出産を経て毒親には一生会わなくていいという確信を得た

出産直前、親にされた仕打ちを思い出して、のたうち回って、号泣して過呼吸になった。
自分が、子供に同じことをしないか同じ気持ちにならないか心配で、うつ状態にもなった。

産んでわかったのは、赤ちゃんは信じられないほどかわいいということ。
そして、弱いということ。
弱いから、わたしに愛されなければ、死んでしまう。だからか、わたしが「かわいい」と思うような行動をしてくれる。
モロー反応、新生児微笑は、親が子供を育てやすくする。そのための本能だと思う。
それがわかっていても、もちろん、かわいい。
嗅覚で、わたしを判断するから、ねぐずりがひどいとき、わたしの布団で添い寝すると安心して眠る。
抱っこも好きだし、わたしが歌うと喜んでにこにこしたり、おしゃべりしてくれる。
ほかの大人と夢中になって話すと、こっちを見て、というように、服を引っ張って、うにゃうにゃ言い、反応しないと眉をしかめ、返事をするとにっこりする。
柔らかくて暖かくていいにおいがする。

こんなに、弱くて、小さな存在を、どうして、いじめるんだろうか。
そのいじめる理由があったとしても、それは許されない。

わたしは今でも親にされたいじめ、虐待を思いだせる。忘れたとしても、パートナーが覚えていて、証人になってくれる。
子供を会わせないのはかわいそうかもと思ったことが、出産直後の夜に、看護士が痛み止めを意地悪でなぜか出さなかった(医者は出すように指示を出していたのに、従わなかった)ときにあった。たぶん、いじめられて、気持ちが弱ったんだろう。
そのときも、手紙を書いて、わたしは会わないで、外でパートナーに赤ちゃんを連れて行ってもらって、そこで面会するというストーリーを考えた。会うのはそういう時でも無理だった。
会うことを考えると、身体症状が出る。それほどのいじめをしたのは、彼らで、だから、会えないのは彼らの自業自得。彼らは、したことをしていないという。記憶をすり替えることができるみたいだ。

子供は小さくて弱くてかわいいから、絶対にいじめてはいけない。いじめる気持ちも全然わからない。わかりたくもない。
彼らは異常者。
悩んでいる人に言いたいのは、赤ちゃんや子供をいじめる人に、どんな理由があっても、許す理由にはならないから、一生会わなくていいよ、ってこと。
子供を産んでから確信が持てた。あいつらは屑だ。


セクシャルマイノリティについて、思うこと

わたしがセクシャルマイノリティについて、初めて認識したのは、「クィア」という言葉であった。
クィアジャパンという雑誌があることを、上野千鶴子先生の論文で知った。
だから、「クィア」な人がいるんだなと思った。
新井さんの漫画、「性別がない」では、ひげを生やした女、ちんこのある女、女になったり男になったりする体の持ち主がいることを知った。


そして、ずいぶん年月が経ってから、トランスという言葉や、セクシャルマイノリティ、アセクシャルという言葉を知った。
ゲイという言い方をしたほうがいいことや、レズビアンときちんというべきだということも知った。

クィアジャパンの著者は、たとえ、偏見がある記述でも、「論文」に「ゲイ」が取り上げられたことをうれしく思ったと書いていた。存在を肯定され、公に認知されたと。(そういう時代だったということ。ないものと扱われているような時代背景だったから。今では当然状況が違う)

わたしが、独学で勉強したのはもう十年以上前のことだが、そのころ、フェミニストと呼ばれる人たちは、熱心に「クィア」な人と関わろうとしていたように思う。
「比較文化」を研究している先生に、ゲイ男性を紹介され、話したことや、迫害されてきた人種の人と話せたことはいい経験になった。その先生とは袂を分かつことになるが。

だから、わたしは、ネットで、セクシャルマイノリティの人の発言を見るまでは、フェミニズムと、セクシャルマイノリティは、親和性が高いと信じていた。ジェンダーの問題と、セクシャリティは、とても近いところにあるから。

だけれど、トランス女性、トランス男性が「性的規範」に非常に忠実な人も多いこと、ゲイカップルや、レズビアンカップルが結婚の権利を求めている人もいることを知って、わたしはがっかりしてしまった。
それらは、わたしの打ち壊すべき課題だったから。
戸籍制度も、性的規範も、女性差別の温床だ。

シスヘテロが、何も苦労しなくても、結婚できるのに、そうじゃない人にはそれができないのは、不公平だという意見を見ても、もやもやしていた。しスジェンダー、ヘテロには、結婚を求めるなとは言わないのにという意見だった。
わたしの知っている限り、フェミニストたちは、結婚をボイコットする人たちもいたし、結婚制度に反対をしている人もいたから、それは事実誤認だと思った。だから、もやもやした。

わたし自身は、事実婚を選んだ。それで、わかったのだけど、異性愛の場合は、今までいろいろな人が戦ってきてくれたおかげで、どこにいっても、事実婚だということを話しても、夫婦として扱ってくれる。帝王切開の時のサインも、無事、姓の違うパートナーが書いた。姓が違うことについて、誰も事情を聴かなかった。
事情を聴かれたのは、福祉の支援をしてくれる役所の人くらいだ。それで、ようやく、わたしは、「家族」を作るうえでの自分の特権性に気づいた。同性愛者は、きっと、こんなにすんなり、家族扱いされないから、結婚という形を求めるんだということに気づいた。

また、トランス女性やトランス男性が、性的規範を強く身に着ける理由もわかった。
ツイッターで、トランス女性に「おっさん」と言った人がいたのだ。こんなひどいことをどうしていう人がいるのかと思った。
本物の女性かどうか、わたしは、判断されない。女らしくないとののしられたり嫌がらせされたりすることはあるが、女か自体は疑われない。それは、誰が見ても女だからだ。
でも、男の体を持っている人は、本物の女かどうか、振舞いから採点されてしまう。
だから、「真の女」の基準を探してその通りにふるまうとしたら、規範が必要になるんではないかと思った。

また、トランス女性は、たぶん、成長する間に、「女性ならではの嫌な思い」にはあっていない。
女の児童として暮らしているときの、あらゆる差別を、実際に受けていない。
(最初に性被害を聞いたのは、年中の時。近所のお兄さんが侵しをくれる代わりに触ると言っていた子がいた)
もちろん、セクシャルマイノリティとしての差別は受けていたと思うが、わたしの経験とは異なるものだろう。
そういうことに思い当たった。

ゲイは、男性だから、男社会の恩恵を受けている。
だから、女性差別についてはもっとぴんと来ないだろう。

そういう意味で、セクシャルマイノリティだからと言って、フェミニストであるとか、フェミニズムについて詳しいとは限らないのだ、ということがわかった。あえていうと、ミソジニーのセクシャルマイノリティもいるのだろうと。

それは、フェミニズムの本を通して、セクシャルマイノリティという存在を知ったわたしにとって、衝撃だった。

でも、考えてみれば、セクシャルマジョリティの多くは、女性嫌悪であり、女性差別者である。

わたしの知る限り、フェミニストたちは、セクシャルマイノリティのことを考えることで、フェミニズムについての考えも深めてきた歴史がある。
(もちろん、その過程で、いろいろいいことも悪いこともあったと思う。前述した上野千鶴子先生の論文にもゲイへの偏見があった)

だからといって、彼らがフェミニストであることを求められないし、必要以上に彼らに期待しないこと、つまり、セクシャルマジョリティへの同じくらいの失望で済ませるべきだ、と思った。
だって、わたしは、フェミニストだが、セクシャルマイノリティに対して、関心もあるし、学びたいと思っているが、一生、きっとわからないこともあって、間違い続けるだろうから。
わたし自身も、クィアと言っていい部分がないわけじゃない。でも、わたしがわかっているのは、わたしのことだけだ。
わたしのことだって、全部わかっているわけじゃない。

