わたしの目下の目標は「母親から回復すること」だ。
母親の呪縛から逃げ出すために長い長い時間がかかり、青春時代がほぼ費やされてしまった。
コントロールされていた。
わたしが逃げるきっかけになったのは、性暴力を受けたことだ。
わたしが性暴力を受けたとき、母親は「どうぞご勝手に」と言った。
わたしはようやく寒気がして、逃げた。
ここでポイントなのは、どうぞご勝手にと言ったことではなくて、そのことで「わたしを突き放してから→わたしを慰め→わたしが号泣し→二人の絆が強くなる」まで長年築き上げたコンボが始まりそうだったことに、寒気がしたのだ。
わたしは生きるか死ぬかの境目だったが、母は一切わたしを助けようとしなかった。
わたしは失われた年月に対して、ひどい怒りを覚えた。
母はわたしを逃がさないためにあらゆることをしていたのだ。そのことを、長年気づかないようにしていた。わたしは自己評価が大変低く、母がしあわせになるためになら、いくらでも犠牲になろうと思っていた。
母は、わたしの自己評価を低めるために、洗練された手法、つまり殴る以外の方法をとった。
殴ることは幼児の頃に止まっていた。
わたしに話しかけるときは、常に、赤ちゃん言葉で、睡眠時間を管理し、友達と遊ばさないようにし、わたしが親密な関係を築きそうな人のことの悪口を吹き込み、それでもうまく行かないときはうまいタイミングで具合を悪くして、倒れ、それでもだめだったら、部屋に閉じこもって泣いたりした。
そうやって、わたしの情緒が常に不安定になるように振る舞った。
おぞましいのは、その口実が「あなたのためを思って」と言われていたことだった。
わたしは、例えば、子どもの頃、あしの骨を折ったとき病院に連れて行ってもらえなかった。
それは「あなたの自主性を重んじるため、将来、大人になったとき一人で病院に行けるようになるため」と後から言われた。
どんなけがをしても、どんな病気になっても、母親は病院に着いてくることは一切なかった。それは幼児の頃からそうで、幼児の頃には待合室までは送ってくれ、支払いもしてくれたが、医師と会うときは必ず一人で行かされた。
そして、その後、医師の言ったことを正確に反復しないと、金切り声でののしられた。
わたしは、逃げるまで、それが異常なことだと知らなかった。
母の口癖は、疲れた、つらい、だった。わたしはその台詞のたびに右往左往し、泣き、慰め、冗談を言った。
母は、わたしが成人した後も、赤ちゃん言葉でわたしに話しかけた。
母のわたしへの接し方には、幾分性的な色合いがあった。裸の写真を撮ろうとしてきたこともあった。
だから、性暴力にあったわたしのことを否認したのだろう。
逃げてから、わたしが直面したことは、母親を恨んでも何も変わらない現実がある、という事実である。
恨めば恨むほど、わたしの中で母親を生かすことになるのだ。
わたしは、わたしの意思で、逃げ出すことができたのに、逃げ出さなかったのだ、ということを指摘された。
わたしは、縛り付けられていた訳ではなかったのだから。
そのことを認めるのはとてもつらい。
恨めば恨むほど、一緒にいなくても、母に奪われる時間は増大するのである。
わたしができることは、ただ一つ、今後一切母に時間を取られないことだけだ。
わたしは一生母親に会いたくないし、会うことを考えるだけで震える。
わたしの気持ちはわたしにしかわからない。
それでも、いずれ、わたしは回復するだろう。
逃げることができたから。
一生逃げられない場合もあった。
だけど、わたしは一生会わないという決断ができた。
母親がかわいそうだと思い、戻ってしまいそうになることがある。それは、DV被害者にありがちなことだ。
わたしは大してかわいそうな境遇ではない母親のことを、心底かわいそうだと信じてきた、
だけど、本当は、かわいそうな人ではなかったことがわかった。
わたしが戻らないことで、かわいそうだと思う人がいるかもしれないと思うときがある。
わたしの中にもそういう気持ちがある。
だけど、その気持ちに負けないことが、「お母さんはお母さんの人生を勝手にやってよ」と思うことが、わたしの唯一の回復への道なのだと思う。
わたしは、わたしのかわいそうな今までの人生のために、二度と自分がかわいそうにならないために、一生母親に会わない。
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