも、声をあげてきましたよね。わたしは、今日も教育の無料化の署名集めに協力してきました。それは保育園で行われており、署名を集めていた人も、署名していた人も、見た限り女性ばかりでした。そうした恩恵を、もちろん男性も受けます。

そこで、最初に戻って「アホフェミ」「アホなフェミもいるから区別するためにそういった」という言葉の欺瞞と、「フェミニズムカフェ」と名乗る姿を見て嘲笑し、愚弄されていると感じる理由とします。

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