女性学生が高校からマタハラを受けているという事件があった。
妊娠出産は、個人的なことで、そのことで不利益が起きることは、あってはならない。高校というのは、公権力にバックアップされているものだから、なおさら、厳しく高校の対応を批判しなければならない。
ネット上の反応を見るに、「学生たるものが、妊娠するなんて」「それで学校側に対処を求めるのは甘えだ」という意見があった。
仮に、学生が妊娠することがあってはならないものだとしても、現実に、学生も妊娠する。妊娠は、精子と卵子が出会ったら起きるものだからだ。
そのとき、それを否定したとしても、このことは消えない。そして、学生が妊娠することがあってはいけないということもない。
ネット上で「学生の本分は学業なのだから」ということで、たたかれているのは、妊娠の背後に「セックス」が関係しており、そのせいで、学生が「性的に放埓」であるとみなされているからだろう。
自分の人生を決めることは、誰もが認められた権利だから、誰かが、自分の気に入らない選択をしたからと言って、そのことを公にいじめてはならないのは、当たり前だ。
避妊をする権利、妊娠出産のタイミングを選ぶ権利は、両立する。避妊が失敗することもある。相手側が避妊に協力的ではない場合もある。暴力も起きる。暴力が理由でも妊娠は起きる。精子と卵子が出会えば妊娠する。たった一回のセックスでも妊娠する。性的に放埓であってもなくても、妊娠する。
そのうえで、性的に放埓であったからといって、それを罰することもあり得ない。自分の体を自分で決定したように扱うことはいつでも、尊重されなくてはならない。性的に奔放だとしても、誰も裁く権利はない。
学生が妊娠したのなら、そして、彼女が生むと決めたのならば、一番大事なのは子供を安全に生むことだ。そして、教育の機会をきちんと与えることだ。そうではなければ、この生きにくい世界で、これから、どうやって、自分の居場所を作っていけばいいのだろう。
避妊をきちんとすることを教えることと、そのうえで、その人の意思を尊重することがそんなにも難しいことなのだろうか。難しいのだろう。ここでは。この時代では。
「妊娠はセックスの結果」、「セックスを学生がするのは悪いこと」、という貞操観念の下で、一人の人生と、二人の健康が侵されている。避妊をすることを教えることは、人生と健康を守ることが理由なのに、それはおかしい。
堕胎も妊娠も体に負担がかかる。
女性の体にだけ負担がかかる。その負担を、社会全体で軽減することは不可能なんだろうか。社会とは、そのとき、バックアップするために存在しているのではないだろうか。
学生がもっとも直接に社会と接する機会となるのは、学校である。その学校が、人生を始めるためのバックアップではなく、それを引きずり落とすように動いたのは何とも嘆かわしい。それだけではなく、無関係な大人たちが「学生がセックスをするなんて」と責めるのはもっとひどい。
わたしのからだはわたしのものだ……。そういう感覚を持てるようになったのは最近のことだ。だから、わたしは妊娠出産堕胎を自分で決めたい。
女性学生は、その感覚を持って、自分で決断したのだから、わたしは応援するしかないけれど、その気持ちを持っていたい。
結婚制度の中で生むと決断したとしても、日本では多くの嫌がらせにあう。結婚制度の外側で生もうとすると、「性的に放埓な女」とレッテルを張られて、たたかれても当たり前の存在に落とされて、命の危険も味わうことになる。その命の危険を与える側に加担したくない。
そもそも、性的に放埓なことは罪だろうか?罪ではない。絶対に罪ではない。
女も、男も、ほかの性を持つ人も、すべての人が、自分の性にかかわる事柄を自己決定できる。それは他人が侵略してはいけない領域だ。
仮に性的に放埓な女、と他人が思うからと言ってなんだろう。その人には、その人の事情がある。理由があってもなくても、そのことに口出しをしてはいけない。自己決定は自分の人生を決めることだ。それを他人がとやかく言うことはできない。それとも、たたく人たちはとやかく言われることが好きなのか?好きだとしても、それは自分の好みなのだから、他人に押し付けてはいけない。その価値観は、自分の中だけで解決してほしい。
若いうちに妊娠すると、リスクがある。だとしても、その人がすでに妊娠していて、生むことを決めているのならば、それを失敗させるように環境を仕向けることは、なによりも人間の体の負担になる。負担が理由で、妊娠しないように指導するならば、その一方で、妊娠した場合、体や精神の負担を軽減するような措置をとらなくてはならない。
プライバシーは守られなくてはならない。その人がどのように自己開示するのかも、その範囲も守られなくてはならない。
大人たちが、そのことをわからないのならば、大人である資格がない。
子供は社会の宝だ。学生も、その子供も、この嫌な世界にウエルカム、本当に嫌な世界だけど、でも、生きていてくれてありがとう、生まれることになってくれてありがとう、いつも生きていてほしい、と思う。
妊娠する女がすべて、性的に放埓であってもなくても、安全に生める環境が整いますようにと思う。周りが、妊娠をジャッジすることなく、受け入れるようになることが可能になってほしいと思う。
性的に放埓だとみなす、そのまなざしが屑なのだ。みんな自分の体を自分のものとして、大事に扱う権利がある。
そのことを、たたいている人にも思い出してほしい。
毎年パートナーを変える女も、一回に十人の男と付き合う女も、罪ではない。何も罪ではない。
何も、罪ではない。一人の人が、決断して、そうしようと思ったこと。命を生み出すことの、どこも、罪ではない。
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ブコメしようと書きかけたのですが書ききれなかったのです。
こちらの記事を読んで、急に思ったのですが、映画とかドラマで古い封建社会時代を扱ったものがよくありますが、僕は今までああいうの、過去の悪習を「ひどいなあ」という視点で見ているのかと思っていたのですが、実は今の日本で、かなりの人々が「これが日本」みたいに認めてしまってるんじゃないかって。ふと思ったのです。
そういう封建社会がすでに過去になっているのなら、そういう創作物を過去のものとして楽しむことも出来ますけど、今の日本は「過去にはなっていない」ですよね。
だから、そういう作品があることは、却って悪影響になっているのではないか、って。
この事件もオトナの対応が、まるで戦前とかみたいじゃないですか。何かのドラマにそっくりありそうだなと思ったのです。
こういうの焚書みたいで嫌なのですが、一旦封印するのもありなのかなあ、それくらいやらないと日本は変わっていかないのではないかなあ、などと、この事件を知って思いました。難しい問題ですね…。