びっくりしすぎてぼんやりする

びっくりしすぎてぼんやりする。

ひどいことを言われたり、ひどいことをされたり、失礼を受けると、びっくりしすぎてぼんやりする。

これは、わたしのためを思っていってくれているんだろうか、とか、これを受け入れたら成長の機会になるのだろうか、とか、この人の真意はなんだろう、とかね。

怒りすぎて、言葉がでないときもある。
怖かったり、怖くなかったり、いつものことで、慣れすぎて、とりあえず、受け入れてしまったり。
くせで受け入れることが当たり前だったら、受け入れてしまうどころか、相手のケアをしてしまう。
ときどきひどいことを言う人は「こちらが傷ついているから、言わざるを得なかった」みたいな態度を取るからね。

びっくりしすぎると、その場の感情が、瞬時に感じ取れないときがある。
そして、ぼんやりする。

あとから、いろいろ考える。
でも、それでも良いんだと思う。
解決しなくても、自分の中で納得いって、次、どうしようかなとか、次もダメだったなとか。
何も出来ないかなとか。

そのときに、スルーしても良いし、後からでも言いたかったら言えば良いし、付き合いをやめるのでも良いし、通り魔だったら、泣き寝入りすることもあるけど、人がそういう目に遭っていたら助けようかなとか。
その場でなんとかできなくても良いかなと思う。
それで、自分を責めても仕方がない。
だいたいのことは仕方がない。
できることをしよう。

ベシー占い 占い承ります。


いやな思いをさせるもの

言葉を発していたり行動をしていたりすると、多かれ少なかれ匿名の誰か、もしくは実名の誰かから、嫌がらせを受ける。

それで言われるのは
「スルーした方が良いですよ」だ。

「相手がもっと喜ぶから、反応しない方が良い」
「反応して、やりかえせば、相手のところまで落ちてしまいますよ」も言われる。
どれもわたしはいらない。

それは別名「泣き寝入り」というのだ。
いじめられて、いじめられたまま何も感じていない振りをしたら、やはり、エスカレートする。
本当はどう振る舞っても嫌がらせは止まらないのだ。
自分自身が無視しようと思っている人は違うけれど、そうじゃない人に「スルーしろ」というのは、単なる圧力になる。

その通りだ。
喜びを与えても、それは間違った喜びだ。相手に報酬を与えたからと言って、なんなのだろう。こちらがどういう態度を取ったとしても、相手は嫌がらせをするのだ。
こちらの態度によって、相手の嫌がらせが止むと思って、何か言いたいことを自粛するというのは、相手の圧力に負けることになる。

負けても良い。
だけど、言いたいことを言えないのはよくない。
「相手はコストをかけて嫌がらせをしているから、そのコストに見合う報酬を与えなければやめる」という意見も見たが、それは誤りだ。
嫌がらせはそれ自体で完結した楽しみだ。そして、それから得た喜びのことを、わたしたちは考えなくて良い。
加害者の気持ちなんて考えなくていいのだ。考えたら、萎縮してしまう。
加害者のことを慮って行動するようになる。
それは、スルーをしないで、もっと騒ぎが大きくなることよりもずっと悪い。加害者の価値観を中心にまわることになるから。

また、一斉に大勢を対象に嫌がらせした場合、足並みを揃えるのは難しい。それをするには、誰かが取り仕切ることになる。
そうやって、組織だてることになって、自分の言いたいことが言えなくなるなんて、そんなのは間違っている。
怖かったら怖がったら良い、むかついたら、そう言えば良い、自由なんだ。
わたしは、相手が向かって来たら、同じ勢いで殴る。
殴ってくるやつは、わたしが殴り返してくると思っていないから、殴りにくるんだ。
だから、殴り返すとだいたいの人はびっくりするよ。
加害者は、自分が傷つけられるリスクなんて考えずに、ただ、加害してくるだけだ。

スルーして来たら、ストレスがたまる。
どうして、加害者のためにこちらががまんしないといけないのだろう。
スルーが、今の世の中を悪くしているとわたしは思う。
スルーして、放っておいたものが、どんどん大きくなって、それで良いもんだと思い込んでいる。
いやな思いをさせるものにあったときは、自然な感情を発露したい。

ベシー占い 占い承ります。


嫌いな同僚と結婚しろと言われた話

最近ごはんに呼ばれたので、知り合いのうちに遊びに行った。
いろいろな話をしたんだけど、石垣島に行ったり、映画に行ったりしていると話したら、
「一人で?」というので、
「一人で」と言った。
そして、
「それじゃ結婚する気にはなれないわよね。そういえば、同僚の◎◎さんはどうなの?結婚したら?」
とグッドアイディアみたいに言われたので、ぽかーんとした。
え、意味わからない。今、わたし、何を言われているんだろう。
今、わたし、その人に挨拶しても無視されるから困るって話したんだけど??

わたしは今楽しい。
好きなところに行って好きなものを食べて好きな映画を観て、後はゴロゴロしている。
誰かの面倒を見る必要もない。

何か、こういうことがあって、困る、って話をすると、それは、相手の本心じゃないとか、本当はそうじゃないとか、解釈を変えろとか言ってくる人がいるんだけど、行動からわかることがすべてなんじゃないですかね?それが本心だと普通は思わないと混乱する。
いちいち相手の内心を慮らないといけないのか。

自分の価値観でものを話されても困ります。
こちらの事情はこちらが話していないだけでいろいろあります。

それにしても、結婚を勧めてくる人はなんなんだろう。
ちょっと意味が分からない。
そんなに幸せなんだったら、それで幸せそうにしていてほしい。
わたしにまで攻撃にしないでほしい。
離婚した人まで結婚を勧めてくるのは本当に意味が分からない。
完全にシャットアウトしているわけじゃないのに。
老後の心配してないのか、とか、介護問題はどうするのかとか。
結婚していてもそれは解決しないんじゃないのですか。
解決すると思っていたら、相手を使える道具みたいに思っているんじゃないのか。

ベシー占い 占い承ります。


躁でもないけど、鬱でもないの

うーるめいてきましたね。わたしもそろそろウールです。半袖のウールを買ってみたりして。
いつ着るのか長年なぞだったのですが。
今着ればいいんだ、て気がつきました。
それがうーる力。
わたしはうーるの女になります。

なんで平仮名で書いているのかというと、うーるのほうが優しそうだしふわふわしている感じがするからです。

今日は、奇跡的に仕事が休みでした。
友だちとラインしていたら一日が終わりました。
ラインしすぎて疲れました。
あー。
ジェルネイルしようと思ったけど、もう、夜遅いのであきらめようと思います。
そして、文学フリマ福岡に出す原稿も書かないといけないんだけど、眠いので明日にします。
眠くはないんだけど、今日はやりたくないのですね。

最近はハードスケジュールで、ちょっと仕事量を減らさないといけないです。
躁状態でもないのですし、鬱状態でもないのだけど、このままだとからだを壊しそう。

友だちに送るプレゼントをまだ贈っていないのです。ああもう秋なのにね。

このところ毎日シーツを変えています。
寝付きが良いような気がします。
毎日洗濯するきっかけにもなることだし。
バッグも洗濯したのですっきりしました。

衣替えもそろそろなので、部屋の片付けをしました。
意外と忙しいです。

ベシー占い 占い承ります。


崇高じゃない願いなのよ

c71.hatenablog.com
この記事で、プロ意識って、人が言うものは、働く人への搾取の場合があるって書いた。
プロ意識なんてなくても仕事こなしていたらその対価として、お金を得られるのが普通のこと。

でも、その対価以外のことを求める人は、働く人にも、買う人にも多いのね。
わたしは働いている上で、なるべく、対価以外のことを望まないようにハードルを下げたいと思う。
対価以外に、やりがいを、お客さんが提供してくれるんだってことを望まない。
たまにいる。やりがいを求めて、お客さんから感動を強盗しているような人。
わたしがお客さんの立場なのに、感動ややりがいを、わたしから奪っていく働く人がいる。
そういうのも、困ってしまう。
だから、わたしは働く上でそういうことは求めない。

