化粧を「色気づきやがって」と言って、母に嘲笑された。
わたしの高校には校則がなかった。
ピアスを七個開けようと、金髪だろうと、何を着ていようと自由だった。パンクスもいたし、オタクもいた。お嬢様もいたし、服装に無頓着の人もいた。
原付だけは登校時には禁止されていたけれど、それは、学校の前で事故を起こした先輩がいたからだった。
服装も当然自由だった。授業も、単位を取りさえすれば、さぼっても何も言われなかった。
晴れた日には、お花見に行った。
化粧をする人生か、勉強をする人生か、二つの選択を迫られる人が多かったようだけど、わたしの同級生は、勉強もしたし、化粧もしていた。
毎日しているわけじゃなかった。毎日はみんなめんどくさかったので、お祭りの日や、気分転換に化粧をして、休憩時間に、何を買うか相談しあった。
わたしも化粧品を一そろい買った。友達と買いに行って楽しかった。
家で、化粧をしていたら「塗りたくるな」「色気づきやがって」と言われた。
学校に行く前に服を考えていたら、「ファッションショーに行くわけじゃないんだから」とも言われた。
まあ、遅刻しそうだったからさっさといけ、ということを言いたいのはわかったけれど、言い方もあるよね、と思ったものだった。
そんなに温厚に言い返さなくて、喧嘩になったけれど。
彼女は、適切な言い方を選べなかった。それは、発達障害を持つ女性の特徴でもある。
女は美しくあれ、バカであれ、という要請と同時に、賢くあれ、という要請を受ける。
わたしが通っていた高校では、化粧するなとは言われなかった。
だから、世の中でいうように、子供のころは化粧するなと言われて、大人になってからいきなり化粧しろと言われるギャップがあまりなかった。
化粧は自由だったけれど、それほどみんな化粧に熱心ではなかった。自由ということは、化粧したいときにして、しなくていいときにはしない、という感性が培われるということだ。自由だったらみんなが化粧に熱心になるというのは幻想だ。自由だと、化粧しない自由も大事にされるのだ。
禁止されると、苦しくなる。それは、化粧する自由も、しない自由も、それを選ぶ自由も奪われるからだ。
放っておかれて、自分自身で選択できることが一番いい。化粧は、自己表現の手段でもあるからだ。
義務になっても、禁止されても、面白くない。楽しめることが一番大事だ。