人に嫌われてもいいんですよ。矛盾してる自分を、許してなげなくちゃダメです。
— すいかbot (@suika_bot) 2014, 8月 20
わたしは心が狭いし、偏屈である。
そして、文章も書いてしまう。他人がいない文章を書いている。他人がいるのに、その人の気持ちを無視した文章を書いて傷つける。
わたしが観測していることが間違っている可能性もあるのに、人が傷つくようなことも書く。
言ったこともあとから変わることもあるし、やらないこともある。
全部まじめにはできない。
自閉症とは、他人がいない世界を生きることらしい。
わたしとしては、他人がいると思っているし、他人の気持ちにも興味があるから、それは間違っていると思っていたかった。けれども、疲れているときには、他人のことを考えられないので、正しい面もあると思い始めた。
田房永子さんの「膜」の問題について考えてみた。
わたしは視野が狭い。自分の周りに世界がないみたいに振る舞うことがある。視力が悪いせいもあるし、思考の中に外界が存在していないせいもある。
離人のときにも、膜を感じることがある。自分が自分ではない感じ。少し浮いている感じ。周りの風景が見えなくて、目の前のものだけがクリアに見える感じ。外界と閉ざされていて、影響されない。傷つかない。自由な感じ。不安な感じ。万能感。そして、無防備になるから、犯罪に遭いやすくなる。
痴漢犯罪者は、離人の状態と少し似た状態にいるのではないだろうか。
その原因は、自他の区別が未分化であることから発しているから、離人とは別のことだと思うけれど、世界に自分しか存在していない感覚、世界を感じるときに膜があるような感じは似ているんじゃないかと思う。
痴漢は自他の区別がついていない。触られる側の感情があることを知らない。子どもには、そういう時期がある。相手の気持ちを考えろと言われると「?」となる時期がある。それを考えるのがなぜだかわからないのは、相手に自分と同じような気持ちがあるとはわからないから。自分と他人の区別を知らないから、相手が同じように感じていると思う。それは、自分と相手が連続していると思っているから。もしくは、動く、もののように思っているから。
大人になっても、他人を利用することに罪悪感を持たない人は多い。人が冷たいことを言ったとか、自分の都合でものごとを遠慮しただけで、自分が尊重されていないと感じたりする人。そういうのも自分のために相手がいると思っているから、欲求が満たされないだけで、冷たいと感じてしまう。
それはお互いにとってあまり良いことではない。
痴漢に関しては、あまりよくないを通り越して、犯罪である。
膜は、パーソナルスペースではない。パーソナルスペースはお互いの「快適な」距離を保つためのものだけど、「膜」は、自他の区別がついていない人が持つものだから、快適な距離を知っているような、自他の区別が就いている人のような、「大人」が持っているものではない。もっと、幼いものだ。
幼いというと良いような気がするが、実際には、良い年の大人がしているのだから、おぞましいことだ。自他の区別がつかない人が、自他の区別がつかないまま、目の前のものに、自分と連続しているものだから、「自分が興奮しているから、相手も興奮している」だろうと思ってしまい、そのまま犯罪を犯してしまうのが、膜だと思う。
膜に守られているときは安全な気がしている。
それがなぜわかるのかというと、わたしにも膜があるからだ。その膜は障害からきているものと、虹障害からきているものがある。
わたしは自他の区別が未分化だ。そういう障害らしい。わたしは、他人が他人であるときちんとわかったのは大人になってからだ。自分の中に他人がいない、ともまた違っていて、他人は、わたしに影響されない、ということを知ったのが大人になってからだ。
わたしにとって、他人は長らく謎だった。
わたしを振り回すし、搾取するし、わたしに傷つけられて、悲しむし、なんだかよくわからないものだった。感情があり、知性があるのはよくわかったが、わたしになぜひどいことをしたり、わたしがひどいことをしていると、責めてきたりするのはなぜなのかわかっていなかった。今でもわかっているとは言えない。彼らは想像以上のことを言ったりしたりする。わたしは言われたことの十分の一も理解できない。
自閉症とは他人がいない世界だ、と言った人がいる。わたしはその意見には反対だ。わたしの世界には他人がいる。それはもう、大きく幅を利かせて、わたしを生きにくくしている。それらがわたしに見えてないと言うことだろうか、と思っていた。
でも、田房さんの記事を読んで、一理あるのかもしれないと思った。
わたしは他人の気持ちに疎い。わたしが言ったことがどうして、人を怒らせるのか、わたしにはわからない。
わたしが正直に言ったことは、相手を傷つけるつもりがなくても、怒らせたり悲しませたりする。
どうやら、わたしにはそう言った配慮をする機能があまりないようだ。疲れるとより動きが悪くなるようだ。
わたしはひとりになる時間が必要だ。
それは、こういう理由からである。
それでも、十分の一でも理解しようとするようになったのは、成長である。成長する前のわたし、今のわたしは疲れると膜に包まれる。周りの人がわたしを見ていないと感じるときがある。だから、へんな服装もできるし、羞恥心もない。誰もわたしを見ていないと思っている。そういう感じ。
その延長で、目の前に、とても素敵なものが現れたら、触ってみたくなってしまう、という気持ちは理解できなくない。もしくは、とても憎んでいるものが現れたら、貶めてみたくなるかもしれない。
自分は膜に包まれていて、安全だと思っている。その膜は自分を覆っていて、誰の視線も遮る。視野が狭いから、その「対象」がそれ以前からずっと存在して、その人たちが独自の人生を歩んで来たし、これからも歩んでいるということも想像がつかない。とにかく自分中心で行動してしまう。
わたしは性被害に会ったことがある。痴漢にも会ったことがある。若い頃、中年の男性に売春を持ちかけられたこともあるし、ストーカーに会ったこともある。
だから、正犯罪者を憎んでいる。
だけれども、彼らについて考えてみた。
彼らの膜はそのようなものだと思う。
わたしは矛盾している。
人に嫌われたり、好かれたりもする。
そのわたしに関して他人が持つ、イメージは幻影だ。
わたしはそれとつきあっていかなくてはいけない。もしくは、毎回拒否するという判断をしなくてはならない。
嫌われても良い。好かれても良い。矛盾しても良い。
だけど、判断しなくてはいけない。危険かどうか、安全かどうか。傷つけないか。
膜を出るとはそういうことだ。