フェミニストでも、セクシャルマイノリティに対して、暴言を吐いたり、差別いたりする人がいる。

だったら、セクシャルマイノリティに、女性差別する人がいても、当たり前だろう。

それがいいと思っているわけじゃない。

差別は悪いことだから。

どうして、こういう危うい記事を書いたかというと、自戒のためであり、わたしの途中経過を記したかったから。
こういう属性の人は、こういうことをしないはず、思わないはず、詳しいはず、という思い込みは、道を誤る。
だから、思い込まずに、行動したり、話したり、したいな、と思った。
(わたしは、小学四年生まで、いつかちんこが生えてくると信じてずっと待っていた)

健常者にも、障害者にも、セクシャルマイノリティにも、セクシャルマジョリティにも、フェミニストにも、いろいろな人がいて、いろいろ間違っているということがありうるということ。

わたし自身も間違える。
ただ、正しい、正しくないで分けること自体が「ノーマルかどうか」を分けた差別構造と同じになってしまうから、それだけは気を付けたい。差別をしない、排除をしない、してしまったときは改める。
差別をしていた人が改めたとき、それを文章にして公開することを責める風潮があるけど、わたしはそれに反対。
その文章で傷つく人もいるのはわかるけど、変わった人をわたしは歓迎したい。チャラにはしない。


フェミニズムと差別、差別されることと排除

今日は、フェミニストが、差別者に向かって「精神疾患持ちの男は」という言い方でののしっていた。
個人的には、悪口を言おうが暴言を吐こうが、好きにしたらいいと思う立場なのだけど、精神疾患を持っているわたしは、泣いてしまった。
精神疾患は、虐待や差別がトリガーになって、発症することも多い。それが、「差別をする人間」として、「精神疾患を持つ人間は差別する」という偏見を下敷きにして、ののしる言葉に使われたので、ショックだった。

女性差別が原因で、精神疾患になった人だっているのだ。
(たとえば、教育熱心な母に抑圧されて、もしくは、境界を侵害され、人生を乗っ取られてしまったという場合は、もともと、その母が自分の人生を生きてこれなかったという原因がある。その母をそのような境遇に追いやったのは誰なのかということだ。親は大人だから、自分で自分の問題を解決すべきだが)

アルコール依存症をはじめとして、あらゆる依存症は、女性差別が原因になる場合も多い。
男性なら、男らしさを背負うことや、戦争から復帰してからのPTSDを紛らわすための飲酒、女性なら、社会と隔絶させられたためのキッチンドランカー。
体を与えなければ愛されないと思い込んだセックス依存症。
痩せないといけないと思ってしまって始める摂食障害。ストレスを紛らわせるための過食。成熟した体になることを避けるためにもなる。
リストカットをはじめとした自傷も若い女性に多いのは、若い女性の背負わされている現実があまりにつらすぎるからだと思っている。
統合失調症や双極性障害、うつ病が発症するときも、虐待が原因だったり、ストレスが原因だったりする。
その症状も、差別への反応ということも少なからずある。

わたしにとって、フェミニズムとあらゆる差別、帝国主義、貧困、学歴主義、国籍や、戸籍制度、セクシャリティによる差別、夫婦別姓、既婚未婚、子を持つか持たないか、からはじまって、それらは同じ問題だと思っている。
たとえば、女性たちがマルチ商法や自然食品から始まるカルトにはまることも、結局差別が原因だと思っている。

天皇制度、在日韓国人差別、沖縄や北海道の差別などが地続きだ。一つのイシューとして認識している。差別は排除である。分断である。
帝国主義は男たちが始めた。そして、女性は、社会の中心から追いやられてきた。
マイノリティは、一つの差別しか受けないわけじゃない。
マイノリティは、複合的なマイノリティの要素を持つ。
(もしくは、あるイシューではマイノリティでも、そのほかのイシューではマジョリティで誰かを迫害してる場合も多い)
健康な、年に住む男性をモデルにした社会は、それ以外の人たちを「ノーマルじゃないもの」として排除する。
そして、わたしたちは、病む。

わたしは、きちがい、という言葉は比較的平気だ。それは、病名じゃないから、少し遠い言葉として感じる。だからといって、使っていいとも思わない。わたしが精神疾患もちは、差別をする人間だ、と言われて、涙が出るのと同じ気持ちをほかの人に味合わせるからだ。

わたしは、「野に放たれた頭のおかしい人」という言葉を身内同士では使う。例えば、妊婦にけりを入れる人間、障害者であるわたしに「子供は親も障害を持って生まれることも、選んで生まれてきた」と言ってくる人間に関して、「頭がおかしい」以外の言葉を知らないからだ。もっと適切な言葉があればもちろん言い換えるけれど。まだ、適切な言い方が見つからない。

精神疾患を持っている、という辞任を持っている人は、自分と向き合っていると思っている。
病気を認識して、症状をコントロールしようとしているからだ。

もちろん、「野に放たれた頭のおかしい人」という言い方も問題がある。
医療にアクセスできない人がいて、その人を踏みにじるからだ。
(精神疾患への差別や偏見を持ってるから医療にいけない人もいるという皮肉な事態もある)
これも、わたしは当事者だったことがあった。
家庭内で、「頭がおかしい」「ボーダーだ」と言われていて、境界性人格障害の症例を読まされたことがあった。
カウンセリングの資格を取ろうとしていた母の練習台に日常的にされていた。
これから、練習させてね、と言ってするんじゃなくて、普段から頭がおかしいから、カウンセリングの方法を利用して会話するという感じだ。
わたしは、高校生の時に、不眠や幻聴が聞こえて、限界だと思った。
それで、精神科に行きたいと言った。そうしたら、「就職差別される」と言われて、行かせてもらえなかった。
(産婦人科も、行かせてもらえなかった。子宮内膜症だったのに)

わたしは、二十歳の誕生日に母から三歳児対象のおもちゃを渡された。泣いて講義したら、「一緒に遊ぼうと思った」と言われた。就職するなとも言われた。わたしは、頭のおかしい、永遠の幼児として扱われていた。
だから、「野に放たれた頭のおかしい人」というのは、つまり、医療につながれない精神疾患の人、という受け取り方もされる。
わたしが言いたいことが、たとえ「妊婦などの弱者に、肉体的、精神的な攻撃をする人」「加害をためらわずする人」「無知からカルトにはまり、それゆえ、他人を傷つける人」を「頭のおかしい人」と言いたくても、やっぱり不適切なのだ。

精神疾患で、かつ、女性差別者もいるだろう。でも、健常者で、かつ、差別者もいっぱいいる。

フェミニストばかりが、いい子でいないといけないのか、トーンポリシングだ、という言い分もよくわかる。
でも、差別されたとき、わたしは、同じ言論空間からいられない。
差別は、排除なのだ。
一緒にフェミニズムについて語る隣の人が、精神疾患だった、ということは往々にある。
わたしたちは、隠すつもりはなくても、わざわざどんな障害を持っているか、どんな病気を持っているか、どんなセクシャリティ化は言わない。だから、知らないうちに、誰かを排除していることがある。

悪い言葉を使うことも、暴言を吐くことも、ののしることも、わたしは止めない。必要な部分がある。
わたしも言いたいときがある。妊婦時代に、けりを入れられそうになった時、「死ねクソじじい」と怒鳴った。
それは、わたしの回復のために必要不可欠な罵り言葉で、ののしってよかったと心底思っている。
ののしらなかったら、今も、ダメージを引きずっていただろう。

(とはいえ、その事件以降、昼間であっても一人で歩いたことが、いまだに一度もない。暴力は自由を剥奪する)

差別は誰かを傷つけるから、不快にするから、いけないのだというのは一面に過ぎない。
隣にいる人間を「いないもの」にしてしまうから駄目なのだ。それは、死を呼ぶ。
わたしも死んでしまいたかった。
わたしは、「それは精神疾患への差別ですよ」とは言えなかった。
わたしの心は折れてしまっていたから。

