疲れると自分を傷つけたくなる

疲れています。

自分を傷つけたいです。痛みを感じて疲れを紛らわしたい。

炎上記事を書きたい。炎上して、いやなコメントをされて、頭に血を上らせて、怒りまくって、好きなことを書きまくって、抑制を外したい。怒りたい。本当に怒りたい相手にはうまく怒れないから、無関係な生け贄を用意したい。嫌いな人の書き込みを見て、ひとつひとつ揚げ足取りをしたい。

体を動かしたい。疲れ果てたい。

睡眠薬を飲みたい。麻痺させたい。気持ちも気分も考えも中和させてなくしてしまいたい。

買い物をしたい。意味のないものを買って、無駄に散財して、後悔をしたい。いやな思いをして、自分をバカだとののしりたい。


やるのか、できないのか、の抑圧を手放す試み

頭がもげそうなくらい頭痛がする。
からだがだるいを通り越して痛い。
重い。神経がぴりぴりして眠れない。
やることがたくさんあるような気がして焦ってしまう。焦っているけれど休みたいとも思っている。休みたいけれど焦っているから休まらない。

わたしは戦っている。
自分の中で戦っている。
だから、疲れている。
どうしたら、戦いをやめられるのかわからない。
藁にもすがる気持ちで、アロマに頼っていて、確かに少し気分は良くなるけれど、焼け石に水だ。

わたしはこの半月、静かに節約生活を送っていた。しかし…、二月十八日以降それが無理になった。
からだに異変が起きたのだ。起きるのも眠るのも億劫で、縦にも横にもならない。土下座していたい気持ち。

働くのは働かないといけないから、マッサージに毎日通っている。お金もバカにならない。だけど、お金を使ってお金を稼いでゼロになるのと、仕事に穴をあけてゼロになるのだったら、誰だって前者が良いと思うだろう。布団に入ってもイライラして眠れない。

眠くなってから寝るようにして、睡眠薬も直前に飲んでいるのに、二時に目が覚める。うとうともしない。

だから、昨日ヒプノセラピーに行った。セラピーの後に仕事をしていたら、圧倒的な眠気が襲って来た。久しぶりに眠くなった。頭の芯がいつもぴりぴりと熱くて、張っている感じだったのが、少し和らいだ気がした。

昨日はブログを書いてから寝ようと思ったのに、書く前に寝てしまった。寝る前に思ったことは、掟からもヒプノセラピーで起きたことを覚えていられるか、だった。

今日はバイトに行ったけれど、具合が悪くて早退した。でも、快く変わってくれた人がいて、明日も休んでいいよと言ってもらった。

皮膚科の病院にも行った。具合が悪いから行くのが不可能だと思ったけれど、ちゃんと行けた。
薬屋さんにもよれた。薬屋さんでだるさと頭痛について相談したら、ワコン Mゴールドという五黄の入った漢方を勧めてくれた。緊張を緩ませて体内の流れを良くしてくれるらしい。

昨日のセッションでも、怒りを抑圧していて、抑圧をやめたらどうなってしまうのかを恐れて、抑圧をやめられないでいる、という葛藤が現れていた。破壊神になってしまうのではないか、という恐れがあるのだ。

昨日、無理をするのをささやかにやめてみた。
夕食を作らないで寝ていた。無理をしたら作れるかもしれなかった。でも、やめた。断っているのがしんどかったから。そうしたら、恋人が夕食を作ってくれた。

無理しないってこういうことなのかなと思った。やめるってこと。やる気がないんじゃなくて、やりたくないのでもなくて、できない、って思ってしまうこと。
甘えだろうと甘えじゃなかろうとどっちでも良い。甘えがダメだなんて誰が決めたんだろうか。

抑圧をやめても、わたしはセッションの中で人を殺さなかった。

焦るのをやめても、わたしは怠け者にならないんじゃないだろうか。

わたしは怠けたい気持ちと、焦る気持ちで引き裂かれて、休むことも働くこともできなくなっている。ちょうど中間で止まっている。思い切って休めとは良くいわれることだけれど、わたしはどちらもできなくなってしまっている。

わたしは、今は、しばらく、やりたくないのか、やる気がないのか、と自分を責めるのをやめる。
全部、できないから、しない、って決めつける。思い込む。それで、ダメならダメで仕方がない。

できないから、しない。そういう選択をする。
それで、様子を見てみて、ダメだったら、また考えを改めて見る。試しに、抑圧を手放してみよう。


二回目のヒプノセラピー

体調がものすごく悪かったのと、予言の力がたくさんでてきて、戸惑ったので、ヒプノセラピーにいきました。頭が痛すぎて、もげそうだし、体が重くて、倦怠感が強くて、体のあちこちが緊張してマッサージをしても緩まないから、催眠をしたら楽になるかもと思い、前日に予約しました。とれたので嬉しかったです。
また、占いの仕事をもしかしたら試しにしてみるかもしれない、という迷いもありました。
それについて、どう思われるのか意見を知りたい、というきもちもあったし、それより、自分がどうしたいのか見極める手伝いをしてほしい、わたしの心の旅に付き添ってほしいと思いました。
催眠療法のことをもっと知りたいと言う気持ちもあったし、あの深いリラックスを味わったら仕事が楽になるかもしれない、母やDV男への怒りを自分に向けてしまっている問題を見つめたら、正しく加害者に対して怒れるかもしれない、そういう気持ちがありました。そして、結果的に、過食が落ち着くのではないか、ということをとつとつと説明しました。
わたしは相手を怒らないといけないのに自分を怒っている。境界線が引けていない。だから、それができたら、過食をしなくても済むのではないかと。

セラピストは、道具として気に入ったらつかってください、信じるとかそういうことじゃなくて、つかってよかったらつかうと言うように深く考えたり分析しないでそのまま受け入れられそうだったら、そのときは縁があるってことだからつかってみると良いです、と言ってくれていたので、信頼していた。わたしのことを問題をどうするかではなくて、何が問題なのか知りたいと思えること、事実だけを見つめることができることが素晴らしいと言ってくれていた。
前回のセッションではどういうことがありましたか、と聞かれたので、おかあさんに殺され、お父さんはわたしを見つけられず、犬が見にくい姿になっても付き添ってくれて、ハイヤーセルフから、鍵と宝石をもらい、宝石は心臓の中で強さとして輝き、鍵は、自分を開示したい相手のときだけ開いて、そうじゃないときには閉じるためにもらいました、と答えました。
セラピストが、前世で、おかあさんはどうしてあなたを殺したのだと思いますか、と聞いたので、若さと美しさと才能に嫉妬したんだと思います、と答えた。

セラピーの前に、一時間雑談して、わたしの持っている願いについて話した。
わたしがどうしたら良いのか知りたい、と思っていないことを褒めてくれた。
わたしは問題をもっと深く知りたい、DVや母親に対して怒れないことと過食があること、サイキックな能力が芽生えたことについては、相互関係がある、そういう直感があるので、そこの根っこの部分を知りたいのだ、というと、褒めてくれた。

多くの人は、どうしよう、どうしたら良いのか、と言うところばかりに目がいってしまって、肝心の問題から目をそらしてしまう。だけど、人間には素晴らしい力があって、問題をしっかり認識することができさえしたら、自然とそれを解決するやり方を思いつくのだ、とセラピストは言った。
自分を信頼することができれば、問題は解決する。
問題を見つめること、そうしたら、そのときの自分が頑張ってくれるから大丈夫だと信じていれば、問題を見つめることだけに集中できるし、そのときの自分が最善のことをしてくれる、とセラピストは言った。

頭で考えていること体で感じていること心で起きていることその三つが、精妙に絡まり合っている。そのことをただ見つめることが大事だとセラピストは言った。

そのことは授業と同じなのでよくわかった。わたしは、生徒さんの点数が悪いことを気にしない。それよりも、どこができないのかを分析すること、一緒にいて、隣に座っていることだけが仕事だと思っている。隣に人が座っていて、それはどういうことなの?と質問してくれるだけで、その人は自分の力で問題を解決できる。問題を解決するための手順を自分で思いつける。どこができないのかがわかりさえすれば、それをやれば良いんだとわかって、実際にできるようになる。魔法のようだといつも思う。わからないことがわかった瞬間に、もうわかるようになっている。

それと同じですね、というと、セラピストは肯定してくれた。

今日のセラピーはこの前と違っていた。
今回はあまり深く入った気がしない。前世にもいかなかった。
セラピストは前世にいくことが目的じゃないし、大事でもない。そもそも、前世だと思っていることが本当に前世だとは限らない、妄想かもしれない、便宜的に前世といっているけれど、もちろん、確かめるすべはない。ただ、それを見るってことはそれが必要だからです。自分にとってふさわしいときにふさわしいことを見る力があるってことや、自分に必要なことを体験すること自体が大事だから、それが前世かどうかは確かめようがないし前世であろうがなかろうが、それはどうでも良いことだ、と言った。
正しい、正しくないで、裁くことから離れて、ただ、経験を深く味わうことが大切なんです、とセラピストは言った。

そのことに深く納得した。

暖かい部屋でリクライニングソファに横になると、電気毛布で足下をくるみ、柔らかく軽い毛布をかけてくれた。隣に先生が座り、暗くして、声をかけてくれる。わたしは完全に覚醒していて、眠くなかった。
目の前に浮かぶくるくるとした映像を眺めるだけにした。

眺めているものを忘れたくないです、と、先生に言うと、眺めるままにとどめておくことが大事です、忘れまいとしようとすると、力が入って、見るべきものがミラレラなくなってしまう、だから、眺めたままの方が覚えていやすいと思いますね、セラピストは言った。「今経験していることはいつでも取り出せる」と声に出していってみたら良いと思います、と言うので「今経験していることすべてはいつでも取り出せる」とわたしは言った。

