一か月ぶりのブログだ恐ろしい。
睡眠障害が悪化していて、あまり眠れていないのだ。
(今日のエントリはすごく長い、長いので書くのにすごく時間がかかったし、冗長だという自覚はあるので注意されたし)
(短くまとめると、左翼は天皇制には反対するけど、帝国主義的なものはスルーするんかい、スルーするならエセ左翼と言われるくらいは甘んじろよという話です)
それはそうとして、在日韓国人が「日本のチャンジャのほうが韓国のチャンジャよりもご飯に合う。韓国のチャンジャは甘い」と言ったことに対して「甘いとは何事だ」「本場の人に対してそういう風に言うとは」「怒られても当然」という反応があり、そして、それに対して「エセ左翼」と彼が返していたら、非難されていたんですよね。
(解説すると、日本料理を韓国人がくさすときに、「甘い」という言い方をするらしいんですね、だから、韓国人の彼は、日本人の血を引く人間から言われた甘いという言葉をバカにされたと解釈したようだ、複雑な話だ)
あーむかついた。
なんでかというとですね、文化を抑圧することで植民地支配してきた歴史が日本にはある。
帝国主義を採用していた国(列強)は全部そうだ。
そして、日本は、在日韓国人(朝鮮人)を強制連行して、働かせていたのだ。
わたしの身の回りでも、松代で、天皇が住む予定だった地下防空壕を朝鮮人が掘ってたくさん亡くなった。
で、「本場の~」発言をしていた人たちは少なくとも右翼ではなくたぶん左翼思想の人たちで、左翼というのは「天皇制度」を否定する人なんだから、少なくとも、「天皇制」という差別については反対している人なんだと思う。
だから、在日外国人差別に対して「えせ」と言われるのは、文脈上仕方がないというか言われるじゃんねと思った。
文化を通して、人を侮辱する、アイデンティティを剥奪するということを実際やってきておいて、そして、今平成になってからもそれを言うのは、権力構造の維持、差別そのものだ。そういうのを批判したいんじゃないんですか左翼は。
また、「本場の~」を言ったのは韓国人だったらしいから、在日韓国人の彼は「お前は日本人でも韓国人でもない、お前が語れる文化はない」と言われたのも同然。
そもそも、左翼運動は、わたしの知っている範囲では「健康」「東京在住」「男性」「日本人」に偏りすぎている。
そして、そのことがいまだに問題になっている。運動の中でのセクハラ、女性におさんどんをさせる、表に出るのは男性ばかり、ってまだそうだからさ。ばっかじゃないの。
あさま山荘事件で、女性性を利用する、女性性を自己批判させる(そして、殺す)ということがあったのに、反省が足りてないんじゃないですかね。
エセサヨクははっきり言ってどういう文脈であれ、手袋を相手の顔面に叩きつけるにふさわしい無礼な言葉で、かつ冷静さを著しく欠き、全く正当化できないと思いますが。たとえ相手の態度がどんなに気に食わなくても、です
— このざまんぐ (@konozama347890) 2017年10月7日
これは、「エセ左翼は無礼」かもしれない。でもね、このツイートは差別発言だ。無礼と差別なら差別のほうが悪い。
「本場の~」も差別発言だが、このツイート自体も差別発言なんだよ、差別に加担したの。加害者なのよ。
他人事みたいに言っているけど、自分が差別しているんだよね。
解説みたいな風を装っているし、本人もそのつもりだろうけど、差別に解説なんてないよ。どっちかのサイドしかない。
左翼については当事者意識があるから痛みを感じるけど、在日韓国人(の何世か)の痛みはわからないといっているわけ。相手の態度が気に食わないんじゃなくて相手の態度が差別そのものだから、彼は、抗議しているんだけど、「差別をしていることを指摘されて、気づいたら、反省して、改めよう」という話が、抗議者への抑圧として作用しているんだよね。抗議だからそりゃあ、無礼な形になる場合もあるけど、無礼なのが常にダメなのかというとだめじゃない。
もともと言葉は、場面によっていいも悪いも変わるものだ、でも、いちいち全部考えて不適切か適切か、自分だけでは決められない、だって、相手の属性がオープンだとは限らないからさ、だから、PCというものが、次善の策としてあるわけだけど、PCが差別の後押しとして作用するんじゃルール作っている意味がないんだよね。
差別は悪いが、無礼は悪いとは限らないんだよ。権力者、権力構造に歯向かう以上、それは無礼だと思われることを避けられないんだから、「本場の(韓国料理が口に合わないというなんて)」という発言はスルー出来るのは、当事者じゃないからだ。それって、特権ですよ。でも、左翼だということには当事者意識があるから「えせ左翼」にはスルー出来ない。
比較していいことか悪いことかというといいことだと思うんで比較するけど、「本場の味を否定するな」という言い方と、「えせ左翼」という言い方がどっちが悪いかというと「本場の味を否定するな」だよ。しかも、在日韓国人の彼は「好みじゃない」と言っただけだから別に否定しているわけじゃないんだよ。
しかも、否定していい話なんだよ。
