買ってはいけないと言われていた服を大人だから買った

ふわふわのシャギーのセーターと、やはりふわふわのワンピを買った。
実家では、自分の好きな服を買ってもけなされ、返して来いと言われていたので、おしゃれをするのが怖かった。
ふわふわのニットなんて、わたしには似合わないと思い込んでいた。

一緒に大学生活を送った友達は、ずっと渋谷で買い物をしよう、これも似合うよ、とかわいい服を勧めてくれたのに、わたしは「怖い」と言って断っていた。
それほど、わたしの心の中は母親に占められていた。

子供を産んで、わたしの親は、本当にひどいことをわたしにしていたのだとわかった。
柔らかくふわふわといい匂いのする赤ちゃんが、最近はよく笑う。
手をつないで、歌を歌うだけで喜んで遊んでくれる。散歩にも連れていく。きれいな服を着せる。
こんなに美しい生き物に、ひどいことをできたあの人たちはやはり異常者だった。それがよくわかった。
子供を産むと親の気持ちがわかるというが、わたしには余計わからなくなった。
産む前のほうが、「わたしにはわからない事情があったのだろう」と思えた。
実際に子育てをして、彼らの悪質さが、際立つ。どうしたって、この弱い生き物に、あれができることが理解できない。

ボロボロの服は、自尊心を削られた。
どう考えても、貧乏ではないのに、誰も着ていないような、時代遅れの服はつらかった。みじめだった。

ふわふわした服は、汚れる、誰が洗うんだ、似合わない、ファッションショーに行くわけでもあるまいし、色気づきやがって、など罵倒された。

わたしは、それが似合わないものだと思っていた。
時間は二度と戻らない。そのことを思うと、心がびゅっと穴が開いたような気がする。

それでも、わたしはこわごわと、ふわふわした服を買った。そんなに高価でもない。でも、わたしはとても幸せだ。

前述の友達はわたしに、「お母さんに子供を会わせないなんてかわいそう」と言った。
「かわいそうなのはわたしだ。会わせたいような親じゃないんだから、自業自得だ」と言い返せた。
でも、わたしは、やっぱりつらくなって、パニックになって、家で暴れた。

自分の人生を取り戻すことなんてできないかもしれない。
失った時間は絶対に帰ってこない。
今、あのとき着たかった服を着ても、気持ちは成仏しない。
あの時は着たかった事実は変わらない。その気持ちも消えない。

それでも、わたしは、服を買って、大事に着る。
わたしの傷は今も生々しい。わたしの青春も、一番柔らかな感受性を持っていたころ、みじめだった事実も、一番きれいだったころ、みっともない姿でいたことも、消えない。癒えない。

そんなわたしが、母に会うことはできない。
おしゃれは無価値なもの、おしゃれをするわたしをののしり、みっともない生き物だと思い込ませたあの人のそばにはいきたくない。

今でも悲しい。
ずっと悲しい。
悲しくて気が狂いそうな気持を、忘れようとしても、忘れることはできない。
波が押し寄せて、流されまいと、生活に縋り付いているだけ。錨のように、今持っている美しいものがわたしにはあるけれど、鏡に映るわたしは、中年で、フェイスラインも、体のラインも崩れている。
あの頃、わたしは美しくありたかった。きれいな、かわいい、気に入った服を着たかった。

わたしは、爪を塗る。朝起きたら、化粧をする。取り戻したいから。何をかわからない。
自己決定権のようなものかと思う。
でも、取り戻せない。むなしさに胸がかきむしられる。
それでも、続けるしかない。
わたしがわたしであるという戦いのために。

苦しく、悔しく、みじめな戦いだ。
絶対に取り戻せないものに抗って、頭の中の記憶はいつでも無差別に襲う。
そのたびに、わたしは狂う。

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