わたしは、崖に取り残されていた。崖から落ちて気絶していた様子だ。わたしは八歳の記憶しかなかった。周りは暗い森だった。置いていかれたことを知っていた。喉が渇いたから泉で水を飲もうとして、自分の姿を見て驚いた。わたしは美しい十七歳だった。泉で泳いだら水が冷たくて素晴らしい開放感があった。暗い森の中で、泉の上の空は美しい星が輝いてシャワーのように光が降り注いでいた。

わたしは捨てられた、それは嫉妬されたからだ、とわかった。
魔女としての能力、若さ、美しさに嫉妬したから、わたしを殺そうとして、崖に突き落とし森に置き去りにしたのだとわかった。
わたしは太った男の人に、性的虐待を受けており、本当の両親から誘拐されて、魔女としての能力を伸ばそうとされていたのだった。

街には近づくなと言われていたけれど、もう関係がないと思った。つんつるてんのみっともないドレスのまま、ぐんぐん歩いて、街へ出かけた。なぜか方向はわかっていた。

街との敷き居の前で逡巡していると、明け方の光の中で農夫が不思議そうにわたしを見ていた。
相手はわたしに怯えておらず、しかし、わたしはみっともないドレスの自分が恥ずかしかった。けれど、それはわたしのせいじゃなかいと思って、平気になった。
敷き居をまたいでも何も起きず、そのことにほっとしながら、街をどんどん裸足で歩いていくと、セントラルと呼ばれる場所についた。白い教会が建っていて、わたしは迷わずそこに入っていった。

そこにはおばさんたちと神父がいた。神父は驚いたけれど、周りのおばさんたちがあらまあどうしたのそんなかっこうで、と口々に言って、わたしによって来た。着るものがないのなら上げましょう、タオルを持ってくるわと言って、食べ物や着るものをおばさんたちはとりに戻った。
神父はかわいそうな人を見る目で、わたしを哀れんで、「あなたは誘拐された子どもですね、あなたの両親はもう亡くなりました。よく、戻れましたね」と言った。わたしは言葉があまりよくわからなかったけれど哀れみの気持ちやおばさんたちの優しさ、世話焼きの気持ちはわかって、涙が出た。
涙は出たけれど基本的には感謝も感激もしないで、好意を当たり前に受けた。世話をする方も、感謝の気持ちを示さず、呆然とした様子のわたしには、かまわないでいた。世話をしたいからする、と言う感じだった。

髪の毛を梳いてもらい、綺麗な髪ね、と言われたときにぽっと胸があたたかくなった。そんな風に触ってもらったことなどないと思った。じんわりと暖まるような感じがした。

街の人々がわたしによくしてくれる。神父さんも教会の小さな離れに住むことを許してくれた。着るものは、街の人たちがお古をくれた。お古と言っても、今まで着ていた服とは比べ物にならない。髪も頭にぐるりと編んでから巻いて、自分が十七歳の乙女らしい姿になったのが誇らしく嬉しかった。

けがをしたおばさんに薬草を作って渡したところ、それが喜ばれた。ひらめきをアドバイスにしたり失せものを見つけたりすることが続き、そのためにお礼をもらうことが自然と増えて、それが生業になった。
魔女と弾劾するものはいなくて、穏やかな生活だった。おかあさんは不吉なものを見るけれど、わたしは、こうすれば良くなるとか、こうすれば病気が治癒するとか、そういう良いことしか見なかった。わたしはそのことをラッキーだと思っている一方で、自分の強さがそれを招いているのだということもわかっていて、自分を誇りに思っていた。

頼ったり頼られたりする関係がとても嬉しい。幸せだ、と感じていた。森にいるときには、街はともかく危険で冷たくて、今だって不幸せなのに、もっと不幸せになると言って聞かされていたから、母のために生きて来た十七年間は無駄だった、と悔しく感じるときもあった。また、母が太った邪悪な男をつなぎ止めるために、わたしの体を利用したことも許せなかった。

ある日、街で祭りがあった。わたしはなんだか恥ずかしくて、家の中に隠れていた。そうしたら、ボーイフレンドが迎えに来た。わたしは扉を開けなかったが、散々誘われて、扉を開けた。

そうしたら、まぶしい星の光のシャワーを全身に感じ、宇宙に浮遊しているような開放感と喜びを味わった。右目に強いオレンジ色の暖かい光を感じて、まぶしさで何も見えなくなった。街の人たちが笑いさざめき、酔っぱらいながら、踊っている音楽が聞こえた。
わたしは、男の子と距離を保ったまま、隣り合って立ち、顔を見ずにまっすぐ前を見て話をした。

急に村々と怒りが湧いて来た。楽しい祭りなのに、過去が邪魔をして、飛び込めない自分がいる。祭りを楽しみたい、と強く思い、楽しめないのは自分のせいじゃない、とひらめいた。おかあさんのせいで楽しめないし、十七年間も無駄にしたのだ、と思った。
怒りに震えながら、激情に満たされ、それをたどたどしく男の子に伝えたら、彼はそれをわかった、と言った。わたしの怒りを恐れなかった。わたしは性的虐待をされていた、ということに気がついた。それが何なのか、それまでわかっていなかったけれど、不意に、そばにいる男の子を愛している自分に気づいた。けれど、性的虐待を受けたせいで、わたしは、男のことを愛せないし、愛してもらえるわけがない、と思った。そのことを言いたいと思った。言えないと思った。しかし、それを言った。言った瞬間、ぶわっと鳥肌がたって、それで拒絶されてもどうなっても良いと思った。そして、受け入れられることを確信した。確信で来た瞬間の気持ちが、嬉しかったし、誇らしかった。相手を信じている、という自分の強さが誇らしかった。

わたしたしは崖の下を通って、森を歩いた。真っ暗だったが、道を知っていた。
歩いていくと、私が住んでいた家にたどり着いた。小さく粗末で汚い家で、そんな家に住んでいたのかと思った。わたしにとって、その世界が全世界だった。この世界に拒絶されたらすべてが終わると信じていた。それなのに、捨てられて、歩いていったら、新しい世界が開けた。ここに住んでいる人はそうした、冒険に満ちた豊かな世界を知らずに死ぬのだと思った。

ドアを開けると、どろどろに汚れきった不潔な台所と不潔なリビングが見えた。汚れを全く拭いていない。そうして、汚い初老のカップルが椅子に座っているのを発見した。
老婆は口から沫を吹きながらわたしをののしった。近くにいた男のことには気づかなかったらしい。男の子がわたしの前に出て行って、黙らせるように彼女を眺めると、彼女は勢いを失って黙った。
わたしは彼女を殺そうかな、と迷った。殺したいと思った。殺しても良い、と思った。女を蹴って倒して殴った。いやな感触がした。
それから、男のことを眺めた。
木でできた重みのあるものを手にした。
しかし、わたしのとった行動は、太った男のそばに行って、その男をその木でできたもので思い切り殴ることだった。側頭部を殴った。男は頭を抑えて、わたしをきっと睨みつけた。わたしはそれにかまわず二回目を殴った。男は沫を吹いて、椅子から転げ落ちて、昏倒した。

わたしはめんどくさいなと思った。殺すつもりだったけれど、殺すことがめんどくさくなった。怒りが減ったわけでも、憐れみが生まれたわけでもなく、生きている方がこの人たちにとって苦痛は長引くし、わたしが殺さなくても、必ず死ぬ。だったら、わざわざ殺さなくても良い。手にいやな感触がするから殴ることが面倒だった。

だから、男の子に、帰ろう、と言った。
帰る途中で、老婆が、わたしに呪いをかけたのがわかった。それを感じた。しかし、わたしは強い魔女だったので、呪いを返した。呪いが返された老婆は、生きたまま炎に包まれた。家も燃えた。男も燃え尽きて死んだ。
わたしは呪おうとしなければ、彼女も死ぬことがなかったのにと思った。
彼女が死んだのはわたしのせいじゃない、とわかっていた。彼女は自滅した。

燃えていく老婆のことを幻視した。
苦しんでのたうち回って死んでいく。
わたしは虚しいと思った。
彼女は自分自身で、それを選んで死んでいく。
自分でうまく立ち回れると信じていたのに、思っても見なかった方法で死ぬ。
でも、それは彼女が自分で起こした出来事で、わたしがしたことじゃない。
彼女はそれに一生気づかないで死ぬんだな、と思った。わたしのせいだと、わたしのせいにしながら、自分の力に溺れて死ぬ。

わたしはあれほど恐れていた家が、燃えていくことが不思議だった。
わたしは以前弱かった。でも、今はそうじゃなくて、捨てられたことをきっかけにでも、逃げることができて、今は一緒にいない。燃えるときも一緒にいない。愛している男の子もいる。
わたしは老婆を助けたかった。事実を指摘し続けた。だけど、助けようとすればするほど不興を買った。彼女は事実を知りたくなかったから。
それは、彼女は自分のことを知りたくなかったから。誤摩化すことに一生をつかっている人だったから。
その邪魔をするってことになってた。だから、わたしは憎まれていた。
わたしは愛していたのに。だから、助けたかったのに。

セラピストはどんな気分か、聞いた。
わたしはすっきりした気分でいて、晴れ晴れとしていた。ハイヤーセルフはなんと言っているか、と聞くので、自分で思うようにやっていたら、良いことが起きるから、好きに生きたら良いと言っていますと答えた。
規範に沿って自分を抑圧していなくても、わたしはひどいことをしないんだと、信じていて良いんだとわかった。
女らしくない自分のことが好きだし、生きる力があって、その場にあったことをその場で考えて実行するところが素晴らしいと思った。
セラピストは、人を殺さない理由が、規範に沿って。悪いことだからとかじゃなくて、あくまでも自分の都合で考えて、結果的にそれが良い洗濯になっているのが面白いですね、と言った。

