資本主義と彼へのコンプレックス


最近、ずっと、勉強ができないことに悩んでいる。

学力の面で、彼に劣るのだ。だから、勉強を教えてもらうのに、いちいちそれを突き付けられる気がして、彼に八つ当たりしてしまう。

彼というのはパートナーのことだ。

学力がないとなぜ困るのかというと塾講師だからだ。

わたしは、高校生の数学と国語と化学を教えることが多い。

英語は今勉強中でこれからできるようにしたい。

学力の有無は、仕事が入るかどうかに影響するので、私は学力が欲しい。

そして、彼は英語と数学と化学がとてもよくできる。

国語に関しては唯一私が彼より上回る科目だ。

彼は、東京大学に入学したことがあるので、受験が得意だった。

私はそうでもない。病気をしていたので、受験勉強ができなかったし、一年休学した(病気になる理由は、自分が女だったからという部分がある。女として生まれなかったら病む理由がが減っていた)。

学力は、高校三年生の時にどれくらい取り組んだかどうかで決まる部分があって、今からでも取り返せばいいのだけど、どこかで「どうせかなわない」「私は、努力もしてないんだし、自業自得」「馬鹿だからできない」と思ってものすごく傷つく。

こういうことを言うと、彼はとても悲しそうな顔をする。

彼は、東京大学に入学したために、東京大学に入れなかった人にひどくいじめられたことがあるのだ。

私は一向に自信が持てない。

今こう書いていても胸がドキドキする。

どうしてできないんだろう?

どうして覚えられないんだろうと思う。

彼は一回見たら覚えられるけれど私は十回見ても覚えられないことが多い。

ノートにまとめて説明するのは上手にできるほうだと思うけれど、ノートにまとめながら覚えることができない。

社会に出たら、たいていの人は勉強ができないことについて悩まなくていいのだと思うけれど、私は生徒さんの手前、彼らより上回っていないと、偉そうなことが言えない。

私の教え方としては、その日したいことをぶっつけ本番で行うので、答えられないと授業時間を無駄にすることになる。割と高度なことが求められているので、一時間一時間緊張する。こたえられることが聞かれるとほっとする。

昨日は、PHや塩の範囲が答えられなくて苦しかった。

復習すればいいのだけど、なかなか復習する時間も取れず、わからないということを繰り返してしまう。恥ずかしい。

恥ずかしい、いたたまれない、自分がどうしてできないんだろう。それは勉強していない屑だからという風にも思うと次々に感情が押し寄せてきて、圧倒されて、本当に苦しい。こうやって自分をいじめているようにも思える。塾講師、向いていないんじゃないかなあ…。でも、他にできることもないし、本当に苦しい。

こうして書いてみると、彼へのコンプレックスというより、自分自身のダメさに向き合えないってことなんだと思う。そして、卑屈になる。卑屈になって自分よりもできる人と比べてしまう。意味ないのに。てか、私が生きている意味もないけど。

でも、勉強ができないことがどうしてダメだと思うんだろう。勉強しなおすことができないことをどうしてダメだと思うんだろう。経済力がないことも。

彼は私のできないことがたくさんできる。彼は、プログラムの仕事もできているし、バイトで塾講師もしている。私ができるのは手芸とか、家事とか、工作とかそういうお金や数字にならないことばかりで無意味に思えて惨めになる。

そういう、数字にならないことが得意だってことが、惨めになるのは、私が内面化している資本主義的な物差しが私の能力を測るせいだと自覚しているのに、内面化しているゆえに逃れられない。

だって、数字でしょ。お金でしょう。

家事なんていくらやっても積みあがらないで一瞬で元に戻る作業だからむなしい。

私がお金を稼ぐ担当で、能力があったら、家事をしなくてもいい。子供も産まなくていい。

子供を育てるところはとても楽しいけれど、子供を産むところは楽しくなんかない。苦しいだけ。惨めなだけ。後遺症は残る。デメリットしかない。体験なんかに価値はない。

やってられない。

彼には、内面化しているらしさがすごく少なくて苦しんでいるように見えない。

それはおかしいと思う。

なんでかというと、私は、女として育てられたから、内面化せざるを得なかった。

そういう、育つ過程の内面化への圧力の有無が、育った後の「楽さ」にかかわるんだから、これは、男女の育てられ方、圧力の差で、私が苦しんでいるのだ。

それは、彼のせいではないけれど、過程と結果をまざまざと見せられるので苦しい。

私が好きな「クレヨン王国シリーズ」という本があって、「女は度胸愛嬌すっとんきょう」と言って、窮地を脱するために自分を励ますシーンがあるのだけど、その時に私は、「女は愛嬌なのか」と思ったのを覚えている。

「女は」じゃなくて、男だって度胸愛嬌すっとんきょうが必要だと思うけれど。

私は、育てられ方、育ち方の結果に苦しんでいる。それは、母親(父親は家庭にいなかった)が悪いというよりも、母親に対して世間が要請したもののせいだ。父親に世間が要請しなかったことの結果でもある。

つまり、私が彼よりも劣っていると思うことの正体は、世間の物差し(学力とか経済力とか)なのだろう。それは最初から分かっていることだけれど。

彼の自然さ、健全さがまぶしく思える。その一方で、疑わしく思える。

この、私が病んで死にたくなるほど苦しむことの正体は、最初から資本主義の罠だとわかっているのに、私は彼とパートナーシップを得て、生き延びる手段にしている。

私が、家事労働をすることで、劣勢に置かれるのは、資本主義が家事労働を劣っているもの、無価値なものとして扱っているからだ。

「女は・劣っている・から・家事という・劣った労働をする・べし」という社会的メッセージはあらゆるところに埋め込まれている。

私がいかに、家庭内でいたわられても、社会的に評価されることはない。社会的に認められることなしに、私は満足することはない。

私は小さく小さくなっていって、家庭という誰にも見えない点の中で消えてしまうような気がする。家庭の中は誰にも見えない。家庭という場にいる私も、だれにも見えない。見えないものは評価されえない。そういう土俵にも立てない。私はいないも同じ。

そういうことを思い出すときりがなくて泣いてしまう。

私が目指すべきことは、まず社会的に認められたいと泣くことと、もう一つ大切なのは、社会的に認められたいと願うことが、資本主義の罠ではないかと疑うことだ。

だが、疑うことで、社会的に認められなくていいと思うのは、それもやはり資本主義の罠で、家庭の中に足かせを付けたまま、埋もれて行って死ぬこととも同じだ。

自分が満足していればいい、望まなければいい、というのは、それもやはり資本主義社会が女に要請しているものと合致してしまう。

社会的に認められたいと望むこと(資本主義的な物差しで自分の自己実現を図ること)も、社会的に認められなくてもいいと望むこと(資本主義が女に要請する小さく収まれという価値観を内面化すること)も、どちらも間違っている。

だから、私はどうしようもない。

私は何者かになりたいと願いながら今日も大根をいちょう切りにするのだ。それが私だ。

c71の著書

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