グロテスクに産後クライシスを表現すると

子供を出産するというのは簡単なことではない。
想像してほしいのだけど、一年近く育てた腫瘍を摘出して、三キロの腫瘍と七キロの腹水を取ってから、さあ、次の日から赤ちゃんの世話をしてくださいと言われているようなもの。臓器を一つ摘出したのと同じダメージがあるのに、さあ「あなたは、母親です」と言われて「愛があるのが当たり前」と言われる。

おなかを手のひらサイズに切り開いて、びしっと傷を引っ張って、手を肘まで突っ込んで、ぐりぐり手を動かして、赤ちゃんの肩をつかんで、えぐりだす。それが出産だった。そのあと、胎盤を引っ張りながらぶちぶちはさみとメスで切るのが痛くて、そして、ポンプみたいなので血液と羊水を傷口から取ってから、下からも同じようにぎゅぽぎゅぽ液体を出した。

臓器を一つ取り出して、夜の八時に手術が終わって、次の日の昼のは赤ちゃんの世話をする。
想像してほしいけど、癌だったら大事にしてねと言われるところ。ほかの病気でもおなか切ったらしばらく寝られるでしょう。
でも、動いたほうが回復が早いと言われて動かないといけない。授乳に20分、おむつ替え、げっぷ、泣いたらあやす。それを一時間ごとにだから、授乳して抱っこしてたら次の授乳が始まったという感じ。それが新生児。十分隙間時間があったらいいようなもの。

五か月はどうかというと、三時間ごとに二十分の授乳だからその間には、二時間四十分しかない。その二時間四十分には「遊ぶ」「げっぷ」「おむつ」「記録」「哺乳瓶管理」「掃除」「片付け」「洗濯」「料理」「皿洗い」などなどある。
もちろん、暇だったら、赤ちゃんは泣き叫ぶ。楽しかったらにっこり笑ってくれて、遊んでいるのも楽しいけど、自分を無にしないと、自分が飽きてしまうこともある。
だから、飽きないために、自作のおもちゃを作って、試して、喜んでくれたらうれしいということを報酬にしてみたりして。
手作りおもちゃは愛のためにするんじゃなくて、自分が赤ちゃんと遊ぶことを少しでも楽しめるようにするためだ。
ユーザーによるフィードバックがあるんだと思うとちょっと仕事気分になるから気晴らしになる。
思い付きを試すことができると、まだわたし、人間としての尊厳を保っているかなって思える。

子供というのは世話をしないと、そのかわいさが分からない。
だから「何かすることがあったら言ってね、やるから」という夫は全然いい夫ではない。
言わないと動かない夫はクソの役にも立たない。文字通り。
自分のクソを拭けるのだったら、赤ん坊のお尻だって拭ける。赤ん坊の尻を拭けないなら、自分の尻も拭けないはず。
妻は夫のしりぬぐいしてやる存在でもなければ役割でもない。教育係でもなければ主導権を持つ属性でもない。
主導権を握るしかない母親がいたら主導権をいったんはぎ取って休ませるべきだ。
その後、休養を十分とってから、その家庭の分担を話し合えばいいが、疲れているときには無理だ。
子供が生まれる前と同じ生活をしているほうは、泥棒をしている。相手の時間を盗んでいる。

気が付いて、意識を向けたら何でもできるはずなのにそれをしないんだから、妻に恨まれるのは当然。
意識を向け続けていないと子供が死ぬという切迫感に突き動かされているのを「お母さんだもんね」と片付けられ、たまにやる夫が「素晴らしいお父さん」とほめたたえられているのを見ていれば、ぐつぐつ煮えたぎる感情が生まれる。

あの人はいい人なの、と言われても、実際に、子供が生まれる前と同じ生活を維持しているならそいつはいいやつではない。
妻が死んでもかまわないという行動だ。そう思っていないとしても、実際にしていることは「妻が死んでもいい」と思っている行動だから、いい奴なんかじゃない。
臓器を一つとって、睡眠時間が良くて二時間みたいな妻を放置しておいて「やれることがあったら言ってね」と言っている奴はいい奴なんかじゃない。

わたしなら、そいつを刺し殺す計画を立てる。泣き叫んで、夫に詰め寄る。私はおそらく死ぬかもしれないがお前はそれでいいのかと。

それが正常だと思う。

でも、そうしないで、怒りもせず、くたくたになりつつ、切れないで、それが当たり前だと思っているとすれば、もうそれは正気を失っていて、誰かの助けを必要としている。そういう家庭がいたら、放っておかないで、口を出したい。
文句ひとつこぼさず粛々と家事育児仕事をこなす女性がいたら、体が丈夫なのかもしれないが、わたしはその人が助けを求められないほど判断力が弱っているんだと思う。内臓一つとって今まで通りに生活するどころか、寝ないで誰かの世話をする人がいたらおかしい、大事にしろというじゃないか。母親にだってそうするべきだ。

母親の育児が偏ることがあるかもしれない。それは、子供と母親に接している人間が少なすぎるからだ。誰かが偏っていても、大勢が関わっていたら、偏りは小さくなるはず。そういう風に考えるのが行政。
保育や教育が家庭ごとにあまりにもばらついていたら、その子供に不利益があるから、均等にしようとするのが政治。
大勢の人間が関わったうえで、選択肢を提示しなければ、母親は寄る辺なく、何かに頼ってしまう。それが夫じゃない場合もある。夫じゃなくて、マルチや、カルトかもしれないし、自然食品かもしれない。話を聞いてくれる人がいなければそうなる。
今まで通りの生活をしようとしたら、家庭は崩壊する。夫婦仲も消滅する。

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