過去のわたしと今の私を切り離してください、と言われた。
そして、過去のわたしは今の私に何を言っていますか、と聞かれた。
過去のわたしは自由にすることがうまくいく、あの男の子は今の彼氏だから、大丈夫何を言っても受け入れると言っていた。
そして、過去のわたしは、消えるか、今のままつきそってくれるのか、とセラピストが聞くので、過去のわたしに聞いてみたら、過去のわたしが消えるのは金色の右目から入って来た光にとけ込むのは、今の私ととけ込むときと同じときだと言った。それまで、寄り添うわけではないけれど、わたしの中に溶け込んでいるから、そういう形でサポートすると言った。消えないし、今のまま付き添うわけでもない、わたしの中に入って溶け込んで一部になる、と言った。
わたしは自由で気ままで、他人の善意をそのまま受け入れる彼女のことが大好きだったので、嬉しいと思った。
倫理観のために行動するのじゃなくて、自分の都合だけを考えて行動するのに、結果的に優しいことをしたり、結果的に、法を破ったり、人を傷つけたりすることを選ばない彼女のことが好きだし、都合がいいと思った。

帰りにフラワーエッセンスを調合した。

抑圧された怒りを解放したり、自然とのエネルギーを調和させたり、新しいことを始めるエネルギーについてのものだったり、自然からの愛のエネルギーを自分の中で循環させたりするエッセンスを選んでいたことが不思議だった。

フラワーエッセンスが効くかどうかは大事ではない。信じるかどうかも大事じゃない。
ただ、それが邪魔にならないか、道具として役に立つかが、大事だとセラピストが言った。
なんでもありだから、と言った。

わたしはそれに納得した。

アロマオイルを買った。アロマのディヒューザーは高かったので、レンガでできた石を買った。それにアロマオイルをたらして香らせる、というものだ。
つかってみたら、安いし、思っていたよりも良く香るから枕元に置くのに良いなと思った。

今、アロマを漂わせている。頭がすっきりした感覚がする。今日はアルバイトを途中で休んで帰った。代わりの人が来てくれた。感謝した。人に恵まれていて、うまくいっている。嬉しい。

いつもいくマッサージ屋さんに、塩を置いた方が良いとアドバイスしてから、お客さんが二倍に増えたと言ってくれた。
昨日いったら、ねたみを買っているから、右足の薬指から恨みが入って来ているから、白檀かムスクのコーンタイプのお香を朝十時に炊くと良いよ、と教えた。十時から始業開始の祈祷師にねたみを買っているから、腰から下がひえているはずだし、首の後ろが痛いんじゃないかって。だから、右足の指を曲げることで、おなかが楽になるよ、と言って伝えたら、その通りだと言って喜んでもらった。マッサージ屋さんに、白檀とムスクのお香をプレゼントする夢と、マッサージ屋さんの患者さんを紹介してもらって、売らないをする夢を見た。だから、それらの買い物をした。そしてプレゼントした。わたしが勝手プレゼントするのが大事なことらしい。
赤い椅子と座卓を買った。普段なら迷わずブラウンを選ぶのに赤でしかなかった。恐れを感じた。自分ではないみたいな選択の仕方で、間違ったことをしてるのではないかと、言う気がした。でも内なる声はとても頑固で譲らない。
どきどきしたけど、必要なものだからいいやと思った。
最近、不思議な世界で、感覚をたよりに生きているのだけれど、なかなかうまくいっている。
仕事もうまくいっている。

占いの話を彼氏に話した。
彼氏は話してくれて嬉しい、ありがとうと言った。
分かりにくい話だから、隠しておこうと思ったんだけど…、あやしいし、信じてもらえなくても仕方がないし、と言ったら、信じるとか信じないとかはどちらでもよくて、c71ちゃんがそう思っていて、そうしたいと思ってるんだから、そうすればいいさーと言ってくれた。それでお客さんが来て喜んでもらえるんだったら良いね、と言ってくれたので、喜んでくれそうな人だけ見る、と話した。
そして、役に立てたら嬉しいと話した。
最初のお客さんは、マッサージ屋さんに付き添ってもらってするのが良いね、と話した。

見る、ってどんな感じ?と聞くので、目で見たり耳で聞いたりするのと同じ感じ、でも、目も見えにくいときがあったり耳も周りがうるさかったら聞きづらいことがあるのと同じように、見えにくいときがある。
そして、目で見えることを証明したり説明して信じてもらうことってわざわざやらないのと同じように、当たり前に見えるし、だからといって、説明できないと話した。耳で聞こえる音のことを言葉で説明してわかってもらおうとしても、そんな音が聞こえるわけない、と言っている人に、できる説明ってひとつもないでしょ?と話したらわかってくれた。

わたしは便宜上占いといっているけれど、どちらかというと、透視や予言に近いと思っている。
だれかがだれかのうわさ話をしているとき、話題になっている人の姿や生活や性格、人間関係でもめていることなどが見えるのだ。
だから、それをそのままいって、何かしてあげることってほとんどできないんだけど、それでも良いし当たらなくても良いと言う人にアドバイスしたいなと思ってる。それは塾の仕事と似てるなとも思う。自分でなんとかする気がある人にしか、アドバイスって役に立たないし、できることってほとんどない。
でも、やってみたいのは、自分の力がある、ってことは伸ばして、その先を見てみたい気持ちがあるから。
だから、やってみようと思う。
そのために、ヒプノセラピーにもう一度いった。
今回は前世は見えず、自分に都合の良いストーリーだけが見えて、自分で作ってるんじゃないか、と思った。
でも、それでもいいらしい。今の自分が必要としている体験をした、ということだとセラピストが教えてくれた。
今回の経験には今の自分が必要としている体験が含まれているらしい。
その話の中では、占いにチャレンジすることは良い兆しがあったので、やってみる勇気がわいた。

三時半からのセッションで、二時間の予定だったけれど、六時半までかかった。
催眠状態が深いって、感じはなくて、完全に覚醒して、この前よりもかかっていないな、と思っていたのだけど、時間のすぎ方が違っていたので、やっぱり、深くかかっていたのだな、と思って感心した。
すごく不思議だ。


予言、買い物、体調の悪さ

今日畑田の日記です。

今日は朝から具合が悪くて、倦怠感がひどく、鈍痛があったので、マッサージに行った。
ヒプノセラピーをしてから、サイキックな能力が芽生えた。
予言のようなことができるようになったので、マッサージ屋さんにアドバイスをした。
以前のアドバイスは、塩をとある場所に置くと、お客さんが増えるとアドバイスしたら、仕事がさばききれないくらいお客さんが来るようになったと喜んでもらえた。効果があったと言ってもらえた。
そして、状態の悪いお客さんに、わたしのアドバイスを取り入れた治療をしたところ、良い結果が出て来たと言ってくれたから、意外と役に立てていると思った。

供したアドバイスは、難しい患者さんの悪いところを良くするためのアドバイスと、マッサージ屋さん本人の体調の悪さを改善するためのアドバイスをした。
当たっていると言われた。料金をおまけしてもらった上に、予言がほとんど当たっているから、仕事にできるんじゃないかと言われた。頼んで、マッサージ屋さんのお客さんで、予言に興味がある人をピックアップしてもらうことをお願いした。
わたしも予言で人を助けられるのなら、やってみたい。
その前に、もう一度ヒプノセラピーを受けて、予言の力を強化したいと思った。

それから、雑貨を買いにいった。

座るときの背骨を補助する座椅子のようなものがとても気に入って買おうか迷ったり、スーツケースを買おうと迷ったりしたけれど、来週の楽しみにとっておこうと彼氏が言ったので、そうした。

今までだったら衝動的に買ったので、我慢できることが嬉しかった。

それから、入浴剤や、アロマキャンドルや、お香をたくさん買った。どれも100円くらいだ。

それも、今までだったら、買うことが恐ろしくて、泣いてしまったのだと思うけれど、失敗を恐れず、買うことができた。いろいろな種類の入浴剤があって、安いし、消えるものだから、ものが増えることを恐れているわたしでも選ぶ楽しみを味わえた。

わたしは同じものを何度も買ってしまう癖があった。香水なんてなかなか減らないのに、廃盤になるのが恐ろしくて、五本も買ったことがある。

でも、今はそうじゃない。自分が嬉しい。

綺麗なお皿を買った。100円のお皿でも似たものはあるけれども、細かい色の掠れや、淡さが違う。そういうものをつかうと心に嬉しさがたまる。

毎日嬉しさがたまると、少しずつ元気になる。

鬱状態になる前は、自分を粗末にしていた。毎日少しずつ、荒れていた。自分が嬉しかろうと嬉しくなかろうとどちらでも良いと思っていた。

毎日きちんとしたものを食べて運動していたら、肺炎になっても治りが早いだろう。
毎日カップ麺ばかり食べていたら、肺炎になっても治りが遅いだろう。

それと同じように、鬱状態になる前の過ごし方で、鬱になるきっかけになることが同じように襲いかかっても、鬱になるか、ならないかが変わってくると思う。心の中に、嬉しさやしみじみとした喜びを貯金することが、心の体力に結びつく。

彼氏とわたしの好きなものは違う。だけど、彼氏が良いと言ったものを見ると、どこが美しいのか、わかる。わたしの世界が少しずつ広がってくる。

彼は仕立てと素材の良い服を大事に着る。同じお金を持っていても、わたしは島村で買う。
似たようなデザインが売っているから。でも、縫製や素材が違う。わたしは、彼と一緒に歩くまではそれで満足していた。でも、彼が素材の良い服を着ていて、気品のある姿をしているのを見ると、デザインよりも、大事なことがあるのだと思う。美しさにはいろいろなものがあるけれど、わたしは新しい美しさを知ることができた。

安い服を着こなす楽しみもある。だけれども、良い服を大事に着る、しみじみとした喜びもある。
頭ではわかっているけれど、高い服を買うことはなかなかできない。でも、見本が身近にいると、骨身に沁みて実感できるから、行動に移す準備を整えることができるなと思った。

