買い物依存と捨てられない問題

わたしは本当に「モノ」に執着する。

購入に至るときの心境

ほしいものがなくても、ネットを見ていれば、何か物欲を刺激する広告や情報、写真、記事などがあるものなので、毎日「ほしいもの」を探しいる。何がほしいのかまだわかってなくても、ネットサーフィンする。そのうちに「ほしいもの」がみつかって、抽象的な「何かほしいもの」ではなく「これがほしい」になる。

商品を何度も見ているうちに買ってもないのに自分のモノだって錯覚する。執着が募って、もう、自分のモノに等しいんだから、これを手に入れられなかったら、わたしは欠けた人間として生きていかなくちゃならない。そんなのはいやだ。そう思って、自分が満たされた人間になるために買おうとする。でも、お金は減る。減るのはわかっているからすごく葛藤する。これ買おうかな、どうしようかな、本当に必要なのかな、という風に。

決済するときには、その逡巡から解放される。すっきり!やった!わたしはわたしになった。わたしはわたしのほしいものを手に入れられる。そういう能力があるんだ!だから、わたしのところに、「これ」は来たのだし、わたしは「これ」の分、より良く生きられるようになった。ちゃんと、わたしは、人生を楽しんでいる。ほしいものをほしいってわかっているんだ!そういう気持ちになる。

でも、それはすぐ終わる。

嬉しい気持ちの一方で、後ろめたく、罪悪感がある。支払いへの恐怖とは別に、「いらないものを買ってしまった」「間違ったものを買ってしまった」という疑念がぬぐえない。本当に欲しくなったから買ったのに、本当に欲しいかどうか我慢すればよかったんじゃないかと、頭の中がいっぱいになる。

「すっきり」はやっぱり一時的なものだ。

すぐに次の何かがほしくなる。

「これが手に入ったらわたしは今度こそ幸せになるに違いない」「この素敵なものが家の中にあったら、どれだけうっとりとした気持ちで生活できるだろう」「わたしにはこれが欠けていたの。だから、満ち足りなかった」「今度こそこれが正解」

「でも、これよりいいものがあるかもしれない。損したくない。同じ値段で優れた性能のものを買いたい」「見ていたら少し高い値段を出せばもっといいものが買える」「なんて素敵なの?」「これもこれも素敵」「選ぶことなんてできない」「これで最後」「でも、前もそう思って買い物をしたけど、結局今も買い物している」

処分したものを懐かしんで落ち込む

五年前に捨てたワンピースのことをいまだに思って落ち込むし、一年前に処分したブーツのことを検索するし、一週間前に処分したショルダーバッグについても悲しむ。

どんなに小さな装飾品でも、それが積み重なれば段ボール箱ひとつになって、それが増えたら一部屋埋まるのまではあっという間だから、人が生きていくスペースを確保するためには処分するのは当たり前で理屈に沿っているんだけど、一度自分の一部になったものを捨てるのがつらいの。一度、手に入れたものは体の一部になる。捨てるときには体を切り離すみたいな気がする。


改名させることは支配の象徴

夫婦別姓を求めている人に、「結婚しなければいいのに」「名前なんて単なる記号でしょ、なにがつらいのかわからない」「愛がそこまでないなら結婚する必要がない」という人がいるので、自分の考えを書いてみる。

まず、結婚すると、便利なことがたくさんついてくる。パートナーの手術の同意書が書ける。家族として扱われる。税金も違う。相続もできる。子供の親権を二人で持つことができる。もちろん、ロマンティックでもある。それが満たされるのは大きい。社会的な信用が全く違う。

名前は記号に過ぎないが、すべての情報と紐づいている

名前なんて単なる記号という人もいる。しかし、その人の個人的な歴史は、その記号に紐づいている。だから、記号が消滅すれば、その人の功績や、積み上げてきた信用が全部失われる。名前というのは、育てるもので、もともと単なる音だったものも、使われていくうちに、意味を持ってくる。名前にイメージが付く。それを自分もフィードバックする。

例えば、木村拓哉、という名前を見たら、たいていの場合、イメージするのはただ一人でしょう。同姓同名の人がいたら苦労するだろうな、と察しもつく。それが、単なる記号が意味のあるものになるということ。

もし、名前が単なる記号で意味がないのだとしたら、「イチロー」という名前に経済的付加価値が付くこともないし、商標登録もできないはず。でも、現実にはこの名前一つとっても、経済的な価値があるし、「イチロー」は商標登録をはじめとした、いろいろな法的な保護をされている。名前には価値がある。

苗字ならば違うかと言えば、そうではなくて、それまでの育った家族との歴史がつまっているし、公的な場ではほとんど苗字で呼ばれるから、公的な場で呼ばれたという経験の積み上げから成り立っているアイデンティティが傷つく。それで、名前を変えると、喪失感に苦しむ人が出てくる。

家格が低ければ名前を変える理由になるか

「たいした家じゃないのに」という人もいるだろうが、たいした家だろうとなかろうと、苗字とアイデンティティと紐づいているということは肯定されるべきだ。そもそも、家に格があるという考え自体が差別的だし、家の格が低いほうが譲るべきだという考えはさらに差別的だ。

愛の有無を試すなかれ

「そこまでの愛がないなら、結婚しなければいい。愛があれば変えられるはずだ」というのも、実際に名前を変えて、「愛を試される」のは女性ばかりだ。愛の有無を試される性に、偏りがあるのだから、それは差別である。ある属性に不利益が、構造的な問題で生じることを差別というからだ。
法律で一つの姓にしないと決められており、変えるのがほとんど女性だということを、社会が公認しているのだから、それは構造的な問題である。

合意の下で、自由意思で決定されているから問題がない?

合意の下で、自ら名前を変えたがっている人ばかりだという人もいるかもしれないが、自由意思であれば、女性のほとんどが改名するように偏るのは、理由があると考えるべきだろう。女性のアイデンティティが軽んじられてなければ、この偏りは生じないはずだ。

改名と支配の関係

植民地支配するときに、たいていの支配者は、自分たちの母国語の名前に改名させる。
被支配者は名前を呼ばれるたび、自分たちは支配されているのだ、だから、自らの名前を失ったのだ、と屈辱とともに実感するだろう。そうしたことは、気力を奪う。

改名は、支配を見せつける効果がある。支配される側だということを思い知らせる。

対等なはずの二人の間の不均等な力関係

対等な二人がするはずの結婚で、常に支配関係が発生する夫婦同姓の強制は、以上の理由で間違っている。

夫婦同姓の強制は、家父長制そのものである。男の家を守るということと、女の名前を変えさせることは、ほぼイコールで結ばれている。名前を変えるとたいてい「嫁」と呼ばれる。実際には、現在の法律では、相手の家の戸籍に入ることがないので「嫁」という概念はない。それなのに「嫁」という言葉は今も使われている。つまり、夫婦同姓が、結果的に、意識の上の家意識を存続させているのは間違いがないので、夫婦同姓は、事実上の家制度の維持に他ならない。

家制度はもうないから夫婦同姓の強制もやめるべきだ

結婚は、新しい戸籍を作る行為だ。家制度はもうない。だから、夫婦同姓を強制する意味もない。だから、夫婦別姓を制度として認めるべきだ。


わたしを嫌いなわたし

わたしは自分のことが嫌いだ。嫌いなときと、まあまあ許せるときと、まだらだ。

まず顔が嫌い、声が嫌い、足音がうるさい、姿勢が悪い、生理痛が重い、メンタルが不安定で、突拍子もないことをして迷惑をかける、長電話のくせがあって、死なないけど元気に働けない程度の病気をいくつか持っていて、人といると疲れる、ダサい、センスがない、能力がない、天才じゃない、美しくなく愚かで、協調性もなく、気が利かない。

自分がアンジェリーナ・ジョリーじゃないって真剣に悩んで、整形手術について一か月くらい検索していたことがあった。同じ人間だってことくらいしか共通点がないのに。自分が平凡でなんの才能もないのがつらかった。なんの才能も能力もない。

ようするに、自分が、貧しく、美しくなく、白人ではない、ということに気が付いた。わたしにとって、そのときの「美しい女性としての完成品」が、アンジェリーナ・ジョリーだったのだろう。だから、自分がアンジーではないんだということに落ち込めたのだろう。

人に笑い話として話して、「才能も能力もないなんて、そんなことないよ」、と優しく声をかけてもらった。でもそれもつらかった。そういう優しい人に恵まれているのに納得しない自分が、せっかくのやさしさや思いやり、善意を受け取れない嫌な奴だと感じて、また落ち込む。

いかにしてわたしは自分を嫌うようになったか

十二歳の時、自分の体が変わり始めた。わたしは、大人への変化が恐ろしくて、男でも女でもない透明な生き物になりたいと願った。

それまでは自分を好きかどうか考えたことがなかった。自分を嫌っていじめる人はいるけれど、だからといって、自分が自分を嫌ってはいなかった。理不尽は理不尽だとわかって、拒否する力があった。居心地が悪いと思うことはよくあった。人と違っていると思うこともあった。