わたしは、その場から、消える。


フェミニズムという言葉を知らないまま闘っていた

わたしが生まれたのは、80年代だった。
機会均等法が制定され、女性たちが力づき、三十歳での定年が撤廃され、結婚してもしなくても、男と同じように就職ができるようになったころだ。
そして、女たちは、女性の活躍、社会進出を胸に生き始めた。
そんなころ、わたしは生まれた。
日本中が好景気に沸き立ち、いい面も悪い面もあった。公害はひどかった。長時間働くことで、欧米に勝って行ったので、非常に不評を得ていた。お金のめぐりが良いと、人間には余裕が生まれる。だから、文化面では、下種な部分、高貴な部分が入り混じっていた。

祖母の世代は、戦争によって男たちがいなくなったから、それまで男しか働くことができない世界に働きに出て、やればできるという感触を得た。そして、戦争が終わってから、家に引っ込められた(とはいっても、家事以外の仕事も担わされていた。賃金の出る仕事以外全部を女性たちはしていた。農作業含めて)。だから、戦後に、女性運動が盛んになった。

女たちは最初から社会で活躍しており、ずっと働いていたのだが、どんどん見えない存在になっていった。
わたしの母は、勉強をすることと、働くことと、良い妻良い母になることを求められ、引き裂かれた世代だ。

田嶋陽子さんがテレビに出ていた。ひどい悪口を言われていて、あんな女になるなと外で言われた。
母は、わたしに「手に職をつけて一人で生きていけるように」といい、田嶋陽子さんのエッセイの本を買ってきた。

ひどい家庭環境だった。

わたしには、情報が、テレビか、新聞か、図書館の本しかなかった。
小学生の時には、名簿が男から呼ばれることがおかしいと教師に訴えた。片付けをするのが女なのもおかしいと。
高校生になったとき、元男子校だったから、歴代の生徒会長が男性だったのが、初めて、女性の生徒会長が生まれた。
わたしの学年は、男女比が、均等になった。
(今は女性のほうが少し多いのだという)
女の成績が、男子と同じくらいか、少ししか上ではないとだと、男子のために、一つランクの低い高校を受けさせられる時代だった。だから、進学校に入るためには、とびぬけて、成績がよくないと、入試自体を受けられなかった。

ネットはあった。わたしは、将来の投資、これからの世の中にはパソコンが必要だと母が認識していたため、パソコンを買ってもらうことができた。
高価だった。
フロッピーデスクを何枚も入れて、OSをセットアップした。
電話回線を使って、テレホーダイが出るまでは、ひやひやしながら接続した。

ネットではチャットが盛んだったが、わたしは、そもそも「フェミニズム」という言葉をまだ知らなかった。
ウーマンリブ、女性運動、そういう言葉でしか知らなかった。

高校の時の図書館には、女性問題を扱った本があった。
地域の図書館にもあった。そこで、代理母の問題や、戸籍制度、国籍の問題、相続の問題を知った。
民法は古い法律だ。当時、若い学者が、もっと男女平等な法律を提案したのだが、つぶされてしまったそうだ。
だから、わたしが大学生になった当時も、夫婦別姓や、非嫡出子差別、介護をした嫁に相続権がない問題を扱って闘っていたのは、当時の学者だった。
今ある問題は、戦争に負けてからずっと議論されている問題だと知った。
新しい問題じゃなかった。

わたしは紆余曲折を経て、東京の私大に入学した。
わたしの母は、法律に関係した名前である。祖母が、法律を勉強してほしいと願ってつけた名前だそうだ。でも、彼女は、法律を勉強しなかった。それで、わたしは、法学部を選んだ。

当時、大学の情報を得るのには、パンフレットを請求するほかなかった。
どこにフェミニズム研究者がいるか、わからなかった。調べることが難しかった。そもそも、わたしはフェミニズムという言葉をまだそのころ知らなかったから、アクセスのしようがなかった。

入学した大学には、もちろん、女性問題を研究する研究者がいた。
でも、法学部で、学部生を教える先生はいなかった。
だから、わたしは、図書館で、田嶋先生の本を読んだ。上野千鶴子先生が有名だと知ってからは、上野千鶴子先生の著書や論文を読んだ。参考文献や注釈に書いてある本を探して読んだ。
ゼミは家族法を取ったので、家族問題に関する判例をあさっては読んだ。
詳しい人が周りにいなかったから、自分なりに考えて、どういう本があるのか、調べて、芋づる式に探すしかなかった。
ジェンダーという言葉も、クィアという言葉も、性的指向、性的自認という言葉もその時に初めて知った。
ジェンダーロール、役割、家父長制、天皇制が差別構造を維持していること、差別は、構造の問題だということ、権力問題だということ、パラダイムシフト、そういう言葉を一つ一つ調べながら読んだ。調べるといっても、辞書に載っているわけじゃないので、言葉一つ調べるのにも一苦労だった。
女性運動でどんな人がいてどんな議論があったのかも、できるだけ追ったが、きっと空白はある。

勉強すれば、フェミニズムのことはわかる。
今まで議論されていたことに、今の問題と重なることも多く、すでに結論が出ている。
だが、そもそも勉強することが難しい。

本にアクセスできる環境、体力、読み解く力、本を選ぶ力、そういうもろもろのものがないと、難しいのだ。
知りたいといっても、拒絶されることがある。
わたしは、ツイッターが始まったとき、「レズビアンアクティビスト」にコンタクトを取って、フェミニズムに興味がある、と伝えた。ちゃんと礼儀正しく、はじめまして、こういう問題に興味があります、と。でも、嘲笑された。真剣だったのに。
今は、どうして嘲笑されたのかわかる。その人は、知りたいと言いながら攻撃された経験がずっとあったのだろう。
もしくは、知りたいと言ってくる人間が、自分で努力しないで相手のコストを盗み取ることが多すぎたのだろう。

ただ、わたしは、その時ショックを受けた。
わたしは、勇気を出して、初めて、人にコンタクトを取り、話し合いたいと願っていたから。

わたしは、高校生の時からずっとホームページ、ブログと形は変えても、ずっと文章を書き続けている。
それは、世の中を変えたいと思っているからというよりも、孤独だった自分に向けて、自分の考えを整理するために書いていた。そして、孤独な誰かに届けばいいと願ってもいた。一人で勉強していたわたしのような人。
わからないことを知りたいと言ってくる人。

わたしは東京に出て勉強をすることができた。
今の若い人にはわからないかもしれないが、情報も学問も遊びも仕事も、そして人も、東京にしかなかったから、東京に出る意味があった。
わたしは、勉強をすることができない人の無念を背負って勉強していた。
うすうす、勉強ができる期間は東京で学生をしている短い期間だけだと知っていたから、必死だった。

わたしは、クソオスという言葉を使わない。それは、面倒だから。
そんなことで突っ込まれて、説明するよりは、ほかの言葉を使ったほうが楽だ。
そして、わたしにはその技術がある。
でも、その技術がない人もいる。

偏差値が50あっても、論説文になると、言葉を拾い上げて、そのイメージをつなげて、読んだという風に思う人がたくさんいる。
論理的な文章を読めない人が世の中の半分以上いるとわたしは思っている。

勉強をすればわかる、すでに終わっている議論がある。でも、本を読む状況にない人、能力がない人もいっぱいいる。

わたしは、結局凡人で、なにものにもなれなかった。

ただのわたし。でも、ただのわたしが、生きていた、勉強をしたということに意味があったと思う。今もあると思う。
わたしは、知りたかった。
この世のすべてを。

差別的なことをいうフェミニストもいる。
でも、そういう人を排除してはいけない。批判はもちろんするべきだ。
間違った人を排除していったら、昔のわたしは排除されて、勉強をやめていただろう。
そうしたら、間違ったまま、生きていた。

今だって、わたしは、間違っていることをきっとたくさんしている。間違っていることも認識できないでいるから。

だから、本物のフェミニスト、偽物のフェミニスト、と分けることはわたしはしないようにしたい。
それは、ある意味で、過去、未来、現在のわたしを、わたしから排除したくないという保身でもある。

思想のラベルが同じだからと言って、仲間だとも限らない。友達でもない。わたしは思想のラベルで仲良くしない。
人間観関係を優先して、言うべきことを差し控えることもしない。