同じようなデザインでも、素材や作りが違うと、身につけたときの印象が違うんだな、と彼を見ると実感する。
島村を来ているときには満足していたのだけれど、そうじゃない世界があるのを知った。
とても楽しそうだ。

彼が隣の部屋にいるのに、メールをくれた。今日は特にかわいらしかったとメールに書いてくれた。直接言われるのも嬉しいけれど、びっくりさせられるのも嬉しい。
好きな人のためだけに化粧をするのはとても幸せなことだ。しかも、そのことに気づいてくれるなんて、なんて幸せなんだろう。

彼の美意識の世界は近所にあって、理解できるから、じわじわとわたしの領域が広がっていく。
わたしは孤独で良かった。孤独だったから、彼と出会えた。さみしさが原動力となって行動に結びつき、世界を広げた。
これからもわたしの世界は豊かになる。

豊かになっても意味がないと思っていた。でも、豊かさはしなやかな強さの別名だ。

わたしは今日、とてもしんどかった。
だけど、少し無理をして買い物に行った。とても楽しめた。入浴剤を選ぶ楽しさを知った。

だけど、今度はひとりになりたい。わたしは人といると、何かを失う。
筋肉をつかった後に冷やすように、わたしは人といた後、人前にいた後に、ひとりになってクールダウンしたい。
それを、人が嫌いだからだとか、気を使って疲れたのだと思ってほしくない。ただ、疲れてしまうだけなのだ。その人をどれだけ好きでも、愛していても、気があっていても、気を使っておらず、楽しんでいても、無理をしていなくても、わたしにはクールダウンが必要だ。

そのことで悲しくならないでほしいなと思う。わたしはただそういう存在だ。
悪気もないし何もない。でも、余裕があれば歩み寄りたい。そういう話をした。

今日は入浴剤を選べてとても楽しかった。
100円くらいのものを、ゆっくり吟味して、好きなだけかごに放り込む楽しさって、なかなか、ない。

みかんの香りのお香を買った。
早速、火をつけて、味わった。頭の芯の痛みや体のこわばりが少し楽になった気がした。

ブログを書いていたら、メールで、今日のc71は特にかわいらしかったと言ってもらったこと、そして、ブログを書いてクールダウンできたら、負担にならなかったら一緒に寝ようと誘ってもらったこと、そういうことがとても嬉しい。

今日はおなかの調子が悪くて、食欲が珍しくなかった。
彼は野菜たっぷりのスープをウエイパーとコンソメを混ぜて、作ってくれた。優しい味がした。

具合が悪いのは、契約を取るために、気を張っていたからだと思う。

今度は、わたしの契約を取るこつを、文章にまとめて、上司に渡してみようと思う。上司は今日も仕事の紹介の電話をくれた。良くしてもらっているので、できるだけ役に立ちたいと思う。

今日は、体調が悪かったけれど、良いこともたくさんあった。人の役にも立った。

明日は、マッサージにもう一度いって、午後にはヒプノセラピーに行く。

お金がとてもかかる。だけど、マッサージに使ったお金の分はあとから儲かる仕組みになっているみたいだから、あまり心配していない。
具合が悪くて仕事に行けないで収入が減るよりも、マッサージにつかって働いて、結果的に収入がプラマイゼロになるのだったら後者の方がずっと良い。それは先につながることだから。

そういうことをいろいろ思った。

今日は買い物に対する恐れを克服できたし、相互理解ができた。
生きていると一日でいろいろなことがあるな、と思った。


セックスワーク、葛藤、おかあさん的感情労働

朝に
女性の労働と内心の忖度、愛と仕事の関係について – c71の一日
この記事を書いた。
それから、わたしはずっと葛藤してる。不安でいっぱいだ。

これから、たくさんある不安をひとつずつ列挙していきたい。

今日は、考えすぎて、体がだるくて、頭がうまく働かなくなった。少し考えるのを休めば良いと思うのだけど、それもなかなか難しい。頭の中を勝手に、思考が走ってしまう。

そして、自己嫌悪になった。
考えても考えても、問題の核心に近づけない気がした。
セックスワークについて、わたしが考えることで、セックスワーカーやお客さん、お店で働いている人などの当事者を傷つけてしまっているのではないか、見当違いのことを言って、迷惑をかけているのか、心配になった。そして、それを確かめようとすればするほど、他人の負担が増えてしまう。友だちにしつこくしてしまった。

わたしが考えることに意味はあるのか?

わたしにとって、セックスワークについて考えることは、意味がある、と思っていたのだけれど、確信がどんどん薄くなる。わたしには無理なんじゃないのか、わたしは届かないんじゃないか、と思って、無力感に途方に暮れる。だって、この問題は大きすぎる。広すぎる。知っていることはあまりにも少ない。

わたしは正解を知りたくなってしまった。
当事者に、ねえ、わたしに正解を教えてよ、と聞きたくなってしまった。
手っ取り早く。

わたしが、自分自身で考えることに意味があるのに、それを放棄してしまいたくなった。
自分で考えることに、意味がある、と思うのは、わたしにはセックスワーカーに対して、責任があると思うからだ。
セックスワーカーにならなかったわたしは、セックスワーカーになったかもしれないわたしでもある。

わたしはセックスを利用して、相手をコントロールしようとしたことがある。
わたしはセックスを利用して、男にコントロールされたことがある。
セックスは人をコントロールするためのものじゃないのに、そういう使い方もできる。
セックスは、純粋に性欲だけの問題じゃない。
いろんなことが混じっている。
わたしはそのことを考えたい。
だから、セックスワークについて、わたしは関心がある。
わたしはセックスにお金を介在させたことはない。だけど、セックスを通じて、性欲以外のものを得たことがある。
そして、暴力に言葉を奪われたことがある。
今、わたしは語ることができる。あのとき、奪われた言葉を語りたい。

わたしは、セックスワーカーに負い目を感じている。わたしには、間違ったことを言って、迷惑をかけているのではないか、という恐れがある。
わたしはセックスワークをしている人たちのことを傷つけているのではないかと心配だ。だから、わたしが考えた文章を書いたことによって生じる、加害についての負い目がある。

生徒さんが立て続けに合格して、契約も取れて、緊張の糸が解けたのかどうか、わからないけれど、わたしはダウンしてしまった。考えたいことはたくさんあるのに、頭が働かない。
考えたいことって、本当に考える価値があるのだろうか。わたし以外の人がとっくに考えていて、正解があって、わたしは間違った答えを出し続けているだけじゃないのか。

セックスワークをしている人の気持ちを当てるゲームになってしまっていないか。だから、わたしは正解があると錯覚しているのではないか。
正解はないのに。わたしなりの到達できる考え方しかないのに。

頭が働かなくて、さみしさと無力感がある。頭が働かないとさみしくなる。わたしには、何もできないんだって。何もかも的外れなのじゃないかって。

セックスワークについて、考えることが、セックスワーカーに迷惑をかけているんじゃないかと、不安になる。出発点は、わたしが、知りたいと願って、考え始めたことなのに、周りを見て、正解を探している。それでは本末転倒だ。なのに、どこかに、正解があるはずなんじゃないかって、思ってしまっている。それが自分を追いつめてる。

わたしの試みは正しいのですか。わたしには確信がない。
わたしが自分の欲望に沿って、知りたい、考えたいという欲求に沿って始めたことなのに、わたしはだれかに正しいと言ってほしがっている。無力感でいっぱいだ。考えない方が迷惑にならないんじゃないかと心配になる。

わたしは、わたしのこととして、セックスワークについて考え始めた。そのことは今も変わりないのだけれど。

セックスワーカーの人の気持ちを当てるゲームになってしまっているから、自分を追いつめているのじゃないか、という疑念が振り払えない。

セックスワークについて考えることは、自分のこととして考えること、という立場に立って始めたのだけれど、どうしても届かないことがたくさんある。
わたしが考えている途中のことが、間違いを含んでいる多くのことが、広まってしまうことが恐ろしい。

今日気がついたのは、セックスワークについて、言語化することの難しさだった。
語ることの困難さ、それ自体が、セックスワークの本質に近い、と思った。

だから、わたしは、今、困っている。弱っている。

でも、わたしが弱るほど考えてもわからない、そのことが示している何かが大事なんじゃないのだろうか。
セックスワークについて語ろうとすると言葉を失ってしまう、そして、無力感に苛まれる、弱ってしまう、そのこと自体が、問題の本質をついているのじゃないだろうか。

わたしに、考えたことに確信がない。無力感にとらわれている。けれど、その状況そのものが大事なのじゃないだろうか。語りたいのに言葉がないと言うことが、問題の重大さを示しているのではないだろうか。
わたしがこのことを考えると、きつい、キツいと言うこと自体が、この問題のたいへんさを表しているんじゃないか。

簡単に答えが出ない、ってことは問題が大きいってことだ。

わたしははじめて問題の大きさの一端に触れた可能性がある。

わたしは今、最高にみっともなくて、最高にめんどくさい人間だ。友だちにも迷惑をかけている。彼氏にも迷惑をかけている。ツイッターの人にも甘えて、愚痴をこぼして、迷惑をかけている。慰めてほしい、正しいことをしていると言ってほしい、頑張ってるねと言ってほしい。褒めてほしい。間違っていないと言ってほしい。

そして、わたしは考えている。

わたしから遠い、仕事のことを考えている。遠いと思っていたのに、近い仕事のことを考えている。

欲望。

欲望から価値を生む仕事がある一方で。
欲望を恵んでもらうわたし。

欲望は金銭で交換可能なのだと、誰もに突きつける仕事。
性欲以外の欲望ならば、金銭で交換可能なのだと、容易く理解できるのに、性欲に限ってはすんなりと理解がいかないわたしがいる。

