アトピーと優しさ

夏場はアトピーがひどくて、とても疲れやすい。
皮膚の状態が悪いと、免疫にも負担がかかるから(バリアーがないから)、すごく疲れる。
だるいし、眠れない。
目も見えにくくなる。

手は生肉みたいに傷だらけで染みる。
友だちと話していたら、「たいへんだなー」とか「今度良さそうなのプレゼントする」といわれたので驚いた。

「普通心配するでしょう」といわれたけど、疲れやすいことを想像してもらったことなんてほとんどない。
「みんな心配しているけど言わないだけ」といわれたけど、基本的には「甘ったれているからそうなる」「親の育て方が悪いからそうなる」「食べているものが悪いからそうなる」「もっと悪い人を知っている」「お医者さんが悪いから、他の人を紹介してあげる」「良い水があって5000円なんだけど」という話ばかりだ。

だから、優しい言葉をかけてもらって、心配されていることを知って、驚いたし、感動した。
世の中の人は「なにそれ」「うつるの?」「気持ち悪い」とばかり言うのだと思っていた。
それは、世の中のことを悪く思い過ぎじゃないの、といわれたけど、でも全部実際に言われたことだから。

世の中の人は「何か悪いことをしたから病気になった」という考えを持った人が一定数いて、そういう人たちは、病気の人に声をかけることにためらいがないから、わたしは世の中全体がそういう考えなのだと思っていた。

だから、病気もそうだけど、人にあうのがいやで、引きこもっていた。
ただでさえ、具合が悪いのに、それ以上辛い目に遭うキャパがなくて。

昨日今日休みだったけどアトピーの調子が悪くて休めなかった。
疲れた。
生き延びられればそれで良い。

意識を保つために、文章を書いていたら、まとめたのも含めると、昨日だけで17エントリ書いていた。
過食も少しですんだし散財もしなかった。
まあまあがんばった。


がんばっていること

熱さのせいでアトピーが悪化していて、手のひらもぼろぼろで間接だけじゃなくて、すべての皮膚がちぎれていて、血が出るし動かすと痛む。

目からは膿が出ているから目をつぶってから開けようとすると張り付くし。
最悪だ。

自分の気持ちのよいことを考えようと思って、はっか油、シャワーの前に流すジェルを買った。

ハッカ油P 20ml

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バブ 爽快シャワー スーパーエクストラクールジェル

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このジェルは意外と良くて、すっきりした。
わたしは、眠ろうとすると緊張して眠れないのだけど、今日は眠れたので良かった。

過食をしたけど、野菜中心だったし、散財もしなくてすんだ。
小さなことだけど、わたしにとってはがんばったこと。


差別とは人権蹂躙だ

差別という言葉の意味が分からない人がいるらしい。c71.hatenablog.com
これでとりあげたことだけれど、差別とは人権蹂躙だ。

だから、「このくらいの差別は良いだろう」というのは「これくらいの人権蹂躙は良いだろう」といことだ。

人権蹂躙しながら、「許してもらえるだろう」「許してもらえないとしたら、相手の心が狭いからだ」と言うのはおかしいとわかってもらえるだろうか。

人格や人権や容姿には、おいそれと、踏み込んではならない。それができなければ、コミュニケーションできないじゃないか、と思う人が、もしもいるとしたら、それは、あなたにコミュニケーション能力がないからだ。
世の中には天気の話もある。当たり障りのない話はできる。女の人格や容姿についてのからかいが、当たり障りのない話だと思っていたとしたら、それは勘違いだ。しかし、その勘違いは良く散見される。

性差別で運動が破壊される、という言葉の意味が「性差別を放置していたら、運動がその本義を失う」という意味だったら良かったのになと夢想する。
夢想するが、実際には、「性差別問題でブレーキがかかったら、運動が破壊されてしまう」という自分の心配ばかりだ。人権が侵害されている人への痛み、そういうことについて、考えがない。

事件を蹂躙されることはとてもつらい。自分の思っていることやしたいことがつぶされて、お情けのように、ちょっとした自由に、希望を見いだしたりして。
つらいなかで、小さな幸せを見つけることが、成長だと言われたりして。自分をだまして。

だけど、人は羽ばたいて、好きなように自由に生きられる。人権蹂躙を許すことが、世間を渡る上での秘訣なんて嘘だ。

自分の気持ちを一番大切にしてほしい。自分の直感を一番に考えてほしい。
考えなくて良い、言い訳も聞かなくていい。自分の気持ちが一番大事。
いやなことを耐えることで成長するなんて、人をコントロールして、搾取したがる誰かの嘘だ。

