障碍者の親と当事者の軋轢

一年前、モビゾウさんともめたことがあった。

発達障害は楽しいこともある……
上記の記事を書いた。
モビゾウさんのツイートを一番上に張っていたが、モビゾウさんからリプライが来て削除を求められた。
なんで削除しないといけないのかさっぱりわからなかったが、ひどいコメントがいっぱいついた。
削除してからも、モビゾウさんとフォロワー関係の人同士がリプライを送り合ってわたしの悪口を書いていた。
「削除されたみたいですね」とわたしがわざわざ削除したのに、自然現象みたいに書かれた。

今読み直しているとこの記事に悪いところなんてない。
この問題のコアは、「親が障碍者を育てる大変さ」と「当事者の大変さ」を書いていたところに、親御さんのほうから「こっちの大変さも考えてよ!」と言ってきたことにある。

でも、当事者に「あなたも育てにくかったはずだから親のことを言うなんて」というのは、暴力だ。

障害があってたいへんだから、支援がある。
当事者のための支援だ。親が大変なら親のための支援もいろいろある。

障害の診断をつけるということは支援に結びつくために必要であって、支援しないほうを選ぶのなら、そもそも診断を受ける必要もない。それならそれでいい。障害があっても健常者のように育てるという方針なら。

でも、いちいち「支援を受け入れることに決めました」と悲壮な風に言われても、こっちは「はあ?」ってなる。
支援は当事者が楽になるためのものだから、親が苦しいだの、決断が必要だったっだの、言う必要はないんじゃないか。見ず知らずの当事者に向かって言うのは、甘えだ。暴力だ。カウンセリングを受けたほうがいい。

あのことも、障碍者差別の一環だったと思う。障碍者は親の批判をしてはいけない、モノを言ってはいけない、というような。
親だって苦労しているんだ!と当事者にいうとき、そこには何が発生するのか。

「味方になるはずだった人を敵に回すなんて」ということもコメントに書かれた。
でも、いきなり敵視してきたのはモビゾウさんやその周りの人だ。モビゾウさんとその周りの人はリプライで「ブログにコメントしておきましたよ!」「ありがとうございます」というやりとりをしていた。
モビゾウさんはわたしに「晒された」と言っていたけど、モビゾウさんは数を頼んで、わたしを攻撃してきた。
モビゾウさんが「ありがとうございます」と言わなかったら、コメントを付けた人個人の問題だったけれど、モビゾウさんがわざわざお礼を言っていたとなると意味が変わってくる。

モビゾウさんはご子息の写真や、習い事や、いろいろなことを公開している。子供にも人権はある。
モビゾウさん自身が、言葉を封じさせるという形で、わたしの人格を認めず、わたしを差別した。

わたしは彼女が発信した以上のことを知るはずがない。それ以上のことは何もわからないのに「曲解された」という風に言われた。
何がどう曲解なのかわたしにはいまだにわからない。
ことの発端としてツイートをリンクしただけで、本文にはモビゾウさんのことは何も書いていなかったから。
でも「モビゾウさんのツイートなしでは成立しない記事。モビゾウさんのツイートを利用してアクセス数を増やそうとしている」とまで言われた。読んでいないのはそちらじゃないか、と思った。

当事者でなくても、当事者の親じゃなくても、発達障害を理解し味方になってくれる人はたくさんいる。
逆に当事者であっても当事者の親でも差別審がある人はいっぱいいる。

わたしなりに、発達障害だということを受け止めようとしているさなかに、「今まで療育を受けられなかったからこれから療育をしていきたい」と書いたことが、どうしてモビゾウさんを腹立てさせたのか。それは、わたしの中にある問題ではなくモビゾウさんの中の問題だ。

発達障碍者の親の気持ちはわからない。そこで見下される理由もわからない。
たいへんだったら、支援を求める。そんなの当たり前のことなのに。
そういう風に言われるとむっとするのは、支援を受けることに抵抗があるのではないか。抵抗がある、ということは、そこに偏見があるからだ。
支援を受けると現実になってしまうようだとか、認めることになるだとか。
障害を認められないのは、障害は悪いこと、下に見られるようなことだ、という差別があるからだ。

障害は、もう、すでにあるものだから、認めるしかない。
当事者は認めるしかない。
認めないで生きていくこともできるが、相当ハードモードだ。
工夫ができない。ずれのことを説明できない。そうした手段を奪うことは暴力だ。

わたしはこんな風に穿っている。
モビゾウさんは自分のことをかわいそうだと思いたいんじゃないかって。発達障害がかわいそうじゃないと、自分が子供の支援をしている大義名分がなくなる。子供がかわいそうな子、ということにしないと、その子を育てている自分もかわいそう、ということに続かないから。
モビゾウさんは、自分のご子息が、発達障害だということを認めきっていないように見える。だから、そこで葛藤が起きて、第三者の、わたしのブログのようなどうでもいい話にも反応するんじゃないか。