どんなものでもお金で買えるのに、愛する人とのセックスだけがお金で買えない。

そのことがわたしの心を引き裂く。おそらく、いろいろな人の心を引き裂く。

わたしにとって、愛する男の欲望には価値があるのに、その男が、金銭で欲望を交換してしまったら、その欲望の価値はどこに行ってしまうのだろう。消えてしまうのか。わたしにとって、価値のある欲望が、お金を介在して取引され、男の欲望はお金を払って引き取られる。

そのこともわたしを不安定にする。

だから、人は、セックスワーカーを恐れるのではないだろうか。
お金で扱えないはずのものをお金に換算することが、恐ろしいから。
錬金術のように感じるから。

わたしは欲望を、愛情と、快楽を求める気持ちと、子どもが欲しい気持ちと、相手を愛する気持ちが、混ざったものだと感じている。

だから、それを売り買いする人は、上記の感情すべてを引き受ける気がしていた。
気持ちの上で、射精をする助けをしているのみだ、サービスをしているのみだ、接客をしているのみだ、ということを納得するのが難しかった。

セックスに付随する愛情はどこへ消えてしまうのか、知りたかった。

でも、性欲に、愛情が付随しない場合もあると思い出した。
正確に言うと、性欲を処理する側にも、処理される側にも、愛情が付随しない場合があることがあるのだ。

本当は、そんなこと、とっくに知っていた。男の性欲を感じて、受け止めて、それをなだめるとき、わたしには必ずしも愛情があったわけじゃない。機械のようになれたら良いのにと願って、心なんてなければ楽になれるのにと思いながら、ロボットになりたいと願って、わたしはただの「物体」なんだと言い聞かせて、心を殺していたときが確かにあった。

わたしにはそういう経験があった。

セックスをしたことがある人は、セックスワークを自分のセックスに関係したものだと考えるのではないだろうか。
だから、セックスワーカーを敬して、遠ざけるのではないだろうか。

わたしは、自分が物体のようになったときのことを思い出すのが怖かった。セックスワーカーが、物体のようになって、働いていることを想像するのが怖かった。
だから、セックスワークについて考えるとき、平静ではいられなかった。

それは、わたしの問題だった。わたしのセックスで起きた、怖い出来事だった。

他人であるセックスワーカーにはそんなことは関係がない。
なのに、セックス、という話題になると、それが個人的な体験を通してしか、想像ができないから、うまく判断ができなくなってしまう。

普通の仕事だということはわかった。

でも、想像しにくい仕事だ。わたしのセックスは愛にあふれたセックスのときもあったし、そうでないセックスもあった。

だから、わたしはセックスワーカーに、こうあってほしいと言う願いを込めて分析した。そして、それは結果的に、わたしの願望の押し付けになった。

わたしは自分の仕事が楽しい。だから、セックスワーカーも、仕事が楽しい、お客さんに喜んでほしいと願っている場合が、あるはずだと思いたかった。
実際、博愛、という意味に近い愛がある場合があるのだと思う。だけど、わたしが間違っていたのは、それをセックスワーカーに押し付けたことだ。この行為は、迷惑になる可能性がとてもある。内心がどんな気持ちであっても、仕事は仕事だからこなす、という立場を尊重していなかった。わたしは内心に踏み込んではいけなかった。それは無礼だから。

今日、わたしは不安定で、めんどくさい人間だった。わたしは、セックスワーカーの人に、どう考えれば良いのか、正解を教えてほしくなった。正解をほしがる人間はめんどくさい。

今日は体調が悪かった。頭が痛かった。生姜湯を飲んで、痛み止めを飲んで、ソラナックスを飲んだ。落ち着かなかった。不安だった。自分が何をしているのか、何のために考えているのか、わからなくなった。塾を辞めた生徒さんが近況を教えに会いに来てくれたり、彼氏がスープを作ってくれたりしたのに、わたしは緩まなかった。心細かった。

セックスワークはわたしに近い。わたしはセックスをするからだ。

セックスワークはわたしに遠い。わたしの職業とは違うからだ。だから、その職業の苦労や喜びを、わたしは想像するしかない。

セックスワークが大事な仕事だとか、世の中に必要不可欠だ、という意見に対して、わたしは関心が全くない。それは男の立場の言説だからだ。

わたしが興味を持つのは、言葉にできない、言葉にならない、理屈や論理からこぼれ落ちた何か。
わたしはそれを救い上げることができるだろうか。ひとつだけでも。少しだけでも。

わたしはセックスワークを恐れている。わたしは言葉にできない何かを、少しでも、考えることができるだろうか。わたしは恐れている。そのことで葛藤している。

セックスワーカーは性欲を処理するだけが仕事のはずだ。だけど、それ以上のことを求められている。特別扱いを求められたり、情緒的な交流を求められたり、承認欲求を求められたりする。

セックスワーカーは「おかあさん」から最も遠い存在なのに、情緒的に求められるのは「おかあさん」の役割だ。
感情を抑え、感情労働をする。しかし、その部分について、賃金が払われることはない。それは、おかあさんの役割だ。だけど、感情労働を、セックスワーカーが無償でしているなんてことを認識すらしていない人が多いらしい。

だから、わたしは、風俗を利用する男性を恐れる。みんながみんな、そうだとは言えないし、実際のところはわからないけれど、セックス、というもっとも母性から離れた行為を要求しながら、「おかあさん」的なものを求めるグロテスクさが恐ろしい。そして、それはセックスワーカーにだけ求めるのではなくて、セックスワークをしていない女性に対しても無自覚に求めることが恐ろしい。

風俗を男同士のコミュニケーションのために利用する男性のことも恐ろしい。

わたしは、正確に言うと、セックスワーカーが恐ろしいのではなくて、性欲をお金に変換するシステムや、女の体を媒介にして男同士のコミュニケーションをとる男性や、サービスにない、感情労働を要求する男性が恐ろしいのかもしれない。


女性の労働と内心の忖度、愛と仕事の関係について

セックスワークについて相変わらず考えています。
考えすぎて、頭が痛い、きつい、しんどい、死にそう、な体調で、栄養ドリンクを飲んだり、漢方薬を飲んだり、お風呂にゆっくりつかったりしています。とにかく、しんどい作業です。眠りも浅くなりました。

それだけでなく、わたしが手探りで書いたことのひとつひとつが、セックスワーカーを傷つける可能性だってもちろんあります。その上、わたしの勘違いや、試行錯誤、を正解だと思ってしまう人だっているかもしれません。怖いです。

それなのに、なぜ、書いているかと言うと、セックスワークの、言語化のしづらさ、ということに気がついたからです。

フェミニズムの文脈で言うと、言語化しづらい問題には本質が隠れているって考え方があります。

この世界は男の言語でできています。だから、男の文脈にのった世界は言葉にしやすいです。だけど、女の世界のことは、言葉にしづらいです。女のための言葉がないからです。

女の言葉は、とかくバカにされます。論理的ではない、感情的だ、破綻しているなどと。

論理的であれ、明確であれ、というのは男の理屈です。もちろん、わたしは頭脳明晰で、理屈っぽく明確な文章を書くのが好きですが、そこからあふれていく世界こそが大事だと思っています。それは、男の言葉の文脈に乗らない言葉です。男からは反逆に見えるでしょう。理屈が通らない、理不尽に見えるかもしれません。

男の言葉を越えたところに、女の世界があります。

セックスワークについて、言葉が出しにくければ出しにくいほど、それを実感すればするほど、わたしにとって、大事な問題が、隠れているのだと確信できます。

セックスワークは、わたしがしている仕事となんにも変わらない、という結論が出ました。

それにも関わらず、わたしは相変わらず、語ること、考えることに苦労しています。言葉がうまく出ません。
セックスワーカーに対して、「これは間違っていますか?」「これは正しいですか?」「これはあなたを傷つける言葉ですか?」と常に伺いたい気持ちがあります。わたしは不安なのです。
なぜならば、わたしは無神経だからです。

女が働くこと、女が愛すること、女がセックスすること、女がセックスと交換にして何かを得ること、それは安全だったり金銭的なものだったり、感情的なものだったりしますが、これらの間には、言葉にならない感情があります。

言葉にならない感情、それはこの世界ではないことになっています。存在しないってことになっています。言葉で表現できないもの、見えないもの、聞こえないもの、触れないものは、ないってことになっています。でも、わたしは知っています。存在するってことを知っています。

その、存在しないと言うことになっている感情や感覚には、大事なことが含まれています。人間が生きる上で、大事なことが含まれています。

わたしがセックスワークについて、考えたり、語ろうとする困難さ、わたしの中で苦しみや痛みが生じる現象と、存在しないことになっている何かとは、密接な関係がある、そんな予感がします。

セックスワークが、わたしの仕事と全く同じだったら、わたしは気楽に言葉を紡ぎます。
それは例えば、以下の文章のようになるでしょう。
お客さんである生徒さんは可愛いです。困難があっても、成果が出れば頑張れます。生徒さんに愛情が持てなくても、やることさえやれば、お金がもらえ、そのことで仕事の苦痛と折り合うことができます。
できる限りのことをして、お金をもらうことは幸せです。わたしは仕事に愛情を持っています。
それは、わたしの個人的な環境で味わうことができる、労働観です。だから、それを他の人に適用できるわけではないともわかっています。
以前の職場では仕事に愛情を持つことができませんでした。それでも、お金がもらえるから働いていました。それで、完結していました。そして、その日々を送ることがいやだったからやめました。
わたしは、そんな風に語ることができます。わたしは簡単に生きています。わたしは仕事に愛を持っているときと持っていないときがありました。

セックスワークを語るときの困難さは、どこから来ているのでしょう。わたしは自分が非当事者だと思っていません。わたしはセックスワーカーではありませんが、セックスワークが存在する世界で生きているので、影響を受けています。

どうしてなんだろう?どうして、こんなにも語ることが難しいのだろう。

どうして、わたしは自分の仕事について語るように、他の人の仕事に対して疑問を持つように、自然に、セックスワークについて、疑問を持ったり、質問したり、語ったりすることが難しいと感じるのだろうか?