心の中の宝石みたいな綺麗なものを大切にして、誰にも踏みつけられないでいてほしい。
性差別のことで止まっていられない、運動が破壊されてしまう、と書いてしまう人がいるところだ。
それがすべてではないだろうし、もちろん、デモには意義がある。素晴らしいし応援したい。だけれど、もしも、へんだな、という直感がある人は、そこから外れていくことに、罪悪感を持たないでほしい。

そして、くだんのツイートをした人には、差別は、人権蹂躙だから、大きい差別も小さい差別もなく、だからこそ、誰かにこれくらいの人権蹂躙は我慢してほしい、と取られることを言うことをやめてほしい。
運動が止まることが恐ろしいのなら、人権蹂躙について考えてほしい。自分以外の人に我慢させることについて考えてほしい。
なんのために、反戦を掲げるのか、それは、戦争というもっとも大きな人権蹂躙を防ぐためではないのか。


気持ちのまとめ

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塾関係のまとめ

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昨日今日で書いた、運動に関するエントリのまとめ

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差し出された踏み絵に心は引き裂かれる

呼びかけられれば、行きたいと思う。
呼びかけに応じられなかったら、罪悪感を感じる。

行けない理由にさまざまなものがある。
それが物理的なものだったら、助かる。
でも、そうじゃなかったら?
そのひとつに、女性差別がある。

以下のツイートに共感した。

そう、これらの差別は個人の努力によって、飲み込むことができる差別である。
飲み込むことが当たり前な差別で、それに従えば従うほど「良い子」「気のきく子」と褒められるのだ。
だから、そこで「いやだ」というのには、たいへんな抵抗に遭う。
絶対に「なんで」「どうして」「たいしたことじゃない」「皿洗いならこれからこちらもするから」という話になる。
「そういうことじゃない、ここに差別がある、差別があるところにはいられない」という言葉は相手に通じない。差別をしている自覚がないから。
だから「運動に価値がないと思うのか」「小さいことにかまうことでスピードが失われる」と言葉を投げかけられない。
これは、わたしの妄想とも言えなくて、

(以下追記します)

これは、どんな風にも読み取れるけれど、対応しない、という風にわたしは読んだ。
専念できないですかね、ということは、既に出た批判に対して、「めんどうくさい」と感じているのではないかと思ってしまった。
一秒たりとも、って、とりかたによれば、安保以外についてのことには、ってこととも取れる。
うがちすぎかもしれないけれど、でも思った。

運動体を健全に遂行させるためには、男女差別を抜きに語れないわけです。
人類の半分が女性で、女性だって意志を持って参加したいのだから。
だから、一秒たりとも、が、「セクシズムで売りを作ろう」と思っている外野について思っていることなら、心が安らぐのだけれど、そうではなく、セクシズム批判に向き合うことだったら、わたしは悲しいなと思います。
めんどくさいよね、めんどくさい。
だけど、わたしも女性差別を受けている日常がすべてめんどくさいの。
わたしが日本に行きている限り、女性差別を受けることは、生きるということと不可分で逃げられないことだから。

一秒たりとも考えたくないと言って、考えなくてすむひとは、うらやましいと思ってしまう。
わたしは、何するにも「女だから」というのがついて回るからさ。
そういうのがない、安心して加われるものがあれば良いと思う。
だから、応援はしている。
けれど、一秒たりとも、の意味によるけれど、読んだ瞬間、心がひゅんとしてしまった。


また、こうとも言っていて、素直に信じれば、セクシズムに対して、不快感を示してはいるし、自分たちは、していない、と言ってもいるように見える。

わたしは、あまり楽観的になれていない。本当に、セクシズムに対して、対策を練ったり、考えてくれていたら良いなと思う。それは本当に思う。

そして、公式にこのような声明が出た
(訂正します。公式ではありませんでした。はむはむさんというかたが発言されたことです。はむはむさんとSEALDsとの関係を確認していませんでした。
 すみませんでした)

(以下のツイートを追記します)

(追記終わり)

「たとえ性差別が理由であろうと、運動を破壊する方向の行動に意味はない」と書いてある。
わからないのは、性差別を訴えることが、運動を破壊すると。そして、その性差別を訴えることに意味はないと。そういうことを書いているように見える。
わたしが間違っていたら教えてほしい。わたしが間違っている方が良いのだから。

