感情はわたしをだますことがある。
そういうときには理屈を使って、自分をなだめる。
でも、そうじゃなくて、社会的に「感情は劣っているもの」「感情的になることは許されないこと」というイメージがある。
でも、身を守るのは、感情だ。
感情がすべてを教えてくれる。「この人は危険だ」というようなときには、感情ほど頼りになるものはない。
楽しくなくて、つらい。そういう感情があるとする。そうしたら、それは現実だ。現実に、何か、不具合があるのだ。
一緒にいる人と気が合わなかったり、搾取されたりしているから、不快に思うのだ。
その気が付くきっかけは、理論でも感情でもいいのだけど、感情のほうがいち早く気づいてくれる。
理論がいくら正しくても出発点とゴールが間違っているときがある。
筋が通っているからと言って、正しいわけじゃない。
感情を失った人は、満たされない。
満ちたと感じるのは感情の仕事だから。
理屈上いくら満たされていても、「もっと」と思うのは、理屈の仕事だ。
理屈は、上を常に見る。
満たされるということがない。
感情はそれにストップをかけてくれる。
たとえば、男は子供を産まないから、働くのに向いている、というのは間違った理論だ。
女が子供を身ごもるのは一年、産後のことを考えても一年、もし男女が平等に子育てをするのなら、二年で女性は復帰できる。
二年ブランクがある男性もたくさんいる中で、ことさら女性だけが「子供を産むから」と決めつけるのは間違ったゴールだ。
子どもを産まない女性もいるし、体を壊す男性もいる。
嫌なことをされたとき、女性は怒りをふさがれている。
男性に不愉快なことをされたとき、怒り返すのは非常に恐ろしいことだ。
相手のほうが権力があり、体格が良く、腕力がすぐれていた場合、できるのは頼むことだけだ。
だから、女性は怒るとき、外野に「その怒り方は正当か、スマートか」ジャッジされる。
でも、女性だというだけで不愉快な目に遭うのだったら、怒る時にスマートである必要はない。
本来は、不愉快なことをしないでくれと「頼む」必要はない。ただ、怒って、やめさせればいい。
しかし、力関係の不均衡によって、それができないのだ。
それを追従して、もっとスマートに、もっと低姿勢に「頼まないといけない」というのは抑圧だ。
わたしがここまで書いたのは理屈と感情が入り混じった文章だ。
感情が劣っていると考えるのは男社会の病だ。
実際には男性は、感情的にふるまうが、その意味付けを、「理屈で判断している」とみなされるだけだ。
女性がいくら、理屈で怒ろうと感情的に怒ろうと、どちらにしても、社会は「感情的に行動している」と女性をみなす。
笑顔で飲み込むほうが一時的に生きやすいから、女性は不愉快を見て見ぬ振りする。
だから、怒ることは、生きることの第一歩なのだ。
自分の不快や侵害を見て見ぬふりをするのではなく、自分のために生きるための。
それは、スマートである必要がない。誰かに頼む必要もない。
だから、わたしたちは、怒り悲しみつらいという。つらいと言ってもいいのだと気付くだけで、その人は変わるのだ。