トランス女性を、おっさんと揶揄したフェミニストがいた。
わたしは、それを差別発言だと思う。批判する。
気に食わないことを言う人がいても、性自認を否定することは許されない。

でも、やっぱり、その人がフェミニストであることも、わたしは否定できない。
いろんな人がいる。仲良くする必要もない。

わたしは、フェミニズムという言葉を知らなかったときから、フェミニストだ。
わたしは、フェミニズムの過去を背負いたい。
女性の無念を背負いたい。そして、次世代には背負わせたくない。だから、フェミニストと自認して、そういう風に言う。


反差別の中にも別の差別がある

一か月ぶりのブログだ恐ろしい。
睡眠障害が悪化していて、あまり眠れていないのだ。

(今日のエントリはすごく長い、長いので書くのにすごく時間がかかったし、冗長だという自覚はあるので注意されたし)
(短くまとめると、左翼は天皇制には反対するけど、帝国主義的なものはスルーするんかい、スルーするならエセ左翼と言われるくらいは甘んじろよという話です)

それはそうとして、在日韓国人が「日本のチャンジャのほうが韓国のチャンジャよりもご飯に合う。韓国のチャンジャは甘い」と言ったことに対して「甘いとは何事だ」「本場の人に対してそういう風に言うとは」「怒られても当然」という反応があり、そして、それに対して「エセ左翼」と彼が返していたら、非難されていたんですよね。

(解説すると、日本料理を韓国人がくさすときに、「甘い」という言い方をするらしいんですね、だから、韓国人の彼は、日本人の血を引く人間から言われた甘いという言葉をバカにされたと解釈したようだ、複雑な話だ)

あーむかついた。
なんでかというとですね、文化を抑圧することで植民地支配してきた歴史が日本にはある。
帝国主義を採用していた国(列強)は全部そうだ。
そして、日本は、在日韓国人(朝鮮人)を強制連行して、働かせていたのだ。
わたしの身の回りでも、松代で、天皇が住む予定だった地下防空壕を朝鮮人が掘ってたくさん亡くなった。

で、「本場の~」発言をしていた人たちは少なくとも右翼ではなくたぶん左翼思想の人たちで、左翼というのは「天皇制度」を否定する人なんだから、少なくとも、「天皇制」という差別については反対している人なんだと思う。

だから、在日外国人差別に対して「えせ」と言われるのは、文脈上仕方がないというか言われるじゃんねと思った。
文化を通して、人を侮辱する、アイデンティティを剥奪するということを実際やってきておいて、そして、今平成になってからもそれを言うのは、権力構造の維持、差別そのものだ。そういうのを批判したいんじゃないんですか左翼は。

また、「本場の~」を言ったのは韓国人だったらしいから、在日韓国人の彼は「お前は日本人でも韓国人でもない、お前が語れる文化はない」と言われたのも同然。

そもそも、左翼運動は、わたしの知っている範囲では「健康」「東京在住」「男性」「日本人」に偏りすぎている。
そして、そのことがいまだに問題になっている。運動の中でのセクハラ、女性におさんどんをさせる、表に出るのは男性ばかり、ってまだそうだからさ。ばっかじゃないの。

あさま山荘事件で、女性性を利用する、女性性を自己批判させる(そして、殺す)ということがあったのに、反省が足りてないんじゃないですかね。

これは、「エセ左翼は無礼」かもしれない。でもね、このツイートは差別発言だ。無礼と差別なら差別のほうが悪い。
「本場の~」も差別発言だが、このツイート自体も差別発言なんだよ、差別に加担したの。加害者なのよ。

他人事みたいに言っているけど、自分が差別しているんだよね。
解説みたいな風を装っているし、本人もそのつもりだろうけど、差別に解説なんてないよ。どっちかのサイドしかない。

左翼については当事者意識があるから痛みを感じるけど、在日韓国人(の何世か)の痛みはわからないといっているわけ。相手の態度が気に食わないんじゃなくて相手の態度が差別そのものだから、彼は、抗議しているんだけど、「差別をしていることを指摘されて、気づいたら、反省して、改めよう」という話が、抗議者への抑圧として作用しているんだよね。抗議だからそりゃあ、無礼な形になる場合もあるけど、無礼なのが常にダメなのかというとだめじゃない。

もともと言葉は、場面によっていいも悪いも変わるものだ、でも、いちいち全部考えて不適切か適切か、自分だけでは決められない、だって、相手の属性がオープンだとは限らないからさ、だから、PCというものが、次善の策としてあるわけだけど、PCが差別の後押しとして作用するんじゃルール作っている意味がないんだよね。

差別は悪いが、無礼は悪いとは限らないんだよ。権力者、権力構造に歯向かう以上、それは無礼だと思われることを避けられないんだから、「本場の(韓国料理が口に合わないというなんて)」という発言はスルー出来るのは、当事者じゃないからだ。それって、特権ですよ。でも、左翼だということには当事者意識があるから「えせ左翼」にはスルー出来ない。
比較していいことか悪いことかというといいことだと思うんで比較するけど、「本場の味を否定するな」という言い方と、「えせ左翼」という言い方がどっちが悪いかというと「本場の味を否定するな」だよ。しかも、在日韓国人の彼は「好みじゃない」と言っただけだから別に否定しているわけじゃないんだよ。
しかも、否定していい話なんだよ。

ある文化、ある味覚と、自分のアイデンティティが一体になっているから、「好みじゃない」と言われたり「嫌いだ」と言われて、ショックを受けることができる。
それは、アイデンティティの境界がだいぶ緩んでいる証左だから、言った側じゃなくて言われた側の問題だ。
そういう問題の在り方の切り分けができてない人が「本場の味」がどうこう言ったんだし、「えせ左翼」という言葉に反応した人もやっぱり切り分けができてない。依存しているんだよね属性に。まあおかしいこと。
自意識を依存できる属性を持っているというのは特権なんだよね。

「無礼だ」と思える余裕がある時点で、「自分が特権者だ」と疑ったほうがいいわけだ。


これとかなんでだめなんじゃ、と思う。
たぶん、左翼を分断するんじゃねえという話だと思うんだけど。
だって、左翼はもう自分から分断しているんだよね、女性をね。左翼とフェミニストはずっと最初から共闘できない。
左翼思想の鬼子としてフェミニズム思想が生まれたのだけれど、左翼がフェミニストになんかしてくれるかというとしてくれない。(してくれということじゃない)

女性同士でも分断されているんだから、今更すぎる。
女性たちは、立場によって分断されるように社会がずっとそういう体制を維持してきたから、今だって連携できるかというとできてない。だいたい、自由に女同士で会って話せるかというとそうじゃないでしょう。
シングルでも、既婚者でも、働いていても無職でも時間がない体力がないお金がないお金があっても自由がないとかで集えない状況がずっと続いていて、SNSでも、生活が違いすぎて話が成り立たない状況が今だってある。

左翼運動できるのは、前述したように「男性」「健康」「日本人」「東京在住」な人だけだからね。夜中に官邸前に集まろうと言ったって、例えばわたしは「具合が悪い」「地方から行くには新幹線か高速バスに乗るしかない(デモが終わった後には移動手段がないし、直前に言われて身軽に動けない)」「夜中に人ごみに行くにはパニック障害が出る(夜に性犯罪に遭ったことがある)」からできないんだよね。

というわけで、

こういう発言もわたしからするとナイーブすぎる。
エセ左翼には突っ込めるのに、本場の~には突っ込まないんだったら黙ってたらいいんじゃないの、最低限と思う。
別に二人とも嫌いなわけじゃないんだけど(というフォローが必要だと思うそういう状況自体が腹立つけど、なんでわたしが気を使ないといけないんだと自分に腹が立つよね)

正しい文化、正しい振舞い、それを強いることは支配だし、アイデンティティの改変を強いてきた立場の人間はそれを省みる必要があるよ。歴史的にも。とくに、健康な、日本人、男性、東京在住、のどれかに該当したら気を付けた方がいい。
だって、病院いけとか、それの援用であてこすったわけじゃない。
冷静になれば、この話は権力構造と周縁の話だとわかるのにわからないから、冷静になるべきだと思うし、左翼なら周縁化の話がわかってもいいと思う。