性差別とは、女性の権利や主体性を侵す行為である。運動体には、男も女もいる。その中の一部の人が、差別されていても仕方がないという。運動のためには仕方がないという。

差別をされるものは孤独である。差別を訴えても、気のせい、考え過ぎ、といわれるからである。
「はむはむ」さんは、運動の孤独を「動かない世の中で意義申し立てをするくらい孤独で辛いことはないから」と書いてある。その辛さが分かる人が、どうして、同じ仲間を差別し、差別されていても、運動のためになら、運動を破壊する方向の運動に意味はないと言えるのか。

そもそも、性差別に向き合うことは、運動を破壊することとイコールではない。
運動体の内部の差別を温存することは、それこそ、運動を破壊する。
そもそも、同じ目的で集った仲間に、「性差別を受け入れるか」「それとも運動体から脱退するか」を迫ることについて、心は痛まないのだろうか。正しいか、正しくないかはさておいても、仲間に対する心の動きはないのだろうか。
戦争は、人を数として扱う。心なんて邪魔者だという風に扱う。差別を温存して、差別される側に「それはたいしたことがないのだから、運動を邪魔しないでくれ」と言うことは、戦争をしたがる男たちとどこが違うのだろうか。
わたしには、同じに見える。主張している内容が逆なだけで、行動原理が同じに見える。
それは確かに強いだろう。
なにせ、アベ政権は、強い。その行動原理を取り入れているから、細かい弱いものを切り捨てているから、目的に邁進できる。
それと同じことをしたら、運動体も強くいられるのかもしれない。

けれど、わたしは女で、かつて踏み絵を差し出され、踏めといわれたから、それを看過できない。
あのとき、わたしは、「踏み絵を差し出された」ことにも気づかず、ただ、混乱していた。
仲間の「空気」に混ざれないのなら、出て行ってくれ、という空気。その根底には女性差別が遭った。
わたしにはそのことがわかっていたから、一生懸命説明したけれど、一度出された踏み絵が引っ込められることはなかった。
性差別を受け入れるか、否か。
わたしは、性差別を受け入れなかった。

今、若い人たちも同じような踏み絵を差し出される場面はあるのだろうか。
そうしたとき、「意識が低い」といわれてしまうのだろうか。
運動という動きを止めないために、犠牲になるのか、それとも、共闘できないことを甘えだと言われるのだろうか。

差別を受け入れることは屈辱だ。
それがわかっているから、運動をする人たちなのだろうに、性差別に関しては、たいしたことがないと思う人が多いらしい。
女性でも男性でも、性差別は当たり前のこと、あっても邪魔にならないこと、と思っている人が多いらしい。

戦争を止めることと、性差別を忌避すること。
これは、相反することなのだろうか。
戦争を止めたがる彼らは、なぜ、また踏み絵を差し出すのだろうか。
運動を破壊するつもりなのかという台詞を添えて。
性差別という大きな日常に浸透した差別を拒否するだけで、破壊されてしまう運動とは何だろう。
どうしてだろう。
わたしは昔から不思議だ。今も変わらないことが不思議だ。
今も、昔も、差し出された踏み絵に心は引き裂かれる。どちらを選んでも、後悔が残る。半端なプライドが、あるから、わたしはこちらを選んでしまったと、自分を責めてしまう。

そして、こんなにも悩み苦しんでも、踏み絵を差し出した側には、そもそも踏み絵の存在自体、意識にはまるでなく、テストをした覚えもないから、いくら問いつめても、ぽかんとした顔が返ってくるだけなのだ。

踏み絵を突きつけられた側は、どの選択をしても、罪悪感に苛まれる。呼びかけられたら、応じたいものだ。

もし、性差別を拒否して、運動体から弾き飛ばされたら、やるべきことをやれなかった思い、ささいなことで脱落した自分のふがいなさに苛まれる。

それとも、性差別を我慢して続けたとしたら、細部に宿る不毛さ、女であること、それに付随して期待されるその負担を誰にも分かってもらえない孤独、自分が選んだことだからこそ、逃げ場もなく、言語化できない混沌の中で、善意の人々に囲まれ続ける苦痛。

