ゲシュタルトセラピーと「キレる私をやめたい」について

ゲシュタルトセラピーは自分の気づいていない内面と対話するためにはいいと思う。
でも、今現在、自分を否定されていて、その反応が正常に出ている人には向かない。
たとえば犯罪や暴力を感じているとき。そのときは、楽にならずに、逃げたほうがいい。

岡田法悦さんのゲシュタルトセラピーは、常に「否定」から入って、自分の境界をゆるくさせられる感じがした。
ワークをやると、あとから答え合わせをさせられ、「それは違いますね」「過去ですね」みたいなことを指摘されるので、委縮してしまう。
安全でも安心でもない場所なのだ。

キレる私をやめたい、を読むと、普通に「いやだ」「逃げたい」「むかつく」と思うようなことを「タカちゃん」に言われている。
全然いい夫じゃない。
子育て中の女性に、子育てを任せているのに「散らかっているな」というのは、「女だから散らかすな」と言っているのであって、決して言われた側の女性が「女性役割を勝手に受け取ってむかついた」話じゃない。
田房永子さんは「自分が散らかっているという現実の指摘に、自分のヴァーチャル眼鏡をかけて反応した」という話にしているけど、全然いい話じゃない。

最終話でも「いい話」にしているけどタカちゃんの言っているセリフがひどかった。
キレなくなって聞いたことについても「キレているときは獣みたいだった」というコメントはひどすぎる。
幼児を見ていたら、穏やかではいられない。
自分が何かしているときに、幼児にまとわりつかれたらそれはむかつくだろうに「普通のお母さんだったらにこっとする」という田房さんの意見は、息苦しい。
そう思わないとやっていられない、ということが、伝わってきて、つらい。

「タカちゃん」のセリフややっていることを抜き出してみると、ただただ、永子さんを否定しているだけだ。
全然協力的じゃない。
「養ってもらっているんだからちゃんとしないと」みたいなセリフも出てきているけど家庭を二人で運営していて、家事育児の負担が片方によっているとき家にいるフリーランスの稼ぎが少ないから、という理由で自分を恥ずかしいと思う理由は一つもない。
人にやとわれている人と、自分でゼロから稼ぐ人とは、お金の価値が違う。大変さも違う種類だ。

岡田さんのゲシュタルトセラピーは、人を否定して、自己の境界線や今まで培ってきた価値観を壊して、そこに侵入してくるものだったと感じた。
言葉はすでに抽象的なもので、過去に起きたものを伝える機能があるのに、それを無視して、「現在のことを伝える言葉」だけは「正解」になるみたいなのはおかしい。

わたしも、話している最中にさえぎられて「それは違うと思う」と言われたことが何度かあった。
殺したいけど殺せない、という相手がいるという話をしたとき「殺せない……?うーん」みたいに言われたのだ。
でも、心の中ではなんぼでも殺せても、現実的に殺せない。そして、今も現在嫌がらせを受けていて、犯罪の脅威があるのに、犯罪者と同じ思考になって、「相手の言葉をしゃべってください」と言われても、わたしに何の考えもないから「わかりません」という風にしかならない。

危害を受けたときに、感じたことを、発散させて、紛らわせるセラピーは恐ろしい。
逃げられなくなる。
キレるのが当たり前のことがある場合。

「永子ちゃん」は、「お母さんといるとき逃げられなかった」というのと同じことを「タカちゃん」に対してしている。
「キレるようなことを言われる→逃げることじゃない以外のことで対応する→キレないようになる」というためにセラピーを使ったら、現在じゃなくて、過去に原因を求めることになる。
でも、今困っているのだ。

お医者さんに聞いても「病気じゃない」と言われて帰される場面があった。
「病気ですか」と聞かれたら医者は「病気じゃない」という風にしか答えられない。
「こういうことで困っている」ことがあったら、その原因から逃げるしかないと、わたしは思う。
病気のせいにしたり、セラピーを受けたりすることで「困っていること」を解消するのではなくて、今感じていることを大事にしたら「この人といるとキレるから離れよう」になるんじゃないかと思う。

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