お客さんに熱い願いなんて届かなくて良い。わたしの仕事をうまく利用して、良い学校に行って良い人生を送る手伝いをしたいと思っているし、子ども相手に仕事をして、相手が成長していく過程を見るのは限りなく幸せなことだと思っているが、これは、わたしの話。
それを望まれたらいやだ。そして、相手におしつける気もない。
自分がこう考えていますよ、っていうのは話すけれど、受け取るのは自由ですよって必ず言う。
そういう態度でいるとお客さんも、サービス外のことを望んではいけないんだな、とルールをわかってくださる。
お金で買えるものだけをわたしからとっていってほしい、わたしはお金で買えるものだけを渡す。
そういう風に働いている。
でも、ときどき、人としてフィーリングの合う人はいるので、そういうときには、人生が混じり合う感じがする。

それは、たまたまのことで、最初から望むことじゃない。

仕事を買う側も、強盗する場合がある。
サービス以外のことをね。

差別される職業というものがある。
きちんとやったら、良いとか、こういう態度だったら許されるとか、「こうだったら、その職業をやっていても許される」というの。
態度が申し訳なさそうだったら裁かないでいてやってやる、と周りが思いやすい職業がある。
そういう職業では、お金で売っているもの以外も奪われやすい。
そういう時に限って、「プロ意識があったら、そういうのもうまくかわすべきだ」とか、「プロ意識があったら、そういうのも覚悟してやっているはず」と言われたりするようだ。
でも、そういうことじゃないよね。
「自分は自分」「他人から評価されようとされまいと関係ない」「お金で売っているものだけが買える」ということがきちんとわかっている、成熟した消費者だったら、上記に上げたことを、売り手に期待しない。
売っていないものを特別に強奪したら、得した、と考える人はとても多くて、それは、サービス業で良く起きる。
コンビニで働いていると、お金で買える以外のものを要求してくる人はとても多いのね。
サービス業なら当たり前、というていで。
この職業に就いたのなら、このくらいのことは、覚悟しているのに違いないって、内心をはかられて、それを理由にサービス以外のことを要求されたりしてね。
困ってしまう。

わたしは時間を売っているのだし、相手が満足する何かを売っている。
だけど、それはわたしが決めるものであって、お客さんが決めることじゃない。
お客さんがいくら欲しくても売っていないものは買えない。

差別したい、という気持ちは、攻撃的な態度とは限らず現れる。
裁く態度という形で。
「あなたがこういう態度だったら、あなたが存在することを認めても良い」ってね。
でも、誰もそんな風に、振る舞うことなんて許されていないの。それこそ。

自分が自分であること、ただ、そのままであることを望むのはなにも崇高な願いなんかじゃない。
他人にどうこう邪魔される理由もなくてね。
他人にどうこういう権利もなくてね。
それこそ。
自分が自分でいる権利っていうのは、誰にも剥奪されないし、されてはいけない。
なのに、「剥奪しても良い」とぼんやり思っている人たちがいて、剥奪して良い場合を自分で決められていると思っているの。
相手が「素直そうじゃなくて」「プロ意識に欠けていて」「道徳心がなくて」「申し訳なさそうじゃない」とかね。
そういう理由でね、隔離するんだよ、社会から。
でも、その基準は、その人が勝手に決めたもの。勝手に決めたもので、勝手に、誰かを裁いてはいけない。
もし、それを許せば、みんなが、不幸になる。自分だって、いつ裁かれるようになるかもしれないよ。
自分だけは裁かれない、そういう弱い立場にいかない、だから考えないって人も考え直してほしい。
弱い立場にいくのは、自己責任だ、と思う人こそ、考えてほしい。
じゃあ、そんなにも強いのならば、責任はあるんじゃないかって。世界を良くするための責任が。