差別されることと、社会変革と、どのレベルでも同じではないものを、選ばされる苦痛。
差別されることを選んだら、運動がいつまで続くか分からないけれど、ずっと、運動体の中で差別され続ける。
社会変革に参加することをあきらめたら、自分の主体性を喪失した痛みに苦しみ続けるだろう。
差別をされている側に、「丸く納めること」を求めるのは、単に差別の追認というだけでなく、さらに差別を追加したことになる。
表向きが綺麗だったら、その構成員の苦痛はどうでも良い、という態度に心は死んでいく。

こんな二者択一を女ばかりに強いることが、すでに大きな間違いだ。
どうして、女ばかりが、踏み絵を目にしなくてはならないのだろう。
男たちは、自分が差し出したものの正体すら、知らないままだというのに。

踏み絵を差し出す側は無邪気で、なにも悪いことをしているつもりがない。簡単なことだと思っている。
世の中のために、良いことをしている。だから、自分も含めて、何かを犠牲にするのは当たり前だと思っている。
そして、自分が犠牲を払っているものだから、他の誰かの犠牲に対して、自他の区別がつかないまま、運動を破壊されることばかりを恐れる。


体調のことと、どういう読まれ方をされているの?と知りたいこと

さきほど、頭痛がしていた。緊張性の頭痛はもともとあったのだけど、それとは違う鈍痛がしていて、気を失いそうなのに、眠くなく、不快感があった。全身痛くてだるかった。
だから、気持ちまでネガティブになっていた。
だから、忠告通り、チキンスープを食べたら、頭痛は治まり、汗は出るようになり、気分はびっくりするほど明るくなった。
脱水を防ぐためには塩分と水分だけではなくて、糖分やエネルギーも必要なそうだ。
気分とからだは連動しているなと思った。

わたしの文章は、最近、たくさん読まれるようになって来た。
アクセス数が増えているからそれはわかる。
だけど、どういう人が、どんな封な読み方をしているのかわからない。
知りたい。

わからないことがあると不安になる。
はてブを読むと批判が多い。偏っているのは分かるから、差し引くけれど、心がずしん、とする。
ツイッターの人と今日たくさん話した。それで肯定的に読まれていることを知った。
普段、ツイッターごしでも、人とのやり取りをするのはしんどいのだけど、わたしの事情を知っている人が多かったのか、気を使ってもらったのか、あまり、しんどくなく応対が出来た。それで、楽しかった。安心した。

どう読まれているのか知りたいと思うことは、たぶん自意識過剰だろうし、それに、書いてしまったら、受け手のものだから、どうであってもかまわないという態度が本筋だと思うのだけど、ツイッターで、力づけられていると言ってもらったので嬉しい。
実は、方々で褒められている。だから、素直に受け取った方が良い。

困っていることは、悪く言う人がいることだ。ある数以上の人に読まれたら、もちろん、わたしの文章を気に入らないと思う人も増えるはずだから、気にしても仕方がないと思いつつも、わたしに何か悪いところがあるのかもしれないと思って、心配になってしまう。

だから、これからは、真に受けないで、でも、直せるところは直そうと思う。
書いていることが楽しい気分を損なわない程度に、取り入れられることは取り入れて、でも、楽しい範囲だけで気にしようと思う。

わたしが本当に悪くて悪口を言われることもあるだろうし、でも、言う側がイライラしているから言ったこともあり得る。だから、真剣にとらえすぎないようにしたい。


ネガティブなのは体調の悪さのせい

わたしは自分のからだの感覚に鈍いです。
鈍いのですが、なんとなく、だるい、元気が出ない、からだが思うように言うことを聞かない、というのはわかります。

さっき、あまりにも気持ちがネガティブになって、わたしには何も出来ない、という気持ちになりました。
出来ないことを数えていました。
そうしたら、ツイッターの人が、「熱中症で脱水になっているのではない?」と教えてくれました。
頭痛がするし、悲しいことしか考えられないし、からだの筋肉も痛いし、熱がこもっていました。

クーラーをつけた部屋の中にいたのですが、「トイレに行く回数が少ない」「汗が出ない」というわけで、言われた通りにしました。
脇を冷やして、塩分を取って、エネルギー源になるものと水分を取りました。具体的にはチキンスープに野菜を入れて食べました。
そうしたら、汗が出て来て、頭痛も軽減し、ネガティブな気持ちも去りました。

今日は、自分のからだが気持ち通いと思うことを探すと良いよと教わりました。
良いにおいのものや、お風呂、マッサージ、など、自分のからだが喜ぶののを探すと良いと教わりました。
わたしはそう言ったことにあまり詳しくありません。
だから、これから探そうと思います。
それも楽しみになると良いです。