現実から逃げるようにして勉強をして、勉強していたら誰からも怒鳴りつけられないし、みじめなことも忘れられたし、勉強で知った世界は広いしで、勉強しているのはまあよかった。人よりもちょっと優れている感じもある。本当はいろいろとまずい現実が押し寄せていたけど子供だったから何もできなかった。無力だった。でも勉強に対して、自分は無力じゃなかった。自分が何かできるという感覚が育った。だから勉強したのはよかったと思う。人生の軸が勉強になっちゃったのはまずかったと思う。勉強以外には、人生がつらすぎて、自分の体の一部を削り取りでもしないと、自分が生き物だということが嫌すぎた。身体感覚を手放していくうち、生きている実感が得られなくなった。ふわふわしていて、それはそれで快適だった。薄いベールのような膜を通してしか、現実が感じられなくなった。でも、そうしたら、危険を察知する能力が著しく下がって、事件に巻き込まれやすくなった。それと同時に、病気が自分の体が自分のものだと、苦痛を通して嫌というほど教えてくれた。痛みからは逃げられない。

ここぞ、というところで体の不調や、家族関係、友人関係で躓くから、進路が思ったようにいかなかった。そのせいで、人生がうまくいかないんだと思っていた。いつも今よりちょっと前の分岐点のことをずっと考えてた。いつも今よりもちょっと前のことを後悔していた。あのとき、こうしていたら、あれには会わなくて済んだんじゃないかと、いつも過去のことを思いめぐらし、あのとき、もっとこうしていたら、今の自分はもっと成功して、幸せだっただろう、という妄想に没頭するようになり、今、生きているはずの時間を失っていって、過去を思う時間の長さに、現在、できることがあったはずの時間がなくなった。

そして、わたしは、自分のことを本当に嫌いになった。

自分を嫌いになったわたしは、現実が、薄いベールを通したくらい、遠い存在になってしまったので、常にぼんやりとしていたので、自分の体が自分ではないようだった。いつも、夢の中にいるみたいだった。痛い時に現実だと気づいた。

ぼんやりとして、浮遊しているような感覚で生きていたので、危険に対してのセンサーが鈍くなった。危険に気が付かなくなった。

世界への信頼を失うということ

働き始めて、残業帰りの夜道で、肉体的にひどく傷つけられた。それは、自分が女だったから振るわれた暴力だったのは、その時点からはっきりしていた。退院してからが地獄だった。誰もが、どの瞬間でも、自分に暴力を振るえる、それが可能なんだとわかった。それが真実。誰もが暴力を振るうことが可能。そしてそれは気のせいではない。勘違いでもない。実際に、自分は暴力を振るわれたのだから、誰もが暴力を振るうものだと考えて生きるのが正しい。

あらゆる瞬間に、自衛するのが正しい。つまり、外出したら、いつでも殺されるもしれない。家の中にいても、誰かが窓ガラスを割って入ってくるとも限らない。そうじゃないという保証はない。

それを基準に行動したら、普通の生活ができなくなった。それを基準にしないという選択肢はない。体が勝手に怖がるのだから。

エスカレーターに乗ると後ろの人が刺すんじゃないかと思う。エレベーターに乗ると、ひどく殴られて首を絞められるんじゃないかと思う。人とすれ違うと呼吸が浅くなり、震える。

犯罪に遭うと、世界への信頼が傷ついて、外に出られなくるので、働くこともできなくなり、生存ができなくなる。自分が悪いのだと責めているうちに、人に何も話せなくなる。自分の状況を隠すようになる。

わたしは仕事をやめた。三十社受けて、ようやく入社できた会社だった。先輩や上司もいい人たちだった。悔しかった。

「外を歩くことすらできないなんて、人間失格じゃないの?」と思い始めたら止まらなくなって、自分が恥ずかしくなって一生隠れて過ごしたいと思った。

犯人は、暴力を振るいやすい女を物色してから、犯行に及んだのだと言っていた。わたしは、狙われるような、自信のない歩き方をしていたから、狙われたのだと思った。暴力を振るわれたのは自分が悪いんだと思った。

「わたしが嫌いなわたし」は普遍性のあるテーマなのではないか

たびたび、「自分を好きになろう」というテーマが女世界で流行る。ということは、裏を返せば、わたしと同じような人がいっぱいいるってことだ。幸せになれるんだとみんな信じたい。

何かを始めようとすれば、「ワナビー」「意識高い系」「目立ちたがり」「自分大好き女」「自己陶酔」「だから言ったじゃん」「自己承認欲求すごすぎ」「自慢」と言われる。それは、わたしだけじゃなく、弱い属性の人たちはみんな言われる。特に女性は、家庭的で金銭が絡まない趣味ならば見逃されるが、たとえばハンドメイドでも、お金を取って販売しようとすると、それだけでもトラブルのもとになる。女性ブロガーが、バッシングを受けるのはよく見る。同じ内容を書いている男性が賞賛される場面も見る。

自分のしたいことをするのは、恥ずかしいことのように、年齢や容姿、写真、表現物、すべてを、女性はあげつらわれる。自分を生きることを恥ずかしいことだと思わされてきたから、わたしは、自分の人生を、自分の責任で生きられなかった。自分のしたいようにできない。そのことと、誰かのせいにしながら生きる、という責任感のなさは、裏表なのだ。

「自分のために生きたらいけないのか?」この問いの答えは出ている。自分を生きるべきだと、様々な人が言っている。でも、実行できない。

女が嫌う女、というテーマが、何度も繰り返されるのは、女に枷をはめることを娯楽として消費されているからだ。女自身も、それを「面白いもの」だと思い込まされている。わかり切っているのに、進んでいけにえになりたい人なんていない。

愛の名のもとにすべてを投げうたない女は欠陥品

「愛のためにすべてを捨てられないんだったら、それは、それまでの愛だったんだよ」

そういう風に言われたことがある。それを聞いて、ショックだった。自分は薄情で、人間味のない、愛のない人間だと言われたのも同然だった。冷静に考えれば、そういう風に言った人が悪いと思う。だけど、それを言っている人が、住処を保証してくれる人だったら、どんな言葉でも鵜呑みにするしか選択肢がない。

一人で生きていけない状況というのがある。そして、たいていの女には、一人で生きていけない状況になる瞬間がある。そういう風に女たちは、人生を準備されている。娘として、妻として、母としてい生きている間、女はどこにも逃げられない。逃げられない時に、モラルハラスメントや、DV、家庭内のいじめは起きる。

わたしたちは、女は、娘、妻、母になる可能性を持っている、ただそれだけの理由で、自分自身を生きられない。実際に、妻になるか、母になるかは関係がない。女に産まれたかどうかが、分岐点なのだ。

自分を嫌うのは、女に生まれた罰なのだ

自分のことを後回しにすることを徹底的にしつけられるのは、女に生まれたらしかたのない、逃れられない義務のようだ。

娘として親をケアすること、いずれ母親になって子供をケアすること、妻として夫をケアすること。そのためには、自分を慈しむことは邪魔になる。

だから、自分を嫌いになるように、わたしたちは仕向けられているのだ。

女たちが背負いさえすれば、丸く収まる。背負うのをやめると女が言い出せば、社会は崩壊する。そうさせないために、社会は、女をあらかじめ罰する。

自分を嫌いでいることの価値

わたしが自分を嫌いな理由を考えると、それは、「ちゃんとしていない」に集約される。「ちゃんとしていない」の内容を考えてみれば、ほとんどは、女性の性的役割分担に相当するものが多い。

女は、生まれた瞬間から、妻となり夫をケアし、母になることを期待され、娘として介護することを要請される。女は、ケア要員として生まれて、自らのケアを禁じられたまま死ぬ。母親になってから、病院にすら簡単にはいけないという声をどれだけ聞いてきただろう。

それが背負わされた、社会的な幻想だということも知っているのに、わたしはそれを内面化している。内面化しているが、そのおかしさに気付いてもいるので、性的役割分担を実行しきれていない。

性的役割分担を実行したくないという自分と、完ぺきになるまで実行すべきだという自分が戦って、結果として、わたしは自分を嫌いになる。実行すれば、みじめになる。実行できなければ、内面化した基準に満たないと、自分が自分に半端だとののしりたくなる。社会の一員になり切れていないと感じる。

