生む生まないはわたしの自由

日本では今でも婚外子差別が根強い。特別養子縁組のハードルも高い。

だから、結婚して生むという選択肢しか見えにくい。

わたしは子供を生みたくなった。その理由は自分でもなぜだかわからない。

婚外子の状態で子供を産む。そう決めたので、そうする。生む、生まないは自分で決める、というウーマンリブの継承をしたい。古い言葉だけれど、この言葉はまだ輝いていて、わたしに力をくれる。

結婚して子供を生む、ということは、戸籍制度にうんざりしているわたしにとって、ハードルが高い。
男と持つ家庭、それも国家に認証された家庭というのは、恐ろしい。

国家のために子供を生むのはうんざりだ。産めよ増やせよ、なんて、戦中の標語に今更乗っかりたくない。政府は、そうしてほしいみたいだけれど、政府の思惑にも乗りたくない。世間の目に焦って、形だけ整えたくない。

形を整えないまま、生んだらどうなるのか、自分の力を試してみたい。

誰の子供を生むのかは、わたしが完全にコントロールできる。ありがたいことに、パートナーはわたしの考えに賛成で、バックアップしてくれるようだ。一人一人で話し合うことによって、パワーが生まれてきた。

義務感によって私を支えるのではなくて、愛によってだけ、わたしを支えてくれる人がいるという状況は気に入っている。パートナーは誰の子でも育てたいと言ってくれている。

わたしが、自分の体を使って、わたしの命を懸けて生むのだ。わたしを純粋に愛して、理解したいと思って、支えたいと思ってくれている人の下でなければ子育てはできない。制約があるから、一人では生めない。助かる。

環境が整ったから、生みたいと思ったのか。生みたいから、環境が整ったのか。それはどちらかわからない。

ネットを通して知り合ったり、ネットを通して、わたしのことを追い続けたりしてくれていた人たちと縁ができて、運が良かった。
自己開示をし続けてきたことに、こんなに直接的メリットがあるとは思わなかった。

ネットを通してであったから、わたしの思想はよくわかってもらっている。人となりもわかってもらっている。私の意思を極力尊重するように、パートナーたちは考えてくれている。わたしは今までの人生の中で一番安心している。誰もひどいことをしない。する可能性も今は見えないし、されたところで、また逃げる。

仕事があって、信頼でき、尊敬できる上司の下で働けているから、わたしには経済力がまだある。子供を妊娠して生む間は、経済力がなくなってしまうけれど、でも、今はある。

ネットでの自己開示も、仕事での信頼も、わたしが積み重ねてきたもので、そのために、わたしが自由になれるというのは、うれしいことだ。
わたしの蓄積が、わたしを助けてくれる。力になる。

だから、純粋に、わたしが生みたいかどうかを考える機会ができた。
誰かのためではなく、世間のためでもなく、「孫を見たい」と言われたからでもなく、ただ、わたしは子供が生みたい。育てたい。

パートナーたちには、生むところは私しかできないので頑張るけれど、あとは頑張らないと伝えてある。それで十分だと言ってもらった。

生む、生まないはわたしの自由だと言い切れる環境を作るために、わたしの蓄積が役に立った。運も良かった。

老後が寂しいからとか、みんなと同じがいいからとか、そういう理由じゃなく、子供を望める状況に感謝したい。

子供がいても、老後はたいへんだろう。老後の面倒を見るために、この嫌な世界に生まれた子供に、背負わせるのもまた嫌なことだ。

わたしは「親の面倒は見ない」といったとき、たしなめられた。継母に。

わたしは傲慢だから、わたしは自分のために生まれてきて、自分のために生きるのだと思っている。恩は感じているけれど、恩を返すかはまた自分の自発性に任せたい。誰に「こうするべき」と言われたくない。

生む、生まないはわたしの自由、という言葉のすがすがしさにたどり着くことができるだろうか。
これは挑戦である。

わたしはたどり着きたい。ウーマンリブの力強い言葉に。

c71の著書

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