頭が悪くなってから、今までしていた趣味が全部出来なくなりました。
だから、それに変わるものとして、自分のからだが嬉しいものを探す趣味を作るのは良い考えだと思いました。

気持ちが悲しくなったり、つらかったり、昔のことを思い出すときには、体調が悪いか、水分や栄養を取っているか、そういうことを思い出そうと思いました。
栄養がないと、水を取って塩を取っていても、汗がでないそうです。
今、チキンスープを食べてから、からだが突然楽になったので驚いています。

ネガティブなときは、体調の悪さを疑った方が良いです。
本当に悲しい出来事があって悲しいとしても、体調を整えることで、どちらにしろ、乗り越えやすいということです。

チキンスープを飲んでから、汗が出て、頭痛が治って、真っ黒な雲のように覆いかぶさっていたネガティブな気分が晴れました。
水分と、塩分と、エネルギー、全部がそろわないとダメなのですね。
チキンスープを飲んでからの変化は、まるで魔法のようです。
栄養はとても大切ですね。
からだと気分はつながっていて、気分は危険を伝えるメッセージなのかも知れません。
毎日新しいことを知ります。毎日新しいことが起きます。
面白いです。
こういうことがあると、生きていて良かったと思います。
そして、生きているのがいやになるときもありますが、今日も生きていてえらいなと思います。
立身出世はむりそうですけど、生きているだけでえらい、と思っておこうと思います。


喪失感

事故に遭ってから、いろいろなことができなくなった。
頭が悪くなったようでつらい。
それは、確かめられないことなのだけど、出来ないことが増えた。
テレビも見られなくなったし、本も少ししか読めなくなった。
刺激に弱くなった、我慢強さも減った。集中力も減った。
(でも、テレビは見なくても困らない。本も厳選して読めば良い)
考える力も、鈍くなったような気がしてならない。
文章を書くことは続けていて、練習もかねている。優しい人は慰めてくれて、とてもありがたい。
でも、事故に遭う前はもっとできたんじゃないのか、と思ってしまう。
もっとさかのぼると、虐待されていなかったら、人生がもっと楽だったら、できたこと、もっと多かったのではないかと思って、怒りが湧く。
怒りが湧いて苦しい。焦りもある。

わたしはまだなしていないことがたくさんある。
趣味ですら、ほとんどなくて、新しいことにチャレンジすることが難しい。
道具も買ってあって、昔は楽しめたことも楽しめない。

時間がかかるといわれていたけれど、もとには戻らないのかもしれない。

しかし、考え方を変えてみよう。
(考え方を変えて切り替えられるようになったことも進歩だ。昔のわたしとは違う。悲嘆にくれ続けていないところは良いところだ)
新しい自分になったとも言える。
昔のわたしにできなかったことで、今は出来ることを考えてみようか。
家事は出来るようになった。料理も出来るようになった。仕事もある。ネットでの友だちもできた。
母と離れて、機嫌を取らなくてすむようになったから、自分の時間を取れるようになった。
母がへんだということを他人に説明しなくてすむようになった。
読書に逃避しなくてもすむようになった。
のんびりできるようになった。薬もきちんと飲めるようになったし、死にたくなる気持ちも減った。
自分自身を正確に見る余裕もできて来た。からだのメンテナンスもしている。
お金の使い方と過食に問題はあるけれど、ゆがみがあるのは仕方がない。

できなくなったことは、本を読めなくなったこと。新しいことにチャレンジできなくなったこと。

でも、今もゆっくりとなら、複雑なことも考えられるし、そのために工夫もしている。
図に書いたりもしているから、堂々巡りをして同じことを考えなくなった。
忘れることも出来るようになった。
事故の直後はフラッシュバックがひどかったけれど、それもたまにになった。
危険な人との関わりを自分の力で断てるようになった。

けっこう、良いところもある。
頭が悪くなった、というのも、主観かもしれない。
今日は、ゆっくりしよう。様子を見よう。

文章を書くことが一番好きだ。それが残ったから良かった。
若い頃できたこと、今は出来ないこと、新しくできるようになったこと。
年老いていくことに慣れていくこと。
得たものもある。
あの頃よりも心はいつもざわめくことが鳴くそれはさみしい気がするけれども、毎日を少しずつ生きていって、感じていることを大事にしよう。
そうするしかないのだから。