性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで

まず、言いたいことは、性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで、話したいと願ったときか、もしくは、治療上必要な時、安全な場面で、本人が納得したうえでということです。

もしも、性暴力被害者ではない人が、性暴力について語るならば、そのひどい実態はすでに語られたものを調べて知るべきで、被害者に語ってくれと呼びかけるべきじゃないです。それは、それ自体がすでに暴力です。
ほかにも、いろいろな側面で語ることができますから、性暴力被害を防ぐために、男性ができることを話し合うとか、もし、加害を見つけたらどういって阻止するか、男性同士の意識改革をどう進めるかとか、そういうトピックスを選んで話してほしいです。
そういう関わり方ができるはずです。模索してほしいです。

ツイッターの、狭い範囲のことですが、性被害について、カジュアルに語ろうという動きがあるようです。
それは、性暴力被害者、当事者からあったわけじゃなくて、ある男性が言い始めたようです。

わたしは、そのツイート群を見ているうちに、だんだん具合が悪くなってきました。
最初は気づかなかったのですけれど、夜にひどいフラッシュバックが起きました。

語り合おう、と言われると、自動的に、「ああいうこともあった」「こういうこともあった」「もし話すならば、こういうことを話すのだろうか」「ほかの人はこういことを経験したのか」そういうことを想起します。

自分で、よし、考えようと決意して考えるわけじゃなくて、自動的に頭の中を映像や音や生々しい感触とともに、どんどん思い出していきます。そうすると、いつの間にか、感情の渦が巻き込まれます。

この、フェミニズムの真ん中という言葉がとても大事なことです。
性暴力をなくそう、そのために男性に関心を持ってもらう……。
このことは全然間違いじゃないです。
だって、性暴力加害者の99.7%は男性だから、そもそも、男性の問題です。
わたしは、被害者ですが、お金を出して本を買って読んで言葉を得て、こういう風に時間や感情を使って、文章を書いて、人に伝えようとしています。
でも、加害者の性別の人たちは、別にお金を出して勉強もしないし、知ろうとしないし、無関心です。
そして、女の人が言っても「嘘」「おおげさ」「盛っている」と思っている男性が多いです。
だから、男性が声を出して「語ろう!」というと、やはり、厳しい批判を浴びることにはなります。だって、本来は男性が負担すべき事柄なのに、被害者が勉強して語ってきたことを、なかったことのように扱って、男性が言い始めて、ようやく「そんなひどいのか」ってわかってもらうなんて、わたしの気持ちとしては、不条理を感じます。

性暴力加害者の99.7%が男性なのに「男が性暴力を振るう」という表現を使うと「男という主語が大きい」「犯罪を犯さない男もいる」と言われて非難されてきました。
だから、いちいち「制度上の男」という言い方をして、但し書きをつけて、注意しながら書いてきました。
でも、同じことを男性がすると、ほめられ、多少の言い方は見過ごされ、そして、雑に性被害について語り、自分の被害でもないのに、他人の被害を集めて、男性同士で話し合うっていう状況です。

わたしが言いたいのは、被害者は、それに協力する必要がないということです。
わたしは、男性同士が話し合うことについて、邪魔しません。
でも、性被害について、新たに、被害者に語ろうと呼びかけることはやめてほしいと思います。
すでに、いろいろな人が、わたしを含めて、語ってきました。
ネット上でも、書籍でも、性暴力についてたくさんの人が語っています。

勇気があるとか尊敬するとか言われたくて書いているわけじゃなくて、身を切るように、自分がこういう目に遭ったということをなかったことにしたくない一心で、書いてきたわけです。
人に「語ろう」と労力を再び差し出させるようなことをするのは、非常に権力的な行為です。
自分が労力を割こうとするのではなくて、他人の労力を借りるということに、すでに暴力性が存在しています。
また、性被害を思い出させることについて、配慮が欠けています。
クローズな、安全な場所をつくることは、最低限必要です。

男性が、興味を持ったことをありがたいと思う人がいるのは、それはそれで当然だと思いますが、批判が生じるのが当たり前だということも、またわかってほしいと思います。
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