プロ意識に欠けていようと素直そうじゃなかろうと、仕事のクオリティが低かろうと、その人がひどい目に遭う理由にならない。
差別って、ひどい態度で現れるとは限らなくて、暴力とか、誹謗中傷とか、そういう攻撃的なことばかりじゃなくて、ただ、人をどんよりさせることも含まれる。
どんよりさせた側には悪気なんてなくて、ただ、当たり前に「こういうことはこういうもの」って思って疑っていないだけだったりする。
でもね、人は脳みそってものがあるから、「当たり前を疑う」「人に対して失礼な態度を取らないようにする」ってことができるはずなの。
だって、今の世の中には身分と言うものがないんだから、それは決まりで確かなのだから、誰かを裁いてはいけないし、売っていないものを買ってもいけない。どこにも、差別されて当たり前の人なんていない。
みんな平等に扱われることになっている。それが、現代社会だから。
売りますって、相手が言っているものだけを買える。
相手の職業に合わせて態度を変えて、相手が売っていないものまで奪って、「得した」って態度はね、泥棒だから。
それを願うのって、別に、崇高なことじゃない。
普通の願いなの。
これが、願いでなくなりますように。
願わなくても、当たり前に降ってくる優しい雨みたいなものになりますように。

ベシー占い 占い承ります。


良い人だって思いたい

他人のことを「この人は悪気があってそうしているはずない」「本当は良い人」「本心は違うはず」と思いたいときがある。
そうすると、見る目があっても、濁ってしまう。
行動がすべて。
行動でしかその人をわからない。直感と、観察したことがその人を表している。
わたしが、その人を「良い人だと思い込みたい」というのは欲だ。
そうであってほしいというエゴだ。

エゴがあると、見たいところしか、見なくなる。そうすると、人の本質に触れない。
だまされやすくなる。
傷つけられやすくなる。人の混乱に、引っ張り込まれやすくなる。

良い人だから、助けて上げたい、と思ったとき、良い人だったら、そういうことをわたしに言ってくるかな?とか、してあげたあと、わたしに何かかえってくるのかな?と思うことは悪いことじゃない。
自分の身を守るために必要なことだ。

この人は良い人なんだ、わたしの身を挺して守らないといけない、困っている人は助けないといけない、そういう気持ちが、わたしの世間を狭くしていた。

ただ、そのまま、人の邪悪も、ずるさも、見ていて、その中に、その人を好きか嫌いか、見るべきだ。
自分にとって都合の良いものばかり見ていたら、相手にも自分にも良くない。

相手が、わたしに合わせている可能性や、合わせることでその人が得るメリット、そういうことも考えて、用心深くする必要がある。
良い人だと思いたい人、というのは、すでに、何か悪い予感がある相手だ。
悪い予感は必ず当たる。

ベシー占い 占い承ります。


お金で買えるものだけが欲しいの

名乗れば、仕事が始められる種類の仕事をしている。人に認められる必要もない。ただ、名乗れば良い仕事。資格もいらない。
今、ここで、名乗って、誰かが頼んでくれたらそれでもう、時間の売買が成り立つ。
サービス業ってそういうこと。
時間とサービスそのものを売る仕事。

誰かの許しなんて、いらないのだった。

わたしは心の中を洗いざらい探してもプロ意識なんてない。今日一日暮らせれば良いのだった。
できれば良い仕事をしたい、その方が楽しいし、時間が過ぎるのが早いので、楽だ。次にもつながる。
わたしはとても人生に疲れていて、先のことを考えたくない。昔は具合がもっと悪かったので、先のことを考えるのがやめられなかった。
先のことを考えたくないから考えない、という態度は進歩だと言える。

わたしは塾で働いている。
良い仕事とは、数字を出すとか、合格率を上げるとか、成績を上げる、ということがイメージされると思う。
だけど、実際には「なんとなく良い気持ちにさせる」ということが最優先事項で、そのために、成績を上げたり、合格率を上げたり、お客さんの話を良く聞いてすっきりさせてあげるということをする。
結果的に、合格率や、成績の向上があると、お客さんが良い気持ちになりやすいので、そうするのだけど、でも、必須じゃない。
他人のことだから、操作はできない。
あとさきでいうと、お客さんが満足するのが大事。それ以外は些末なこと。
極端なことを言えば、満足してもらえるのだったら、授業だって必要ない。
わからないことを教えることも、知らないことを説明することも、しなくたって、お客さんがそれで満足すれば、成り立つ仕事だ。

