シェイプオブウォーターの感想は絶望の物語

シェイプオブウォーターを観て、気分が悪くなった。それは、人間の関係性がいびつだからだ。
モンスターの造形は美しかった。
でも、これは、「マイノリティは周縁に吹き飛ばされて、死ぬ」というメッセージを繰り返し繰り返し描かれていて、恐ろしかった。これが、監督にとってのリアリティなのだろうか。

弱いものを支配することによって、力を得る。
イライザは半魚人をケアし、かくまうことによって、幸せになる。
かくまうというのは、監禁すると同義だ。
半魚人を自分のもとにかくまってから、イライザは幸せになる。
半魚人は、囚われていることに変わりはない。

アメリカは、半魚人を確保することでパワーを得る。
ソ連は、半魚人を得られないなら殺そうとする。アメリカにパワーを与えることが嫌だからだ。
ゼルダは、イライザに対して一方的に語り掛ける。彼女の不満は、絶対に声を出せないイライザに対するおしゃべりで解消される。
ゼルダの夫は、ゼルダを支配する。

黒人であるゼルダ、ゲイである絵描きは、利己的に動かない。いつも、イライザにとって都合よく動く。彼らは命の危険をいとわない。
都合がよすぎる。
イライザは白人だ。障碍者ではある。障碍者としては、絵描きやイライザに庇護される存在だ。
庇護は支配だ。
その反面、黒人やゲイというスティグマを背負った二人は、マジカルフェアリーとして、存在する。
彼らは、主人公にとって、ただただ都合の良い存在だ。彼らはなぜイライザに協力するのか?
それは描かれない。自明のものとされる。
その「自明」さが気持ちが悪い。
白人にとって「いいもの」であるだけだ。それって差別だ。
黒人も、ゲイも、どこまでも都合が良く動くだけの存在で、彼らの都合は描かれない。

悪役は、指を失って「神に近い存在」から「葬られる存在」に変わる。
白人で、健常者でも、マイノリティになれば、周縁に放り出されて「苦しんで死ぬ」。
彼が死んだのは、半魚人に殺されたからではなくて、元帥に追い詰められたからだ。
彼はミスをして「ノーマル」ではなくなる。ノーマルではなくなったので、追い詰められて、危険なことをして、殺されるような危険な立場に追い込まれる。そう追い詰めたのは元帥だ。でも、元帥の「危害を加える」存在であることは、最終的に透明化される。
実際、半魚人を虐待したのは、悪役じゃなくて、「元帥の命令」だ。
だから、悪役が殺されても、「因果応報」という感じはしない。元帥は、透明化されて、観客から糾弾される立場から退く。

半魚人から見れば、イライザも、人間だ。人間が半魚人をとらえて、監禁し、虐待した。
イライザと半魚人はセックスをするが、その関係は対等ではない。
物理的な力では半魚人のほうが強いが、立場的にはイライザが彼の命を握っている。
対等ではない間柄のセックスは、気分が悪い。
イライザはなぜ半魚人に惹かれたのか?
それは、半魚人が「囚われの身」であることと無縁ではない。
イライザは自分を「孤独な存在」と言い、半魚人も「孤独な存在」だという。
でも、それは、イライザが勝手にそう思っているだけだ。半魚人は孤独ではないかもしれない。そういう概念がそもそもないかもしれないし、半魚人界では、仲間がいるかもしれないからだ。
イライザが、自分の思い込みを持ち続けることができるのは、半魚人がそれについて反論できる立場ではないからだ。
イライザには声がないが、半魚人にも発話するための「声」がない。
言葉はあるが、それもイライザが与えた、限定的な「言葉」でしかない。

絵描きは、猫を殺されても「彼の本能だから仕方がない」という。
ゼルダは、イライザと半魚人がセックスをしたと知っても「男っていうのは油断も隙もない」と言って笑う。
わたしは、この二つに強い違和感を抱いた。この物わかりの良さは「物語にとって」都合がいい。
彼らが「生きた」存在じゃないんだと思った。
猫が殺されたら、悲しいか、驚くだろうし、そうでなくても半魚人のことが恐ろしくなるだろう。
友人が、人間以外とセックスしたら驚くだろう。人間以外とのセックスはタブーだからだ。
タブーを破る人間は恐ろしい。タブーというのは、自分側の人間と、そうじゃない人間を分けるという意味を持つ。
タブーを破ると、「向こう側」の人間になる。
タブーを破った人間に対して、驚かないのは「向こう側」の人間だ。
だから、絵描きも、ゼルダも、もともと「向こう側の人間だった」ということが半魚人を回収したあとにわかる。
「向こう側」というのは、「普通じゃない」ということ。
普通、というのは、元帥が象徴する白人たちの失敗しない人間たちで構成された世界のこと。
悪役は、ミスをし、指を失うことで、少しずつ「向こう側」の人間になる。
悪役が死んでも、勧善懲罰だと感じないのは、元帥が最後まで無傷だからだ。
悪役の悪行は、すべて、元帥の命令がもとなので、一番悪いのは元帥だ。
でも、元帥の「悪」は透明化される。

イライザが「声」を獲得するのは、半魚人を得てからだ。
彼女は、「ファックユー」と言って反抗し、半魚人に愛を伝える。
ゼルダは、イライザに対しては話すことができる。
でも、男には話すことができないか、「言葉」を伝えることができない。
悪役に対しては、しゃべることができなくなるし、夫はゼルダの言葉を無視する。
絵描きは、元上司には無力で、要求を通すことができない。
イライザに対しては話すことができる。
この映画の登場人物は「自分より弱い人間」には話すことができるが、「自分より強い人間」には話すことができない。
イライザがもっとも弱いものとして描かれ、そして、声を奪われているのは、その原則にのっとっている。
そして、イライザが、自分より弱い存在である半魚人を手にした時、「言葉」を獲得する。

悪役は、悪役だから殺されるのではなく、少しずつマイノリティに転落することによって、死ぬ。
彼は少しずつ指を失っていき、それと同時に力を失い、完全に指を失ったと同時に死ぬ。元帥が彼を死ぬように仕向ける。
彼は、半魚人に殺されなくても、どちらにしても、元帥によって殺される。
それは「普通」から落ちてしまったからだ。
ミスをしない人間だけが普通だから、ミスをした悪役は普通ではない。普通じゃない人間は殺される。
元帥はそういった。物語もそれを支持している。物語を作ったのは監督なので、わたしは
「監督は普通じゃなくなった人間を殺す」のだなと思った。

イライザは死ぬことで、半魚人と結ばれる。
半魚人は、彼女を抱き上げることで、受け入れる。
異種婚は、死で終わる。死後に幸せになる。異形の者は、障害者を中心としたマイノリティのメタファーとして描かれてきた。
この作品も、そのコンテクストから自由にはいられない。
監督がこの結末を選んだということには、意味があるべきで、その意味は、異形の者は死んでからではないと幸せにならないという意味になる。
障害者であるイライザを受容するのは、異形の者である半魚人である。
異形の者である半魚人を受容するのは、障害者であるイライザである。
半魚人には、イライザを愛する動機がない。
でも、彼はイライザとセックスをする。密室での関係は対等ではない。特に、その密室を作り上げたものと、そこから出ることができないものとは。
わたしは、対等ではない状況のセックスが嫌だ。
物語が、半魚人やイライザに「異形の者」を愛するというミッションを要求する。
その物語を作ったのは、監督である。
監督が、「異形の者は異形の者が受容し」「その結末は死後での幸福」であると描いた。
だから、これは絶望の物語である。
わたしは、怒りを覚える。

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