どんな仕事でも、契約に定められたことをすれば、お金がもらえます。そのときの内心はどうだって良いわけです。本人としては、充実感や仕事への愛情があれば、お金ももらえた上に、楽しいのだから、万々歳です。でも、そうでないときもあります。そうじゃないときの方が多いかもしれません。

わたしが仕事を頼まれるとき、相手は、わたしがどんな心構えで働いているか、どうでも良いでしょう。
わたしが仕事を頼むとき、相手がどんな心構えで働いているか、どうでも良いでしょう。

だから、このエントリで、

実際は、そうじゃない。わたしが生徒さんを愛しているように、セックスワーカーも、お客さんのことを大事に思い、尊重し、できるだけ良い関係を築きたい、って思っているんだな、って最近感じる。

こう書いていたけれど、わたしはセックスワーカーの内心を推し量るべきじゃありませんでした。

全く同じじゃないか。わたしが生徒さんを愛することと、セックスワーカーがお客さんを、広い意味で愛することと。恋はしなくても、人間として尊重する気持ちを持っているってことと同じ。

こう書いた意図は、愛、ってところが大事なんじゃなくて、お客さんを尊重する気持ちがあるのではないか、ってところを重点的に言いたかったのだけれど、これも、今は間違った考え方だと思います。
お客さんを尊重していようがしていまいが、どうでも良いからです。それは大事なことじゃないです。

もちろん、お客さんに良い気分で帰ってほしい、できることをしたい、と思って働いている人もいるでしょう。でも、そうじゃない人もいるでしょう。そうじゃないとしても、決められたサービスをこなせば、お金が発生します。だとしたら、内心、よりも、具体的に起こした行動、サービス内容、が大事になるはずです。

女性が働くとき、求められるのは業務だけじゃありません。気遣いや女らしさ、古い言葉で言えば、職場の華としての立場、理不尽でも言い返さないこと、感情を抑えること、セクハラに耐えること、契約にない雑務をこなすこと、生理が来ても、生理なんかないかのように振る舞うことが、要求されます。場合によっては、花嫁候補と呼ばれたり、恋愛の対象になったりもします。
ただ、仕事場に行くだけなのに。

女性が働くときには、内心が忖度されます。
心からもてなしているか、心からありがとうを言っているか、心から感謝しているか、心から反省しているか、心から働きたいと思っているのか。

心から働きたいと思わなければ働く資格がない、働けることを感謝しろ、と責められる女性は多いように思います。そういってくる人は、家族だったり、職場の上司だったりするでしょう。

わたしは、それをずっといやだと思っていたのに、それに逆らって生きて来たのに、いつの間にか、それを内面化し、その規範で、セックスワーカーを自分の気持ちで裁きました。
しかも、それは好意でした。好意的に思っているから、わたしにとって、納得しやすい気持ちで、働いていてほしいと願っていたから、セックスワーカーの気持ちを決めつけたのです。

わたしは、その決めつけをしたことに関して、それはしてほしくないと、教えてもらいました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。
それで、わたしは自分のしたことを振り返って、よく考えたら、自分が無神経なマジョリティとして行動したのだとわかりました。

「これが世間の見方であり、感覚なのか」と思いました。わたしは自分がマイノリティでいる場面が今まで多かったので、マジョリティの立場や考え方を良く知らなかったのです。
マジョリティとしてのわたしは、マイノリティの存在に気がついて、あれこれ考えて、ものを言いました。そして、その発言の内容について、それは言ってほしくないと言われました。拒絶されたときに、何が悪いのかもわかりませんでした。悪いことをしたの?どこが?みたいな気持ちでした。善意で相手の気持ちを読もうとしたのに、拒絶されたことにショックを受けました。
真摯に考えているのに、褒めてほしいのに、という気持ちもあったかもしれません。

わたしには何も悪意がありませんでした。それで、相手の方がおかしいのではないかとか、思ってしまう可能性のことを思いました。わたしは運がよかったと思います。自分が悪いと思えて良かったです。
悪意はなかったけれど、人を傷つけました。そして、半日考えないと、傷つけたことにすら気がつきませんでした。そして、まずかったことをした、と気づいてから、さらに半日かけて考えて、ぼんやりと、内心の忖度をしたことがまずかったのかなあ、と思いました。わたしはそれくらい鈍い。マジョリティとしての、わたしはとても鈍い、ということがわかりました。かなりはっきりとどうして、わたしの書いたことがまずかったのか、教えてもらったのにも関わらず、言葉の意味が頭に入らなかったのです。相手が、怒っている、いやな気持ちでいる、ということはぼんやりと伝わるのですが、そんなはずはない、と否定したい気持ちが勝ちそうになるのです。そして、なかったことにしようと、思いたがるのです。それが、マジョリティとしてのわたしの反射的な行動でした。

女性の労働問題が、改善しないわけです。
マジョリティの側は、言葉を受け取ることになれていないです。マイノリティの使う言葉を理解する受容体がないのです。
そして、マイノリティは言葉を剥奪されています。言葉は、マジョリティのものなのです。
論理的であれ、というルールはマジョリティが作りました。
マイノリティの苦しみは、論理的ではありません。
だから、そんなものは通用しないと退けられてしまいます。

言葉にならない言葉で、訴えることをつづけるのはしんどいことです。

だから、わたしがセックスワークのことを考えるとき、わたしはしんどくなって、眠りが浅くなって、頭痛がするのだと思います。

仕事には愛が存在します。
仕事には愛が存在しません。
労働は形だけやれば良いです。
労働は形だけやってもダメで、心がこもっていないとダメです。

どちらも同時に起こりえます。
矛盾です。
矛盾だけれど、世間はそれを言います。
女を代表とした、マイノリティだけに対して。

問題は、なぜ、マイノリティばかりが、仕事の内容だけで評価されず、心構えを含めて評価されるのか。
内心を忖度されるのが、なぜ、マイノリティばかりなのか。

わたしがセックスワークや、女性労働や差別について考えるとき、こうしたことを考えなくてはいけません。世間から見ると、マイノリティの言葉こそが、矛盾に満ちていると判断されます。本当は矛盾しているのは、世間の方なのに。

だからこそ、わたしはすっきりとしない言葉を、発していかなくてはいけないのです。すっきりしない、解決しない言葉こそが真実を反映しています。
すっきりとした、矛盾のない、論理的な言葉は、本質を取りこぼしています。
言葉にできない感情を。

問題を抱えたまま、問題を安易に解決しようとせず、見つめるのは強さです。

だから、わたしは、語りたいのです。
誰にも通じない言葉を通じるように、語るべきときに、そして、誰も望んでいない、語るべきではないときに、語りたいと思います。


娼婦・聖女・分断

(ここのエントリでは、娼婦、という言葉を使っています。それは、他の言葉が思いつかなかったからです。セックスワーカー、という意味ではなくて、違う意味なんですが、うまく説明できてません。世間一般で言う、悪い女、という意味で使いたかったのですが、適切な言葉が思いつきませんでした。すみません。娼婦もセックスワーカーも悪い、とか、良い、とか考えていません。いやな思いをさせそうで心配ですが、わたしの力量が足りません)

女は、娼婦と聖女に分断されている。一人一人を、分断する考えがある。そうして、管理しようとしている。
この女はふしだらだ、だからこの女には何をしても良い、この女は、清純であることを望む、というように。

そして、女は恐れる。
娼婦と見なされないようにしなくては。
何をされるかわからない、と。

恐怖に支配される。
後ろ指を指されないように生きなくては、と思う。

その世界は息苦しい。

人が、自分で、どんな風に生きるのかは、自分で決めるべきだ。
自分の人生だから。
なのに、それをさせない力がある。それが、分断させる考え方だ。

男は分断されていない。分断する側だ。

生身の女は、生きているから、一生聖女でいられることもないし、一生娼婦でいられることもない。
だから、その精神は、引き裂かれる。ひとりの女の内部が、聖女と娼婦に引き裂かれる。本当の自分はこうじゃないのに、と思う心を深く沈める。

性欲のある女がいる。性欲のない女もいる。同時に何人も愛する女がいる。誰のことも愛さない女もいる。
娼婦と聖女に分ける考え方で、生身の女を分けることは不可能だ。
不可能なのにそれをするということは、女を纏足にするということだ。

わたしの中には、清純な部分と、素朴な部分と、性欲に忠実な部分が同居している。
インモラルな部分と、モラルを大切にする部分が共存している。
それは、わたしを引きさかない。
引き裂くのは、わたしにこうあるべき、と望む周囲の圧力だ。

わたしは、その周囲の圧力になっているということを指摘されて、恥ずかしいと思った。わたしはそれを忌避していたのに、わたし自身が、引き裂く圧力となっていたのだ。

例えばの話を書く。

わたしはだらしない。
だから、だらしない人の味方だ、と思っていた。

だけど、そういう風に考えるのは良くなかった。
だらしない人の味方であると思うこと。じゃあ、きちんとした人に対しては、どうなのか、という問題が発生する。わたしは、人に対して、そもそも、だらしないとかきちんとしているとか、そういう視線を投げ掛けること自体慎むべきだった。
セックスワーカー以外の人に対してしないことは、セックスワーカーにしてもいけないのだった。
不公平だから。

わたしのとるべき態度は、人を分け隔てしない態度だ。
人が生きるためにしている行動をそのまま、受け入れることだ。わたしにとって、好ましいか、好ましいかは関係がない。わたしのために、人が生きているわけじゃないのだから。世界をそのまま飲み込むのだ。