「冷静になれ」と言われても仕方がない立場の人が、言われても仕方がない場面で言われてるのに「冷静になれ」と言っている人を見るのに耐えられないんだよね。

本場の~が差別発言だと思うならそれを先に言うべきだし、「虐げられた」って言葉を使うなら、まさに「日本人(ゆーきむさんもこのざまさんも、たぶん日本人だろう)」が「在日韓国人」を虐げてきたわけで、自分を「虐げられてきた側」に感情移入しているのに、在日韓国人の虐げられてきた状況には感情移入できないのはどういうことなんだろう。今回は意味が正しいからOKになるよ。正しかったらOKでしょうよ。

(これ読んでもスルーしてたり、相対化して、彼にも悪いところがあるとか、解説したりとかそういう人もみんな差別者だよ。いつでも対応する必要はないけど、差別者ではあるのだ。わたしだって、体力ないからしょっちゅう差別発言スルーしているよ。でも、スルー出来るのは、差別されてない側だからだよね。わたしは差別者だ。そのうえでこの文章を書くんだ)

抗議者は正しかろうと正しくなかろうと、「言葉に気をつけろ」と抑圧される状況がある。
フェミニストもそうだ。女性ばかりが正しい振る舞いを女性ゆえに要求される。被差別者というのは、ふるまいとして、従順さも要求されるからだ。
(だから、差別される側の人種は、人種の特徴として従順と言われるよね。アジア人は従順でおとなしいといわれることとか)

以前エッセイで、インド人の歩き方がイギリス軍隊式だった、英語のアクセントもイギリス式だったというのを読んだことがある。
日本人で言うとお辞儀も、幕府から今の政府に代わったときに改められて、今も続いているよね、誰に支配されるかで歩き方もお辞儀の仕方、作法、食べ物、言葉、住む場所、職業も左右されるんで、それは現代の話なんだ。
首都と地方だと、発電所もごみ処理所もダムも地方に作られて、現在進行形で(人がいなくなった金がなくなったなどいろいろな理由だけど、つまり政治の結果だよね)村がなくなって文化ごと消えている現状がある。
日本人同士でも文化や住むところが消える、しぐさ食べるもの話す言葉の抑圧があるのに、そういうのを普段見なくて済んでいるゆえに考えてこなかったことじゃないのか。

わたしは、人間じゃない、感情がないと言われてきたから、日本人じゃない、韓国人じゃないといわれる側に感情移入する。

官邸前デモのムーブメントでもそうだったけど、デモに出て頭数になろう!って、いってる人いっぱいいたけどね、わたしは数じゃない。
そんで、なれないんだよ、数に、はいれない。
健康じゃないと、首都に住んでないと、数になれないの。
数になれということばは、わたしの特徴を捨てろと迫る言葉であり暴力的でありわたしが戦いたい相手でもある。
だって、わたしは、「女性」「精神障碍者」「発達障碍者」「二次障害者」「犯罪被害者」「地方在住」「パートタイム労働者」である側面を抜きにして、わたしでいられることはないから。

政治的行動が健康で東京在住で治安も気にしなくてよく、非犯罪被害者で、世話をする必要もない属性が前提でそれをクリアしてる人間ばかりみたいな感じなのが、こういう言動を顧みなくて済む素地になっているんだ。

それで、たとえばわたしが「わたしにはデモにいける体力がありません」と異議申し立てると「無理しなくていい」と見当はずれなことを言ってくるんだよね。だから、排除しているのについて、文句言っているんだから、「無理しなくていい」と許可を与えられたら余計腹が立つんだよ!お前誰だよ!えらいのか。ってね。

「どんな文脈でもエセ左翼とは言ってはいけない」と他人に言えるとは、どれだけ自分に甘いのか。

差別を目の当たりにしても、自分だけが大切で、そっちを非難する方が先。
差別をされた人の態度を、自分はたしなめたりせめたりする資格があると思ってることが権力なのに、そのことには気づかないで済ませる。自分を無垢なものだと信じられる。権力がないと思える。

在日差別を受けてる人が女性差別しないわけではないし、女性差別を受けてる人が、セックスワーカー差別をしないわけでもない。
右翼が女性差別について考えてることだってある。(天皇制を維持したいんだから差別構造を維持することにはなるけど)右翼が貧困の当事者で、その助け合いしてるとかもある。

左翼が女性に対してその女性性を搾取したり、女性性を自己批判させ(その上殺してしまった)たり、男性性についてはノータッチだったりする。または、トランス男性トランス女性たちが性規範を強固に支持してたりする。
ゲイ男性は男社会の恩恵を受けているし、結婚を求めるLGBTは、ヘテロシスと同じ権利を求めてもいるしその一方で婚姻制度の国家主義的な要素を維持して荷担している。
けど、じゃあわたしが家族としての法的根拠を求める彼らに対してどう思うかというと、自分の特権性を理解しながら批判することは可能だと思ってる。
その上で、自分は婚姻しないまま、結婚していると周りに説明して受け入れてもらえるのは、歴史的に戦ってきた人たちがいてそれに乗ってるからだとも思ってる。

障害者のなかにも、精神障害者はさらに差別されてるし、発達障害者はまた話が違うし、発達障害者の二次障害は死ぬのと同じとか言われてるが、わたしは二次障害当事者だ。
発達障害者の療育について疑問もある。療育に対する疑問を書いたら、療育を行っている発達障害当事者の親に怒られた。
二次障害についても思うことはたくさんある。二次障害を許容してると非難されたこともある。

許容もなにも二次障害は存在するんだけど。

でもそもそも、「二次障害には絶対なりたくない」というのは、突き詰めていくと、二次障害や「発達障害外の精神障害(双極性統合失調症うつ病)」を発症させてる人を低く見てると思う。
話が反れ過ぎたけど、差別について丁寧に書くと差別されている集団の中でさらに差別される人がいて、でも、その集団を出たら、差別する側に回っていることも、ままあることだということを言いたい。それは意識していないと理解できないことだ。
差別したくてしている人はあまりいなくて、普通に暮らしていたら、結果的に人を差別していたというだけの場合のほうが多いだろう。

まー、ちょっとは首の上に載っている頭を帽子掛け以外に使ってみなって。じゃないと、わからないものが一生わからなくてずっとバカのままだからな。

(久しぶりに書いたら長すぎた、長すぎたし、複雑な話なうえに最近人と会話していないので、自己突っ込みがひどすぎる。恥ずかしいけどアップするぜ。ウェイウェイ)


反差別は共感を必要としない

“わかってほしいは乞食の心”という田中美津さんの言葉を読んで、その言っていることも分からないのに、感電したようだった。そのあと、ゆっくりと意味が立ち上ってきた。

「わかってほしい」と懇願すること。媚びること。その時点でまだ力の差が解消されていないということ。
わかってほしいための努力を一方がし続けるということ。
相手は、ずっと「いや、お前の説明ではわからない」「説明が不十分だ」「根拠は」「わからない」そういい続ければいい。
いくら丁寧に言葉を紡いでも、わからないのだ。わかりたくないのだ。わかりたくないから、永遠にわからないのだ、相手は。
なぜなら、この社会は、彼らにとって都合がいいものだから、手放したくないものばかりで、その手放したくないものは、被差別者が踏みにじられた上に成り立っているから。

わたしを駆り立てているものは怒りだ。

それは、“クソオス”と発言する人はフェミニストか。
このブログを読んだからだ。

社会制度の優位性に乗っていることに無自覚な《男性》を罵っても、性別としての差別をしたことにならない。
女性が男性を罵っても、社会制度を作り運営しているのが男性である以上、女性は男性を差別できない。
だから、クソオスといいながら、性差別に反対することは矛盾しない。権力差があるから。

