なぜ勉強するかは、勉強してみてやっとわかる

勉強をしなくてもいい理由はたくさん見つかる。
勉強が苦手で、立派な人はたくさんいる。
中卒で、働いている人もたくさんいる。
読み書きそろばんができていたら、ほかは必要ない。

保護者が学校に行ってほしい、勉強以外の理由は、
親自身が教えるよりも楽
子供を預かってもらえる
集団生活を覚えてくれる
世の中の流れに逆らわないでもらうと楽

ということが多いと思う。

読書も、どうして読書したほうがいいのか、ということを説明するのは難しい。
読んでみないと、読書の良さはわからない、読んだらその人なりにわかる、としかいいようがない。

昔から、学校のような制度で、子供を学ばせることは多かった。
子供は、読み書きや計算を学び、それによって、よりいい仕事に就けた。
今では、高卒になっても、いい仕事に就ける、というよりは、必須条件みたいになっている。
高校で習うような、生物や化学、数学が実生活で役に立つとは言えない。
もちろん、実生活に当てはめて、楽しむことはできるけれど。

物理法則は実生活の様々な場面で観測することができるし、化学の知識があれば、いろいろなものの素材を理解することができる。

でも、それが役に立つということなのかというと、別にそれが本質ではない。

学校で、今の普通科のカリキュラムではなくて、たとえば、登山に関する知識や技術を三年間みっちり教え込む過程があったとしたら、今より全員が履修するのは難しいだろうなと思う。脱落する人が多いだろう。
何を言いたいかというと、学校の勉強というのは、比較的、誰にでもできるものを選んでいるということだ。
お金持ちの家庭の子供のほうが、成績が良い、というのは、つまり、学力とは、お金や時間の余裕によって生まれるということだ。
それは、その子供本人の資質というよりも、環境によって、成績が変動するということを示唆している。
逆に言えば、お金などの余裕があれば、成績を上げることは、可能だということ。誰にでも、成績を上げるチャンスがあるということ。
だから、国というものは、その差を小さくするべく、子供の教育にお金をかけるのだ。

カリキュラムは不変ではない。生物に関しては、二十年前の教科書と内容が全く違う。
ちゃんと、科学の進歩に合わせて変わっている。だからといって、それ以前に勉強した人たちの努力が無駄になるかというとそうではない。それ以前に勉強した人たちは、そのころ学んだ知識を使って、新しい知識にアップデートすることができる。そういう能力を「勉強」によって培ったはずだ。

中学生が、五教科をまんべんなく学ぶことを、むだだと思う人もいるだろうけれど、その時に向いていることが、長い人生の間ずっと向いているとは限らない。だから、方向転換したいときに、最低限の知識を身につけさせておくことが、ゆくゆく、その人の自由や幸福につながる。
子供のころ、ケーキ屋さんになりたいと思っていても、大人になったら、看護士になりたいと思うことは大いにある。
そういう時、中学生から一切数学や理科をやっていなかったら、相当受験が厳しくなる。

中学生を教えているとわかるけれど、中学生は子供だ。
身の回りのことがようやくできるようになったくらい。自分の意思を伝えたり、自分なりに将来のことを考えられるようになったり、世の中のことを、おずおずと知ろうとしたりする。
身近にいたら、過剰に「これもできるだろう」と言えなくなる。

学校教育は効率が悪い、質が悪い、という人がいるのは知っている。たぶん、反復練習や、レベルの違う子供をいっぺんに教えることについて、言っている人が多いと思う。
でも、たいていの子供に、反復練習は必要だ。漢字や、英単語ということだけじゃなくて、例えば数学についても、計算の仕方を教えるためには、やり方を言っただけでは、できるようにならない。本人が「わかっている。もう、計算練習は必要ない」と言っていても、答え合わせをしたら間違っていることも多い。そして、それは「やり方を教える」ことじゃなくて、反復練習で解決する場合もある。

学校が、すべてにおいて優れているとは思わない。机に全員が向かい、同じ方向を向き、同じ年齢で固められていて、長時間座っていることは、異様だと思う。学校という制度が、軍隊から来ているので、なおさら違和感がある。嫌だ、とも思う。

でも、その一方、勉強をしようとしたとき、たいていの人が、本を手に入れて、それを読んだり、机に向かって、ノートを作ったり、というような「勉強の作法」を知っているというのは、やっぱり教育の賜物だ。

不登校になったら終わりなんて、そんなことを言いたいわけじゃない。だけど、学校というものや、その制度は、とても強固だ。
不登校になったとき「家庭の余裕のようなもの」、金銭面に限ったことじゃなくて、保護者の心の余裕や信念みたいなものが、教育に差をつける。

学校というものは、世の中に強固に埋め込まれている。
だから、もし、不登校になるとしたら、本人や、保護者が、「行かない」ということを決めるプロセスがとても大切になる。
保護者は、教育の機会を与える義務を果たさないといけない。
そして、子供と保護者には、力の差がある。

勉強をする前に、それが何の役に立つのか、わからない。なくても、生きていける。困らない。
でも、勉強をしてみないと、なぜ勉強をするのか、答えは見つからない。
就職に有利になるため、というのは置いておいて。
知識があれば、例えば、騙されたときに気が付きやすくなる、とかもあるけど。
生きてみないと、なぜ生きるのかもわからないよね。
理不尽だけど。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください