性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで

まず、言いたいことは、性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで、話したいと願ったときか、もしくは、治療上必要な時、安全な場面で、本人が納得したうえでということです。

もしも、性暴力被害者ではない人が、性暴力について語るならば、そのひどい実態はすでに語られたものを調べて知るべきで、被害者に語ってくれと呼びかけるべきじゃないです。それは、それ自体がすでに暴力です。
ほかにも、いろいろな側面で語ることができますから、性暴力被害を防ぐために、男性ができることを話し合うとか、もし、加害を見つけたらどういって阻止するか、男性同士の意識改革をどう進めるかとか、そういうトピックスを選んで話してほしいです。
そういう関わり方ができるはずです。模索してほしいです。

ツイッターの、狭い範囲のことですが、性被害について、カジュアルに語ろうという動きがあるようです。
それは、性暴力被害者、当事者からあったわけじゃなくて、ある男性が言い始めたようです。

わたしは、そのツイート群を見ているうちに、だんだん具合が悪くなってきました。
最初は気づかなかったのですけれど、夜にひどいフラッシュバックが起きました。

語り合おう、と言われると、自動的に、「ああいうこともあった」「こういうこともあった」「もし話すならば、こういうことを話すのだろうか」「ほかの人はこういことを経験したのか」そういうことを想起します。

自分で、よし、考えようと決意して考えるわけじゃなくて、自動的に頭の中を映像や音や生々しい感触とともに、どんどん思い出していきます。そうすると、いつの間にか、感情の渦が巻き込まれます。

この、フェミニズムの真ん中という言葉がとても大事なことです。
性暴力をなくそう、そのために男性に関心を持ってもらう……。
このことは全然間違いじゃないです。
だって、性暴力加害者の99.7%は男性だから、そもそも、男性の問題です。
わたしは、被害者ですが、お金を出して本を買って読んで言葉を得て、こういう風に時間や感情を使って、文章を書いて、人に伝えようとしています。
でも、加害者の性別の人たちは、別にお金を出して勉強もしないし、知ろうとしないし、無関心です。
そして、女の人が言っても「嘘」「おおげさ」「盛っている」と思っている男性が多いです。
だから、男性が声を出して「語ろう!」というと、やはり、厳しい批判を浴びることにはなります。だって、本来は男性が負担すべき事柄なのに、被害者が勉強して語ってきたことを、なかったことのように扱って、男性が言い始めて、ようやく「そんなひどいのか」ってわかってもらうなんて、わたしの気持ちとしては、不条理を感じます。

性暴力加害者の99.7%が男性なのに「男が性暴力を振るう」という表現を使うと「男という主語が大きい」「犯罪を犯さない男もいる」と言われて非難されてきました。
だから、いちいち「制度上の男」という言い方をして、但し書きをつけて、注意しながら書いてきました。
でも、同じことを男性がすると、ほめられ、多少の言い方は見過ごされ、そして、雑に性被害について語り、自分の被害でもないのに、他人の被害を集めて、男性同士で話し合うっていう状況です。

わたしが言いたいのは、被害者は、それに協力する必要がないということです。
わたしは、男性同士が話し合うことについて、邪魔しません。
でも、性被害について、新たに、被害者に語ろうと呼びかけることはやめてほしいと思います。
すでに、いろいろな人が、わたしを含めて、語ってきました。
ネット上でも、書籍でも、性暴力についてたくさんの人が語っています。

勇気があるとか尊敬するとか言われたくて書いているわけじゃなくて、身を切るように、自分がこういう目に遭ったということをなかったことにしたくない一心で、書いてきたわけです。
人に「語ろう」と労力を再び差し出させるようなことをするのは、非常に権力的な行為です。
自分が労力を割こうとするのではなくて、他人の労力を借りるということに、すでに暴力性が存在しています。
また、性被害を思い出させることについて、配慮が欠けています。
クローズな、安全な場所をつくることは、最低限必要です。

男性が、興味を持ったことをありがたいと思う人がいるのは、それはそれで当然だと思いますが、批判が生じるのが当たり前だということも、またわかってほしいと思います。
(わたしも電子書籍で書きました。下記リンクはアフィリエイトです)


訓練することで見えてくるもの

保育園に見学に行きました。
そこで、四歳くらいの子供の絵を見ました。
遠足に行った時のことを描いた絵だとわかりました。
「バス」「おべんとう」「人がいて」「楽しい」ということが表現されていました。
これは、物事を記憶して、抽象化して、時間ごとに起きたことを切り離せて、しかも、それを平面に表現して、並べることができ、思ったように線画できるという能力がある、と判断できる材料になります。

それで、わたしは「上手だねえ」「すごいねえ」といえます。
わたしがこのようなものの見方をするのは、普段、中高生に勉強を教えているからです。
彼らに、何ができて何ができないのか、あるできなさには、どういう困難があるのか、そういうことを考えながら見ます。
知識がないのか、知識を得る手段がないのか、発育がそれに伴っていないのか、知識を生かす前提がないのか、字を読むことに困難があるか、あるとしたら、目が見えにくいか、字を認識しにくいか、手がうまく動くか、動いたとして、たとえば筆算をそろえて書くことの意義を理解できているか、できていたうえでやれないのか、そういうことを細かく見ていきます。

わたしは基本的にケアレスミスというのは存在しないと思っています。だいたいは、本質的なミスです。
文末まで読む習慣がないとか、文末の意味を理解して、覚えておくことができないか、そういうことで間違えているだとか、そういうことを考えるために「ケアレスミス」という思い込みがあると、その子が何に困っているか、どういう対応をすればいいかが見えなくなるからです。
ケアレスミスは本人がぼーっとしているから起きるというニュアンスがあります。
ボーっとしているとしたら、注意できるようにするために、具体的にどんなことを手伝えばいいのか、そういうことを本来は考えないといけませんが、そこまで考える人はまれな気がします。
だいたいは「気を付けないとだめでしょ!」のようなことを言って終わります。

なんの解決にもならない。

勉強一つとっても、その子の困りごとを解決するために手伝う、そういう姿勢が必要です。
そういう姿勢でいると、見えてくることがあって、その子供の、人格的な側面や、情緒的な成長や、人柄が、非常に影響してくることや、一つの表れを、細かく分解しながら考えていき、どう手伝えばいいのか、考えていくことが大事だということが分かってきます。


