自己責任という言葉は、責任逃れのための言葉である。
他人に対して、「自己責任で」というとき、「俺に責任はない」ということだけを言いたいのだ。
もっといえば「俺に迷惑をかけるな」という意味である。
もっとも卑怯な人は、他己責任だ。こんな言葉はないが、「自分に責任はない」ということだけ言いたい人がいる。
自分がしたことに対して、責任を取りたくない人は、ほかの誰かのせいにする。
何か問題が起きて、ほかの誰かのせいにするために、ほかの誰かに「自己責任だろう」ということは両立する。
自己責任だとうそぶく人の本質は、他己責任なのだ。
国が法律を作り、それに沿って社会が動く。だから、社会の動き方には、国が責任を負う。
そもそも、社会は、一人で生きることよりも集団で生きることを選んだ人類の工夫である。
弱いものが弱いままで生きられるようにするために社会が存在する。
社会が、個人を追い詰めるのは本末転倒なのだ。
自己責任だと教え込まれて、それを自分へも課すと、うまくいかない時に、原因を自分に求めるしかなくなる。
仕事がうまくいかないのも、貧しいのも、病気なのも、自分のせいだ、というわけだ。
仕事がうまくいくかどうかも、貧しさも、病気になるかどうかも、運の要素が大きい。
健康的な生活を心がけても、体調を崩しやすい人もいる。仕事の相性がいいかどうかは、運しだい。貧しさも、努力できるような家庭環境に生まれたか、ということが大きく影響する。お金を儲けられるような健康体、性別、国籍でないと難しい。
すべてに恵まれていても、大きな災害に見舞われたらすべて失うことを思えば、全部運だということを納得してもらえるだろうか。
義務と権利は表裏一体ではないのに、いつまでも表裏一体だと信じている人々がいる。
義務を果たさなければ権利を主張するな。
主張を垂れ流すな。
声高な人のせいで、まともに生きている人が迷惑する。
いつも怒っている意識の高い人は不幸なんだろうね、かわいそうに。
本当に日本人なのか。
日本が嫌なら国に帰れ。
そういうことを異口同音に繰り返す人々がいる。
バカみたいだ。
「女はまともに考えることができない、感情的だから」といまだにいう人がいる。
それがすでに論理的な発想じゃないから、言葉も通じないと思って、わたしはもう黙ってしまう。
時代は後退している。
上記のような言葉をいう人々は、でも、やっぱり追い詰められていると思う。これらの言葉を自分に向けないようにしているだろうけれど、書けば目に入るし、言えば耳に入る。人間は自分の言った言葉も聞く。だから、結局、それらの人々は、自分の言葉に追い詰められていくんだろう。
上記の言葉はすべて、「自分には責任がない。こちらに迷惑をかけるな」とだけ言っている。
それらの言葉をかけられた人には迷惑が掛かっている。でも、それは見えないらしい。