ある文化、ある味覚と、自分のアイデンティティが一体になっているから、「好みじゃない」と言われたり「嫌いだ」と言われて、ショックを受けることができる。
それは、アイデンティティの境界がだいぶ緩んでいる証左だから、言った側じゃなくて言われた側の問題だ。
そういう問題の在り方の切り分けができてない人が「本場の味」がどうこう言ったんだし、「えせ左翼」という言葉に反応した人もやっぱり切り分けができてない。依存しているんだよね属性に。まあおかしいこと。
自意識を依存できる属性を持っているというのは特権なんだよね。
「無礼だ」と思える余裕がある時点で、「自分が特権者だ」と疑ったほうがいいわけだ。
本当の左翼は何かとかやったらいかんでしょ
— このざまんぐ (@konozama347890) 2017年10月7日
これとかなんでだめなんじゃ、と思う。
たぶん、左翼を分断するんじゃねえという話だと思うんだけど。
だって、左翼はもう自分から分断しているんだよね、女性をね。左翼とフェミニストはずっと最初から共闘できない。
左翼思想の鬼子としてフェミニズム思想が生まれたのだけれど、左翼がフェミニストになんかしてくれるかというとしてくれない。(してくれということじゃない)
女性同士でも分断されているんだから、今更すぎる。
女性たちは、立場によって分断されるように社会がずっとそういう体制を維持してきたから、今だって連携できるかというとできてない。だいたい、自由に女同士で会って話せるかというとそうじゃないでしょう。
シングルでも、既婚者でも、働いていても無職でも時間がない体力がないお金がないお金があっても自由がないとかで集えない状況がずっと続いていて、SNSでも、生活が違いすぎて話が成り立たない状況が今だってある。
左翼運動できるのは、前述したように「男性」「健康」「日本人」「東京在住」な人だけだからね。夜中に官邸前に集まろうと言ったって、例えばわたしは「具合が悪い」「地方から行くには新幹線か高速バスに乗るしかない(デモが終わった後には移動手段がないし、直前に言われて身軽に動けない)」「夜中に人ごみに行くにはパニック障害が出る(夜に性犯罪に遭ったことがある)」からできないんだよね。
というわけで、
「似非サヨク」だとか「冷静になれ」「ネットに毒されている」などという物言い、相手への攻撃にフォロワーを巻き込むことでのマウンティング、やはりちょっと無理だな
— yuuki (@yuukim) 2017年10月7日
こういう発言もわたしからするとナイーブすぎる。
エセ左翼には突っ込めるのに、本場の~には突っ込まないんだったら黙ってたらいいんじゃないの、最低限と思う。
別に二人とも嫌いなわけじゃないんだけど(というフォローが必要だと思うそういう状況自体が腹立つけど、なんでわたしが気を使ないといけないんだと自分に腹が立つよね)
正しい文化、正しい振舞い、それを強いることは支配だし、アイデンティティの改変を強いてきた立場の人間はそれを省みる必要があるよ。歴史的にも。とくに、健康な、日本人、男性、東京在住、のどれかに該当したら気を付けた方がいい。
だって、病院いけとか、それの援用であてこすったわけじゃない。
冷静になれば、この話は権力構造と周縁の話だとわかるのにわからないから、冷静になるべきだと思うし、左翼なら周縁化の話がわかってもいいと思う。
「冷静になれ」と言われても仕方がない立場の人が、言われても仕方がない場面で言われてるのに「冷静になれ」と言っている人を見るのに耐えられないんだよね。
「本場の〜」というのが差別的だというのはそうだと思います。ただそれが彼の振る舞いを正当化するかといえば疑問です。ああいった言葉で誰がどう虐げられてきたのかを考えれば今回は意味が正しいからokとはならないかとも思いました。
— yuuki (@yuukim) 2017年10月7日
本場の~が差別発言だと思うならそれを先に言うべきだし、「虐げられた」って言葉を使うなら、まさに「日本人(ゆーきむさんもこのざまさんも、たぶん日本人だろう)」が「在日韓国人」を虐げてきたわけで、自分を「虐げられてきた側」に感情移入しているのに、在日韓国人の虐げられてきた状況には感情移入できないのはどういうことなんだろう。今回は意味が正しいからOKになるよ。正しかったらOKでしょうよ。
(これ読んでもスルーしてたり、相対化して、彼にも悪いところがあるとか、解説したりとかそういう人もみんな差別者だよ。いつでも対応する必要はないけど、差別者ではあるのだ。わたしだって、体力ないからしょっちゅう差別発言スルーしているよ。でも、スルー出来るのは、差別されてない側だからだよね。わたしは差別者だ。そのうえでこの文章を書くんだ)
抗議者は正しかろうと正しくなかろうと、「言葉に気をつけろ」と抑圧される状況がある。
フェミニストもそうだ。女性ばかりが正しい振る舞いを女性ゆえに要求される。被差別者というのは、ふるまいとして、従順さも要求されるからだ。
(だから、差別される側の人種は、人種の特徴として従順と言われるよね。アジア人は従順でおとなしいといわれることとか)
