犯罪被害と自衛の精神論 – ある精神病患者の一日
では書かなかったけれど、わたしのあの症状はフラッシュバックとPTSD である。
精神にけがを負うとああなるということである。
だから、普通の精神状態ではなかった。
音がするだけで臨戦態勢に入って、脂汗が流れ、事件にあったときの映像や音や感触が自動再生する。そんななかで、架空の敵と戦っていたのである。
それは無意味だということを書きたかった。
世の中は弱肉強食だという人に聞きたいけれど、本当にそれで良いと思うのなら、体格差などものともしない、武器を持った人たちに囲まれることだってあるのだと言いたい。
危なくないところなんてない。
夜になったらどの道も暗いし、囲まれたらどうしようもない。昼間だって人気のないところを歩く可能性はいくらでもある。誘拐なんて簡単だ。
車が横付けして来たら逃げられないし、ドアに内鍵をつけても、壊す方法なんていくらでもある。
後ろから歩いている人が、五メートル以上近づいて来たら、必ず走らないといけないとか、すれ違ってくる人が近づいて来たら、襲ってくるかもしれないから、人気のある道も、人気のない道も歩いてはいけない。
日本は治安が良いというけれど、お金を払えば見逃してもらえ、命まではとられないメキシコの強盗と比べて、命までとられる意味不明の犯罪が多い日本は本当に治安が良いのだろうか。
強姦や未遂が計上されない日本の性犯罪率はいつまでも低いけれど、触ったことだけでもレイプとして犯罪にする国の性犯罪率の高さと比べたら、単に立件数の低さしか示してないんじゃないだろうか。
弱肉強食だと賢しげにいう人は、じゃあ、どれだけ自衛したら許すんだろうか。
被害にあいたくなかったら、万全のことをすべきで、万全のことをしなかったから、被害にあったのだと言いたいのだろうか。
じゃあ、すべての被害者にはなにかしらの落ち度があると言うことになる。
被害にあっただけでたいへんなのに、その上で、落ち度があったと責めるあなたは何者なのだろうか。
夜道を一切歩かない、家の鍵は五個つける、誕生日と家の場所は誰にも言わない、家族構成は誰にも話さない、同じ道を歩かない、などしたらいいんだろうか。
弱いものでも生きられるようにするのが社会じゃないのだろうか。治安が悪化したら、富裕層ほど、セキュリティにお金をかけることになるから、結局社会的損失は高まる。
たとえば、メキシコの麻薬王の家を見に行ったことがあるのだけれど、見事に窓がなかった。
窓や捕まるところがなくて、塀が五メートルくらいあって、ドーベルマンを放してあった。塀のところには、電流を流す柵が張ってあった。本当に泥棒に入られたくなかったら、窓のない家を建てないといけない。そして、泥棒が入ったら、すぐさま射殺しないといけない。
そんな自衛をみなさん望んでいるんだろうか。
犯罪被害にあった後は、普通の精神状態じゃなくなる。
フラッシュバックと、PTSDの諸症状が襲ってくる。それだけで、日常生活はできなくなる。
犯罪とは、日常生活を破壊するものなのだ。
犯罪にあっても、PTSDにならなかった人は幸いだ。
でも、だからといって、PTSDになった人を弱いと言って攻撃するのは違うと思う。病気の人を攻撃したら、その人は楽しいんだろうか。少しでも、自分の正しさが認められたような気がして、気分が良いんだろうか。
でも、それは、病気の人を踏み台にして、一段登った行為だから、大変下衆な行為だと思う。
PTSDによる疑心暗鬼は普通の状態じゃない。
だから、わたしの自衛論を読んだときに、こんなの普通じゃないか、と思った人は、同じく、PTSDにかかっているのか、まったく文章が読めていなかったのかのどちらかだったんだと思う。
人が近くに来ただけで、警戒し、脂汗を流していたら、仕事もできやしないし、人とも関われない。
世界との接点が失ってどんどん孤独になる。
知人だって、犯罪者として、襲ってくることはままある。
だから、誰にも心は許してはいけない。
世の中は弱肉強食だというのなら、実際に襲われたときに、声がそもそも出せるのか、試してみると良い。
驚きに、のどは塞がってなかなか声が出ない。
声が出せたわたしはかなりすごいといろいろなところで褒められた。
空想の中では、金的をするだとか、相手の指を折るだとか、足を踏みつぶすだとか、思っているのかもしれないけれど、実際には、そんなことはとてもできない。
足は硬直して動かないし、頭は真っ白、のどは塞がっているし、殴られれば頭はふらふら、腕は最初から拘束されている、相手だってバカじゃないんだから。
金的なんて狙ったら、相手が逆上して何をするかもわからない。羽交い締めにされれば、とっさに指のある場所もわからないし、そもそも自分の腕が自由になっていない。対面で、少し離れた場所から襲われることばかり想定している人は、それは弱肉強食的にいかがなんだろうか。相手が武器を持っていたり、相手が複数だったり、車でつけてきたりする可能性を考えていない、弱肉強食の人は、どんな世界がお望みなんだろう?
フラッシュバックがひどいときには、映像が走って、似た属性のある人が近づいただけで悲鳴を上げてうずくまった。
黒い服を着ている、とか、男性だ、とか、顔立ちが似ている、だとか、背の高さ、肉付きが似ている、だとか、夜になると怖くて動けなかったし、雨が降ると外に出かけられなかった。家の中にいても怖くて震えていた。誰もいない家の中で誰かがいたら心配だから、狭い家の中を点検してぐるぐる歩き回った。
それは心のけがだったので、自衛とは関係がないけれど、犯罪被害者の一部は、こういう思いをする。
好きで病気になる人はいない。
でも、病気になる人を責める人はたくさんいる。
なぜ、病気になったんだ、わたしだったらならない、弱いんじゃないだろうか?とか。
じゃあ、わたしは聞きたい。
弱いことは悪いことなのか。
そして、あなたは絶対に病気にならないんだろうか。
病気にならないとしても、あなたの愛した人が病気になったら、弱い弱いと責めるのだろうか。
風邪も引かないし、年もとらないんだろうか?風邪を引くのは、自衛が足りないからで、老いるのは、障害や病気に結びつく現象だから、それに対して対策を打たないあなたは愚かなんだろうか。
一切事故にも遭わないし、けがもしないということなんだろうか。
そうじゃなければ、病気の人を非難することなんてできないはずだ、一定の知能がありさえすれば。
このことが関係ないというんだったら、相当想像力がない。
こういう考えは結局、自分自身を苦しめる。
誰でも病気になる。
だから、そんなときに、病院に受診できなかったり、自分自身の差別心が、自分を差別し始めて卑屈になって、自分を苦しめたりするから、結局は自分が損をする。