セックスワークをしなくて済むことを、申し訳ないと思う気持ちがある

小さな暖炉の前の椅子
椎名さんのブログを読んで、思ったこと。
セックスワークをしている人に、悪意をぶつける人もいるし、悪意のつもりじゃないし、偏見もないつもりだけど、相手に嫌な思いをさせてしまうことがある人もいる。後者にはわたしももちろん含まれている。

なんで、セックスワークについて、自分は当事者じゃないのに、考えているのか、って思うと、「申し訳ない」ってなぜか思っているから。
当事者だってそれぞれだし、当事者も事態を全部把握していない、だから、もちろん、当事者じゃないわたしは、失敗もするし、間違えるし、誤解もする、それで、相手をどうかしちゃうこともあるんだけど、当事者じゃない人も声を上げることに意味があると思って、なんとなく、考え続けているテーマです。
上記に書いたことは、失敗の結果相手を傷つけたり、嫌な気持ちにさせたりして、それでも「違うよ」と教えてもらった結果学んだことで、全然誇れることじゃないんだけど、でも、教えてもらってありがとう、それを生かします、それが償いだと思うし、それで、続けます、という言う気持ちです。

差別していたことに気づいて懺悔した人を、ネットではたたくのを見る、それは、差別された被害者が存在するんだから、当たり前だけれども、でも、差別をして、その結果、相手からリアクションがあって、学ぶ、という過程は人間である限り、経ることがどうしても必要だとも思うので、そんなにたたかないでほしい。
差別は誰でもうっかりしてしまうものだと思っている。したくなくても。
知らないことは多すぎる。自分のこともわからない。自分のことさえ、さげすんだりするくらいなのに、相手のことを尊重しながら、その姿勢をキープしたいと思うものの、うっかり、見えないことを踏んでしまうことはある。
そして、踏んだ時に教えてもらっても、腑に落ちなくて、どうしようとなることもある。
自分の足場が、崩れてしまって、立てなくなるような感覚に襲われるんだ。

わたしは、今現在、セックスワークはしたくないからしません、と言える。
でも、前は「立派な仕事だし、でも、わたしには務まらないから……云々」という言い方をしていた。
そういうのは、逆に、よくない、ということがわかるまで、ずいぶん、長い年月がかかりました。
わたしは、しなくていい立場にいる、したくなければしないでいい、そういうのが後ろめたかった。
決して、セックスワーカーをバカにしたいわけじゃないんだ、だから、尊敬する、でも、わたしには務まらない、という言い方をしていた。
セックスワークをしなくて済むのが申し訳ない、と思っていた。
今でもそう思っている。恵まれているから、選ばなくていいんだ、わたしがしたくない仕事。

とはいえ、わたしは、セックスをした結果、お金を受け取ってしまったことがある。
セックスしたくて、その日であった人とホテルに行ったら、その人が車の中にお財布を忘れていて、立て替えたら、多めに返してくれたってことがあった。
立て替えたお礼なのか、セックスしたお礼なのか、微妙だなあと思いながら、断ったけど、渡すのがうまい人で、受け取ってしまった。
いい人だった。
性体験人数はそう多いほうじゃないけれど、行きづりの人と、ホテルに行くことが必要な時代があった。その時、会った人たちはみんな親切で、合意があって、細かい条件も話し合ったうえで、セックスをして、ほとんどの人と二度と会わなかった。
なんだかあの頃に、男性不信を回復した気がする。
むしろ、ちゃんとつきあって、別れた男のほうがくそみたいな思い出が多い。
わたしを自分の思っている女という「型」に入れたいという欲望を突きつけるから別れるというパターンばかりだったからだと思う。

それは、セックスワークと全然関係ない経験なんだけど、それでも、「初対面の人とセックスをするのは怖いんじゃないか、変な人ばっかりじゃないか、わたしが思っているような普通な人はいなくて、変な人ばっかりじゃないか」という思い込みを薄くする経験にはなった。ステディとするセックス以外をしたいときが、誰にでもあるよね、という意味で。
一回しか会わないから、いい思い出になることもあるんだなという経験になった。

わたしは、いろいろな運が良くて、誰かを養うこともなかったし、お金に困窮したとき、仕事にも就けた。
そういう運の良さを、後ろめたく思う。
後ろめたく思いながら、セックスワーカーにならなくて済んだ、とどこかで思っている。
やってみたら、楽しいこと、嫌なこと、両方あるんだろう。
でも、わたしは、今のところやってみたいと思っていない。

貧乏になったとき、「美人じゃない、スタイルもよくない、男性が怖い、アトピーがある、コミュニケーション能力もあまりない」から、やらない、って言い方で、やらない、って思った。
でも、そうじゃなくて、単純にやりたくないでよかった。普通の職業と同じように思うなら、選ばない理由はやりたくない、向いてない、興味ない、でいいんだから。

仕事って日常のもので、特別なものじゃないのに、わたしは、なぜか、セックスワークを特別の者のように思っている。
きっと、みんな、普通に嫌だったり面白かったりお金のために働いているんだろうと思う、思うのに、それは特別な職業だと思っている。

わたしは、自分の仕事に胸を張れる時と、しょせん、フルタイムの仕事じゃない、社会的地位の低い、誰にでもできる仕事だ、としょぼくれているときとある。両方の気持ちを抱えて働いてる。でも、喜んでもらえる時を宝物にして、お金がもらえるから続けている。

わたしは、セックスワーカー当事者じゃなくて、ごめんなさい、と思っている。
差別をなくせなくてごめんなさい、わたしの中にもきっとある、差別や無理解についてもなくせていません、ごめんなさい、と思っている。
セックスワークを差別していなかったらできるはずなのに、セックスワークをしていなくてごめんなさい、とも思っている。
なんでだろうね?
意味わかんないな。
自分でも。
全然、解決できない。

でも、セックスワーク、すごく、わたしの身近にある問題だ、という直感がずっとある。
セックスと引き換えに、命乞いみたいに、性を差し出したことが、わたしには、ある。それがまだ癒えない。
それは、セックスワークと違うのかもしれないし、同じなのかもしれない。わたしには、それもまだわからない。

プロとして、性的ケア、サービスを提供し、金銭をもらうことと、わたしがセックスの代わりに命乞いをしたことと、全然種類が違うと思う、でも、わたしの中で、ごっちゃになっている。
だから、申し訳ないと思うのかもしれない。誰に向かってかわからないんだけれど。

それ自体が、差別的な感情なのかも、全然わからない、でも、考えていたい、とっかかりはなんにせよ。
当事者じゃない人が、語ることが、大切だと教えてもらったから。

c71の著書

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