わたしたちは人工的に「自然」を作り上げている

わたしが赤ちゃんを産み、育てる過程でわかったことは、人間のふるまいのうち、本能に起因するものは非常に少ない、ということです。

生まれたばかりの赤ちゃんは目も見えません。
なにもかもぼやけていて、境界がない。
わたしたちが物を見るときには、その輪郭線を抽出して、あたかもそこに「線」があるように認識してみます。
光を目が受け取って、処理するときに「明るいところと暗いところの差が激しいところ」に物体と物体の切れ目があるように予想できるようになるまでには、光をただ目で受けるための機関があるだけじゃなくて、脳が発達しないとだめなんです。

赤ちゃんは、自分の体をまだ知りません。わたしの子は、二か月たった今、ようやく、自分には手があるようだ、ということに気づいたところです。
生まれたばかりの赤ちゃんには、いくつか反射があります。手を握ると握り返してくれるとか、口に乳首を入れると吸い付くとか、そういう反射があります。
でも、今でさえ、自分から乳首を離したら、口の中から乳首が消える、という因果関係もわかりません。泣いて怒ります。自分から乳首を「うえっ」と出したくせに、ないと怒ります。自分がのけぞったり、手でつっぱると、乳首が口の中に入りようもない、ということもまだわからないのです。

これはとても興味深いことで、わたしたちが「当たり前」だと思っていることは、かなり分解して考えられた結果だということです。
吸い付いている乳首から口を離したら乳首がなくなる、というのは、「自然」ですが、それを理解するかどうかは「自然」じゃないわけです。乳首から口を離す、そうすると口の中から乳首がなくなる、泣く、これは因果関係を理解するという行為です。
これはもう思考の範囲だから、「人工」的なことであって、本能ではないのです。
「本能」と言われること、「生物学的に自然」と言われることはたいてい嘘です。
生物学的に自然と言っても、生物の種類によってその振る舞いは全く別です。本能として、生まれたときから持っている能力というのは、人間の場合、自発呼吸、眠る、口に何か入ったら吸う、足を曲げる、握り返す、泣く、くらいです。
指をしゃぶるという行為すら、時間をかけて、発見し、練習し、学習して、獲得することなんです。

唯一「自然に」行われることは、人間は、「発育することに前向き」だということくらいです。
成長していくことだけは、自然に進んでいきます。それが早かったり遅かったり、刺激を与えることで、よりスムーズに進むようにすることはありますが(つまり、この時点で人工的な部分が紛れ込んでいます)、発育していきたい、という欲求だけは、もともと備わっているようなのです。
ただ、それも、「学習」によって、進んでいくようです。

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて
この記事が面白かったのですが、ようは「自然発生的に」「欲望するということ」はなにか、という問いだと思いました。
わたしが見る限り、自然発生的に欲望していることは、「成長する」「発育する」ということだけです。
発育した結果、「何かに欲望を持つ」ことになるわけだから、その何かが選ばれる過程は、わたしの「親」という立場からすると、「自然発生的」欲望じゃないです。
わたしが、例えば「異性愛」が普通だと教えたとしても、それに対する反応が、「それをそのまま受け入れる」としても、「自分はどうやら違うようだ」と思うことだとか、「自分も異性愛というやつらしい」と思うかどうかは、わたしは操作できないです。
ただ、「それが普通」ということは言えます。でも、それはすでに恣意的なわけです。つまり、人工的だということ。
そもそも「この人は女だ」「この人は男だ」と判断すること自体が、かなり雑です。
二つの分けるということは、ある特徴のある生物群を抽象化するという過程をどうしたって経ないといけないわけですが、それも「思考」なわけです。まず、五感で感じて、それを人だとか動物だとか生物だとかそういう風に認識して、それからさらに、その特徴を抽出して、今まで得てきた情報のデータベースに照らし合わせて「この人は女/男」だという答えを出すわけです。
でも、それを答え合わせするわけじゃないし、答え合わせしたところで「正解」かどうかもわからないわけです。

異性愛という概念が成り立つ前提には「女と男というものがあるらしい」「自分と同じ性別というものがあるらしい」ということが了承されていないといけないのですが、そもそも「同じ性別」というのが上記の記事でもあるように、すでに怪しいのです。
自分がこの人は女だ、と判断した人が、「女」であると確実に言えない。
外性器が女かもしれない、内性器が女かもしれない、染色体が女かもしれない、自意識が女かもしれない、どの段階で女かどうか判断するか?
わたしたちには、それが難しいから、記号的に「こういうふるまいをするから」「こういう体つきだから」「こういう衣服を着ているから」と文化的に判断します。誰が女か男かを決めること自体が、文化に依存します。日本だと外性器が女か男かで決めることが多いです。外性器が女だったら女らしい振る舞いをして女らしい服装をします。
だから、男性はおおむねスカートを穿かないし、女性は上半身裸で過ごさない。それをすると、「文化的な秩序」が壊れて、当たり前として了解している約束事がぐらぐらして、人は不安になるのでしょう。
毎回毎回、「当たり前」について疑ってかかるのは、大変疲れることです。

自分が女か男かもはっきりしない状況で、自分が好きだと思った相手が女か男かわからない状況だと、「異性愛」という概念が発生しようもありません。だから、「自然に」異性愛になるわけじゃないのかなと思います。

親として、子供を育てていて、本能的に育てられる部分はほとんどありません。
せいぜい、産んだ後母乳をやると、子宮が収縮しやすい、赤ちゃんを抱くと胸がきゅーんとする(たぶんホルモンが出る)くらいで、かわいがって育てるとか、抱くとか、乳をやるとか、そういうことは学習してできるようになったことばかりです。

わたしは生まれつき備わっていることって、体の機能的な部分と、「成長したい」という方向性くらいだと思いました。
自分の体は自分のものであり、自分が大切にしていい、自分がコントロールできるという感覚だって、当たり前に最初から備わっているわけじゃなくて、周囲と本人の協力によって、育てていくものです。

わたしは、小学三年生くらいまで、いつか、ちんちんが生えてくるんだと思っていました。
心配なようであり、楽しみなようで、いつかな、と思っていました。
生まれつきちんちんが生えている子と、それ以降の行いによってちんちんが生えてきて女の子から男の子になる人間がいるんだと信じていたんです。
でもわたしにちんちんが生えてくることもなく、わたしは、ヘテロセクシュアル、シスジェンダーの女性に育ちました。

生まれつき「こうだから」じゃあ認めてあげよう、というのはそういうことで、おかしいと思います。
最初から最後まで変わらない人のほうが珍しいと思います。
人は揺らぎながら成長して、疑問に思うことを確かめることで、「自分」というものを確立していきます。
それは赤ちゃんの時から、少なくとも、わたしが今この年になるまでは、そうだったみたいです。

