わかるとできるの間には深い溝がある

大人になると、わかればできると思っている。
でも、本当はそうじゃない。わかっていても、できないことがある。

子供の間、勉強をさせようとすると、「わかっているができない」状態にあることに気が付く。
それは、その子供が怠けているからではない。

わかるにもたくさんのステップがある。自転車に乗ることや、泳ぐことを考えてもらえばいい。
見れば、何をしているか、わかる。
しかし、筋肉をどのようなバランスで動かすのか、感覚をどのように使うのかは、見ていてもわからない。
やってみて、その感覚やバランスをどうやって制御するのか、練習することで身に着けていく。

それと同じことが、勉強にもある。
理屈を教えれば、できるんじゃないかと思ってしまう。
でも、実際には、できない。

例えば数学の連立方程式を求めなさい、という問題に関しては、
変数が二つある方程式である。
変数が二つあるときには、式が二つ必要だ。
方程式とは、一つの変数に、ある数を入れると、もう一つの数が自動的に出てくるシステムのことである。
変数が二つある方程式とは関数のことだ。
二つの関数をプロットすると、重ね合わされる点がわかる。
その点を数式上で求めることが、連立方程式の解を求めるという意味である。
だから、変数が二つある方程式から方程式を引く。一つの変数の係数を統一すれば、引くことができる。
方程式を丸ごと引くのだから、引く方の方程式には、すべての項にマイナスをかける。

というのが、やり方の説明になるが、それを読むことと、理解することと、できることには、大きな深い河が流れていることが分かってもらえると思う。

そのためには、反復練習をして、熟達することが必要になる。

生徒に勉強をなぜするのか、よく聞かれる。
勉強は、してみないと、なぜするのか、わからない。
勉強をすることで、視野が広がる。でも、視野を広げる経験がないと、なぜ、視野を広げるのがいいことかがわからない。

(勉強を単なるいい職業に就くための手段だと考えている人にはこの説明は必要がない。でも、仕事に就くことだけを考えていたら、もし、思ったような職業に就けなかったとき、勉強それ自体が無駄になってしまう)

そういうときには、同世代の子供たちと一緒にいることで、勉強する動機が生まれる。
学校のようなものは昔からあった。それは、知恵なんだと思う。
もちろん、それが合わない子供もいる。
でも、たいていの子供にとって、ほかの子供と一緒に勉強をすることが、刺激になり、モチベーションになるのは確かだ。
「わかる」をお互いに助け合い、「できる」まで、お互いを励みにすることがなければ、なかなか、何かを習得するのは難しい。

わかっているが、できない場合、何がそれを邪魔しているのかを考える。
わかり方が足りないのだ、と思うと、説明の繰り返しになってしまう。
そうではなくて、「できる」を妨げているのは何か、を観察することが大切だ。
目が見えにくいせいで、説明が聞けていない。
集中を妨げる何かがある。
字を書くのが難しいので、操作にかけるリソースがあまりない。
気持ちが不安定で、勉強どころではない。
そういう、環境を調節することで、勉強ができるようになることがある。
子供は自力では、環境を調節する権限がない。
眼鏡を勝手に買うことはできないし、文字が書きにくいことをカヴァーする知恵は自然には浮かばない。
字を書くことが難しいにも、手に問題がある場合と、認識に問題がある場合と、切り分けないといけない。
そういうことをサポートすることで、わかるをできるに近づけることができる。
しかし、その間には、スモールステップを用意して、少しずつできるようにする根気が必要だ。

わたしが、子供に独学が無理だというのは、これが理由だ。

c71の著書

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