自己肯定感があれば、人をケアするだけに生きられないだろう。それは、性的役割分担にとって、悪なのだ。

性的役割分担の内面化に気が付き、それに疑問を持つ一方で、社会の善き一員として、平穏に過ごしたいとも思っている。

はっきり言ってしまえば、わたしは今も「ちゃんとした育ちのいい女性」としてほめられたいのだ。その矛盾が、自己否定や、自分を責めることに向かう。

それで、わたしは自分を嫌いになるしかない。

わたしがわたしを嫌いなのは、理由がある。

自分を嫌うという、この混乱には、価値がある。この混乱は、わたしの戦いの第一歩であり、証なのだ。


男性フェミニストの代弁を避けるべき理由

親切面をして「あなたのためにしてあげますよ」という申し出を断らないといけない場合があります。

差別はいつも優しい顔をしている

女性は発言力が弱いから、男性が代わって発言していけばいいという人もいます。以下のツイートの引用元がそういう考えです。

このツイートのダメなところは、ツイッターでのロボコップ太郎さんの言い方を借りると「メタ的に言えば単に男の意見」である点です。

フェミニズムは女性の権利のための戦いです。だから、男が意見を挟むべき相手は、男だけであるべきなのです。フェミニズムは、~すべき、というのは、大きなお世話であり、これを実行に移されるのは大迷惑です。それがなぜかというと、女性差別の一番悪い面、つまり、「女性の権利や視点、行動……つまり主体性を男性が奪っていく」ことがそのまま行動に移されていくからです。


男性フェミニストがすべきこと

女性の権利を侵害しない、女性の経験を奪わない、女性のためにしてやっている、教えてやるという態度を出さない、とにかく、女性を人間だと尊重することです。

「男のフェミニストですけど?」に対するわたしのツイートは以下です。

当事者としての主体性を奪っているから差別はダメなのです。上記の提案は、一見、「女性のためにしてあげる」ことだからよさそうですが、女性の、当事者の主体性を奪っているので、女性差別ということになります。

女性差別の本質

差別の一つの側面は、1人の人間の主体性を剥奪し、役割の中に閉じ込めることです。

だから、「男が代わりに言えば世の中が変わる」と信じている人は、「一人の人間の主体性を剥奪する」役割について放棄する気がありません。これも一つの支配の形です。

でも、こういう種類の差別は、親切で優しい人の顔をしているから厄介なんです。

男のフェミニストというものが存在するとしても、まず、そうありたいのならば、男性中心社会で起きている差別問題を、男性として、批判し壊すべきであって、女性に対してこうしろああしろ、こうしたほうが賢い、という風に指摘したり教えたりするべきじゃありません。もし、後者だったら、それは、男性中心社会をそのまま維持したいだけの人です。男性中心社会というもの自体が、女性を周縁に追いやり、女性から当事者性を奪い、女性が自分の言葉で、言挙げをしても、聞かなくて済むような機能を持つ、差別組織です。それを維持するなら差別加担者であり、差別実行者です。

こうした、「もっといい、効率的なやり方をするべきだと教えてくれる」ような種類の差別者に、腹が立つのは、いい人だという自認をもって、女性の自分自身から出た言葉を奪う点です。たぶん、女性に「教えている」とき、彼らはいい気分になっているんじゃないでしょうか。こっちは嫌な気持ちになっているのに。その非対称性が許せません。

女性に自信がない理由は体験の差があるから

わたしは、何を言うにも自信がありません。ためらいます。

自分の言うことが、絶対の正解ではない。正義でもない。正義のつもりで正解のつもりで言っても、あとから間違っていたことが分かるという経験をしているから、ためらいます。

でも、「彼ら=男性」は、ためらわないません。さっきの「男のフェミニストですけど?」と言った人にそれが顕著です。

それは、彼らが、生まれてきた体を理由に、いちいち揚げ足を取られる経験をしてこなかったからです。女性は、生涯、生まれてきてからこの方、「その言い方はないんじゃないの?」と言い続けられてきています。この経験の差は大きいのです(大きいのですが、男性たちはこの経験の差を意に介していませんし、理解しようとしません)。だから、女性は、自分の感じたことをいうのに自信を持てない。

でも、男性は、「そんな経験の差はない」という。いうし、ないと信じています。でも、今現在、まさに、口封じをしている最中に、女性から、口封じをしているという指摘があったとしても、彼らは現実をゆがめて、女性の口封じをしていない、と信じます。男らしさを維持するためになら、彼らは現実をゆがめることも、なかったことにすることも厭わないのです。「男はいつも正しい」という男らしさの殻に閉じこもって、自分は正しいし、現実はそうではなくても、彼らは理論的で現実的でなくてはならないからです。

上記の人は「腰を据えて現実的に考えましょうや」と言ったが、生まれてこの方腰を据えざるを得なかった属性の相手、つまり、女性として差別されてきた当事者に言うにはたいへん失礼な発言です。でも、彼は、このセリフをいうことができます。ためらわず。自分は「男のフェミニスト」だと名乗れば、わたしに言い返せるに足る内容だとも信じているわけです。

女性を侮っているから失礼なことが言える男性

これは、わたしのことを「腰を据えてなく」「現実的に考えてない」と思っているから言えることで、なおかつ、その侮りと見下しを垂れ流したまま、一緒に考えましょうやと誘ってきているのだから目も当てられないですね。この言い回しだと、わたしが「はい、一緒に考えましょう」という可能性があると信じているようにみえます。ネットをしていると、常にこの種の侮りに直面する。相手は侮っているつもりもないし、侮っていますよねと言ったところで、絶対に認めません。彼らには自信があるからです。それは男だからです。「男は自信を持たなくてはならない」と育てられ、また、間違ったことを言っても、指摘されずに生きてきたから、自信があるのです。彼らは男らしさを守るためなら、指摘されたという現実を捻じ曲げてなかったことにする能力もあります。

ちなみに、「男性にやってもらおう、そのほうが効率的だから」というのを繰り返していくと、依頼した側はパワーを失います。女性を役割の中に押し込めて、自発性や、自主性が失われます。頼む、頼まれる、という関係は、対等じゃないのです。頼む側は弱いのです。

男尊女卑は、構造的に女性の主体性を奪う

男尊女卑が、女性の主体性を奪うということなので、「男の人に代弁してもらう」ことも、男尊女卑と同じ構造を持ちます。

家の中でさえ、「夫にやってもらおう」「これは、男の役割だよね」とやっていたら、発言権や、決定権を失うのは明白ですよね。たとえ話をするまでもなく。

残念ながら、役所に交渉に行くときや、労基に行くときに、女性だけで行くと、話を軽んじられて、訴えをうやむやにされることがあります。だから、テクニックとして、「男性を連れていく」ということは、勧められる現実があります。それは、生きるか死ぬかという状況下ですから、やむを得ないことです。

けれど、社会への女性の発言権が少ないから、男性が代わりに言う、というのはそれとは同じではありませんから、看過できません。社会への女性の発言権が少ないから、それを変えるように、女性の代弁者としてではなく、男性が、当事者として、行動する、との違いがわかるでしょうか。過程の瑕疵が通れば、それは、結果にも反映されます。間違った方法で進む道は、間違ったゴールにしか、たどり着けないのです。

すべての運動で、被差別者の主体性を奪う妖怪は存在する

フェミニズムに限らず、すべての運動で、被差別者の主体性を奪う行為者は存在します。そして、批判されます。批判されても、批判されたこと自体を理解せず、退かないのは、フェミニズムならではです。

男の人が言ってくれたほうが話が通るから、男の人に言ってもらおう、というのは、男性中心社会の追認であり、女性差別をなくす過程の瑕疵です。そこを温存して置いたら、表向き、いったん、改善するようなこと(女性の意見を取り入れましょうみたいな提言)があったとしても、それだと、女性からいう「不都合な提言」については黙殺されるでしょう。そして、フェミニストの言い分は、常に社会において、「不都合」なものなのです。

あなたが我慢したら丸く収まる

女性たちは「あなたが我慢したら丸く収まる」と言われて育ち死んできました。

我慢したら丸く収まるのは、「我慢したら丸く収まる」という発言者です。外野が楽に過ごせるから、当事者に黙れと持ち掛けているのです。当事者には損しかありません。しかし、当事者は、それを飲んできました。

というのは、「我慢したら」の部分を、社会は巧みに言い換えて「らしく」という言葉で覆ってきたのです。

フェミニストは、不都合な主張しかしない

今の社会は女たちの我慢の上に成り立っています。フェミニストは我慢をしない、役割の中に押し込めるな、という主張をするので、基本的に、社会にとって不都合です。この「社会」というのものには、女子供は入っておりません。

国会議員にも、会社の意思決定をする立場の人間にも、司法にも、警察にも、ありとあらゆる意思決定する場に、女はいません。いても数パーセントです。

女子供を無視することで成り立っている社会が間違っているというのが、フェミニストの主張なので、それは、不都合なのは当然です。

社会は女子供に我慢を強いることで成り立っている

社会が、女子供を無視するものとして出来上がっているので、女性がいくらいってもそれがなかったことになるのです。

社会自体に、そういう機能があるのです。

「あなたが我慢していれば丸く収まる」という言葉を、そのまま言われることはあまりありません。それは、あからさまにおかしいからです。

差別を隠ぺいするために言い換える

けれど、「我慢」の部分を「妻なんだから」「母親なんだから」「恋人なんだから」と言い換えます。

「妻なんだから夫を大事にするのが当たり前でしょう?愛していないの?」「夫は妻の力で輝くんだよ」「夫はしょせん妻の手のひらで遊ばさせれる」「男はいつまでもマザコン」「母親なのに自分のことばっかり言って、子供のことがかわいくないの?こんな親に育てられて子供がかわいそうだね」「恋人なんだから、すべてを捨てられるでしょ?捨てられないならその程度の愛だってことだよね」「女らしくしなさい。女なんだから。そんなんじゃ、誰からも嫌われるよ」「そんな風に自分自分ばっかり言ったら、最後は一人でさみしく死ぬよ」「あなたがそんなだと、子供がかわいそう。子供はお母さんの笑顔が一番なんだよ。だから、いつも笑ってて」「あなたの笑顔が好きだから、泣かないで笑ってて」「家族が大事でしょ。自分で選んだ人生なんだから、家族を大事にしないと」