本能的に行われることがそもそもわずかなので、欲望に至っては、ほとんどが、知識や情報によるもので、それに対する反応は様々だけれども、それが個性と呼ばれることじゃないかなと思います。


綺麗なもので心にシップをしたい

綺麗なもの、かわいいもの、美しいものを手に入れると、自分もきれいでかわいくて美しいものになれる気がする。
それは、気のせいだから、次から次へと消費の対象はうつる。目まぐるしく。
一回も袖を通さずに廃棄される服、化粧品、気まぐれに選ばれるアクセサリー。
自分の体のコントロールを奪われたことで、わたしは、自分の体や心のコントロールを失ってしまった。
コントロールを失うと、自分の体が自分のものだ、という当たり前の感覚がなくなる。
必然的に自尊心もなくなる。
一度、ひどい目に遭うと、ずっとひどい目に遭い続ける。そういう連鎖がある。
それは、わたしだけに起こったことじゃない。保育園で、年中の友達が、近所のお兄さんにお菓子と引き換えに体を触られると言っていた。でも、お母さんにそのことは言えないとも言っていた。そんな年齢から、わたしたちは、体も心も傷つけられ、幸せだとか安心だとか守られているという感覚を失ってしまった。
当たり前に得るものなのに。失うというよりも初めからなかった。

だから、わたしは、美しいもの綺麗なものかわいいものがほしい、それは、わたしがコントロールできるものだから。
買う、手に入れる、保存する、手入れをする、捨てる、無残に扱う、全部わたしの思うままだ。
普通に生きているだけで、娯楽にもSNSにも、心にやすりをかけられるような一言、言葉、情報があふれている。
歩けば、店に入れば、女という体は、人を、つまり日本において人と扱われるのは男だけだ、その男が、欲情するための媒介として、女の体が存在し、女は、あらゆる苦痛を、「快楽」に読み替える神経を持つものだというプロパガンダがふりまかれている。
針で刺されても、棒を突っ込まれ、こすられ、水攻めにされ、窒息され、拘束され、縛られ、殴られ、でも、女は、女という体さえ持っていたら、それらの苦痛は快楽になるのだと、そういう嘘が蔓延している。それをおかしいと言えば、「お前は気がくるっている」と言われる。

そして、あふれるそれらの加害性の高い情報を食べて、彼らは安心する、自分たちが持つ加害欲は、責められることもない「ただの性欲」なのだと肯定され、また、加害欲が再学習されていく。そして、わたしは無気力と無力を再学習する。

わたしの身に起きたひどいことは、勝手に起きたわけじゃなくて、男がわたしにしたことだ。
そして、わたしは学校に行けなくなった。だって、学校にはそいつがいたから。
わたしは、大学に行くのも苦痛だった。だって、男の大きな声がするから。
授業中にパニックになったときにも、教員にののしられた。「相手の子は何もしてないのにかわいそうでしょう」
その人は、セクハラ対策委員だった。比較文化論を研究していた。

わたしは、誰にも何もしていないが、わたしが行ける場所は限られている。学習するにも、体力も精神力もいるが、わたしは集中することができない。なぜなら、集中していると「あのこと」がいつでも浮かび上がってくるかもしれないからだ。
それが浮かび上がってきたら、わたしの体も心も「あのこと」に乗っ取られて、時間も「あのとき」に戻ってしまう。わたしは、現実を喪失している。

精神が不安定だから「メンヘラ」「きちがい」「頭がおかしい人」と言われる。
だって、それを言う人たちはわたしの過去なんて知らないのだから。
不安定で迷惑をかけるわたしの背景など、当然知ったことはない。だって、彼らは加害者ではない。そんなのは当たり前だと言い聞かせ、わたしはにっこりしながら早く死にたいと願う。ああ、そうだね、わたしは醜い、肉塊だ。

心臓がバクバクして呼吸が苦しくなる。空気がうまく吸えない。空気がなくなってしまったようだ。

早く忘れたらいいね、命があってよかったね、魅力的だということだからよかったね、自慢?
あなたがだらしないから目をつけられてそういう目に遭うんだよ、何度もそういう目に遭うってことは自衛する気がないか、もしかして望んでいるんじゃないの?

わたしは、わたしの体を一つ一つ切り落としたい。
あのことに触れた部分を一つ一つ切り落としたい。そうして、残った部分がきれいならば、その部分だけで生きなおしたいと願うのだけれど、そんなことができるはずもない。

わたしは、わたしが不安定になったのは当たり前だと思っている。
でも、仕方がないよね、と許されて、存在するくらいならば、消えてしまいたい。
わたしが「いてもいい」と許可を与えることができるあなたは、どうして、当たり前のように、わたしよりも「えらい」わけ?
どうして、許可を与え許すことができる立場に、あなたは当たり前に立てるの、そしてわたしはいつでも下の立場にいなければならないの?あのことがあっただけで。たまたま、あのことに出会わなかったあなたが。

がらくたを集めるようにしか、今日を生きることができない。
明日も生きられるのかわからない。
昨日生きていられたことはもう忘れてしまいたい。
心にやすりがかけられてしまうから、だから、心にシップをしたい。


男尊女卑に染まると、成績が伸び悩む

統計やデータを必要とする人は、読まないでください。
わたしは、データも大事だけど、現場の感じていることも、貴重な情報だと思うので書きます。
聞き取りやフィールドワークも研究になるのだから、データデータという人はちょっと滑稽にも感じるのだけれどそれはおいておいて。

スマホを手にした男子高校生は、男尊女卑に染まります。
スマホを持つまで、ネットを見る時間が長くなるまでは普通の子だったのが、ネットの記事を読みだすと、お母さんをバカにし、目上の女性をバカにし、年下や同級生もバカにするようになります。
すると、周りから人がいなくなります。
そして、「理解されない」という恨みを抱き、「理解しないほうが悪い」と思考が転換していきます。
そうすると、ますます、ネットの男尊女卑にすがるようになる。
男尊女卑というのは、妄想です。
男というだけで、素晴らしくすぐれている、という妄想です。
だから、それに染まると、まったく努力をしなくなる。
しなくても、自分は男だから、で止まってしまうようです。
それに、努力はすればするほど、いかに自分が卑小な存在か突きつけられるようになりますからね。
一度、男尊女卑の甘い蜜を吸うと、その「卑小な存在だ」「何もできない存在だ」ということに耐えられなくなるみたいです。