仕事で食べていけばプロ、だとか、責任感があればプロ、という意見もあるのだと思うけれど、プロと言う言葉はわたしのご飯を食べさせてくれない。
綺麗な服も手に入れられない。

お金はご飯を食べさせてくれて、綺麗な服を手に入れてくれる。わたしは快適な家を維持するためのお金が欲しい。
だから働いている。
それだけで、プロ意識なんてない。
プロ意識は、お客さんから求められるニーズである。わたしがもつ必要はない。持っているふりが必要なときもある。また、わたしが持っていると便利なときもあるだろう。でも、プロ意識は、サービスに入っていない。だから、こちらが何かを削る必要はないのだと思う。
プロ意識というものが、サービス内容に含まれていたら、売れば良い。
だけど、プロ意識そのものを買う人はあまりいないはずだ。
みんな買うのは、違うもの。

それでもプロを名乗りたい人が名乗れば良い。

塾講師でもレベルが低かったり、気に入らない人はたくさんいる。
レベルが低いって言うのは、生徒に手を出したり、授業を放棄するような塾講師だ。
でも、そういう人でも生きていくために、一応は仕事をする。
わたしたちは時間を売っている。その中身が何であれ、気に入る人がいれば成り立つ仕事だ。買う人がいれば売るし、買わない人には売れない。
だから、わたしからみて、この人は気に入らないと思っても、お客さんが気に入っていて、ニーズがあれば成り立つのだった。

塾の仕事は、時間の間、何をしていても、お客さんが満足しさえすれば、取引が成り立つ。
最近、始めた占いも「話を聞くだけでお金をもらうなんて、詐欺だ」という人もいたけれど、お客さんが納得していたら、取引は成り立つ。「お前が名乗るなんて他の人に失礼」と言う人もいるけれど、塾の仕事と同様、仕事を取れればそれで良いのであって、取れる人は仕事が取れる、そうじゃない人は取れないってだけだ。取れない人は残念だってだけだ。
意識がどれだけ高くても、お客さんがつかなかったら、お金がもらえないし、意識がどれだけ低くても、人気が出たらお金がもらえる。

働いて、お金をもらう。
プロ意識ってものがあるとしたら、お金をちゃんと請求するかどうかだ。
クオリティはお客さんが判断することだ。満足しなくても、お金を払うことが最初に決まっていたら、必ず払わないといけない。契約を果たすようなサービスをしていなかったら、払わなくても良い場合がある。
それが決まりだ。

その逆に、売っていないものは買えない。
売っていないものを買うのは泥棒だ。
だから、売るものをはっきりさせないといけない。それは、働くときに大事なことだ。
そして、買うときにも「これは売っているもの。これは売っていないもの」というのをきちんとしないといけない。

もちろん、お客さんに対して、個人的に愛情が持てるときはある。でも、お金はもらわないといけない。
ただ働きを許すと、この世の理が崩れてしまう。
自分も、ただで、人から何かを要求するようになってしまう。それはさもしい。

プロ意識を持って、働いてほしいと思うのは、お客さんの思考だろう。そして、働く人を、縛りたい人の気持ちだろう。経営者だとか。
その証拠に、会社員だったときに、プロ意識の話をする人はいなかった。上司はそんなようなことを言っていたけれど、今、身ひとつで働いている、保障のない環境でもっている切迫した厳しい気持ちとは遠い。会社員のときは、それこそ、首にならないように振る舞っていたら、お金がもらえたものだ。
でも、今はそうじゃない。仕事を作って、お金をもらわないといけない。じゃないと快適に暮らせない。
家も欲しい。服も欲しい。おいしいものも食べたい。趣味もしたい。映画も見たい。本も読みたい。旅もしたい。
その気持ちを叶えるためにはお金が必要だ。お金なしに、提供してくれる人はいない。いたとしても、甘えてばかりだと、親切を強盗することになる。