という風に言われると受け入れてしまう人がほとんどでしょう。「あなたが我慢していたら丸く収まる」と言われれば拒否できても、役割を盾に、あるべき姿を示されると、人は、正しくよい人間でありたいと願うものだから、拒否できなくなります。

でも、それで、苦しいというと、今度は、

相反する要求に引き裂かれて、口をふさがれてきた女性たち

「嫌なら言えばよかったのに。言わないでもわかってくれると思うなよ。甘えだよ。エスパーじゃないんだから」「事前に、気が付かない?」「どうして、結婚する前にわからなかったわけ?考えたらわかるでしょう」「予想してたらできたはず。予想できなかったとしたら、あなたに能力が欠けているか、甘かったんだよ」と言われます。これってようするに「お前はバカだ」の言い換えです。そして、女性はこういうことを言われ続けてきたので、苦しいと言えばこういう割れるなということが予測できます。

だから、女性たちは、自分たちの言葉を外に出さないのです。

たとえ、自分が言われないとしても「母がこういう風に言われた」となれば、いずれ自分も母親になれば言われるのだと当事者性をもって聞きます。

同じ状況下で、他人のことでも当事者性をもって受け入れてきたかの差

男性はそうじゃないでしょう。

だから、常にこういう言葉にさらされてきた女性と男性の経験はものすごく違います。

だから、男性は「女性はもっと声をあげないといけない」と、今まであげられてきた声を聴いてこなかった自分を棚にあげることができます。

そして、そのことに恥ずかしさを覚えず、ためらいもありません。

無知ゆえに自信満々な男性たち

彼らは、男として自信を持つように育てられたので、このように明らかに自分が間違っているときでさえ、自信満々なのです。

「女性は声をあげないから、自分は知ることができなかった。女性はもっと声をあげるべき」「女性が言っても世の中は変わらないから、現実的に考えたら、男性が代弁したほうが、スムーズに変化する」「男に発信してもらえば、世の中は動くのに、過程にこだわるなんて、結局は、手柄がほしいだけじゃないの?現実に女性が救われるよりも、自分が成し遂げることのほうが大事なんですね」「本当は世の中に変わってほしくないんじゃないの?自分の被害者ポジションのほうが居心地いいんじゃないですか」「自分をかわいそうぶって、不幸な人なんですね、かわいそう」

こういうのも全部、「うまいくいかないのは、あなた(フェミニスト)のやり方が悪いから」「こっち(男性)は、うまいやり方を知っているのにそれを拒否するのは、意地を張っていて、頭が悪い」みたいなことをいっているわけです。

こういうことがあると、結局「女の人は黙っているのが一番得。周りがいいようにしてくれるのを待つのが一番波風が立たない」というメタメッセージが発せられていることになります。

でも、黙っていると、主体性をはぎ取られていきます。

主体性をはぎ取られ、自信を持てないことを責められる女性

わたしたちは、このようなダブルバインドに引き裂かれているので、発言するときにも、自信を持つことができません。

右往左往しながら、ときにはいうことも反転しながら、手探りで、社会と対峙しているから、自信を持ちようがないのです。社会の一員でありながら、社会を否定するというのは困難な道です。

葛藤のない男性

男性にはこのようなダブルバインドや葛藤がありません。だから、自信を持てます。女性は、少なくともわたしは、発言するとき、上記のかっこがきの内容に似たことは瞬時におもいつきます。こういったら、こういう風に攻撃されるだろう、だからこれは言わないでおいてこういう言い回しにしよう、このことには知識が足りていないから、穴があるかもしれない。だったら、そこには触れないでおこう、という風に。

でも、男性は、知らないことにも、自信満々で、アドバイスすらします。上記のレイさんのように。男性の体を持つ以上、女性の経験をしたことがないはずなのに、女性の経験について、さも詳しいかのように語れるのは無知を恥じないからです。

言い切れることが多ければ、人の留飲を下げるので、読んでもらいやすくもなります。

でも、わたしは自信がありません。自問自答しながら語れば、歯切れは悪くなり、切れ味は劣ります。だから、確かに、やり方が悪くて、発信力が弱いというのも事実なんでしょう。でも、それには背景があるわけです。

やり方が悪くて発信力が弱いという人は、背景を知らないという自覚がない。言い切れる、自信のある人は、いろいろ考えなくて済んできたし、考える能力を育てる機会も少なかった人でしょう。

だから、わたしは、自信のないことに、自信を持ちたいと思います。

わたしたち女性が、この社会で生きることには、さまざまな絶望があります。

その絶望には、まだ名前がついていません。

優しい顔をして、絶望はやってきて、わたしたちの自主性を殺していきます。

(追記:この記事は、えすぺろさんのツイートの内容も参考にしています)


お母さんの悲しいところ

子が一歳を過ぎた。

つまり、母になって一年ということになる。

今日は具合が悪くて一日寝ていた。思い立つまで精神安定剤を飲むこともできなくて、でも、ようやく飲めたので動けるようになった。鬱状態だと、水を飲んだり、薬を飲んだりすることもおっくうで難しい。

自分に、影響力がなく、無力で、世の中をよくすることもできないことがどうしても悲しいなと思った。

わたしは、何者でもない。

子供を産むだとか、育てるだとか、仕事をするだとか、そんなことのために生まれてきたわけでも、頑張ってきたわけでもないと思った。

何者でもないことがむなしい。社会に対して、わたしは、何にもない。

そんなことと言っても、子供は大切だし、仕事もできて、ありがたい、わたしはぜいたくな悩みを抱えているのかもしれない、などと、注釈をつけることも、本当に飽き飽きしてきた。ほかの人の言葉を借りると、空虚である。

注釈をつけて、かっこがきにして、わたしが悩み苦しんでいるど真ん中を、ぼかして、おもねって、衝突を起こさないように防衛して、相手の気持ちを損なわないようにすることがむなしい。人の気持ちを損なって、攻撃されたら、自分だけじゃなくて子供も傷つけられるかもしれないのが怖いのだ。

Twitterのリプライで、「ライフワークの話かも」という話題が出て、本当にそうだと思った。

伴侶は、今、毎晩勉強をしている。わたしは、それを横目に見ながら、眠ってしまったり、ネットを徘徊して、時間を無駄にしている。疲れているから、ほかのことができないのだ。そして、「時間を無駄にしている」と自分を責めている。

伴侶がこれ以上賢くなったら、わたしを置いていくんじゃないかと怖い。そして、わたしだって、勉強したいのに、と思う。わたしがバカなまま、彼が賢くなったら話も合わなくなるんじゃないだろうか。

時間は同じだけどころか、わたしのほうがあるのだから、頑張ればいいのに、とも思う。努力が足りないんじゃないかと。板挟みになって、苦しい。でも、体も動かないのだ。そうして、頭の中がぐるぐるになる。

子供が寄ってきたら、どんなに疲れていても、苦しくても、一緒に遊んで、世話をする。伴侶が子供の世話をしてくれないわけじゃない。でも……。

こういう「でも……」のあとに続く空白が、わたしをさみしく、悲しくさせる。

わたしは、子供を身ごもるまで、完全に「わたし」でありたいと願っていた。それがうまくいかなくて、苦しんでいた。自分の病気や障害、自分の親との確執で、自分を生きることができずに、難儀していた。

子供が自分の中にいて、自分が自分でなくなった。子供を産んだら、また違う苦しみがある。

その苦しみを、今まで女性の作家たちは、文学に書いてきてくれた。「しずかにわたすこがねのゆびわ」だったりで。

今まで読んできた読書体験を、ひとつひとつ思い出すことはできないのだけど、折に触れて、思い出す。

わたしは、わけあって、自分の本棚をすべて捨てられたことがあって、忘れてしまった本を、物理的に手に取って、思い出すことができない。わたしの本が捨てられた理由を大雑把にまとめると、それはわたしが女だったから、となる。それは、個人的な体験だけど、母になった人たちが、自分の本棚を自分のためだけに持つのは難しいんだろうと思う。