共感は時として、反差別の邪魔になる。
「ああ、それ、おれもあったよ。よくあることだよね」「それって、あなたが親しみやすい・魅力的・思わせぶり、だからじゃない?」
「油断していたから悪いんじゃない?」
「もっと気を付ければよかったのにね」
「どうして騙されたの?」
「どうして逃げなかったの?」
「どうして、その男を選んだの?」
「どうして、その道をその時間に歩いてしまったの?」
全部、わたしが言われたことのあるセリフだ。
女性ならば、一回くらい、自分が言われたことはなくても、耳にしたことはあるんじゃないか。
被害に遭った人が「どうして」とかけられる言葉。
被害者は、被害に遭ったという自覚がないままの時でも、「どうして」「なぜ」の前に、おろおろして立ち尽くし、自分を責めていく。

わたしは、初めて、十歳の時に痴漢に遭った。電車に乗っていたらからだを擦りつけられた。
道を歩いていて、殴られ首を絞められ、羽交い絞めにされた。
セックスをしてくれ、お金を払うから、と言って、未成年のころ、付きまとわれた。
ストーキングされた。
レイプされた。
お金を盗られた。
脅迫された。
監禁された。
面接に出かけたら、女だから、この会社でできる仕事はない、と言われた。
結婚したら、仕事はどうするんですか、と聞かれた。
妊婦の時、男連れで、昼間に道を歩いていたら、わざと足をかけられそうになって警察に駆け込んだ。

そうした相手は全部男だったが、「男が社会を作っている」くらいのことを言うだけでも「たまたま」「偶然」「思い込みすぎ」と言われる。

全部の男がそうじゃないことをわかってほしいんです、と男たちは言う。
「男だって、そういう目に遭う可能性はある」と男たちは言う。

だったら、「その通り」の男たちに、何か言ってくれ、と思う。
彼らには、「その通り」な男たちが見えない。
そして、自分は「そうじゃない男だ」と思い込んでいる。
女が犯罪を起こす割合と、男が犯罪を起こす割合。
犯罪のほとんどは男が起こしている。

丁寧な言葉を使う余裕を持てと人は言う。

余裕。
例えば性別差別について、賃金格差が、正社員同士で比較しても、女の賃金は男の半分ほどももらえない現状で、生活を脅かされたまま持つ余裕とは何なのか。
年収一千万円を超す人間の男女の割合のいびつさを知っていて、そう言えるのだとしたら、無神経だ。
シャドウワークと言われているものすべて、ほとんどを女性が担っている、それに費やす労力自体がハンデなのに、「そのハンデがあるから、男性と同じ賃金は上げられない」と言われる理不尽さを肌で感じていてもか。
人が一人生きるのにかかるお金は変わらないだろうに、わたしたちは、「違う」といわれて生きてきた。

社会制度を決定する場に女性は本当に限られた人数しかおらず、その人たちも男たちから足を引っ張られている。
政治家でも「家庭との両立は?」と聞かれるのは女だけだ。
いちいち「美しすぎるなんとか」と容姿をとりだたされる。それも女ばかり。

へりくだり恭順の姿勢を見せ、腹を出すのが余裕ならば、そんな余裕はいらない。
あなたの脅威にはなりませんよと、常に言って、相手の機嫌を取るようなことはしない。

わたしが、ひどい目に合うのは、女だからだ。高校生の時に、進路で悩んでいるときに「女は出産するから、会社がとるメリットはないよね」と男性の同級生が言ったのは、「どんなに勉強しても、男にはかなわない」と男性教師が言ったのは、わたしが女だからだ。
出席名簿が、混合になる前、男子から先に名が呼ばれ、女が後回しにされた。「そんなこと、合理的な区別だから、差別じゃない」そう言われて、女は片づけをし、男は外に遊びに行った。

女とは何か。
まんこがあることか。子宮があることか。卵巣があることか。子を産めることか。心が女ということで、女か。男を愛せば、自他ともに女と認めていれば、女か。

わたしは、腹を裂き、子宮から赤子を取り出し、今も文字通り乳飲み子を抱えながら、この記事を書いている。
女というなら、わたしはまごうことなく女だろう。
そう、わたしは女という名をもつ。
誰もがわたしを女と呼ぶだろう。母親と呼ばれ、妻と呼ばれ、誰かの娘と呼ばれる。そして、わたしは役割の中に本当の名を失っていく。

わたしは、自分が女だということで不利益を感じて、知ったときからずっと怒っている。
女が立ち働き、男が飲み、くだをまく正月に。
子供だからと、反応を面白がって、嫌がってもくすぐり続けるおっさんに。

わたしは、ずっと最初から怒っていた。
だから、自分のために学んだ。本を読んだ。
怖いと言われても、変わっているといわれても、生意気だと言われても、絶対に怒っていた。
わたしは、今だって怒っている。
怒らないと伝わらない。
高校生の時に「女を雇ってもメリットがない」と男性に言われて、わたしは丁寧に抗弁した。
しかし、まったく通じなかった。
そこに問題があるとは思われなかった。「合理的でしょ。女が出産して育てて、それで世の中回っているのだから」と。
穏やかに言っても、強く言っても、どうせ通じないのならば、自分で自分の表現を自分の好きなように、コントロールするほうがどれほどましか。それは、自分の軸となる。
それでも「まし」という程度にしかならない。

わたしは、自分の怒りを理解するために、生きるために、生きるための武器を磨くために、防具をそろえるために、フェミニズムを学んだ。なじめないフェミニズム、なじめるフェミニズム、いろいろなフェミニズムがあった。
わたしの胸を打ったのは、素朴なウーマンリブだった。学問ではなく、声の言葉をまとめて、戦った女たち。

わたしは興味を持っていただくために、へりくだって、声をあげたくない。
いつだって、自分本位、自分のためだけに、戦いたいと願ってきた。その願いがどれだけ反故になっても。

それが自分を尊重するということだからだ。
わたしは、自分を尊重する。
わたしは、わたしの怒りを尊重する。
わたしの怒りの期限、「いつまで怒っているの?もう忘れたら」という言葉に耳を貸さない。
わたしの怒りはわたしのものだ。わたしの言葉はわたしのものだ。
「もっとスマートな方法があるんじゃない?人を集めるような」そういうものは必要ない。

フェミニズムは、他のひとに共感されるためにある訳じゃない。
反差別は共感を必要としない。
尊重されるために、お情けはいらない。
当然あるべきものを取り返すだけだ。
堂々としていたい。
共感されるためにどうこうとは、下に虐げられたことを受け入れる恭順の姿勢だ。わたしは絶対嫌だ。

わたしは怒っている理由も、その怒りの期限も、行く末も、表現方法も、全部自分でコントロールする。
それが、自分を尊重するということだから。
他のひとに伝えるためにフェミニズムをやってない。
全部全部自分のため。
媚びてなんとかなるものか。
媚びなくてはならないことが怒りなのだ。

反差別は、「おまえが認識していないで済んでいる問題があると認め、理解しろ」ということから始まる。
そこには、共感は必要ない。
共感とは、自分が理解できる、つまり、自分の立場を破壊しない「被差別者」を選別するためのもの。
怒りは、社会を変革する力だ。
自分たちがメリットを享受しているものを、壊すことを恐れるものは、「共感したい」という。
共感できるものを探す。
そして、社会を変革しないで済む範囲でだけ、差別をなくしました、という表現をする。
でもそれだけだ。
それがマジョリティにとって安全だからだ。
自分たちの既得権益を失わないまま、人道的なふりができるから。

怒り、悲しみ、非生産的だと言われ続けてきた、感情的、生々しい、生理的なもの。
反差別に、理屈は必要か?
人が生きるために、心、体、思考、感情、何か一つ欠けてもならない。
生々しい、実際に生きている、血の流れるこの体が、あるということ。それだけが必要だ。たとえ殺されたとしても。
殺されるということが大げさだと言われようと、殺されかかりながら生きながらえてきた、それがわたし。
殺される危険と生きること、そのほかの合わなくて良いことに遭うということが差別。

反差別に共感は必要ない。


こんにちは赤ちゃん

予定日、一週間超え、四十時間の陣痛の末、帝王切開で赤ちゃんが生まれました。
よく頑張ってくれた!