欲を出せばきりがない。
評価されたい、自慢したい、人より上に立ちたい。
でも、欲をお金に向ければ、お金だけ欲しいと願えば、一生懸命働いて、小金を稼ぐ手段をよくよく考えていけば、それは叶うのだった。
稼ぐための工夫を、プロ意識だと呼ぶ人もいるかもしれない。プロ意識を持つことで、自分を保てることもあるかもしれない。プロ意識をお客さんが要求することもあるかもしれない。雇用主が、プロ意識を持て、と、わたしを管理するために言うこともあるかもしれない。プロ意識は、立場の強い方から、弱い方に要求する場合が多いのではないかと思う。

でも、「プロ意識」そのものは、わたしにお金をくれない。

わたしはお金で買えるものだけが欲しいの。

ベシー占い 占い承ります。


愛されていたり、愛されていなかったり

今朝、友だちとチャットしていた。
そして、ふと、「あれ、わたし誰にも愛されていないな?」と気がついて、すっきりした。
ああ、わたし、愛されてたことないんだ。

通りすがりの人に親切にされたり、愛されたりして、それで、生きていられたのかな?

昼頃、キングスマンを観た。マシュー監督の作品が好きで、ポップなアクションに興奮した。
そして、整体に行って、おしゃべりした。
そういえば、お父さんには愛されていたかも。

お父さんとわたしはあまり状況が良くなくて、一緒にいられる時間があまりなかった。
お父さんはわたしがののしっても、何をしても、いつも、受け止めてくれた。
わたしがおかあさんから逃げ出すときに、その意思を尊重して、手助けしてくれたのもお父さんだ。
わたしが死にそうに困ったときも、精神科にかかったときも、お父さんは助けてくれた。
そして、お父さんは、整体の人に会ったとき、「c71をお願いします」と頭を下げたそうだ(別に変な意味じゃなく)。
その話を整体の人がした。それで、あれ、お父さんには愛されていたのか、と思った。

お父さんは、最後に会ったとき、まだ生きてるけど「とにかくあなたの幸せを願っています」と律儀な口調で言ったのだった。
それで、そのあと、わたしは、自己評価も自己肯定感も低いし、感情とか、内蔵とか外側に出したままなのに、ゾンビみたいな状態でも生きてたんだなと思ったのだった。

愛されたいともやもや思っていた。
だから、試行錯誤していた。
でも、わたしを愛していたのは誰か、愛していなかったのは誰か、というのが、すこんと腑に落ちた。
そういうのは、行動からわかるのだった。
わかることをわかりたくなかった。
でも、わかってみたら、たいしたことがなかった。
わかる前は愛に媚びていた。
愛はわたしがどうしていたって、あったりなかったりする。
子ども時代のことはどうしようもない。

過ぎてしまったことはどうしようもないと他人に言われたり、おかあさんは本当は愛しているのよ、本心じゃないのよ、と言われたりするのもどちらもいやだった。
どちらもわたしの手に余った。
だけど、別に、誰かに必死になって、わたしがいかに愛されていないか証明する必要はなくなったのだと思った。
わたしが腑に落ちていたら、それで良いのだった。
お父さんには愛があった。おかあさんには愛がなかった。
その他の人はときどき、愛してくれたり、愛してくれなかったりした。
雨が降ったら水を吸うみたいな感じで、育ったのだと思った。
晴れたり雨が降ったりだ。
わたしは今お金で買えるものだけが欲しい。
気持ちがさっぱりした感じがする。

ベシー占い 占い承ります。


暗い、明るい、弱い、強い

わたしのブログを暗いと言う人がいて、そりゃあそうかと思った。
自分では自分のブログを暗い、明るい、で考えたことがなかったので、驚いた。
暗いところを出さないで、明るくなろうと努力している人もいる、とのことだったので、そうか、そうか、とも思った。
回復の過程はひとそれぞれなので、言わずに頑張る人もいるだろうし、話しながら回復する人もいるだろうし、人それぞれで、良いとか悪いとかもない。
何も言わずに明るく振る舞う人って、わたしから見ると自己陶酔しているように見えるけれど、それも好きずきだ。
気づかれないと支援も受けられない。支援を受けた方が生きるのは圧倒的に楽なので、わたしは楽な方が良い。

