加害者は被害者の顔をしている

加害者はいつでも「不幸だ」という顔をしています。
人生において、常に被害者だったと主張します。

でも、だからといって、加害してはいけなかったのです。
加害しないように自制していなくてはなりません。

加害をしても、自分の被害は取り戻せません。

加害されたことで、奪われたことは、悲しいことに、自分自身で対処したり、セラピーを受けたり、長い時間をかけて、治癒していけなくてはなりません。
加害者は、被害者に何もしてくれません。愛する人や、愛してくれる人も、何もできません。
加害を受けたら、自分一人で、変化していかなくてはなりません。

それは、孤独です。
つまらない、マイナスをゼロに戻す戦いです。わたしは何度か加害を受けました。そのたびに、加害者を呪いました。
呪うことは必要でした。でも、わたしはたぶん、誰かを加害せずに踏みとどまれたと思います。
いや、しかし、わたしは気づかないうちに加害をしたのではないかと怖くもあります。

害を加える人は、自分の力に恐怖を覚えないようです。
いつも、「自分は弱い」と言っているように見えます。世の中に裏切られたとか、生きにくいだとか、言っています。被害者に対して、自分を癒せとさえ言ってきます。被害者は暴力を受けたショックで、その要請に従ってしまうことさえあります。

暴力は判断力を奪います。被害者は加害者を理解しようとします。その過程で愛そうとすらします。なぜならば、自分の受けたことが、無意味なことだとは思いたくないから。相手から学びたいと思うから。二度と加害を受けたくないと思うためには、相手のことを研究しないといけないと思うから。

でも、実際には、被害者は加害者を癒せません。彼らは乾いた魂で、いつも、飢えて、愛の泉を探しています。だからといって、被害者が、愛の泉の水を飲ませようとしなくてよいのです。加害者を許さなくても良い、いつまでも、憎んでいても良い。

加害者は、ときとして、魅力的です。その魅力をえさにして、人を惹きつけるのです。
彼らはそのことに特化しています。それが、彼らの生きるすべだからです。

だから、被害を受けた人は、魅力を感じた人が、自分自身にひどいことをしたという事実がなかなか納得できません。

周りの人は、悪い人についていったことを、責めるでしょう。彼らの魅力を理解しないでしょう。

魅力ある人が、ときとしてひどいことをする、という前提に立たなくてはなりません。そこからしか、治癒は生まれません。

ひどいことをする人に、魅力を感じた自分を責めずにいてほしい。責めるということが妥当でないとしたら、魅力を感じた自分を否定しなくても、肯定しても、ただ、そこに被害があった、そして、被害を受けたことに気づいたら、ただ、速やかに立ち去って、近づかず、遠いところから、考えることが望ましいと思います。

加害者を理解しようとして、近づけば、いつまでたっても、加害されます。そこには、どぶがあって、どぶを理解しようとしても、やっぱりどぶくさくなることはさけられません。

加害者の中には、泉ではなく、どぶがあります。誰の中にもある、どぶを彼らは刺激してきます。自分の中のどぶについて、内省しようとする人は、そのことを付け込まれます。

どんなに引っ張られないようにしても、引っ張ることを決めている人の力には抗えないものだと思います。

だから、逃げること、逃げた先で、自分を癒すことが大事なのだと思います。悪は、いつでもあって、消すことができないのです。

加害を受けるとびっくりします。びっくりして、動けなくなります。そこを付け込まれます。
いろいろなことを加害者は言います。自分を理解してといいます。
被害者はびっくりしたことを解消するために、自分の被害を無意味にしたくないために、加害者の言うことを聞きます。

加害者は、飢えた、乾いた魂を持っているだけなので、何も理解はできないです。

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