以前、大野更紗さんが書いた「存在しないサバイバー」について考えたことについてさらに考えた

http://synodos.livedoor.biz/archives/1814449.html
「存在しない」サバイバーたち — セックス・労働・暴力のボーダーで(1) 大野更紗

について、

「存在している」サバイバーというエントリを以前書いた。

大野さんが、なぜ、存在しないサバイバーと書いたのか、わからなかったので「さらさらさん」を買った。

「社会的に存在しない、ということを言いたかったのかな」と思った。
DVや性犯罪のサバイバーに対して注目が集まれば、お金と人手が集まるのでありがたい話である。
でも、わたしは、存在しないと書かれたことについて傷ついた。
(もちろん、文章は書けば誰かのことを必ず傷つけるのである。大野さんはその覚悟を持っていて書いたのだと思う。わたしも誰かのことを傷つけるだろう)

大野さんは、たぶん、わからないけれど、わたしとは違う。
わたしとは違う、という言い方で表現できることはほとんどない。
わたしが施設で出会った人々は、いろいろな人がいたけれど、大野さんとわたしたちを分ける何かを、大野さん自身が持っているように思えた。

それは、彼女が客体を見る目で、「わたしたち」を見ていたのだ。
絶対に、わたしたち側にはこない、と、大野さんはどこかで思っているとわたしは感じた。
設備について、「わたしが受け入れられることはない」という風に、現実的な視点では、自分も入る可能性があることを示唆していたけれど、深いところでは、わたしたちと同じになる「危うさ」を自分自身に感じたことがないのではないだろうか。

わたしは、犯罪だとか性犯罪だとかDVだとかに巻き込まれた。それは、わたしが弱かったからだ。弱かったというのは、自分を責めるために言っているのではなくて、犯罪者は、弱いもの、声を上げないものから選んで利用して搾取するからである。わたしは、それがしやすい獲物だったのだと思う。
彼女は、世界を信じている。他人を信じている。わたしが失った方向への信頼については、他人に裏切られても、絶望のそこにいても、どこかで信じている。

わたしは、一度世界に対する信頼を全部失った。
その失い方は、犯罪にあったときの失い方なので、彼女はそれを経験していない以上、何も言うことができない。
わたしも、彼女の絶望について、何も言うことができない。
わたしは、体が不自由になることについて、その方向についての絶望を経験していないからだ。
(自己免疫系の軽い病気になったことがあって、人生の大部分、社会と接点がなかったとはいえ、わたしの絶望は、わたしのもので、彼女の絶望は彼女の絶望だ)

わたしが世界に対して失った信頼というものを説明すると、「今笑顔で話している人が笑顔のまま、わたしをいきなり刺すだろう」というような緊張を二十四時間持ち続けるという種類のものだ。
病気の絶望とはたぶん違う。

わたしは、ずっと彼女が、なぜ、存在しないサバイバーと書いたのか、考え続けている。

わたしは存在しているよ。
私が出会った彼女たちも存在している。
彼女たちは生きることに精一杯で、それが、社会的という括弧付きとはいえ、「存在しない」と言われたことすら知らないまま、生きているよ、と思う。

c71の著書

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