昨日は精神科に行き、ヘルパーさんに来てもらった。
自分が強いと思ったら、利用しないサービスだろう。わたしは自分のことを強いとも弱いとも思わなかったというか、そういう尺度で自分を測ろうと思わなかったので、そういう尺度で人を見る人は、自分のことを強い、弱い、暗い、明るいで測るんだろうと思った。
わたしは自分を測ることをやめたなと思った。
西洋医学では、部分を見てその人を良くしようとする。
だけど、足の先だけ見てここが悪いですね、と言っても、その人のことはわからない。
足が痛ければ腰も痛くなる。だから、全体を見るのが東洋医学だけれども、西洋医学と東洋医学が融合したら、人間を癒せるようになると思う。

病気を治す、というのは、わたしは幻想だと思っていて、治ることを助けられるだけなのだと思う。
治るのは自分のからだがやってくれる。医学はそれを手伝ってくれる。死なないようにコントロールしてくれる。とてもありがたい。

暗いことは好きだ。明るいことも好きだ。どちらでも良さがある。
明るいことは良いこと、と思うのは、古いだろう。
古いことが悪いかというとまた別の話だけれど。

暗いことを言わずに前向きに頑張る人たち、というのは、人の邪魔にならない。
だから、喜ばれる。
本当の強い人、という概念を人々は好きだ。
だからといって、その通りに振る舞う必要もない。
暗い、明るい、強い、弱い、で自分や他人を裁くと損だ。

ベシー占い 占い承ります。


恐ろしい獣はもういないの

恐ろしい人は恐ろしい姿をしているとは限らない。でも、恐ろしいことはきちんとして去っていく。

わたしのむき出しになった内蔵めがけてやって来て、一番栄養のあるところを食べていなくなる。
彼らはむき出しの内蔵を晒して生きている人間を捜すのがとてもうまい。
嗅覚が発達しているのだ。
内蔵を晒さざるを得なかった人に悪いところはひとつもない。
見つかることを「誘っているからだ」と言う人がいるが、誤りだ。

彼らは、獣だから、獲物を見つけるために生きているのだ。
彼らも生きるために、そうしているのだから、そう言う能力がある。
それに狙われるのは、その人が悪いからじゃない。
内蔵を晒したまま生きていることに気づけないように、環境があったから、しかたがない。

恐ろしい獣に内蔵を食われていることに気づかないで、でも恐れていて、という二重に辛いこともたくさんある。
痛いのに、何をされているのか、わかっていない。

わたしは恐ろしい獣がたくさんいることに気づいた。
そして、内蔵をしっかりからだの中にしまおうと思った。
しまうのは簡単だ。
内蔵が飛び出ていることに気づいたら、片付けるだけだ。
内蔵が飛び出るような出来事が続いていたから、飛び出ていただけで、好きで飛び出させていたわけじゃないから、自分を責めることすらない。
責める必要なんてある?自分がつらいだけで人に迷惑かけているわけじゃないんだから。
飛び出ていたものは仕方がない。
だいたいのことは仕方がない。
でも、気がついたときに、飛び出ていた内蔵はしまった方が良い。
獣はいつでもうろついている。

恐ろしい獣たちは、優しい言葉や、無理に自己開示をして、境界にばりばり押し入って来たり、穏やかな態度をしていたり、傷ついた姿をしていたり、守りたくなったりする形をしている。
そうして、心のスペースを奪っていく。

わたしの話をしていたはずが、自分の話になって、「あなたはまだそんなに苦労していない」と言うことを告げたり、「自分の方がたいへん」と言ったりして、わたしの気持ちを無視する。
「あなたのためを思っていっているのよ」と言ったり「あなたの友だちは良くない」と言ったり、「イエスマンだけまわりにおいたら悪い方向に行くよ」と悪い予言をする。

わたしの心はむき出しだったので、その言葉がぐさぐさ刺さった。そして、その言葉を受け入れないといけないと、必死になって受け入れようとしたり、逆に拒絶するために一生懸命になることで、疲れ果てていた。