以前エッセイで、インド人の歩き方がイギリス軍隊式だった、英語のアクセントもイギリス式だったというのを読んだことがある。
日本人で言うとお辞儀も、幕府から今の政府に代わったときに改められて、今も続いているよね、誰に支配されるかで歩き方もお辞儀の仕方、作法、食べ物、言葉、住む場所、職業も左右されるんで、それは現代の話なんだ。
首都と地方だと、発電所もごみ処理所もダムも地方に作られて、現在進行形で(人がいなくなった金がなくなったなどいろいろな理由だけど、つまり政治の結果だよね)村がなくなって文化ごと消えている現状がある。
日本人同士でも文化や住むところが消える、しぐさ食べるもの話す言葉の抑圧があるのに、そういうのを普段見なくて済んでいるゆえに考えてこなかったことじゃないのか。
わたしは、人間じゃない、感情がないと言われてきたから、日本人じゃない、韓国人じゃないといわれる側に感情移入する。
官邸前デモのムーブメントでもそうだったけど、デモに出て頭数になろう!って、いってる人いっぱいいたけどね、わたしは数じゃない。
そんで、なれないんだよ、数に、はいれない。
健康じゃないと、首都に住んでないと、数になれないの。
数になれということばは、わたしの特徴を捨てろと迫る言葉であり暴力的でありわたしが戦いたい相手でもある。
だって、わたしは、「女性」「精神障碍者」「発達障碍者」「二次障害者」「犯罪被害者」「地方在住」「パートタイム労働者」である側面を抜きにして、わたしでいられることはないから。
政治的行動が健康で東京在住で治安も気にしなくてよく、非犯罪被害者で、世話をする必要もない属性が前提でそれをクリアしてる人間ばかりみたいな感じなのが、こういう言動を顧みなくて済む素地になっているんだ。
それで、たとえばわたしが「わたしにはデモにいける体力がありません」と異議申し立てると「無理しなくていい」と見当はずれなことを言ってくるんだよね。だから、排除しているのについて、文句言っているんだから、「無理しなくていい」と許可を与えられたら余計腹が立つんだよ!お前誰だよ!えらいのか。ってね。
「どんな文脈でもエセ左翼とは言ってはいけない」と他人に言えるとは、どれだけ自分に甘いのか。
差別を目の当たりにしても、自分だけが大切で、そっちを非難する方が先。
差別をされた人の態度を、自分はたしなめたりせめたりする資格があると思ってることが権力なのに、そのことには気づかないで済ませる。自分を無垢なものだと信じられる。権力がないと思える。
在日差別を受けてる人が女性差別しないわけではないし、女性差別を受けてる人が、セックスワーカー差別をしないわけでもない。
右翼が女性差別について考えてることだってある。(天皇制を維持したいんだから差別構造を維持することにはなるけど)右翼が貧困の当事者で、その助け合いしてるとかもある。
左翼が女性に対してその女性性を搾取したり、女性性を自己批判させ(その上殺してしまった)たり、男性性についてはノータッチだったりする。または、トランス男性トランス女性たちが性規範を強固に支持してたりする。
ゲイ男性は男社会の恩恵を受けているし、結婚を求めるLGBTは、ヘテロシスと同じ権利を求めてもいるしその一方で婚姻制度の国家主義的な要素を維持して荷担している。
けど、じゃあわたしが家族としての法的根拠を求める彼らに対してどう思うかというと、自分の特権性を理解しながら批判することは可能だと思ってる。
その上で、自分は婚姻しないまま、結婚していると周りに説明して受け入れてもらえるのは、歴史的に戦ってきた人たちがいてそれに乗ってるからだとも思ってる。
障害者のなかにも、精神障害者はさらに差別されてるし、発達障害者はまた話が違うし、発達障害者の二次障害は死ぬのと同じとか言われてるが、わたしは二次障害当事者だ。
発達障害者の療育について疑問もある。療育に対する疑問を書いたら、療育を行っている発達障害当事者の親に怒られた。
二次障害についても思うことはたくさんある。二次障害を許容してると非難されたこともある。
許容もなにも二次障害は存在するんだけど。
でもそもそも、「二次障害には絶対なりたくない」というのは、突き詰めていくと、二次障害や「発達障害外の精神障害(双極性統合失調症うつ病)」を発症させてる人を低く見てると思う。
話が反れ過ぎたけど、差別について丁寧に書くと差別されている集団の中でさらに差別される人がいて、でも、その集団を出たら、差別する側に回っていることも、ままあることだということを言いたい。それは意識していないと理解できないことだ。
差別したくてしている人はあまりいなくて、普通に暮らしていたら、結果的に人を差別していたというだけの場合のほうが多いだろう。
まー、ちょっとは首の上に載っている頭を帽子掛け以外に使ってみなって。じゃないと、わからないものが一生わからなくてずっとバカのままだからな。
(久しぶりに書いたら長すぎた、長すぎたし、複雑な話なうえに最近人と会話していないので、自己突っ込みがひどすぎる。恥ずかしいけどアップするぜ。ウェイウェイ)
スポンサーリンク