お母さんになった瞬間、いや、恋人を得た瞬間、結婚した瞬間、そういう人生の節目で、それまでの人生を、一度捨てなくてはいけない。別の生き物のように、笑顔で、一緒にいる相手が、幸せであることを実感できるようにするために、笑顔で、幸せを演出しなくてはならない。お母さんというペルソナ、恋人というペルソナ、妻というペルソナをかぶって、生活を回していく最中に、ペルソナなしでの自分を失って、何者でもなかった自分を失ってしまう。何者にもなれなかったと嘆く自由も失ってしまう。社会的に認められる何かになりたかったのに、私生活という領域に閉じ込められて、それを檻のように感じる。その檻は、幸せでなくてはならないのだ。その檻の中の幸せは、女の肩にかかっているのだと、言われ続ける。自分にとっても、自分が選んだ道だから、自分は幸せなのだと信じる。本当に幸せなのも、本当のことでもあるから、わたしは、混乱する。

そうした、アイデンティティの崩壊が、「お母さん」になることで、引き起こされる。いや、女であれば、自分のアイデンティティを保つことは難しい。そもそも、女が自分の人生をまるごと、自分のために、生きるなんて不可能なのかもしれない。

わたしは、昨日、子のための帽子を編んでいた。編み物は、自分の心を慰める。それは女の文化であって、生き延びるための処方でもある。わたしは、女の文化を愛している。それは、抑圧の中で培われた文化だから。

自分を問い直すきっかけがあるのは幸いなことだ。

それはわかりきっているけれど、何者でもなく、自分が何者かもわからず、それを知りたいのに、それができないことが悲しい。知りたいと願うことも笑われることがわかりきっていることがむなしい。

「普通」になりたくて、「特別」にもなりたくて、わたしはその二つの間で引き裂かれながら生きている。自分が自分ではないような気がしている。

男性のアイデンティティクライシスが、定年や失職に伴うとしたら、女性のアイデンティティクライシスは、適齢期や、出産や、閉経などのタイミングで来るんだろう。

わたしは、今、自分を問い直さなくてはならない。お母さんでいることの悲しさを明らかにするのがわたしの仕事だと思う。

お母さんになったわたしは、混乱しっぱなしで、その混乱を明らかにしたい。たぶん、きっと、それが、今できるたった一つのこと。


男じゃないもの、女

男か女かを決めるのは、社会である。

セックス(性別)が女だから、女は差別されている。セックスを判断するのは、男性器があるかないか。それに従って戸籍が作られて法的にも性別が決まる。女が女になるのは、医師の診断のもとに、出生届を出した時である。性器を基準として、女は女になる。

わたしは自分のことを女だというし、そして、女性差別に反対する。女である以上、フェミニストであることはやめられない。不公正を正したいと願ったので、わたしは、半ば自動的にフェミニストになった。不正に疑問を持てば、それは、社会の予定調和への反逆である。それは選ぶことができない。やめることもできない。わたしにとって、生きるとは、疑問を持つということだから。

セックスを理由に、差別を受けているのだから、セックスが違う人を、同じ女性差別を受けている人という風には認められない。

というのも、押し付けられた定義だとしても、その定義と戦うためには、その定義をあいまいにしてしまえば、戦う根拠を失ってしまうからだ。

セックスには、実用的な意味もある。女性がかかりやすい病気や、女性にしかない内臓があるから、病院に行った時には、性別は重要だ。薬による影響も違う。

だから、トランスジェンダーについては、ジェンダーをトランスしているんだって理解をするのが一番いいと思う。ジェンダーの問題。

セックスで分けるときには、女は女だし、男は男だ。

インターセックスもいるから、性別もグラデーションとはいえど、差別込みで社会が出来上がっていて、今も、差別込みで運営されている以上、男と女をくっきりわけるのは仕方ない。今のところ。

差別のある世の中で女性は生きているから、女性が迫害されている事実を認めたうえで、現実に対応するしかない。

たいていのトランスジェンダーの人は、工夫して、苦労して、生活の中で、彼らの存在を気付かせないようにしている。社会が混乱しないように気遣っているトランスジェンダーの人がほとんどだと思う。だから、わたしは、意識しないで暮らせているのだ。わたしには負担がなく、トランスジェンダーの人には負担がある。負担の面で非対称性があることは問題だ。

トランスジェンダーの人は、トイレで苦労しているという。きっと、多目的トイレを使ったり、人を脅かさない形で、トイレを使っているんだろうと思う。わたしは、今まで、トイレで、トランス女性がいたと気が付いたことがない。つまり、それだけ、彼女たちは気を使ってくれているということだ。

トイレの問題で、外出が苦手になった人もいると聞いた。中でも、トランス男性は、本当に厳しいと思う。男子トイレは、男のあかしである、男性器を相互監視しているかのような仕組みだから。

その一方で、女というものの定義が、ぐちゃぐちゃになると、女性差別について戦えない、という問題もある。ジェンダーの問題を、そのままセックスの定義には持ち込ませるべきじゃないと思う。ジェンダーじゃなく、セックスで分けるべき場合がある。

性の自認は可変なのに、可変だとだめだ、とか、また、他人が、オペをしろとか、ホルモン治療をしろ、とか、パス度をあげろというべきじゃないと思う。

それは、暴力だからだ。自分の思っている性と食い違った生活をしていると、それは、死に至るストレスになる。自分の自認してる性と、体が食い違っていると、苦痛があるから、体を変えていく、という工夫は、本人の決断だけですべきだ。なぜなら、オペを含む人工的な体の変化に伴う苦痛は、本人しか負えないからだ。体の一部を切り取って再建すること、ホルモンで体を変えることは大変な苦痛だろう。永続的な苦痛だ。

上で書いたことと矛盾するようだが、女性差別の射程距離は、mtfもftmも含む。女性差別の本質は「男じゃないもの」を排除したことで起きるからだ。完ぺきな男こそが本来の人間であり、そのほかは不完全な男、つまり、「人間未満」だと扱うのが、女性差別の本質だからだ。その判別は、「男」が行う。男が気まぐれに決めた基準で決まるから、女を定義することも容易ではない。

ただ、ややこしいのが、押し付けられた「女(=人間未満という評価)」も、差別の中で、はぐくんできた文化や価値観があるということ。女たちが押し付けられたものを、押し付けられただけじゃなくて、その中から喜びを見出して、育てたものがあるということなんだ。

その文化は、もちろん、差別と融合しているから、差別を助長することもある。だけど、それを手放すことって、アイデンティティを捨てることでも同義である。

女として生まれ、女として育てられ、その過程で喜びとともに育んできた世界がある。もちろん、悲しみとともに手放したり、機会を損失したこともある。それは、女の形を持っていたから経験したことだ。

その経験や苦しみ、歴史は、たぶん、トランスジェンダーの人とは、重ならないんだと思う。もちろん、重ならなくても、想像して、元から女性として生まれ育った人の痛みを想像して思いやる人だって多いんだと思う。けど、「女が嫌なら女をやめて男になればいい」と言ったmtfもいたし、高専に通えたmtfは、高専を受験すらできない女性がいたり、教育機会を損失した女性がいたりすることが想像できなかったりした、のをツイッターで見てしまった。それが印象に残って、ほかの静かなトランスジェンダーが目に入らなくなっているので、やっぱり共闘するのは難しいのかなと思った。

性別は可変、性自認も可変。だから、「女性差別されるのがいやなら、女性をやめればいい」という人もいる。女らしい行動をやめる、女らしい見た目をやめればいい、とか、逆に、ミソジニー女性として生きて行って長いものに巻かれたら楽だ、みたいなニュアンスのことを言われたことがある。トランスジェンダーの人が言った、とかじゃなくて、男も女もそういう風に言う人がいるってこと。

性別について、他人が何か言うってことは、それは、遠藤周作の「沈黙」で隠れキリシタンや宣教師に「信仰をやめろ」っていうのと同じだと思う。生活や、人生や、アイデンティティだから、捨てたら死ぬのと同じくらい苦しい。

隠れキリシタン同士で、育てた信頼や文化や生活様式みたいなものがあって、それって捨てられない。幕府じゃなく、逆に、正しいキリスト教を知っている宣教師に「それは間違ったキリスト教だ」と言われても、もう変えられない。お前の信仰は、他人に迷惑をかける、人を苦しめるからやめろ、って言われても変えられないのと同じで、お前が女だから、フェミニストだから、トランスジェンダーだから、それをやめればいいと言われても変えられない。

わたしは、ツイッターでいろいろな人の意見を読んで、「セックスを基準に考えるべき場面」「ジェンダーを基準に考える場面」「個人を尊重する場面」とそれぞれ分けるべきなんだと思った。

セックスで、男と女とをわけないといけない場面はある。それは、今も現在進行形で女性差別があるから。女性差別が全くなかったら、社会的な場面で、男と女とを分けなくてもよくなるか、個人レベルでパーソナルスペースを常に確保する世の中になれば、男や女かを医療以外の場面で考えなくてよくなるかもしれない。でも、今はそうじゃない。生物学的に女か男かを分けることは難しいけど、医療の場面で必要に応じて女だから(男だから)かかりやすい病気がある以上、分けないといけない。