ネットに、コンビニに、本屋に、ポルノ的なイラストや、ポルノそのもの、性暴力があると、何が悪いか、というと、自分が女性に性的嫌がらせをしても、「許される」と思い込んでしまうという弊害があります。
男子高校生が、「女性の裸に近い姿のイラスト、ポーズは煽情的」なものを見せてきて「どう思う?」と聞いてきました。
それは、性的嫌がらせです。だから、わたしは、その子と話すことが嫌になりました。
でも、彼は、そういうことをしても、いいと思っているからそうしたわけです。
だって、性的嫌がらせをしても、女の子は赤面したりキャーというだけで許す、という物語があふれているからです。
環境的にも、ポルノはたくさん売られています。だから、そういうものを、女性も見慣れているし、見せていいんだと、彼は勘違いしたんだと思います。
だけど、そういうことをしていると、人に嫌われます。当たり前だけど。
人に嫌われると、適切な助言をしてもらえなくなります。男尊女卑があるから、わたしの勉強に関する助言も聞かないです。

それどころか、わたしに「母親たるもの」というような説教をしてきます。

そういうことをするのは、彼女がいる子もです。モテないからそうなるとは限らないのです。

全体的に女の子は、教えれば、成績が伸びます。やる気もある、努力もする、伸びないわけがありません。
でも彼女らがしっかりしているのは「女の子だから」と抑圧されてきた結果だから、それはそれで、わたしはひっかかりを感じています。

「女の子は浪人を許さない」「女の子だから、そんなに上を目指さなくていい」「そもそも教育は必要ない」という保護者はまだまだ大勢います。だから、女の子は「子供時代のリミット」を常に目の前にぶら下げられているため、しっかりせざるを得ないのだと思います。だから、女の子は、能力が高くなりがちです。

男の子でも、勉強ができる場合があって、それは二通りです。
教育熱心な家庭であるか、お父さんがお母さんを尊重する家庭であるか、どちらかです。
でも、本当にそういう男の子は少ないです。なかなか根深い問題です。

男尊女卑というのは、男と女が世の中に二通りだけ存在しており、男というだけで偉い、と妄想する、妄想の中でもきわめて雑な妄想です。
客観性がないのだから、もちろん、学業も伸び悩むのも当たり前かもしれません。
男尊女卑の染まることで、その人の能力が限定されてしまうのだとしたら、差別者自身も、不幸せなことだと思います。
差別される側は言うまでもなく。
(ただし、差別が存在して、世の中を動かしているので、下駄を履かされている男性が、能力が低くてもそれなりの地位に就けるという現実もあります。その現実自体が、男性の能力を制限する過程を再生産しているともいえます)


あらゆる場面で差別はいけない

トランス女性を、その身体的特徴がゆえに、また、性的対象がゆえに、彼女は女ではないという議論を見た。
不勉強もあるだろうし、文脈も把握していないが、どちらにしろ、それは最悪な行為だ。

トランス女性が、差別をしたり、悪いことをしたなら、批判するべきだろう。

しかし、戸籍を理由にするなら、それは、性に関して公権力が介入していることに無批判なことを、むしろわたしは批判したい。
身体的な理由だったり、性器をオペしていないという理由だったりするなら、その言説は暴力だ。
それは、本人にもどうしようもないことだし、オペをするかどうかは本人が選ぶことだ。
その結果を、わたしたちはどうこう言えない。
わたしたちは、体に危険や負担や痛みを持つことを強いる権利はもちろんないのだ。
もし、強いるようなことを言えば、それは相手の命を軽んじる暴力だ。

わたしが、女に生まれ女の体を持ち女という自意識を持つのは、運がよかったからで、努力をしたからじゃない。
なのに、トランスにそれを強いるのはおかしい。努力せよとなぜ言えるのか。

トランス女性やトランス男性が、性的規範を取り入れることに前向きだったり、ミソジニックだったりするのはみたことがある。
それはもちろん批判するべきだ。でも、それは彼らがトランスだからじゃない。
差別がいけないことだからだ。

たとえば、未手術のトランス女性が女湯に入ってきたら、わたしはびっくりしてしまうかもしれない。場合によっては恐怖を覚え、パニックになるかもしれない。
でも、それは、そのことで、また考えて解決していかないといけないことだ。みんなで話し合うことが大事だ。

トランスに生まれただけで、温泉に入ってはいけない、というのは変だからだ。
(かといって、ほかの人の気持ちをないがしろにしていいということでもない。同じ理由で、トランスの気持ちをないがしろにしていいというわけでもない)

今は、フェミニストと名乗るのは流行っていないようだ。
偽のフェミニストか、本物のフェミニストか、ああだこうだ言われることがいやだという理由も見た。
正しさを自分ばかり要求されるのが嫌だという理由も見た。

誰が何を名乗ろうと、自由だ。
でも、ミサンドリストを名乗ろうと、フェミニストを名乗ろうと、ツイレディを名乗ろうと、差別をしてもいいという理由にはならない。
どんな人でも差別をしてはいけない。
それが前提だ。

ミソジニストが差別をしても、野放しにされているように、見えるのは確かだ。
でも、彼らは、悪いことをしている。
彼らが悪いことをしているからと言って、ほかの人、ミソジニストに差別されている側の人間が、ほかの属性の人間を差別していい理由にはならない。

わたしは、自閉傾向を理由として、または、それを知らない人に(親に)、人の心がないといわれる。
でも、彼らは、それを言って、わたしを傷つけている。
わたしが、彼らの思うように従わないから、彼らは「人の心がない」という。
人の心はある。場合によっては、思いやることもできる、優しいこともできる。

自閉傾向があると、相手がカサンドラ症候群になるという人もいる。
そういう人もいるのだろうけれど、わたしたちは、つまり、ASDは学ぶことができる。
相手の言うことを聞いて、顔や声や動きを観察して、相手の気持ちを推し量ることはできるようになる。
わたしも、パートナーも、自閉傾向が強い発達障害だが、わたしたちはお互い思いやって生活できている。
笑う、泣く、怒る、全部、ある。相手が悲しんでいたら抱きしめる、話を聞く、温かい飲み物を入れる。
赤ちゃんが何を要求しているのか、観察して、泣く前に対処することもできる。
手をあげたら、おなかがすいているサイン、ぴ、ぴ、と言ったら、おむつ替えのサイン、えーい、といったら、うんちのサイン、などちゃんとわかる。
定型発達(おそらく)の人はそういうことには気づかなかったと言っていたから、定型発達の人だけが、気を遣えたり、空気を読めたり、人の感情が分かるわけではないようだ。