わたしはだらしなかろうときちんとしていようと、関係なく、そのまま受け入れる姿勢でいるべきだった。

だらしない人ときちんとした人とで、態度を変えることは、人を分断させる考え方だ、と指摘されて、その通りだ、恥ずかしい、と思った。

女は、聖女と娼婦に分断される。男は分断されない。女は分断される。
男には権力がある。世界を設計する立場にある。女はカスタマイズされる。
男はカスタマイズされない。もてなされている。
女はもてなしの一形態として、聖女か、奔放な女を選ぶ。
どちらも自然な姿ではない。

分断される女は、生身だ。だから、はっきり、聖女にも娼婦にも分けられない。
わたしの中にはふしだらだと断罪されるだろう内面もあるし、潔癖な面もある。それを分けようとしたら分裂してしまう。苦しい事態だ。

だから、聖女なのか、娼婦なのか、分断すること自体が、人を苦しめることなのだ。

ひとりの女を、聖女だと規定するのは男にとっても、社会にとっても、当の女にとっても都合がいい。座りが良い。安定する。非難されない。女という存在を管理することができる。所有物のように。
財産のように。
富と交換するための、象徴。

分断されると、女は自由でなくなる。清楚な女ではないと見られれば、攻撃されるからだ。
分断は、女の行動を規定する。互いを監視する。好きなように振る舞えなくなる。だれかの、架空のまなざしによって、女は常に裁かれる。その裁きの目を自分自身に育ててしまう。いつも、自分で自分を裁くことも起きる。人を裁くことが通常化するから、人から、裁かれることを過度に恐れてしまう。自分らしく生きられなくなる。そして、心が窒息する。本当は、人から裁かれても自由に生きられれば良いのだけれど。

女を聖女と娼婦に分けるのは、それで心が安定する人がいるからだ。しかし、分けられた方はたまったものじゃない。もともとの性質をねじ曲げられることだからだ。それなのに、そんなことを強制できるのは、それは、人ごとだからだ。人の痛みを真摯に考えるならば、そんなことはできないはずだ。強制しているのに、さも、自主性に任せている、という顔をする人は多くて、いや、そんな顔さえしなくて、無関係さを装っている。女が自分で自縄自縛になっているとでも言いたげな人はいる。そんな女を愚かだと言う人すらいる。とても卑怯だと感じる。

恥ずかしいことだけれど、わたしは分断に加担した。

きちんとした人、きちんとしていない人、後ろ指を指される人、指されない人、誇りを持って働いている人、忸怩たる思いを抱えながら働いている人、事情がある人、ないひとを分けていた。そういう部分があった。

そんなつもりではなかったけれど。してしまった。

誇り高く生きていても、忸怩たる思いを抱えながら生きている人でも、だらしなく生きている人でも、同じように尊い。尊い、というのは、命だから、差を付けられない、ということだ。

個人的に付き合うのならば、こういう人が良い、というのは当然わたしにもある。だけど、命の優劣を付けるのは絶対に許されない。
労働について、その人がどういう立ち位置でいるのか、なぜ、その職業を選んだのか、その職業の貴賎を裁き、選んだこと自体を責め、内面を詮索することは、命に対して優劣を付けることと同じことだ。人は生きるために、お金のために、働くのだから。

職業に対して、どんな態度でいるかどうか、ジャッジすること、この態度で向かっているのならば、その職業に就くことを許可する、という気持ちを外に出すのは、人を傷つけることだ。

わたしにはそういう視点があった。わたしの中に内面化されていた価値観があった。わたしは恥ずかしい。改めたい。教えてくれた人には感謝したい。

例えば、セックスワークをしている人に対して、聖女のようだ、と言う人がいる。聖女と言っても、娼婦と言っても、生身の人間扱いしていないことでは同じだ。尊敬で見ても、軽蔑で見ても、それは裏表で、人間扱いしていない、という意味では同じだ。

この問題は、セックスワーカーに限った問題じゃない。

女が働くとき、どんな職業でも、聖女なのか、娼婦なのか、というジャッジはされる。
その上で、周囲は態度を変える。聖女を期待され、娼婦の態度を求められる。

貞淑な女、貞操観念のある女、ふしだらではない女、セックスに対して臆病な女、は良いとされていて、奔放な女、は軽んじられる。何をしても良いと思われ、加害をされる。迫害をされる。
奔放な女を利用したいと願っている立場もある。奔放な女は忌避され、欲望される。
奔放な女は自分のために生きているのに、それさえ、外部から規定されてしまうのだ。

その矛盾は苦しい。

ひとりの女の中にはいろんな人格がいる。貞淑で過ごせる時期もあるだろう。そうでないときもあるだろう。でも、その人は、ずっとその人で、全然変わりがない。その人の価値も変わらない。生きているから、人格は変動する。欲望も変動する。抑制も変動する。

セックスワーカーが、きちんとしているかどうか、きちんとしていないかどうか、事情があって働いているのかどうか、誇りを持って働いているのかどうか、そのことには関心を持つべきじゃない。そのことで、態度を変えるべきじゃない。その人が、自分で働きやすい考え方を持てたのは、とても素晴らしいし、尊敬するべきことだ。尊重するべきことだ。だからといって、そうじゃない人のことを悪くいう理由にも、どちらかに肩入れする理由にもならない。

なぜならば、他の職業に就いている人に対して、きちんとしているか、きちんとしてないのか、事情があって働いてるのかどうか、誇りを持って働いているのかどうかは、問題にされないからだ。
このことを指摘してもらって、わたしは助かった。

わたしは、だらしない。だから、だらしない人の味方でいたいと思っていた。だから、肩入れした。それは、わたしの勝手な欲望だ。だけど、それを人に強制するのは間違いだ。それは裁くことで、わたしの主旨に反している。わたしの主旨は、フラットに考えることだ。人を裁かないでいたいという願いがある。

だから、わたしはそれをやめたい。

良い風俗嬢、悪い風俗嬢、を分けること。
貞淑な女、奔放な女、を分けること。
例えば、良い風俗嬢の中には聖女のような女がいるという台詞を吐くこと。きっと理由があって、働かざるを得ないのだろうと、思うこと。

そう思うこと自体が、迷惑をかけることになる。女は女だ。人間だ。良いところも悪いところもある。

理由がなくても、誇りがなくても、適性がなくても、人は働く。

セックスワーカーだって同じだ。当たり前だった。それに気づかなかった。無意識は怖い。

わたしはお金のために働く。理由がなくても、誇りがあってもなくても。やりがいがあれば、働きやすいし、楽しい。でも、やりがいがなくても、働く。お金がほしいからだ。わたしはお金が好きだ。お金は自分の自由と尊厳を保障する。だから、働くことが好きだ。

他の職業についてなら、当たり前に飲み込めることなのに、セックスワーカーについては、わたしはよけいなことを考えてしまいがちだ。
当たり前だけれど、セックスワークをする人が、その仕事を選んだとき、理由がなくても、理由があっても、誇りがあっても、誇りがなくても、嫌々でも、楽しんでいても、わたしには関係がない。わたしは自分に関係がないことで、セックスワーカーに対する視線を変えていた。指摘されて気がついた。恥ずかしかった。

お金のために働くこと。シンプルに考えればそれだけなのだ。
職業に貴賤はない。それがルールだ。
それだけの話だ。

きちんとした人であろうとだらしない人であろうと、生きるためにお金を稼ぐ。そこには優劣がない。誰も裁けない。
だれかがどの職業を選んだとしても、非難できる人はいない。
職業選択の自由が保障されているからだ。
それがルールだ。

わたしは女を聖女と娼婦とに分けようとする視線によって、女が分断されることをいやだと思っている。なのに、心の中に、内面化された、分断させる価値観が潜んでいた。

セックスワーカー以外の仕事についてだったら、働いている人が、きちんとしていようが、そうでなかろうが、気にしないのに、セックスワーカーに対しては、動揺してしまって、その姿勢が保てなくなる。
どうしてなんだろう?
セックスワークには、わたしを動揺させる部分がある。

働くこと、お金を稼ぐこと、自分が女であること。
裁かれること、裁くこと。期待される貞淑な女のイメージを壊さないでいること。奔放でいること。そうでないこと。両立すること。自由になること。

わたしはそれをやっつけたい。だから、セックスワークについて、考えているんだなと思う。


わたしのセックス、労働観、そしてセックスワークについてのエントリのまとめ

わたしは行きずりの人とセックスしたことがあります。
それで、わたしは自尊心と、男性に対する信頼感を取り戻しました。その人は、わたしにいやなことをせず、希望を尊重してくれました。何の関係のない人間だから、ひどいことだってできたのに。
でも、それをしないでいてくれた、ってことに自尊心がボロボロだったわたしは、救いを感じました。世の中には普通の男がいるってことがわかったこと。

だから、それはビッチ療法だったのだと思います。自分の彼氏だったり、付き合う、という形にとらわれなくても、お互いを尊重するセックス、って存在するんだな、ってわかりました。
それがわかったとき、わたしはとても救われました。
いやなことをひとつもしなかったその人のことを考えると、懐かしいです。
良い時間を過ごせた、ってことが、良かったです。わたしはあのとき、切羽詰まっていて、真剣でした。真剣に、セックスと向き合っていました。
誰のためでもなく生きる、ってことは、だれかが設定した倫理観から外れることもある、ってことです。そのせいで、未来のチャンスを逃すこともあるのかもしれないです。
だけど、生き延びるためにやったすべてのことがわたしには愛おしい。

田房永子さんの

この本は彼氏とのもめ事のきっかけになりました。
もめ事を通して、お互いのセックス観、道徳に関して話せたのは良かったです。

雨宮まみさんの

この本を読んだのは助けになりました。
自分が自分らしく生きるのはどういうことなのか、自分を生きるためにもがくことはどういうことなのかわかったのがよかったです。働くってどういうことなのか。

毎日彼とは議論して、議論は日に日に深まっていきました。
性欲と、風俗。
彼は男の付き合いがあるため、風俗に言ったことがある男は九割を超えるのではないか、と言いました。風俗が苦手な男も連れて行かれると。
それは問題だとわたしは思いました。