女という定義を探っていくうちに、女というものの輪郭は解けていってしまう。でも、「女」という言葉は必要だ。

社会が、「これは男じゃない」と言って、男の集団から排除していったとき、排除された側が、自分たちを表す言葉を持たなければ戦えない。また、男じゃないと排除された側の集団に、「男」がそれを混乱させるために、入り込んで、「女」をうやむやにすることも許してはならない。

「女みたいなやつ」「男じゃない」「こいつは男だ」という表現を、随時使って、「男じゃないもの」を見分けることを、男の集団は常にしている。

ジェンダーロールの再生産は、避けないといけない。

しかし、その一方で、「女の文化」が女を癒し、自信を育て、自分たちの人生を彩り形成したことも事実だ。手仕事、ファッション、化粧、家事、装飾、華道、茶道、歌、民謡、音楽、子育て。そういったものが、押し付けられたものだとしても、それを通して、女たちは、自分の人生を生き、自信を得て、世界を広げてきた。苦しみながら。

女の文化が、女への差別を助長し、差別者を利するものだとしても、女の文化への敬意なしでは、女性差別に対抗する意味がない。

わたしの戦いは、女が幸せに、自分の求める人生を生きるためのものだ。女が女の形をしているがゆえに、奪われているものを取り戻す戦いだ。

それは、男を脅かし、男に不利益を与える。そうでなくては意味がない。男が不当に得ているものを、正当に取り戻すのだから。

男でない、とみなされた人々が、新たに、自分たちの集団へ名前を付けたとき、それ自体が抵抗になるだろう。押し付けられたものを、自分のものにした時、初めて、本当に生きるということができる。

誰が女なのか、という定義は、まだ、完成していない。誰が女なのか、ということが伸び縮みして、あいまいになる。あいまいになることを避けなくては、戦うことができない。同時に、定義がなされない今も、この瞬間も、闘わなくてはならない。正解はない。もともとが、押し付けられた「男ではないもの」という定義だから。

だから、闘いに、それぞれが一人一人名前を付けるべきなのだ。同じ前提を共有できないわたしたちは、共闘することができない。

だから、わたしたちは、手を取り合うことなく、同じ敵に向かって、戦い続けるべきなのだ。血がにじむ道をたどりながら、その過程で、少しでも平穏で、幸福な、健康で素晴らしい時間を得るために。


家事と収入

家事やりながら同時に仕事はできない。

仕事しながら家事もできない。

家事をやっているその瞬間はほかのことできない。

そして、家事はしないと生きていけない。

1人暮らしの家事の量は、少ない。洗濯だって量も少ない。人と暮らすと、においも出るし、汚れも増える。子供もいればなおさらだ。

稼ぎにくい性別の人と、稼ぎやすい性別の人がいる。

同じ時間働いていても、もらえる額が違う。経済って、能力があって頑張っている人がたくさんもらえる仕組みじゃない。儲かっている場所にいられる人が設けられる。そして、マイノリティは、儲かっている場所に近づくパスがない。

だから、マイノリティは貧乏だ。

女の人は、非正規で働きながら家事もする。ひどい男の人は、収入の多寡で、家事の多寡も決めるという。収入の七割を稼いでいたら、家事も三割しかしなくていいみたいに。で、その人が三割だと思っている家事は、名前のつかない家事を含めると、実は三割どころか一割に満たないみたいなこともある。

女の人は、それをいちいち言って、機嫌を損ねるのが嫌だから、ほめて称えておだてて、その一割未満でもやってもらうように感情労働をする。そして、ひどい男の人の誤解は解けない。

家事はやればやるほど生活のクオリティが上がる。生活のクオリティが上がれば健康を保ちやすくなり、たくさん働くことも可能になる。

毎日食事を作れば、外で食べるよりも安い。健康も保てる。それが例えば毎日味噌汁一品とご飯だけだとしても、外で食べるよりも栄養もあって、安くて、食べる側も楽だ。

お金に換算しにくいけど、働ける人が働けるのは、家事をしている人がいるから。

家事をしている間の時間を代わってもらえているから。

だから、収入の半分は自分が稼いだとしても、その残りの半分は、家事をしている人が稼いだと考えるのが正しいと思う。わたしはそうする。

家事なんて一緒に暮らしている人がほめてくれないと、結果も見えにくい。そとで働くと、お金という形ですでに結果は見えるし、ほめてくれる人もいるし、報われる場面は多い。だから、損に感じたり、引け目に思って、みじめな気持ちで家事をする場面も出てくる。

(食事に関しては、それでも家計簿つければ比較的結果が出やすいけど)

家事を劣ったことだと考えて、家事に手を出せない男性だっているだろう。

世帯収入は二人の財産だというのは、そういう考え方だ。協力して、ようやく稼げているってこと。

民法で、結婚している二人の財産が、共同財産ていうのは、そういう、二人で稼いだってことと、女性の保護(女性が現実的に男性と同じ額を稼ぐのは難しい、賃金格差も就職格差もあるから)も兼ねている。ちゃんと理由がある。

(家事育児外での労働を全部ひとりでしている人は、頑張っていて、頑張りすぎだから、何とかなってほしいと願っている。願うだけで何もできてないけど)


表現の踏むもの

表現が踏むものは、マイノリティについての知識のなさから。人の痛みが分かる人でも、自分と異なりすぎると、その行為が、マイノリティを痛めると理解できなくなって、マイノリティを踏んでしまう。マイノリティの文化や属性、見え方を軽く扱って、モデルを示し、結果として、マイノリティが生きにくくする。

EDMが好きなので割と聴くのですが、kuraのmadmanみて、これはないなーまずい価値観を反映している表現だと思った。

この表現は、先住民族、白人以外の文化を踏んでいる。茶化していいものだと思っている。こういう「踏んでいいもの」を示す表現は、結果的に社会の価値観を再構成するから、白人以外の弱い属性の人間を生きにくくする。これを笑える人は、こういう民族の装束も、現実に見れば、笑うだろう。

なんてことない音楽のMVだってうっかりしたら人を踏む。創作物と現実の境目ついているとみんな言うけれど、でも、ドラマを観て警察にあこがれて警察になる人もいるし、医者のドラマ観て、医者になる人もいる。意識的に影響されていると認識できない部分が、制御できないので質が悪い。

おしんにあこがれて日本に移住してきたペルシャの人ともこの前話した。おもしろいゲームやったよ、と人に話すことだってゲームの影響で行動が変わったともいえる。

kuraのメロディラインは日本の童謡に似てて、たとえばGradyardとかはとうりゃんせっぽくてかなり好きだし、NAMEKもドラゴンボールリスペクトがあっていいなと思うんだけど、madmanは笑えない感じ。kuraはポルトガル人で、侵略した側なんだけど、先住民族、とくにプードゥー教をイメージさせるキャラで茶化してるので笑えない。

前なら笑えたかもしれないんだけど、今はこっちにも知識が付いたから笑えない。好きだから観るし、好きだからこういうのがあるって知るんだけど、こういうのはダメだと思う。

話は代わって、オタクカルチャーのものを批判すると、かなりひどい反応が付く。これって、ほかのカルチャーを批判するときには出てきても少ない。たぶん、今、このkuraのMV批判したからって、オタク系のなにかを批判したのと同じ勢いの攻撃は来ないだろう。断言できる。

例えば、前、ラップの椿さんのバトルを批判したとき、クソリプはほとんど来なかった。エアリプで「わかってないなー」みたいなラップファンのつぶやきのは見たけど。「だからフェミはダメ」とか「まんさんが何か言ってるw」みたいなのはなかった。こういうのはオタクカルチャー批判するとたいてい来る。

だから、オタクが好きそうなものを批判するのはかなりストレスなことだ。宇野ゆうかさんのツイートに触発されてこれを書くんだけど、女性差別的な問題を抱えている表現について、一番批判するのがしんどいのは、オタク関係。

それでもフェミニストが批判するのは、フェミニストにオタクが多いってこともあるし、今やオタクカルチャーがメインカルチャーと言っていいほど、オタクカルチャーが表に出てきているから、目に触れる機会が多いからでもある。

Twitterでは、フェミニストはいくら叩いてもいい属性だということが決定された風潮も感じる。

世の中、少しずつ良くなっていると信じたいけど、批判するのも疲れる。

わたしは、疲れると長期的にフェミニストをやれなくなると思って、休み休みやるけど、一生懸命やる人はバーンアウトしたり、標的になりやすくなったりする。わたしがブログでなるべく書くのは、ブログという形式自体が、読む人を減らすので、標的になりにくいってことと、あと、いざというとき裁判にしやすいからっていうのもある。

表現をするとき、誰かを踏みにじってしまうことは避けようとしても、避けられずあることはあって、それは、わたしたちが時代の申し子だから、価値観をアップデートできないとすぐそうなる。わたしだって踏んでることを後から反省する。

そもそも、批判があるというのは、それで全部だめということじゃないのに、ゼロか1かの思考しかない人は、全部否定されたみたいになる。そして、批判するのは悪いことだという価値観を持っている人も多いから、批判という悪事をする人間はいくらでも叩いてもいいという発想から批判者をめちゃくちゃ攻撃する。最初に攻撃的な表現をしたのは、誰かも忘れてしまう。

