「巨乳」という言葉はなぜ使ってはいけないのか


胸が大きい人を批判しているわけがない

日赤の宇崎ちゃんのポスターについて書きます。

宇崎ちゃんのことは、胸が大きいから批判されているわけではありません。

なぜ批判されているのか、ミラーリングされても、男性諸氏にはわからないと思います。

それは、普段から抑圧されたり、性別を理由とした危ない目にもあったりしていないからです。男性が危ない目と言って怖がるのは、暴力や、金銭を目的としたときでしょう。

女性は、それに加えて、性を収奪される恐れを抱いています。恐れというだけではなく、現実に生まれて一回も女性由来の嫌な目に遭っていない人はいないでしょう。

なので、批判の大切な目的は、女性という属性全体にかけられている不利益な言動を抑えたいという目的があります。

ここでいう女性への抑圧とは、わかりやすいもので言えば、例えば、宴会場で女性たちは立ち働き、男性は、飲み食いをしているという図です。

これは、半ば強制です。女性が同じように男性と飲み食いに徹するということはほぼ不可能です。従わざるを得ません。

この「ざる」の部分が抑圧です。

もちろん、こんなことには法的な強制力はありません。

宇崎ちゃんのポスターで言えば、法律で禁止されていないのだから批判は的外れだと言っている人もいました。#kutooもそうですね、パンプスを履くことは、法律で決められているわけではないんだ、という人もいました。

でも、慣習というのは、強い力を持ちます。

例えば残業ですが、これは、法律で制限されている行為です。でも、多くの人は上司や先輩が帰っていないから帰ることができない、という経験をしているでしょう。

これは、残業という行為が、法律で制限されているのにも関わらず、慣習の力によって、会社に残るという強制力が発生しているわけです。

法律で「サービス残業をしてはならない」と決められているからといえど、それでもなお、皆さん会社に残るわけです。法律でしてはいけないと言われているのに、しなくてはいけないと思わされることがあるわけです。

会社の飲み会もそうですね。これは、法律は関係ありません。パンプスの事例や宴会の事例と同じですね。誰も、行けと強制しているわけではありません。でも、行きたくなくても、行かないといけないと多くの人が思っているわけです。

法律で決まっていなくても、しないと不利益を被るだろうから、我慢するという状況は男女問わず発生しています。ただ、女性を理由としてそれが発生する場合は、多いのです。

公共とは

公共とは社会一般、公のことです。

個人や私の利益を追求しながら、全体の利益を目指すことが結局は合理的です。例としては共同の井戸ですね。私有することよりも、共同で井戸を持っていたほうが、合理的です。

また、法律で決まっていないことは、マナーや慣習が優先します。

例えば、TPOなんてそうですね。オペラのコンサートでTシャツを着たり、一緒に歌ったり、うるさくしたら問題になります。白い目で見られるのは間違いないでしょう。

でも、映画館では、ポップコーンやジュースを飲み食いする程度のうるささは許容されています。

知事に表彰されるようなときには改まった格好をする人がほとんどだと思います。

人は、公共圏を使い分けています。どのくらい、公に近いかによって、服装や振る舞いを変えるということです。もし、変えなかったら、その人には社会性がたりません。

巨乳・ロリ・アホの子という言葉をなぜ使ってはいけないのか

私は正直に言うと、ロリ、巨乳、アホの子と呼ばれるキャラは撲滅されていいという過激なことを考えています。が、それは、現実的にそうなるわけでもないし、そうできるわけでもありません。

ただ、批判するのはそれなりの理由があります。

宇崎ちゃんのポスターをOKにしてしまうことの悪影響があります。

あのポスターのキャラを調べると「巨乳・ロリ・アホの子」という説明が目に入ります。

公共圏にあのポスターを出してしまうと、「巨乳」という言葉をみんなが使っていいと思ってしまったり、そのお墨付きを社会が与えてしまうことになります。

それが嫌だったら、それを批判するしかありません。

これは覚えて帰ってもらいたいのですが、「胸の大きい人」を批判しているわけではないのです。

「巨乳」という言葉に代表される考え方を批判しているのです。

善良なる男性諸氏には想像もつかないかもしれませんが、世の中には「巨乳」という言葉を平然と使う人がいます。それは、現実でも、ネットでもいます。目にしたことはありませんか?