わたしの思うに、察するという能力は、「権力者の意をくみ、その通りに動ける」ことを意味していると思うので、わたしにとっては、それは定型発達の長所ではなく欠点だと思う。

話が反れたが、貧困、片親家庭、低学歴、障害、病気、体の特徴、国籍、人種、全部、差別の対象になる。そして、差別をしてはいけないということには変わりない。その前提を忘れた人は、悪い行動をとってしまう。悪い行動は批判される。

そんなシンプルな話なのに、女性差別と闘う人が、「窮屈だ」というのは滑稽にうつる。
それは、女性差別をしている人も、批判されて「窮屈だ」と思っているだろうし、セクマイ差別をしている人、最近ではとんねるずで笑っていた人たちも、窮屈な世の中だと言っていた。
差別をする側が窮屈になるように、わたしは動きたい。そして、窮屈だった人たちが、息をしやすいようにしたい。

わたしも、この前「頭のおかしい人」という言い方をした。妊婦にけりを入れる男について形容したのだが、反省して、倫理観の欠如した人に言い換えようと思う。そして、これもいつか、批判される日が来るかもしれない。
そうしたら、わたしは、少しずつバージョンアップしたい。


出産を経て毒親には一生会わなくていいという確信を得た

出産直前、親にされた仕打ちを思い出して、のたうち回って、号泣して過呼吸になった。
自分が、子供に同じことをしないか同じ気持ちにならないか心配で、うつ状態にもなった。

産んでわかったのは、赤ちゃんは信じられないほどかわいいということ。
そして、弱いということ。
弱いから、わたしに愛されなければ、死んでしまう。だからか、わたしが「かわいい」と思うような行動をしてくれる。
モロー反応、新生児微笑は、親が子供を育てやすくする。そのための本能だと思う。
それがわかっていても、もちろん、かわいい。
嗅覚で、わたしを判断するから、ねぐずりがひどいとき、わたしの布団で添い寝すると安心して眠る。
抱っこも好きだし、わたしが歌うと喜んでにこにこしたり、おしゃべりしてくれる。
ほかの大人と夢中になって話すと、こっちを見て、というように、服を引っ張って、うにゃうにゃ言い、反応しないと眉をしかめ、返事をするとにっこりする。
柔らかくて暖かくていいにおいがする。

こんなに、弱くて、小さな存在を、どうして、いじめるんだろうか。
そのいじめる理由があったとしても、それは許されない。

わたしは今でも親にされたいじめ、虐待を思いだせる。忘れたとしても、パートナーが覚えていて、証人になってくれる。
子供を会わせないのはかわいそうかもと思ったことが、出産直後の夜に、看護士が痛み止めを意地悪でなぜか出さなかった(医者は出すように指示を出していたのに、従わなかった)ときにあった。たぶん、いじめられて、気持ちが弱ったんだろう。
そのときも、手紙を書いて、わたしは会わないで、外でパートナーに赤ちゃんを連れて行ってもらって、そこで面会するというストーリーを考えた。会うのはそういう時でも無理だった。
会うことを考えると、身体症状が出る。それほどのいじめをしたのは、彼らで、だから、会えないのは彼らの自業自得。彼らは、したことをしていないという。記憶をすり替えることができるみたいだ。

子供は小さくて弱くてかわいいから、絶対にいじめてはいけない。いじめる気持ちも全然わからない。わかりたくもない。
彼らは異常者。
悩んでいる人に言いたいのは、赤ちゃんや子供をいじめる人に、どんな理由があっても、許す理由にはならないから、一生会わなくていいよ、ってこと。
子供を産んでから確信が持てた。あいつらは屑だ。


セクシャルマイノリティについて、思うこと

わたしがセクシャルマイノリティについて、初めて認識したのは、「クィア」という言葉であった。
クィアジャパンという雑誌があることを、上野千鶴子先生の論文で知った。
だから、「クィア」な人がいるんだなと思った。
新井さんの漫画、「性別がない」では、ひげを生やした女、ちんこのある女、女になったり男になったりする体の持ち主がいることを知った。


そして、ずいぶん年月が経ってから、トランスという言葉や、セクシャルマイノリティ、アセクシャルという言葉を知った。
ゲイという言い方をしたほうがいいことや、レズビアンときちんというべきだということも知った。

クィアジャパンの著者は、たとえ、偏見がある記述でも、「論文」に「ゲイ」が取り上げられたことをうれしく思ったと書いていた。存在を肯定され、公に認知されたと。(そういう時代だったということ。ないものと扱われているような時代背景だったから。今では当然状況が違う)

わたしが、独学で勉強したのはもう十年以上前のことだが、そのころ、フェミニストと呼ばれる人たちは、熱心に「クィア」な人と関わろうとしていたように思う。
「比較文化」を研究している先生に、ゲイ男性を紹介され、話したことや、迫害されてきた人種の人と話せたことはいい経験になった。その先生とは袂を分かつことになるが。

だから、わたしは、ネットで、セクシャルマイノリティの人の発言を見るまでは、フェミニズムと、セクシャルマイノリティは、親和性が高いと信じていた。ジェンダーの問題と、セクシャリティは、とても近いところにあるから。

だけれど、トランス女性、トランス男性が「性的規範」に非常に忠実な人も多いこと、ゲイカップルや、レズビアンカップルが結婚の権利を求めている人もいることを知って、わたしはがっかりしてしまった。
それらは、わたしの打ち壊すべき課題だったから。
戸籍制度も、性的規範も、女性差別の温床だ。

シスヘテロが、何も苦労しなくても、結婚できるのに、そうじゃない人にはそれができないのは、不公平だという意見を見ても、もやもやしていた。しスジェンダー、ヘテロには、結婚を求めるなとは言わないのにという意見だった。
わたしの知っている限り、フェミニストたちは、結婚をボイコットする人たちもいたし、結婚制度に反対をしている人もいたから、それは事実誤認だと思った。だから、もやもやした。

わたし自身は、事実婚を選んだ。それで、わかったのだけど、異性愛の場合は、今までいろいろな人が戦ってきてくれたおかげで、どこにいっても、事実婚だということを話しても、夫婦として扱ってくれる。帝王切開の時のサインも、無事、姓の違うパートナーが書いた。姓が違うことについて、誰も事情を聴かなかった。
事情を聴かれたのは、福祉の支援をしてくれる役所の人くらいだ。それで、ようやく、わたしは、「家族」を作るうえでの自分の特権性に気づいた。同性愛者は、きっと、こんなにすんなり、家族扱いされないから、結婚という形を求めるんだということに気づいた。