好きだけど、好きだから批判する、ってこともあるし、まじむかつくし気分悪い表現だから批判するということもあるし、でもそれは全否定じゃないこともあるし、批判されたらこういう考えがあると伝えて相互の考え方を深めればいいのに、そうはなってない。

なんかそういうのが悲しいなと思う。

オタクの人は、コミュニケーションになれていない人がたぶん多くて、批判というコミュニケーションの複雑さに耐えられないんじゃないかと思う。

コミュニケーションって相手の言っていることを正確に読み取って、それに対して応答することも含まれているんだけど、なんとなく雰囲気でやり取りできる人はかえってそういうのが苦手な印象がある。

オタク文化には、きれいなものや、面白いものもあるのに、もったいないと思う。正直に言えば、批判者に対するオタクの攻撃は、胸糞悪い。だから、全部のオタクがそうじゃなくても、たくさん嫌なことを発言している人間が一人いると、それに埋もれて、考え方がちゃんとしている人もいるだろうに見つからない。そういうのを含めてもったいない。でも、そんなの誰にもどうすることもできない。

表現が、その時代の社会の価値観を反映しているのは間違いない。その価値観に批判的なのか、意識的なのかが唯一選べること。選べるのに、まずい価値観を無自覚に反映していたら、そりゃ、価値観をアップデート済みの人たちには、批判される。

知るってことは、胸糞悪いことに気がついて、前みたいに楽しめなくなることでもある。わたしがkuraのmadman楽しめないみたいに。でも、そういうことが、ちょっとでもいい世の中を作るために必要で、それは結果的に、弱い人間を生きやすくする。


幸福の追求とフェミニズム

わたしは、本物のフェミニストかというと、自分ではそうだと思っているし、そういうけれど、他人から見たらどうかと言えば、フェミニストなんかじゃないという人もいるだろうし、このフェミがとののしられることもあるだろうと思っている。

今回の話は、ツイッターの「ラディフェミはいいぞ」さんのツイートを読んで思ったことを書きます。批判的な内容を含みますが、ラディフェミはいいぞさんを批判することだけが主目的ではありません。

フェミニズムと、わたしのような、名もなき生活者が、いかにかかわっていくべきかを考えたいと思います。わたしは、専門にフェミニズムを学んだ人間ではありません。

ラディフェミはいいぞさんが「死ね」と言われて、フェミニズムを一生懸命勉強したというエピソードが印象に残りました。また、家父長制を助長する、補強するすべての行動をするべきじゃない、という主張をしているように読みました。

わたしの立場と言えば、戦後のフェミニズムを含めた左派運動の問題は、自己批判をさせて、実際に殺したという点に尽きると思います。

また、理論を優先させて、その人の幸福追求や、行動を批判し、自己批判させ、総括したことにも問題があると思っています。

過程として幸福の追求を邪魔すること、命の危機に陥らせること、それは「死ね」と人に言うことも含みますが、それらは、正義ではなく、悪です。

それは、人権の否定です。

わたしたちは、時代の子供なので、普通に生活しようとしたら、その時代の規範の枠組みの中で生きるしかなく、それを否定するなら死ぬしかありません。

フェミニズムで言えば、あらゆる場面で女性差別はあるので、何をしても、女性差別的な行動と言えなくもありません。

たとえば、水道から水を飲むという行為一つとっても、水を飲んだだけでも、水道局という家父長制を基にした政府の運営している組織に加担したといえるでしょう。しかし、人は水を飲みます。衣食住を満たすだけでも、人を虐げないことは不可能です。安い服を買えば、搾取されている人を苦しめる行為に加担します。しかし、人は服を着なくてはなりません。そして、安い服を買うしかない場面があります。野菜を買うにしても、その野菜を作る農家や農協で、虐げられている女性が、奴隷のように労働させられている場合はあります。しかし、人は食べなくてなりません。

時代の要請する価値観の枠組みから自由ではいられません。多少、先進的、先進的ではないという違いはあったとしても、どれだけ偉大な人であっても、時代の子という宿命から逃れられません。無理に逃れようとすれば、死にます。

死ねと言われて考え勉強した、というのは、わたしは虐待されて、ショックから適応したように思えます。そうでないとしても、そのエピソードを肯定的に開陳して、同じような行動を求めることは正しいことではありません。

公序良俗に反しない限り、人は幸福を求めるべきです。その「公序良俗」自体も、男性社会が設定したものであり、幸福追求権自体も男性的な枠組みで考えられた正義であることを加味したとしても、これは悪い思想ではありません。

ある思想を理解していない人に死ね、というのは、優生思想を持ち出すまでもなく、「劣った人に対して生死を支配することが可能」という価値観自体が悪いものです。それを合意の下で受け入れた人がいたとしても、そういうエピソードを肯定的に表し、それに続くように誘うことは悪いことです。

差別問題に抵抗するすべてが、人権という概念を前提としている以上これは言うまでもないことです。

わたしの場合をいえば、男性パートナーがいます。男性パートナーがいること自体、家父長制の助長と言われても仕方がないことです。しかし、日本で生きるとき、パートナーの有無は、あらゆる場面で影響します。女性は賃金面で差別されているので、1人では生きにくいです。低賃金で働きながら、一人で暮らし、抵抗運動をすることと、一人で暮らすことをあきらめ(もしくは、積極的にパートナーを求め)、人と暮らすことを選択しながら抵抗運動をすることを比べるとします。それは、前提の低賃金が悪いわけですから、後者がより悪いと、批判されうることは肯定できますが、それ以上ではありません。資本主義に加担している以上、前者も批判され得ます。

わたしの場合は、家父長制を助長することは避けたいと思い、男性パートナーがいても、籍を入れていません。しかし、子が産まれました。わたしが死んだとき、パートナーは子の手術の同意書を書くことができません。なので、わたしは、思想を曲げるかもしれません。しかし、このことは、人の命を考えるうえで、必要なことです。思想か死かを選ぶとき、しかもそれが他者の命であればなおさら、わたしは生や生活を選択します。

フェミニズムの勉強が足りない、というとき、それは、生活者としての女性を脅かします。

たとえばある人が、「勉強をできたのはフェミニズムのおかげだから、フェミニズムのために身をささげる」ことは肯定できますが、それを勉強できない、できなかった女性に責めるような言葉の矛先を向けたとき、それは、どういう結果を招くかを考えたいと思います。

勉強をできない現実があり、それを女性自身の努力によって補うことを求めることが発生したとき、それは、女性の現実と思想の衝突を招き、その女性は苦しい思いをします。自分を責めるでしょう。

たとえ話をします。仏陀のように現世と違う思想を持つとき、そこに実行可能な実践方法を提示しなければ、人は死に、思想を実践しながら生きることを不可能にします。ある種の特別な人が実践できる思想では、一部の人が救われ、ほとんどの人が不幸になります。仏陀は、実践可能な出家という方法を用意し、現世で生きる人に間違っているから死ねとは言いませんでした。1人の先導者がいるかどうか、宗教と思想という違いはあるにせよ、彼が実践できる方法を用意したこと、間違っているから死ねと言わない方法は参考になります。


仏陀の影響で、今では、ほとんどの人が、お金よりも大事なものがあるという知識を持っています。お金が一番大事だという価値観を持っている人でも、お金よりも大事なものがあるという知識を持っているでしょう。それは、大きな功績です。もし、お金が何よりも大事な人が、お金を失ったとき、お金よりも大事なものがあるという知識が、その人を死から救ってくれるかもしれません。

今、女性差別はよくないことだという知識をたいていの人が持っています。その女性差別が何に当たるか、というところで、議論が起きている状態です。これは、かなりの前進です。少し前までは、女性と男性と差をつけるのは、全く問題がないことであり、むしろ女性のためになる良いことだと考えている人のほうが多かったのですから。

一部の人がとがった考え方を持ち、それを実践するために動いていて、それが達成されるか否かは、その一部以外の人がどういう考えを持っているかによります。わたしのような日和見フェミニスト、いわゆる「ゆるいフェミニスト」の数が多ければ多いほど、フェミニズム的な価値観が浸透しやすいわけです。

たとえば、わたしは人と話すとき、フェミニズム的な価値観で発言します。それを聞いた時、それに共感する人がいれば、そこで「ゆるい連帯」が起きます。孤独ではなくなります。虐待、不公正が起きたとき、話し合う相手がいて、現実をより生きやすいものにするために助け合うことができます。自分の考え方がおかしいのかと悩んでいる人がいれば、おかしくないと言い合うことができます。それは意味のあることです。そうして、一人二人と輪が広がることは、非情に地味ですし、一見なんの効果もないように思いますが、人の人生は長くて100年ほどです。その一人の100年の時間を、どう使っていくかは大切なことです。