彼の成長は目覚ましく、最初、エロい人が風俗をやるのだ、と言っていたのが、最後には風俗で働くとどのくらい稼げるのか一緒に試算し、わたしを性病検査に誘うまでになりました。
わたしも成長した部分があって、セックスワークについて、考えがまとまって来たってのが大きいです。

最初セックスワーカーを弱者だと仮定して説明した方が、わかりやすく、状況を整理できるんじゃないかなあという部分もあったのだけど、そうじゃない説明の方法がある、ってのが腑に落ちました。普通に働くことと同じなんだ、ってことです。当たり前のことに気づくのに時間がかかりました。セックスワークは、セーフティネットワークの一面を持っているけれども、必ずしもそうじゃないよね、ってのが、今はわかる。
セックスワークセーフティネットワークだから、それを否定したら、弱者に死ね、と言うことと同じだと書いたのだけど、それは間違いだった。セックスワークセーフティネットワークの代わりになっている、という現状があったとしても、それはいびつなことだしね。

セックスワーカーは、労働者だから、労働の場を奪ったら、死ね、と言っているのと同じだ、ってわたしは書けば良かった。

セックスワーカーは弱者ではないし、もちろん弱者の場合もある、それは他の誰でも同じだ、隔てはないってところにたどり着いたのは、成果だったかも。
もちろん、働いている人にとってはそんなの当たり前だよ、って思うかもしれないけれど。
セックスワークの仕事がなくなると死活問題になるのは、セックスワーカーが弱者だからってわけじゃなくて、わたしだって、仕事がなくなれば死活問題になるのと同じことなんだな、ってしみじみわかりました。
わたしは手探りで考えているから、間違っていることも書いているかもしれない。だけど、考えたいと思っています。

セックスワークは、自分に関係あることで、女性問題が凝縮されているから、わたしは興味があるんだと思った。
女性の労働問題、女性の差別問題、セクハラ問題、そういうことが凝縮されている。
セクハラって、無料で、尊厳を盗んでいく行為でもあるし、自分の権力を確認する行為でもある。これって、世界にありふれていることだ。セックスワーカーを蔑む世界ってのは、セクハラも女性差別も防げない世界ってわけです。女性嫌悪は、そのまま、女性労働ダンピングにもつながる。セックスワークは、結局、女性の労働問題とも密接に関係がある。
だから、セックスワークをしていようとしていまいと、セックスワークは自分の問題なのだ。

わたしがそんなことを考えても何の足しにもならないとは思うのだけど、たとえば、セクハラって、権力を示したい、自分で権力があることを確認するために、権力のないひとを虐げる行為です。

そういうのが、セックスワークに充満しているんじゃないかって、思いました。
たとえば、ちんこしごいて、出す、ってことがお金の対価だというサービスの場合があるのに、それ以外に、セックスワーカーの気持ちを傷つけるようなことが起きたり、射精以外の、つまり業務以外のことや、承認欲求を満たすこととか、求められることがあるわけでしょう。本強とか。良く聞くから。セックスワーカーは本当に、そういう戦いの最前線にたってるわけです。
そういうの、今まで、わたしは怖くて、考える時間が少なかったなあと思ったのです。
怖いってのは、自分の知らない世界だから、うかつなことを言って、ただでさえ、いやな思いをする回数が多い人に、さらに、いやな思いをさせるのはいやだなあと思っていました。だって、セックスワーカーの人が、わたしになにかいやなことしたことないから、だから、わたしの方もいやなことをしたくなかったです。

わからなくて、わかりたくて、これからも試行錯誤すると思う。

わたしはセックスする。お金のやり取りがあってもなくても。
わたしは仕事をする。お金のやり取りがある。でも、その中に愛が生まれるときがある。
セックスワークをしている人だってそれと同じ。
それが同時に起きているから、わたしは混乱していたのだけれど。

セックスワークには、セックスにお金が介在する。
それは仕事だ。わたしは、以前、セックスワーカーはお客さんのことを嫌いなんじゃないかと勝手に思っていた。それは、わたしが男性不信で、ミサンドリーだって部分を投影していたからだ。お客さんにもセックスワーカーにも失礼なことだった。

実際は、そうじゃない。わたしが生徒さんを愛しているように、セックスワーカーも、お客さんのことを大事に思い、尊重し、できるだけ良い関係を築きたい、って思っているんだな、って最近感じる。
全く同じじゃないか。わたしが生徒さんを愛することと、セックスワーカーがお客さんを、広い意味で愛することと。恋はしなくても、人間として尊重する気持ちを持っているってことと同じ。

(愛があるんじゃないかと思ったのはわたしの思い込みで、実際にはない場合もあるだろうし、セックスワーカーの内心を決めつけたのは今は間違っていると考えています。誰でも業務を遂行してお金をもらうのだから、愛があろうとなかろうと関係ないし、他人がどうこういうことは許されないと今は考えています。)

(労働者には、お金をもらうことで、業務に対する内心を割りきる自由を得るのだと今は考えています)

以下のエントリで発見したことは、「引け目」がすごく問題になってる、ってことだった。男も女も、セックスワーカーに引け目を感じているみたいだ。女は、セックスワーカーじゃない自分が、セックスワークについて語っていいのか、引け目を感じているし、男は、セックスワーカーのサービスを買う自分に引け目を感じている。

引け目なんて感じる必要ない、って思う。

わたしは事務の仕事を断った。向いてないしやりたくなかったからだ。でも、事務の仕事の人を軽んじているわけでもないし、弱者だと思ってない。
それと同じように、わたしはたまたま、セックスワークを選ばなかった。セックスワーカーを軽んじてもないし、弱者だとも思わない。

全く同じ話だ。
事務の仕事をやりがいがあってやる人もいるし、そうじゃない人もいる。お金のために働いている人もいるだろう。
セックスワークだって、お金のために働く人もいるだろうし、やりがいを感じている人もいるだろう。
いろんな人がいる。事務の人にいろんな人がいるのと同じだ。営業の人にいろんな人がいるのも、事情があるのも同じだ。
だから、引け目なんて感じる必要はない。

引け目が、セックスワーカーを理解する妨げになっているし、男性が、セックスワーカーのサービスを気持ちよく受けることの妨げになっていると思った。
お金で買うことの引け目、愛がないと信じている感じ、そういうのが、居心地の良さを阻んでいると思った。本当は、仕事でサービスをする人は、お客さんになんらかの愛情を抱いている。それは、恋でもないし特別扱いでもない、ただ、自分のサービスをよりよく享受してほしいと言う願いだ。より良い人間になることの手伝いをしたいと言う願いだ。少なくともわたしにはそれがある。

それと、セックスワーカーの人には似た部分があるんじゃないか、と思った。これはもちろん推測なんだけれど、あながち間違っていないんじゃないかと思った。

引け目を感じる余裕もない。
セックスワークに行かなくても、働かなくても、セックスワークの中に潜む問題は、わたしの問題でもある。
女たちの問題は、男たちの問題でもある。


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何か文章を書きたくて

何か文章を書きたい。テーマは何もないのだけれど。

書くことで不安になった。考えていることが正しいのか、そうじゃないのか、間違っているのか、だれかを傷つけるのか、そういうことが心配になった。急に。

良い気になりすぎていたのじゃないか、自分のことしか考えていなかったのではないか、心配だ。

今日はジムにも行けなかったし、一日を無為に過ごしてしまった。眠ったり、休んだりしていれば良いのに、一日ネットをしてしまった。

そういう、自己嫌悪がある。体調も悪い、頭痛もするし、だるい。料理も作りたくない。ほとんど完成しているから温めるだけなのだけれど。

少し眠りたい。疲れてしまった。
しんどい。考えることに疲れた。

いろいろ考えた。人と暮らすこと、新しい生活。新しい人間関係、新しい仕事のプレッシャー。

仕事で認められつつある。生徒さんにも頼られつつある。新しいことがたくさんあるし、新しい責任も増えてきた。勉強もどんどんしていかないといけない。何もかもスピードが速い。

なにも悪いことはしていないのに、罪悪感がある。
だれかに謝りたい。わたしは何か、人をいやな気分にさせているんじゃないだろうか。
心配でたまらない。

人の役に立ちたい。人を良い気分にしたい。でも、わたしの気分が悪い。コントロールできていない感じ。

でも、前より進歩したのは、こういうとき、ネットで何か買っていたこと。
それがないのが、よかった。


彼氏の良いところ

彼氏の良いところ

バレンタインデーに、ピンクのチューリップを買って来てくれた。すごく嬉しかった。クリスマスのときにも小さな花束をくれた。

お皿を洗ってくれる。障害のことを調べて、自分なりに考えて受け止めてくれる。その上で私のことを好きだと言ってくれる。

苦手なことを変わってくれる。でも、甘やかすこともしない。話を聞いてくれるし、自分の価値観と合わないことも、反論しないで、まずは聞いてくれる。ばかばかしいとか、つまらないとか、一度も言ったことがない。

体がスマートだ。運動するのが好きなところ。清潔なところ。綺麗好きなところ。爪が短いところ。めんどくさがりじゃないところ。

善悪の価値観があって、社会的に発達していて、感情指数が高いところ。わたしの気持ちのアップダウンに気づいてくれるけれど、わたしの機嫌が悪いことには気づかないでいてくれるところ。
常識を教えてくれるところ。身だしなみがいつもいいところ。わたしの身だしなみが変なところを優しく教えてくれるところ。

わたしのブログに興味を持って、ショックを受けた後、立ち直ってくれたこと。
わたしの自由を尊重してくれること。

周りの意見に惑わされないところ。わたしが常識的に変だったり、常識で言うと女らしくなかったりしても、こうしろとか一度も言わないでいるところ。世間に合わせろと言わないところ。頑張ってお皿を洗うと褒めてくれるところ。何かしたら、必ずありがとうと言ってくれるところ。