陣痛中は、赤ちゃんも苦しいんだって。

こんな幸せで、かわいいものを見られて、世話もできて、素晴らしい。

痛み止めが切れたときに、おセンチになって、「母親に会わせなくては」と思ったけど、痛み止めが効いてからは、「なんで、気も合わないしひどいことした人に気を使わないといけないねん、自業自得やんか。そもそも、赤ちゃん見たいかどうかもわからんし」と現実に戻ったので痛み止めは偉大。
医学、科学、万歳。

ところで、

君はいい子
という文章があって、何度読んでも泣いてしまう。

最後は、お母さんが振り絞った最後の気力によって、道が開かれていくのだけれど……。
このお母さんのほかにも無数のお母さんがいるんだろうな、と思う。

親の技量にすべてがゆだねられるのではなく、社会の仕組みが、大切だ。

相談しやすい、相談するのが当たり前、というような、家庭を閉ざさない社会的な工夫が本当に必要だ。

今度、わたしのところには、助産師さんが家庭訪問してくれる。
もしも、予約して、わたしが行くというシステムだったら、あきらめているかもしれない。
でも、来てくれたら、家の状態もわかってもらえるし、リラックスしやすい。
一度話したら、また、話しやすい。
行政とつながる工夫をしていくことって、本当に大切。
これだけで、全部解決とはいかないし、あのお母さんも、学校を通して、社会とつながっていたけど、警察に電話をするまで、助けが来なかった。
だから、いろいろな人と関わることが大切だけど、困難な子を持つ人ほど、その余裕がない。
家庭は閉ざされたら地獄になる。

わたしは、幸い、ASDと双極性障害のおかげで、普段から福祉に慣れている。でも、みんなが身近に、そういうものを利用できたらもっといいなと思う。

赤ちゃんを、死なせないで育てるのが目標です。


社会のルールが平等じゃない

わたしは、女性が男性と同じように働くべきだとは思ってない。

なぜかというと、この社会は男のルールでできているから、女性には最初から不利だ。
それを「男女は不平等だ」という言い方をする人もいる。現実を見ろとか、現実を教えろという人もいる。
現実を追認するのと、現実に対応しながら、変革を試みるのは違っていると思っていて、わたしはできるならば後者でありたい。

女性が、男性と同じように働くには「頑張る」必要がある。
その時点で、同じ土俵に立てていない。見えない天井も壁もある。女性の下で働きたくないだとか、女性には出世の道がないだとか。ベンチャー企業に勤めた女性がいるのだけど、彼女は同じように働いている同期の男性と、二年で給料に差がついていたといっていた。

それもそうだし、女性には、出産に関わるコストがかかる。働く前から「あなたはいずれ出産しますよね?」と言われる。
出産するしないに関わらず、月経があり、月経は人によって、動けないくらい体調不良を招く。それがもともとない人間と同じようには働けない。
だから「男のほうが優れている」という風な結論を導き出す人も多い。
人類が滅亡しようとなんだろうと、どうでもいいんだけど、「人手」というものは、どこかの女性が十歳前後から血を流しながら体の準備をして、四十週吐きながら体の中で育成して、死にそうになりながら、産みだした誰かなのだけど、そこのところは見ない人がいますよね。フリーライダー。

だから、わたしは男性と同じように働くことはしないし、あきらめてもいる。

男のルールの社会は、たくさん人が死ぬし、人が生まれにくくなるし、育ちにくくなる。それはおかしいんじゃないの?と思う。

つわりがひどい間、「この間、普通、産休取れないんだよね、耐えられない人は、仕事をやめるしかなく、そして、出産を機にやめた人は、ほとんど、パートにしかなれないんだよね」という暗澹たる気持ちになった。母親がしんどい時、父親になる人の睾丸が同期して腫れ上がるとかになればいいのにね。


偽医学にご用心

薬は体に悪いという人がいる。
しかし、病気は健康に悪い。
当たり前だ。
薬で病気の症状が軽減できたら、その分、楽に休むことができる。
根本的な治療にこだわる人がいる。
たとえば、わたしはアトピーで皮膚がボロボロだ。
ステロイドを適切に使えば、亜鉛軟膏を使えば、傷は早く治る。そうすると、感染症から身を守れる。
生活の質も上がる。でも、それを許せない人もいる。

皮膚がボロボロで傷だらけで、バリアーの役を果たせず、痛みやかゆみがあるなら、それを取り除くのが先だ。
体質は変わるかどうかわからない。

でも、根本的に体質を変えろと言ってくる人がいる。
健康的な人には信じられないかもしれないが、根治しにくい病気を持っていると、ハイエナのように、新興宗教やマルチに勧誘される。最初はただで渡される。良いでしょ、薬や病院に頼ると、体の力が失われるの、根本的に治さないと。
一時的に悪くなっても、それは好転反応。幸せになりたいよね?

うちの母は、自然なものにこだわって、洗濯も粉石けんに変えた。そのせいで、洗濯物にはカビが生え、アレルギーは悪化した。
一人暮らしになってから、精神的にも肉体的にも、ずっと楽になった。
アレルギー物質を除去するために、一日エアコンをつけ、空気の出入りを減らし、乾燥機をかけ、ハウスダストを減らすためにこまめな掃除をする。それが自分でコントロールできるのは素晴らしい。

サプリも漢方も、副作用がないと勧めてくる人がいる。
副作用があるかないか、それは、調べてないから、わからない。わからないから、ないってことになってる。そういうことだと思う。
普通、効用のあるものには、副作用があるものがほとんどだ。それが普通だ。効き目のほうが、副作用より、益があるから、使える。
副作用があるとわかっているものは、医者がコントロールできるということだ。

漢方外来に行ったら、牛乳をやめて、肉食もやめろと言われた。
藁にもすがる思いで行ったので、しばらく気になった。
でも、アレルゲンでないものを除去する理由はないと結論した。
もし、牛乳をやめて、アトピーが治るなら、もう、そういう調査や研究が行われているだろうし、でも、そういう発表を聞いたことがない。
その人は、日本人は肉も牛乳も食べてこなかったから、体質に合わない、だから、肌が鮫肌になる、と主張してきた。
でも、縄文時代に、日本人は肉を食べていたはずだし、平安時代には牛乳があった。言っていることが無茶苦茶だ。
ようするに、根拠がない。思い込みだ。
食べたことがないものだから駄目なのだったら、お茶もだめだろうし、コーヒーもだめだろうし。
牛乳や肉は、栄養が豊富だ。それを捨てるメリットが「一年後にアトピーが良くなるかもしれない」ということだけだ。
その間悪くなったとしても「好転反応だ」と言われる可能性もある。
責任を取ってもらえない。痛いのもかゆいのも自分だ。

関係ないことなのに、母親と仲良くしろ、どうして、距離を置いているのだ、と言われたこともドクハラだと思った。

そんなことまで、どうして言われないといけないのか。
精神疾患や、自閉症だということも伝えた。摂食障害があることも伝えた。なのに、それらは考慮されなかった。

以前、中国に東洋医学を学びに、留学した西洋医学の医者にかかっていたことがある。
その医者は、「あれもだめ、これもだめ、と言っていたら、食べるものがなくなっちゃう。水も飲めなくなる。だから、バランスよく、いろいろなものを食べて、一つのものを食べることのリスクを減らすことが大事」ということを言ってくれた。
わたしは、そのころ、ほかの漢方薬局に「医食同源。あれを食べるのは体を冷やす。これは炎症を強める」など言われて、食べるのが怖くなっていた。

新聞広告の「この病気にはこれがきく」みたいに書かれている病気になると、いろいろな人が、寄ってくる。
そういう病気は、治りにくい。だから、カモになる。
医者にかかっていると治らないと、その人たちは言ってくる。
でも、耳を貸したら、いけない。
もし、効き目があるなら、標準医療になっているはず。
そこまで、医療は人が悪くない。医者は基本的には、人を助けたいと思っているはず。
相性の悪い医者だったら、逃げる。
元気なうちに、相性のいい医者を探しておく。
弱っていると逃げられない。