1人の人間が、幸福を追求しつつ、世の中をよりよくし、未来の人のために道を開いていく。幸福と、フェミニズムを両立しようとすること。その過程で、必ずしも「正しくない」ことは、誰しもするでしょう。わたしがパートナーと籍を入れること。スカートを穿くこと。髪を伸ばすこと。

現実とフェミニズムは矛盾しています。現実を生きるわたしたちは、フェミニズムを実践しようとすれば、必ず矛盾します。一つの思想が広がり、浸透するまでに、100年では足りません。100年、フェミニストが生きる間、その人生は矛盾に満ちたものになるのが当然です。思想と現実に乖離がある、だからこそ、運動というものがあるからです。乖離を生きれば矛盾します。

その100年の間、どう生きるのかは、その人にゆだねられています。その人の幸福の在り方は、その人の生まれたときの性質、育ち方、考え方、性質の表現の仕方によって変わるでしょう。その人固有の幸福を求めるために、過程として、または道具として、よりよく生きるために思想があるべきだと思います。

矛盾を批判した結果、人が死んだでは、思想の存在価値がありません。価値ある死というのはありません。正義を求めた結果、人が死ぬことはよくあることです。だから、それを避ける工夫として、今は、正義を人の幸福の追求に求める、「人権」という考え方が前提になっているのだと思います。不公正さをなくすために、人権を無視することは、筋が通っていたとしても、出発点が間違っています。

過程や仮説が間違っていれば、どんなに筋や論理が正しくても、結果は間違います。

何を疑問に持ち、何を求めていくかが、人が生きる上で大切です。


魔女と呪いとスピリチュアル

女性への抑圧や差別を、「女性への呪い」という言い方をする場面がある。

わたしは、女性への呪いという言葉を使わない。それは、差別であり、抑圧であることがほとんどなので、わたしは、「差別」「抑圧」という。

女性に行われているのは、ぼんやりとした悪意の発露ではなく、はっきりとした明確な悪意と害意の発露だと思っているからだ。

そもそも、「呪い」の罪は、女に背負わされてきた。魔女狩りで女性を拷問し虐殺した。それは、魔女と言われた人々が、つまり女性が、医療や、出産、そのほか「まじない」をしてきたからだ。

命にかかわる仕事をしていただけで、疑われただけで、女は殺された。

女は命を産む。そのこと自体が、男から、憎悪の対象とされた。だから、女は不浄なものだから、表には出さない、魔女は殺す。女は汚れていると男たちは規定した。

まじないを悪いものだとしたのは男の論理だ。だから、その価値観に従って、「女への呪い」という言葉を使うのは、間違っていると思う。

「それは女性への呪いだから」という言い回しを不適切だとは思わない。わかりやすく、言いやすいから使う人も多い。

だけど、使いやすさそのものが曲者だ。「差別」「害」「加害」「抑圧」を柔らかく「呪い」ということで、男性に対して、いやな気持にさせないための配慮が行き届きすぎていると思う。

男は、「まじない」をしない性だときっと自認しているから、呪いをかける主体だなんて思わないだろう。だから、女性への呪い、といったとき、呪いをかけている主体はぼやけてしまう。ぼやけて自分のこととして受け取る男はきっといない。

今でも、「魔女的」な女性たちはいて、子宮信仰をする人、スピリチュアルにはまる人、ワクチンに疑念を持つ人たちは、医師を中心に、バカにされている。

医師たちは、ホモソーシャル的な価値観を内面化しているから、それは、男たちの攻撃と言って差し支えないだろう。

わたしの感じている現代の「魔女的なもの」は、身体や、感情、感覚を尊重し、自分を癒すことだと思う。率直に言って、受け付けない種類のスピリチュアルもあるが、わたしは、女性たちの動きを尊重したい。

女性たちの体や心に対する不安は、長い間公的にないがしろにされてきた。ないがしろというよりも、「ないもの」として扱われてきた。

わたし自身、医師に、「考えすぎ」「日頃の行いが悪い」「言われたとおりにしないから駄目なんだ」「そんなこと言われても困る」と逆上されたことが何度もある。だから、今は、元気なときに医者を探して、自己防衛しているくらいだ。

反ワクチンについては、根底に、医療不信、そして孤独があると思う。

母親は、孤立して、責任を全部背負わされる。その時にできた仲間が、反ワクチンだったら、孤独と医療不信が癒されるのだろうかと感じている。

子に、ワクチンを打ったとき、副作用で高熱が出て、親子ともに苦しい思いをした。申し訳ないとさえ思った。それでもわたしはワクチンを打つけれど、副作用ぐらいでと言われたら、心を引き裂かれるよう感じるだろう。

わたしが、スピリチュアルに強くかかわったのは、いろいろな理由があって、一言には言えないが、それを通して、人生の苦しみを分かち合いたいという思いだった。人生の苦しみには様々なバリエーションがある。経済的な困難、伴侶との行き違い、無理解、身体的な苦痛、母と娘とのわだかまり。そうしたものを、話せる場が、一番すぐにつながるのはスピリチュアルなのだった。

スピリチュアルで嫌な思いをしたこともある。研修と称して、200万円のローンを組まされそうになって、危うく逃げたこと、マルチへの勧誘、ヨガ教室で、皮膚の疾患と心の問題を結びつけたうえで、それを解決してあげると言われたときに感じた無遠慮な視線。金づるとしてしか見られていないと思って、ヨガは好きなのに辞めざるを得なかったこと。

医者は、病は見ても、人を見ない、という人が多く、例えばわたしは皮膚の疾患と、精神疾患が結びついていて、切っても離せないものなのに、皮膚しか見ないで精神面は無視するという医師にはずいぶん傷つけられた。ストレスで皮膚状態が悪化するなんて誰もが経験することだろうに。

それで、中国で漢方の考え方を学びに行った医師のもとに行った。気功も教える人で、カリスマ的な医師だった。わたしは、死んでしまいたいよう症状があって、追い詰められていたので、この人が誤診をして、その結果どうなろうとも納得できるような、尊敬する意思を求めていた。わたしには医師の腕の良しあしが分からないから、何があっても信頼できるということが最も大事だった。たとえ誤診の結果死んでも、それでいい、ありがとうと言える医者に診てほしかった。それには、その医師の人柄が最最優先、最重要だった。

女性の病気は「不定愁訴」「自律神経」「精神的な問題」とされて、病気だと診断されないものが多い。本当は、しっかり研究したら、原因も特定できるものも多そうだが、医師は、男性が多いので、女性の体を自分事とは思えず、研究が進まないのだと思う。

不定愁訴、自律神経失調、精神的な問題、と言われた人々は、苦しみを抑える薬さえもらえないことも多く、体調を崩した結果、経済的にも、人間関係的にも、孤立してしまう。そうしたとき、スピリチュアルは、心の支えになるのだ。

それは、バカにされるようなことではない。女性たちは、自分たちのコミュニティを作ろうとしても、いろいろな方法で邪魔されてきた。

スピリチュアルなこと、魔女的な行為は、女性が生きるために、必要なことだった。心身の不調に向き合ってくれる人、それについて話し合える場、共感する相手、そういったものは、魔女的なものと真逆な、資本主義的な世界では、放逐されてきた。資本主義社会では、女性は、安い賃金で働くだけの存在で、自分たちが主体的にふるまえるルールではなかった。スピリチュアルの世界では、精神や心の状態を重んじる。それは、アンチ資本主義と言える。資本主義的な社会で、不合理で、非科学的で、体に害を与えることは往々にして起きている。例えば、違法に働かせる企業で、精神的に追い詰めるようなことや、健康と時間を搾取するということはよくある。それだって、十分理解不能なのに、スピリチュアルの世界で、外から見て理解不能なまじないや、高額な金銭を納めるセミナーがあると聞けば、非情な非難を向ける。そこには、非対称性がある。

スピリチュアルのセミナーに高額なお金を納めることよりも、ブラック企業が、労働基準法という労働者を守るための法律を無視して、労働者の健康や尊厳を損なうことのほうがずっと悪だと思う。だけど、ブラック企業には、擁護すらつく場合がある。

それなのに、社会的非難の量の非対称性があるのは、スピリチュアルの世界が、女性的な世界、つまり魔女に属する世界であることと無縁ではないだろう。

「まじない」というのは、「悪」ではない。「まじない」のひとつに「いたいのいたいのとんでいけ」というものがある。それは、本当に痛みを取り去る。そういう経験をした人は多いだろう。懐かしく、幸せな記憶として持っている人は多いだろう。それもスピリチュアルなのだ。スピリチュアルに、そのような気持ちを持っている人はいるのだ。暖かく、懐かしく、優しいものとして。

スピリチュアルの世界も、まじないも、偽りではない。

だから、呪いのなかには、のろいだけじゃなく、まじないがあることも踏まえると、女性差別を、女性への呪いと言い換えることは、わたしはしないでおこうと思う。

スピリチュアルを悪いものだとする考えと、女性蔑視がつながっているのに、男性が主体的に差別を行っていること、その主体性を覆い隠す言葉として、「女性への呪い」が機能していると思うからだ。