頭の中の呪いが解けて、その人たちは自分の考えの中でしか話していないことがわかって来た。
だから、真に受けないで、そういう言葉があった、ってことを一度ためておく余裕ができた。
怖い言葉を一度、棚にしまって、体調の良いときに取り出して、触ったり、眺めたり、分析したりしてから、必要だったら取り入れて、そうじゃなければ、捨ててしまう。なんなら、そのまま忘れてしまっても良い。

お前は恐ろしい獣になるに違いない、お前のせいで傷ついた、お前がケアしないせいで、俺は死ぬ、という言葉を投げかけられていたから、わたしは人を傷つけることや、自分が恐ろしい存在になることが怖かった。
だから、自信がなかった。自分が人間かどうかについて、自信がなかった。
不完全な人間だから、恐ろしい獣になって、人を食い殺すんじゃないかと心配だった。

人の心がわかっていない、非情、と言われて育ったから、わたしは人に優しくないのだろうと思って、気をつけるようになった。
だから、疲れやすかった。

あなたはこんなこともできないのね、と言われていたので、わたしはこんなこともできないんだ、と思った。

でも、そうじゃない。
人は、それぞれできないことがある。そして、それで良い。
できないことがあったからといって、恐ろしい獣になるわけじゃない。
できないことを責める人が、恐ろしい獣なのだ。人の弱みを食い物にして、自分の自尊心や優位性を守る獣なのだ。

わたしは長いこと、自分の内蔵をむき出しのまま晒していた。
しまう方法を教えてもらっていなかったり、しまった方が良いよ、と言われなかったり、むしろ、むき出しのままでいた方が正直で人に好かれるんだよと教え込まれていた気がする。

わたしは大人になって、だけど、あなたはここが悪い、と言われて、あなたを良くするために言うのよ、と言う人がいて、そうかあ、わたしはだめなんだな、とすっかり鵜呑みにしていた。でも、そうじゃないんだね。

弱いことや出来ないことがあるのは、悪じゃない。悪だとしても、それで良い。
人間は全体として良い感じだったら、それで良い。全体として良ければ、弱いところを補い合って、助け合って生きていければ大丈夫。
人の内蔵にずかずか踏み入って、お前の内蔵は良くないって言うよりも、相手の意思を尊重して、できないことを助けて、出来ることをしていった方が、人間らしいんだ。弱いことは悪いことじゃない。
悪いことは、人のことを尊重できないことが悪いこと。人の領域に踏み入ってしまうことが悪いこと。
それをしなかったら、だいたいまともな人間だ。

自己表現するときには、綺麗な包装紙で包んで、相手が受け取りやすくする。
むき出しの自己表現は相手を驚かせてしまう。
だけど、それだって、悪いことってわけじゃない。少しずつ学べるようなことだ。

わたしはいろいろな人に聞いたのだけど、わたしは人間関係をけっこううまく築けているっぽい。
依存もしておらず、適切な距離で、大人の対応をしながら、交友関係を広げている。
ブログを通して、友だちになった人もたくさんいる。みんな親切で優しい。
わたしの苦手なことを受け入れて、できることを褒めてくれる。
居心地が良い人間関係だ。わたしも、相手の人のことを好きだし、褒める。情報交換もする。

ときどきは、友だちに会いに遠いところまで出かけていく。そうすると、不思議なことに、自分の住んでいるところから距離が離れただけで、自分を発見し直せているような気がする。
わたしは恐ろしい人じゃない、と友だちに言われて、本当にほっとした。
わたしが、人に対して、されたことで、悔しく思ったり、怒ったりすることも、当たり前だし、ほんのちょっとなら、やり返しても良いんじゃないの?と言われた。

そうか、と思った。

わたしは無理に優しくあったり、正直でいたりしないと許してもらえないんだと思っていた。
だから、内蔵を獣たちに食われていた。

だけど、わたしは内蔵をきちんと体内に納めることにした。
だから、恐ろしい獣はもう来ない。
わたし自身も恐ろしい獣にならない。
だから、もう、恐ろしい獣はいないの。

ここにいるのは優しい人間たちだけなの。

このエントリを読んで、わたしも逃げられるようになって来たなと思った。
わたしはあなたを救えない、と思うこと、理解することは、自分や、他人を守る上でとても大事なことだ。t.co

ベシー占い 占い承ります。