注 漢方もサプリも、医者に相談しながら使ってます。
使いようで効き目がないわけじゃないので、うまくつきあいたいですね。
基本は標準医療がいいと思います。
個人的な考えで、医者じゃないので、わたしのいうことも鵜呑みにしないでほしいです。


菅野完さんの性暴力疑惑に関わる話

わたしをゴヒエツコさんが利用し、世論をコントロールし、菅野さんを社会的に抹殺する計画を実行させるように、教唆した経緯

下記の記事には、いかに、ゴヒエツコさんたちとのグループチャットがあります。
ゴヒエツコさんと、その支援者とのグループチャット

去年、ゴヒエツコさんに、依頼されて、週刊金曜日の記事のスクショを張った記事を書いてから一年たつ。
彼女の言うことを鵜呑みにして、彼女の望む記事を書き、世論を操作した。
その後、彼女は、性暴力サバイバーのわたしの心情を利用して使い捨てにしたことが分かり、わたしは、怒った。
それで、ことの顛末を明らかにし、菅野さんに謝った。

ゴヒエツコさんに、嫌がらせをされ、はてなを去ることになり、わたしは、もっていた影響力を失った。
わたしは、以前のように、たくさんの人に届ける言葉の力がない。

著作権を無視したととられ、その面での信頼も失った。
背後関係を調べず、言われるままに書いた記事のせいで、裁判に、悪い影響を与えた。
菅野さんに謝ったり、ツイッターでフォローしたりしたことで、「性暴力をした男とかかわっている」と見られて、その面でも信頼を失ったと思う。
今はTwitterのフォローも外した。

わたしは、彼が性暴力加害者かどうかわからない。
一年間、対話して、彼はわたしにとって、悪い人じゃない、ということを感じただけだ。
謝罪を受け入れてくれ、自分の思うことを語ってくれた。
彼は右翼だ。でも、反差別でもある。そのへんの話も伺うことができた。
わたしにとっては、天皇制を支持することと、反差別は矛盾と感じられたから、その整合性について、彼の思うことは勉強になった。
正直、左翼の「反差別」と言っていることの中に、「女性差別」についての問題意識が入っていなかったり、反差別というだけで、実際に何をしているのか不明瞭な人々に不信感も持っていたころだったから、そのあたりの話ができて面白かった。

ゴヒエツコさんは、わたしにこう言った。

自己評価低いからこそ、あんな素晴らしい文章が書けるのではないでしょうか?自己肯定感溢れまくってる私には到底無理です。

この言葉はわたしの心を折った。

わたしは、こう答えた。

“いろいろな被害を受けて自己評価低いと分析してるのでそれを素晴らしいといわらると、傷つけられたことが素晴らしいになってしまうので、
そうするとなんのためにがんばったのかわからなくなります

ゴヒエツコさんは、苦しむわたしに関係なく、終始軽い調子であった。
わたしの訴えを無視して、ゴヒエツコさんは結局、わたしとの対話を拒否した。
だから、彼女の考えていることはまったくわからない。
ただ、裁判の結果を、世論をコントロールして、変えることはおかしいと思ったし、もし、そうしたかったとしても、自分は隠れて、他人である性暴力サバイバーを利用して、使ったことは、間違っている。

週刊金曜日の書いた記事の名前が「うんこ.pdf」だったこと、菅野氏を週刊金曜日が「うんこ」と呼んでいたことは、メディアとして、間違っていると思う。

わたしは、性暴力サバイバーとして、ほかの性暴力被害者が、困っていると聞いたら、できることをしてあげたいと思った。
それで、自分に無理をさせすぎた。
わたしの判断は間違っていた。

とはいえ、わたしは、この事件について、何も知ることはできない。
一年たった。
わたしは、これで、疲れてしまった。

何があったのか、わたしには知ることができない。何が本当で、何が嘘かもわからない。
以前、裁判をしたことがあるから、裁判は、本当のことを明らかにする場ではないことを、もう、知っている。あれは、お互いの利害調整の場であって、真実を明らかにする場ではない。
だから、わたしは、判決が出ても、なにもわからない。
争いがないのは「菅野氏が抱き着いた」ということだ。
ほかのことは、なかったということだ。
抱き着いたことも性暴力だとは思う。
だけど……。わたしに起きたことを考えると、ゴヒエツコさんは、わたしにもっと配慮してくれてもよかったと思う。
それぐらいで、というつもりはない。
でも、彼女を支えようとしたわたしは、レイプと、暴行と、軟禁の被害者だったのだ。
PTSDとフラッシュバックに苦しみながら、彼女と関わり、そして、ぶつりと対話を切られた。

本当は、関わるべきじゃなかった。
でも、向こうからトラブルはやってきた。
そして、トラブルを大きくしてしまった。反省している。
むやみに、関わってはいけないと学んだ。

でも、また、性暴力被害者が現れたら?
わたしはどうするだろうか。
きっと、できることをしたいと思うだろう。話を聞くだけでも。
ただ、慎重にはなるだろう。
それでも、できることを探すだろう。

無力だなと思う。

追記:
今日、判決が出たようだ。

これをいうことで、わたしの立場は全くよくならない。
また、わたしは、人の信頼を失うだろう。
きっと、不愉快に思われるだろう。ブロックもされるだろう。
でも、わたしには、これを書く理由がある。わたしは、ゴヒエツコ氏に、わたしの弱いところを利用された。

ゴヒエツコ氏は、わたしを利用し、わたしを傷つけた加害者だ。
わたしは、そのころ、元DV夫にまた裁判を起こされ、会社でパワハラを受け、ほかにもう一つトラブルを抱えていた。
実家との関係が急激に悪化していた。
精神科に通い、カウンセリングを受けていた。記事を書いた時もフラッシュバックや乖離、別人格も出てきた。
それを彼女は承知で、わたしを利用した。
人倫にもとる。

言っちゃうと、わたしの性被害を利用したゴヒエツコ氏は、わたしにセカンドレイプをしたわけだ。
わたしが、苦しむのを承知して、わたしの経験を利用して、わたしの具合を悪くさせ、そして、とんずらしたから。
その彼女が、セカンドレイプされたくない、と言っているのは、わたしから見ると、どうかと思う。

人は、情報をコントロールされると、行動をコントロールされる。
わたしもそうだ。
だから、これを読むあなたも、慎重になってほしい。
情報を流すもの、メディアには、何か意図がある。そういうこともある。

さらに追記:

【復元】菅野完氏の「性的暴行」を報じた『週刊金曜日』のステマ疑惑 #週刊金曜日 #中島岳志
ここに詳細がありますが、

(一人だと危険そうであれば複数人)に最初ツイートをお願いし、フェミの方たち同士で根回しをして頂き、スクショを各自のツイートで使って頂けないか
その第一波を受け、第二波の方々に拡散のご協力を頂く
後追い記事で、複数媒体が動ける体制を整えてくれており、金曜日も第二弾、第三弾と続ける予定です。

 さらにゴヒエツコ @etsugohi とゆかいな仲間たちとその失礼には、計画の「第一波」に協力する具体的な人物名も。

その第一波を受け、第二波の方々に拡散のご協力を頂くのが見え方として自然かと思います。第一波に濁山さんも入ってます。中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方にご協力頂く予定です。

ここに挙げられた人たちは、人に頼まれて、世論をコントロールするために、意見をいう人たちです。

特にいとうせいこうさん、X氏と結婚したといううわさがあります。

ツイッターで見ただけだから、本当かは知らないけど。

『週刊金曜日』、記事の信憑性が怪しくなってきた
ここには、ゴヒエツコ氏が嘘をついていて、それに基づいて書かれた週刊金曜日の記事の信ぴょう性は怪しいのではないか、それとも週刊金曜日が、嘘をついているかという取材に基づいた検証が載っています。

三浦弁護士の記事
菅野完氏の民事訴訟についてのお知らせ