「巨乳」という言葉は、使ってはいけません。

なぜなら、それは、女性のパーツに名前を付けて、属性化(タグ付けと言ってもいいでしょう)する行為だからです。

女性のモノ化と言ってもいいでしょうね。

「あの巨乳スゲー」と男性が言うとき、まず、彼は胸を見ています。でも、相手を人間だと思っていたら「あの巨乳スゲー」という言い方にはならないはずです。人間のパーツに、人間がくっついているのではなく、人間がまずいて、その人はいろいろなことを考えたり、感じたりする人間です。その人が、たまたま胸が大きかった、ということを「巨乳」という言葉は雑に「あの巨乳スゲー」にまとめてしまうのです。女性の胸をじろじろ見てしまう男性がいるのです。

もちろん、きっと善良なる男性諸氏には考えられないでしょうが……。でも、女性はそういう目に少なからず遭います。それは、とても嫌悪感のある体験です。

もし「あの禿スゲー」とか、「あいつ金持ちキャラだよね」とかと言われたら、ちょっとは嫌じゃないでしょうか。

また、巨乳は、JKと同じで、ポルノ用語です。それを普段から公共性の高い場所で使うのは慎まれるべきです。

人の胸をじろじろ見てしまう男性が、既に存在するので、あのポスターを公共性の高い場所に掲げることには問題があります。あのポスターは胸に支店誘導しているので、胸をじろじろ見る訓練となってしまう側面があります。行動を通して、すでにじろじろ見る人の行動を世間が後押ししてしまう構造になるのです。

女性を品評し、ロリ、巨乳、アホの子と属性化することを、現実に持ち込んでいる人がおり、また、女性は男性を全く信用していないことから、問題になります。

属性化するのがなぜ問題になるのかというと、人間をモノにしてしまうからですね。

物語の中に人間をはめ込むと、一般化されます。生きた人間が語りやすいように加工されるのです。そして、、語り手のご都合主義に沿った人間像が描かれるでしょう。語り手に都合の悪い情報を捨て去ることで、物語は成立します。その捨てられてしまう「都合の悪い情報」の中に、「女性の意志」が含まれてしまいます。人に語られた時点で、その人は、客体になってしまうからです。主体的な存在ではなくなります。

物語る人間にとって、心地いいもののみに還元されます。

キャラ化、物語化はいけないのです。人間は、雑然とした情報でできているので、それを他者がすっきりと一つの整理することで、漏れていくことが問題です。

現実でも「キャラがたっている」と言われてしまうと、そこしか見てもらえなくなりますよね。

デブキャラになったら、デブな側面しか見てもらえないとか、それと同じことです。

現実とフィクションは地続き

ノンフィクションとフィクションは、地続きです。まず、ノンフィクションを書く人の「主観」が反映されるし、何を「筋」にして、何をいらない情報にするのか、取捨選択をする時点でノンフィクションは、フィクションと地続きです。

「現実」を語るためのノンフィクションは、フィクションと完全に分けられるものではないということです。

また、フィクションで覚えた概念や、価値観、考え方を現実に持ちこむということは、だれでも自然にしていることではないでしょうか。そして、それは本来とてもいいことなのです。

相互に影響があるものです。

だから、フィクションの中で、肯定的に描かれるインモラルなことは、現実に持ち込まれかねません。インモラルなことを「何が悪い」と言って居直る人が出てきてしまうことを私は憂慮しています。

作品中で、自分の考えや価値観が肯定されるとうれしいものです。そして、それが公で認められた場合、自分のその価値観が公に認められたような気がするのも自然なことです。

でも、上記で述べたように、「巨乳キャラ」というものは、インモラルなものです。単に「胸が大きい」ということじゃないものを指示しているからです。それを肯定されると、ますます現実で「あの巨乳」「巨乳小学生」という言葉がはびこってしまうんじゃないのかと、現実の影響を恐れています。そして、それは、実際に起こりうるのです。

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