また、トランス女性やトランス男性が、性的規範を強く身に着ける理由もわかった。
ツイッターで、トランス女性に「おっさん」と言った人がいたのだ。こんなひどいことをどうしていう人がいるのかと思った。
本物の女性かどうか、わたしは、判断されない。女らしくないとののしられたり嫌がらせされたりすることはあるが、女か自体は疑われない。それは、誰が見ても女だからだ。
でも、男の体を持っている人は、本物の女かどうか、振舞いから採点されてしまう。
だから、「真の女」の基準を探してその通りにふるまうとしたら、規範が必要になるんではないかと思った。

また、トランス女性は、たぶん、成長する間に、「女性ならではの嫌な思い」にはあっていない。
女の児童として暮らしているときの、あらゆる差別を、実際に受けていない。
(最初に性被害を聞いたのは、年中の時。近所のお兄さんが侵しをくれる代わりに触ると言っていた子がいた)
もちろん、セクシャルマイノリティとしての差別は受けていたと思うが、わたしの経験とは異なるものだろう。
そういうことに思い当たった。

ゲイは、男性だから、男社会の恩恵を受けている。
だから、女性差別についてはもっとぴんと来ないだろう。

そういう意味で、セクシャルマイノリティだからと言って、フェミニストであるとか、フェミニズムについて詳しいとは限らないのだ、ということがわかった。あえていうと、ミソジニーのセクシャルマイノリティもいるのだろうと。

それは、フェミニズムの本を通して、セクシャルマイノリティという存在を知ったわたしにとって、衝撃だった。

でも、考えてみれば、セクシャルマジョリティの多くは、女性嫌悪であり、女性差別者である。

わたしの知る限り、フェミニストたちは、セクシャルマイノリティのことを考えることで、フェミニズムについての考えも深めてきた歴史がある。
(もちろん、その過程で、いろいろいいことも悪いこともあったと思う。前述した上野千鶴子先生の論文にもゲイへの偏見があった)

だからといって、彼らがフェミニストであることを求められないし、必要以上に彼らに期待しないこと、つまり、セクシャルマジョリティへの同じくらいの失望で済ませるべきだ、と思った。
だって、わたしは、フェミニストだが、セクシャルマイノリティに対して、関心もあるし、学びたいと思っているが、一生、きっとわからないこともあって、間違い続けるだろうから。
わたし自身も、クィアと言っていい部分がないわけじゃない。でも、わたしがわかっているのは、わたしのことだけだ。
わたしのことだって、全部わかっているわけじゃない。

フェミニストでも、セクシャルマイノリティに対して、暴言を吐いたり、差別いたりする人がいる。

だったら、セクシャルマイノリティに、女性差別する人がいても、当たり前だろう。

それがいいと思っているわけじゃない。

差別は悪いことだから。

どうして、こういう危うい記事を書いたかというと、自戒のためであり、わたしの途中経過を記したかったから。
こういう属性の人は、こういうことをしないはず、思わないはず、詳しいはず、という思い込みは、道を誤る。
だから、思い込まずに、行動したり、話したり、したいな、と思った。
(わたしは、小学四年生まで、いつかちんこが生えてくると信じてずっと待っていた)

健常者にも、障害者にも、セクシャルマイノリティにも、セクシャルマジョリティにも、フェミニストにも、いろいろな人がいて、いろいろ間違っているということがありうるということ。

わたし自身も間違える。
ただ、正しい、正しくないで分けること自体が「ノーマルかどうか」を分けた差別構造と同じになってしまうから、それだけは気を付けたい。差別をしない、排除をしない、してしまったときは改める。
差別をしていた人が改めたとき、それを文章にして公開することを責める風潮があるけど、わたしはそれに反対。
その文章で傷つく人もいるのはわかるけど、変わった人をわたしは歓迎したい。チャラにはしない。


フェミニズムと差別、差別されることと排除

今日は、フェミニストが、差別者に向かって「精神疾患持ちの男は」という言い方でののしっていた。
個人的には、悪口を言おうが暴言を吐こうが、好きにしたらいいと思う立場なのだけど、精神疾患を持っているわたしは、泣いてしまった。
精神疾患は、虐待や差別がトリガーになって、発症することも多い。それが、「差別をする人間」として、「精神疾患を持つ人間は差別する」という偏見を下敷きにして、ののしる言葉に使われたので、ショックだった。

女性差別が原因で、精神疾患になった人だっているのだ。
(たとえば、教育熱心な母に抑圧されて、もしくは、境界を侵害され、人生を乗っ取られてしまったという場合は、もともと、その母が自分の人生を生きてこれなかったという原因がある。その母をそのような境遇に追いやったのは誰なのかということだ。親は大人だから、自分で自分の問題を解決すべきだが)

アルコール依存症をはじめとして、あらゆる依存症は、女性差別が原因になる場合も多い。
男性なら、男らしさを背負うことや、戦争から復帰してからのPTSDを紛らわすための飲酒、女性なら、社会と隔絶させられたためのキッチンドランカー。
体を与えなければ愛されないと思い込んだセックス依存症。
痩せないといけないと思ってしまって始める摂食障害。ストレスを紛らわせるための過食。成熟した体になることを避けるためにもなる。
リストカットをはじめとした自傷も若い女性に多いのは、若い女性の背負わされている現実があまりにつらすぎるからだと思っている。
統合失調症や双極性障害、うつ病が発症するときも、虐待が原因だったり、ストレスが原因だったりする。
その症状も、差別への反応ということも少なからずある。

わたしにとって、フェミニズムとあらゆる差別、帝国主義、貧困、学歴主義、国籍や、戸籍制度、セクシャリティによる差別、夫婦別姓、既婚未婚、子を持つか持たないか、からはじまって、それらは同じ問題だと思っている。
たとえば、女性たちがマルチ商法や自然食品から始まるカルトにはまることも、結局差別が原因だと思っている。

天皇制度、在日韓国人差別、沖縄や北海道の差別などが地続きだ。一つのイシューとして認識している。差別は排除である。分断である。
帝国主義は男たちが始めた。そして、女性は、社会の中心から追いやられてきた。
マイノリティは、一つの差別しか受けないわけじゃない。
マイノリティは、複合的なマイノリティの要素を持つ。
(もしくは、あるイシューではマイノリティでも、そのほかのイシューではマジョリティで誰かを迫害してる場合も多い)
健康な、年に住む男性をモデルにした社会は、それ以外の人たちを「ノーマルじゃないもの」として排除する。
そして、わたしたちは、病む。

わたしは、きちがい、という言葉は比較的平気だ。それは、病名じゃないから、少し遠い言葉として感じる。だからといって、使っていいとも思わない。わたしが精神疾患もちは、差別をする人間だ、と言われて、涙が出るのと同じ気持ちをほかの人に味合わせるからだ。

わたしは、「野に放たれた頭のおかしい人」という言葉を身内同士では使う。例えば、妊婦にけりを入れる人間、障害者であるわたしに「子供は親も障害を持って生まれることも、選んで生まれてきた」と言ってくる人間に関して、「頭がおかしい」以外の言葉を知らないからだ。もっと適切な言葉があればもちろん言い換えるけれど。まだ、適切な言い方が見つからない。

精神疾患を持っている、という辞任を持っている人は、自分と向き合っていると思っている。
病気を認識して、症状をコントロールしようとしているからだ。

もちろん、「野に放たれた頭のおかしい人」という言い方も問題がある。
医療にアクセスできない人がいて、その人を踏みにじるからだ。
(精神疾患への差別や偏見を持ってるから医療にいけない人もいるという皮肉な事態もある)
これも、わたしは当事者だったことがあった。
家庭内で、「頭がおかしい」「ボーダーだ」と言われていて、境界性人格障害の症例を読まされたことがあった。
カウンセリングの資格を取ろうとしていた母の練習台に日常的にされていた。
これから、練習させてね、と言ってするんじゃなくて、普段から頭がおかしいから、カウンセリングの方法を利用して会話するという感じだ。
わたしは、高校生の時に、不眠や幻聴が聞こえて、限界だと思った。
それで、精神科に行きたいと言った。そうしたら、「就職差別される」と言われて、行かせてもらえなかった。
(産婦人科も、行かせてもらえなかった。子宮内膜症だったのに)

わたしは、二十歳の誕生日に母から三歳児対象のおもちゃを渡された。泣いて講義したら、「一緒に遊ぼうと思った」と言われた。就職するなとも言われた。わたしは、頭のおかしい、永遠の幼児として扱われていた。
だから、「野に放たれた頭のおかしい人」というのは、つまり、医療につながれない精神疾患の人、という受け取り方もされる。
わたしが言いたいことが、たとえ「妊婦などの弱者に、肉体的、精神的な攻撃をする人」「加害をためらわずする人」「無知からカルトにはまり、それゆえ、他人を傷つける人」を「頭のおかしい人」と言いたくても、やっぱり不適切なのだ。

精神疾患で、かつ、女性差別者もいるだろう。でも、健常者で、かつ、差別者もいっぱいいる。

フェミニストばかりが、いい子でいないといけないのか、トーンポリシングだ、という言い分もよくわかる。
でも、差別されたとき、わたしは、同じ言論空間からいられない。
差別は、排除なのだ。
一緒にフェミニズムについて語る隣の人が、精神疾患だった、ということは往々にある。
わたしたちは、隠すつもりはなくても、わざわざどんな障害を持っているか、どんな病気を持っているか、どんなセクシャリティ化は言わない。だから、知らないうちに、誰かを排除していることがある。

悪い言葉を使うことも、暴言を吐くことも、ののしることも、わたしは止めない。必要な部分がある。
わたしも言いたいときがある。妊婦時代に、けりを入れられそうになった時、「死ねクソじじい」と怒鳴った。
それは、わたしの回復のために必要不可欠な罵り言葉で、ののしってよかったと心底思っている。
ののしらなかったら、今も、ダメージを引きずっていただろう。

(とはいえ、その事件以降、昼間であっても一人で歩いたことが、いまだに一度もない。暴力は自由を剥奪する)

差別は誰かを傷つけるから、不快にするから、いけないのだというのは一面に過ぎない。
隣にいる人間を「いないもの」にしてしまうから駄目なのだ。それは、死を呼ぶ。
わたしも死んでしまいたかった。
わたしは、「それは精神疾患への差別ですよ」とは言えなかった。
わたしの心は折れてしまっていたから。

わたしは、その場から、消える。


フェミニズムという言葉を知らないまま闘っていた

わたしが生まれたのは、80年代だった。
機会均等法が制定され、女性たちが力づき、三十歳での定年が撤廃され、結婚してもしなくても、男と同じように就職ができるようになったころだ。
そして、女たちは、女性の活躍、社会進出を胸に生き始めた。
そんなころ、わたしは生まれた。
日本中が好景気に沸き立ち、いい面も悪い面もあった。公害はひどかった。長時間働くことで、欧米に勝って行ったので、非常に不評を得ていた。お金のめぐりが良いと、人間には余裕が生まれる。だから、文化面では、下種な部分、高貴な部分が入り混じっていた。

祖母の世代は、戦争によって男たちがいなくなったから、それまで男しか働くことができない世界に働きに出て、やればできるという感触を得た。そして、戦争が終わってから、家に引っ込められた(とはいっても、家事以外の仕事も担わされていた。賃金の出る仕事以外全部を女性たちはしていた。農作業含めて)。だから、戦後に、女性運動が盛んになった。

女たちは最初から社会で活躍しており、ずっと働いていたのだが、どんどん見えない存在になっていった。
わたしの母は、勉強をすることと、働くことと、良い妻良い母になることを求められ、引き裂かれた世代だ。

田嶋陽子さんがテレビに出ていた。ひどい悪口を言われていて、あんな女になるなと外で言われた。
母は、わたしに「手に職をつけて一人で生きていけるように」といい、田嶋陽子さんのエッセイの本を買ってきた。

ひどい家庭環境だった。

わたしには、情報が、テレビか、新聞か、図書館の本しかなかった。
小学生の時には、名簿が男から呼ばれることがおかしいと教師に訴えた。片付けをするのが女なのもおかしいと。
高校生になったとき、元男子校だったから、歴代の生徒会長が男性だったのが、初めて、女性の生徒会長が生まれた。
わたしの学年は、男女比が、均等になった。
(今は女性のほうが少し多いのだという)
女の成績が、男子と同じくらいか、少ししか上ではないとだと、男子のために、一つランクの低い高校を受けさせられる時代だった。だから、進学校に入るためには、とびぬけて、成績がよくないと、入試自体を受けられなかった。

ネットはあった。わたしは、将来の投資、これからの世の中にはパソコンが必要だと母が認識していたため、パソコンを買ってもらうことができた。
高価だった。
フロッピーデスクを何枚も入れて、OSをセットアップした。
電話回線を使って、テレホーダイが出るまでは、ひやひやしながら接続した。

ネットではチャットが盛んだったが、わたしは、そもそも「フェミニズム」という言葉をまだ知らなかった。
ウーマンリブ、女性運動、そういう言葉でしか知らなかった。

高校の時の図書館には、女性問題を扱った本があった。
地域の図書館にもあった。そこで、代理母の問題や、戸籍制度、国籍の問題、相続の問題を知った。
民法は古い法律だ。当時、若い学者が、もっと男女平等な法律を提案したのだが、つぶされてしまったそうだ。
だから、わたしが大学生になった当時も、夫婦別姓や、非嫡出子差別、介護をした嫁に相続権がない問題を扱って闘っていたのは、当時の学者だった。
今ある問題は、戦争に負けてからずっと議論されている問題だと知った。
新しい問題じゃなかった。

わたしは紆余曲折を経て、東京の私大に入学した。
わたしの母は、法律に関係した名前である。祖母が、法律を勉強してほしいと願ってつけた名前だそうだ。でも、彼女は、法律を勉強しなかった。それで、わたしは、法学部を選んだ。

当時、大学の情報を得るのには、パンフレットを請求するほかなかった。
どこにフェミニズム研究者がいるか、わからなかった。調べることが難しかった。そもそも、わたしはフェミニズムという言葉をまだそのころ知らなかったから、アクセスのしようがなかった。

入学した大学には、もちろん、女性問題を研究する研究者がいた。
でも、法学部で、学部生を教える先生はいなかった。
だから、わたしは、図書館で、田嶋先生の本を読んだ。上野千鶴子先生が有名だと知ってからは、上野千鶴子先生の著書や論文を読んだ。参考文献や注釈に書いてある本を探して読んだ。
ゼミは家族法を取ったので、家族問題に関する判例をあさっては読んだ。
詳しい人が周りにいなかったから、自分なりに考えて、どういう本があるのか、調べて、芋づる式に探すしかなかった。
ジェンダーという言葉も、クィアという言葉も、性的指向、性的自認という言葉もその時に初めて知った。
ジェンダーロール、役割、家父長制、天皇制が差別構造を維持していること、差別は、構造の問題だということ、権力問題だということ、パラダイムシフト、そういう言葉を一つ一つ調べながら読んだ。調べるといっても、辞書に載っているわけじゃないので、言葉一つ調べるのにも一苦労だった。
女性運動でどんな人がいてどんな議論があったのかも、できるだけ追ったが、きっと空白はある。

勉強すれば、フェミニズムのことはわかる。
今まで議論されていたことに、今の問題と重なることも多く、すでに結論が出ている。
だが、そもそも勉強することが難しい。

本にアクセスできる環境、体力、読み解く力、本を選ぶ力、そういうもろもろのものがないと、難しいのだ。
知りたいといっても、拒絶されることがある。
わたしは、ツイッターが始まったとき、「レズビアンアクティビスト」にコンタクトを取って、フェミニズムに興味がある、と伝えた。ちゃんと礼儀正しく、はじめまして、こういう問題に興味があります、と。でも、嘲笑された。真剣だったのに。
今は、どうして嘲笑されたのかわかる。その人は、知りたいと言いながら攻撃された経験がずっとあったのだろう。
もしくは、知りたいと言ってくる人間が、自分で努力しないで相手のコストを盗み取ることが多すぎたのだろう。

ただ、わたしは、その時ショックを受けた。
わたしは、勇気を出して、初めて、人にコンタクトを取り、話し合いたいと願っていたから。

わたしは、高校生の時からずっとホームページ、ブログと形は変えても、ずっと文章を書き続けている。
それは、世の中を変えたいと思っているからというよりも、孤独だった自分に向けて、自分の考えを整理するために書いていた。そして、孤独な誰かに届けばいいと願ってもいた。一人で勉強していたわたしのような人。
わからないことを知りたいと言ってくる人。

わたしは東京に出て勉強をすることができた。
今の若い人にはわからないかもしれないが、情報も学問も遊びも仕事も、そして人も、東京にしかなかったから、東京に出る意味があった。
わたしは、勉強をすることができない人の無念を背負って勉強していた。
うすうす、勉強ができる期間は東京で学生をしている短い期間だけだと知っていたから、必死だった。

わたしは、クソオスという言葉を使わない。それは、面倒だから。
そんなことで突っ込まれて、説明するよりは、ほかの言葉を使ったほうが楽だ。
そして、わたしにはその技術がある。
でも、その技術がない人もいる。

偏差値が50あっても、論説文になると、言葉を拾い上げて、そのイメージをつなげて、読んだという風に思う人がたくさんいる。
論理的な文章を読めない人が世の中の半分以上いるとわたしは思っている。

勉強をすればわかる、すでに終わっている議論がある。でも、本を読む状況にない人、能力がない人もいっぱいいる。

わたしは、結局凡人で、なにものにもなれなかった。

ただのわたし。でも、ただのわたしが、生きていた、勉強をしたということに意味があったと思う。今もあると思う。
わたしは、知りたかった。
この世のすべてを。

差別的なことをいうフェミニストもいる。
でも、そういう人を排除してはいけない。批判はもちろんするべきだ。
間違った人を排除していったら、昔のわたしは排除されて、勉強をやめていただろう。
そうしたら、間違ったまま、生きていた。

今だって、わたしは、間違っていることをきっとたくさんしている。間違っていることも認識できないでいるから。

だから、本物のフェミニスト、偽物のフェミニスト、と分けることはわたしはしないようにしたい。
それは、ある意味で、過去、未来、現在のわたしを、わたしから排除したくないという保身でもある。

思想のラベルが同じだからと言って、仲間だとも限らない。友達でもない。わたしは思想のラベルで仲良くしない。
人間観関係を優先して、言うべきことを差し控えることもしない。

トランス女性を、おっさんと揶揄したフェミニストがいた。
わたしは、それを差別発言だと思う。批判する。
気に食わないことを言う人がいても、性自認を否定することは許されない。

でも、やっぱり、その人がフェミニストであることも、わたしは否定できない。
いろんな人がいる。仲良くする必要もない。

わたしは、フェミニズムという言葉を知らなかったときから、フェミニストだ。
わたしは、フェミニズムの過去を背負いたい。
女性の無念を背負いたい。そして、次世代には背負わせたくない。だから、フェミニストと自認して、そういう風に言う。