コミュニケーションと非定型のわたし


わたしは、最近コミュニケーションがかなりできるようになったと思う。
だから、もしかして、実は定型なのかなと思って六帖さんに聞いた。
「やり方が違うから非定型だと思うよ」と言われた。
「すごく頑張って練習して違うパターンで身に着けた感じだから、やっぱり、定型の人とは違う。疲れてるし」とのことだった。

「非定型でも身に着けられるんだけど、すごく頑張らないといけないし、でこぼこはやっぱりある」
という話をした。

六帖さんも自閉症なので、わたしと六帖さんの間でコミュニケーションで困ることはあまりない、と言いたいところだけど、同じ自閉症でも違うので、やっぱり難しい。
六帖さんは主語を省略して話すけれど、自分がされると、違う。
言葉通りに取るので、頼みごとをするのにも、細かく何をどうすればいいのか話さないといけない。
よく、そういう齟齬が起こる。

そういうものだ、とお互い了承しているけれど疲れているときは、わたしもしんどい。

わたしは、言語能力が高いので、それで何もかも補っている。
でも、音が「言葉」として話しているときに、入ってこないので、何度も聞き返すことはよくある。
音は聞こえるのに、相手が何を言っているのかわからない。
音と言葉はずれている。
わたしは、その部分を補えないから、耳が遠いのでということにしている。

話の筋を追っていればだいたい何とかなるけれど、突発的に話しかけられた時には、何を言われているのかわからないことも多い。
状況から脈絡がないとお手上げだ。

生徒が何を言っているのかは、勉強をしているときに限られるから大丈夫だ。
でも、そうじゃないときには、よくわからないことも多い。

だから、人と話した後はすごく疲れる。疲れるけれど、人と話したいという欲求はある。

コミュニケーションというものが、なんなのか、考えるけれど、意思の疎通以外のものを含んで、世の中の人は話しているような気がする。

相手の気持ちを察する、だとか、相手の要求を先回りする、だとか。

でも、先回りしなくても、伝えあってから、何かするのでも、いいような気がする。

自動的にしてしまうんだよ、と言われたことがあるけれど、そういう人の苦しみはわからない。

わたしの苦しみはわたし自身が発信するから、誰かにはわかってもらえるけれど、他人の苦しみまではわからない。

コミュニケーションにはいろいろな姿がある。
わたしには、言語がある。

c71の著書

スポンサーリンク

コミュニケーションと非定型のわたし」への1件のフィードバック

  1. 突然すみません。
    学問の起源について調べていたらこちらのページにたどり着きました。
    現在、大学4年の学生です。
    この記事のコミュニケーションというものが意志疎通以外の意味を含んで、世の中の人が話している気がするという部分が、私がコミュニケーションの際に感じるもやもやしたことを言語化しているようで、勝手に共感してしまいした。
    言葉は私にとっては、指示語にすぎず、そのつもりで話していても、表情や振る舞いや、相手の私に対する認識などから、深読みされている気がするときがあります。
    最近では、みんな誤解しあっているんだと、コミュニケーションであれこれたくさんのことを意志疎通しようとするのは欲張りなのだろうと、無理矢理開きなおろうとしている次第です。
    突然コメントを失礼いたしました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください