たとえば、アレルギーがあるのに「アレルギーだと思うからアレルギーなんだ、人生損している」と言われると変です。
そして、鬱があるのに、「鬱だと思うから鬱なんだ。人生損している」というのも変です。
障害があるのも同じことです。
わたしは精神病で手帳も二級持っていますが、認識と外界があやふやなほど、というわけでもないし、できることもあります。精神が異常、ということに定義は必要だと思いますが、異常という言い方よりも、不便がある、不便があるのに対して手帳があると便利なときもある、という感じでいます。
手帳は、わたしにとって、生きるための踏み台になっている感じです。なくてもいいけど、背伸びしなくてもいいです。
障害があるという手で触れる実体があると、「ああ、わたしは障害があるんだな、今日も無理しないでおこう」と思います。
障害があるからこれは無理だやめておこう、という考えは、人生を狭くする場合もあると思うのですが、あきらめることによって生まれる人生の余裕もあると思うのです。
無理をしないことで、他のことに対して楽観的になって、リラックスして行動できて、自分でできることが増えるような気がします。
手帳を持ちたくないひともいると思いますが、手帳はそんなにたいしたものじゃなくて、税金が安くなるくらい、映画が安く見られるくらいのものだと思っています。
わたしは年金は医師の反対でとっていません。年金があれば、生活が楽だなあと思っていますが、今はまだ少しでも働けるので、もっと働けるようになる可能性があるから、それの妨げにならないようにという理屈で今はとっていません。いずれとるかもしれませんが、偏見はもちたくありません。
お金は自由を増やします。
それと同じように、不便さを認めることは、自分の自由を認めて、自分を楽にするんだと思います。
楽にすることを長年怖がっていましたが、人間はそれほど怠惰な生き物ではないようです。
やっぱり、役割を与えられて、一生懸命した方が、楽しく生きられるみたいです。
楽になることを怖がっている人は、自分を信じていないのだと思います。
それは悲しいことだと思います。
自由ではないです。
不自由は悪いことではありませんが、快適なほうが好きです。
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