上記の記事について、モビゾウさんは「ブログにブログ主の偏見が反映されている。障害がアイデンティティになっている。障害に固執している」という風にツイッターに書いていた。

わたしは障碍者だから、障害がアイデンティティの一部にもなる。
大きな特徴だからそこだけ認めないのはかえっておかしい。わたしに「障害に固執しているかわいそうな人」みたいなことを書くのは差別や暴力だと思う。

むしろ、障碍者の親だということに、アイデンティティをおいて、固執しているのはそっちじゃないのか。

わたしは固執しようがしまいが、自分について回る性質から逃れられない。診断されて、数年目だったから、あのころ自分が自分の障害について考えるのはそんなに不自然じゃなかった。それなのに「障害に固執している」と言われて、わたしはショックだった。
そんなことを言われたら、わたしは考えることも許されないんじゃないか。

療育は、発達障碍者本人を楽にするため。親のほうがつらい、それは手間暇の面でそうかもしれないけれど親自身が悲鳴を上げるほど大変なら、親のほうも支援を受ければいい。

大変な人が支援を受けるのだから。

わたしは障害がある、わたしはこういう風に考えていると書いただけで、どうして、あんなにモビゾウさんがかき乱されたのか、全然いまでもわからない。

親御さんがどんなに大変か想像もつかないけど、療育はやっぱり本人のためのもの。
わたしは「大人になってから、療育を受けられなかった自分が、自分なりに自分を療育したい」と書いたことをあんなに馬鹿にされ、矛盾だといわれたことがいまでもわからない。
療育を受けてなくても、大人になってからでも、やり直しは効くということを書きたかったのに。
それがどうして、あんなふうになるのか。大人になったら療育に近づいたらいけないのか。
わたしたちは線形に発達しないから、長い時間をかけて一生発達していく。
それを否定されたら、わたしは生きていけない。

療育を受けられるというのはチャンスなのだから親が悲壮になるのは理解できない。しんどかったらゆっくりやればいい。
モビゾウさんは四歳になる前にお金や暇を注ぎ込まないと後悔するみたいなツイートをしていた。それについて、わたしは反応したわけだけど。

悲壮になるのは親のエゴで、「普通にしたい」という欲求があるのだと思う・
療育を子供に受けさせたら子供も親も楽になるんじゃないかと思う。
健常者のためのルールを学べるのだから。
(世の中が発達障害の人ばかりだったら、別に療育はいらない)

どうして、わたし側に偏見があるという飛躍になるのか。

障碍者はたくさんいる。普通にいる。普通のことだ。どうして、親がかわいそう、という話になるのか。百歩譲っても「親の苦労を分かれ」とわたしに言ってくる理由には一つもならない。

モビゾウさんは「子供が健常だったら、娘とピアノの連弾をしているところを見れたかもしれないのに」という趣旨のツイートをしていた。
それだって、ご子息が発達障害であろうとなかろうと、かなうかかなわないかわからない話で、そして、連弾ができたら、子供が幸せになるかというと、結びつかない。やっぱり、そういう子供を育てたい、という親のエゴに見えるのだ。

わたしは、大人になったら療育を受けられない、ということは否定したい。
もしそうなら、絶望しかないから。
今は、療育を受けられる世界で、その世界では四歳までにすることで将来が決まる、ということになっているらしいけれど、それだって、先のことはわからない。
今、実際わたしは生き延びてきたわけだから。
わたしが書いた記事に「療育否定だ」と言ってきたのはモビゾウさん。わたしは大人になってからでも間に合うと言いたかった。
それを否定してきたのはモビゾウさんのほうだ。


モビゾウさんは、わたしに謝らないまま、ツイッターをやめた。
曲解されたり、人の悪意にさらされたからとのこと。

わたしは、モビゾウさんから悪意を向けられたと思っている。
人の視点によって見える景色は違う。

「みつばさん」がツイッターをやめたから、ということが理由みたいだ。
でも、「みつばさん」は人に堕胎をさせた側のくせに、女には堕胎をさせればいい、ということを言っているような人だ。
女の権利として、堕胎はある。そして、悪いことじゃない。けれど、心身の苦しみは、させた側にはどうにも償えないものだ。妊娠した時点で、とりかえしがつかないものだ。生むにしろ、堕胎するにしろ。完ぺきな責任なんて取りようがない。
そんな人を、好きだと思い、その人がネットの悪意でいなくなるをえない、みたいに言えるモビゾウさんとは善悪の価値観が根本的に違うんだなと思う。

この件については、発達障害かどうかは関係なく、倫理観の問題だと思う。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください