妊婦の既成概念を殺す気概でやっていきたい

昨日ヘルパーさんに
「妊娠したならこれはやめたら?」
「子供のために九割は自分のことをあきらめられないなら生むのはやめたほうがいいかもね」
と言われて落ち込んだ。
もう、そんなことを言われるなら妊娠辞めようかなと思った。
今、つわりがひどい。一日少なくとも三回は吐く。突然吐くのもあきらめた。寝込んでいるしかできない時期も、Aちゃんのマッサージや鍼灸院の胸の真中へのお灸で少し和らいだ。
したいことをしないでいても、しても、どうせ気持ち悪いのだから、どうせ安静にしていても戻すから、戻すことを前提にやりたいことをしようと思った。

とにかく、だるくて、胃が痛くて、下腹部痛もあり、腰も痛く、体の関節がばらばらになりそうな痛みや、足のむくみやつりそうになること、においがすべてダメだったり、味覚が変わって何もおいしいとは感じられなくなってしまったり、胸が張って痛いだとか体の変化が目まぐるしすぎて、しんどいとしか言えない。

なにがしんどいかというと、体の不調が二十四時間あるのに、期間が長く、出産が終わるまでつわりが続く場合もあると知っているから、先が見えないことがつらい。
しんどさから休憩できないことがつらい。
それなのに「今しかゆっくりできない。子供を産んだらずっと忙しい」と言われるから、心が折れてしまった。
心が折れてもつわりは容赦なく続く。

人によっては「つわりが一番つらかった。出産は一瞬だ」「子育てはほかの人に頼めるから休めるよ」と言ってくれる人もいる。
わたしは、痛いことやつらいことを我慢したくない。
我慢したい人は我慢すれないい。つわりは我慢するという選択肢がないのだから、せめて、ほかのことだけは楽をしたい。

妊娠に関して、「つらい思いをしないと母性が育たない」というとんちきな迷信がある。それを言ったら父性はどうなるんだ、と思う。
「旦那さんとよく話し合って」とも言われたけれど、パートナーの六帖さんとは、これ以上なく話し合っているし、家事も全部やってもらっている。
子供が生まれても、自分にできることは全部やる、夜泣きも対応する、と言ってくれている。

つわり、二週間すでにつらいのに。

今胎児の大きさは六週間相当らしいので、二週間前からつわりなので、安定期までは、あと六種間ほどある。
このつらさが、少なくとも六週間、長ければ十か月続くと思うと、絶望しそうだ。

よく眠れない。食べても食べなくても気持ち悪い。
心臓が動いているのを見ると応援したくなるほどかわいいと思った。
かわいさを感じない人もいるらしい。そしたらもっとつらいだろう。

かわいさを感じられるのはラッキーなことで、きついことが耐えやすくなる。
とはいっても、耐えやすくなるだけで、きついことがなくなるわけではない。

妊娠は、こんなにつらいのに、国や他人は簡単に女に向かって「女なら妊娠しろ」「女が産まないから少子化だ」「女が産めば少子化は解決する」だの言われる。そういう言葉を殺していきたい。
こんなつらいものを背負わせるなら、いろいろ整備しろよ馬鹿か、と思う。
好きで妊娠しているわけだけど、それえも死にそうだ。毎日死にそうだ。
好きで妊娠したわけじゃないケースもたくさんある。それでも、生むことに決めたら、責任は、全部女にかぶせられる。
少なくとも体の不調は女が負担するしかない。

妊娠していると、反射神経が鈍って、ひどいことを言われても「経験者の言うことだから」と受け入れてしまいやすい。
言い返せない。そのまま受け止めてしまう。
それで余計追い詰められる。

食中毒と二日酔いが同時に来たような苦しみが、エンドレスで来ているうえに暴言を吐かれる。

もちろん、優しい人もたくさんいる。ただ、経産婦だから親切とは限らない。経験が邪魔して、「自分は乗り越えた」という気持ちからか、思いやりをかえって失っている人もいる。

かえって、出産経験のない人のほうが、親切ということもある。
「自分にはわからないけど、きっとつらいんだよね」と言ってもらえると嬉しい。

夫婦関係はいつか、マンネリ化するから子供がいたほうがいいんだよ、という人も、そんなの人によるのだから、放っておけ、と思う。
かすがいにするために生むんじゃない。

わたしは好奇心で生む。人がどんな理由で生みたがっても放っておいてほしい。
母性があろうとなかろうと、産みたいと思えば産めばいい。殺さないように育てられれば上々だ。
妊娠する前にどんなにすばらしいことを考えていても、考えていなくても、命は勝手に来て、勝手に去っていく。
志は無関係だ。

何も思い通りにいかない。資格があれば授かるか、授かるかなんて、言えない。
相応しい人のところに赤ちゃんが来るというたわごとも信じない。妊娠した人が妊娠するんだ。ちんこをまんこに突っ込んだら子供ができる。

どういう理由で身ごもろうが、関係なく、つわりは来る。

わたしは無痛分娩にする。無痛分娩にしても痛みはある。でも、回復が早くなる。使えるものは使う。でも、迷信では痛みを乗り越えなくては、よい母になれないという。

わたしはよい母になるつもりなんてない。
わたしはわたしのまま、出産するつもりだ。何も我慢なんてしない。我慢を避けていても、我慢せざるを得ない場面は勝手にやってくる。つわりもそうだ。

我慢を避けていても、勝手にやってくるんだから、わざわざ選ばなくてもいい。

妊娠しようがしまいが、わたしはわたしだ。妊娠したら突然、穏やかに優しくなんてなるわけがない。
そんなのは外部の都合の良い妄想だから。わたしが会わせる必要があるとも思えない。

子供のため、と唱え続けて、子供のためにやりたいことを抑えていたら、二十年後、子供の後を追いかけるしかない人間になりはしないか。子供のためにすべて放り出してしまうのは怖い。自分が空っぽになってしまう。

お母さんだから、の波に飲み込まれたら死ぬ。

お母さん、という言葉の中に、放り込まれて無個性化したくない。
人は、ときどき「お母さんとはこういうもの」というのっぺらぼうの何かのように、女の人を扱っていく。そういう場面を昔から見てきた。
でも、一人一人違う。

妊娠したとたんに、「お母さん」という何か、偶像的なものになるかというと、それは違う。産んだとしてもかわらないだろう。

子供をかわいく思えればそれは一番いいけれど、かわいく思えないなら、それはそれでやっていくしかないと思っている。
死なないように育てられたら、わたしとしては満足だ。それ以上のことができたらそれにこしたことはないけれど。

妊婦なら、お母さんなら、穏やかだ、というのはその人の勝手に思っている妄想に過ぎないので、わたしはわたしでやっていく。

気に入らないものは「殺す」と思いながらやっていく。

仕事をやめないのは、一人で生きていけるように、保険をつけたいからだ。

一人で生きられるように、できることはやっていきたい。暴力から身を守るためには、自分の経済力が必要だ。

苦手なものや嫌いなものを一切避けていくことで、活路が生まれる。


障碍者の親と当事者の軋轢

一年前、モビゾウさんともめたことがあった。
モビゾウ研究室

発達障害は楽しいこともある……
上記の記事を書いた。
モビゾウさんのツイートを一番上に張っていたが、モビゾウさんからリプライが来て削除を求められた。
なんで削除しないといけないのかさっぱりわからなかったが、ひどいコメントがいっぱいついた。
削除してからも、モビゾウさんとフォロワー関係の人同士がリプライを送り合ってわたしの悪口を書いていた。
「削除されたみたいですね」とわたしがわざわざ削除したのに、自然現象みたいに書かれた。

今読み直しているとこの記事に悪いところなんてない。
この問題のコアは、「親が障碍者を育てる大変さ」と「当事者の大変さ」を書いていたところに、親御さんのほうから「こっちの大変さも考えてよ!」と言ってきたことにある。

でも、当事者に「あなたも育てにくかったはずだから親のことを言うなんて」というのは、暴力だ。

障害があってたいへんだから、支援がある。
当事者のための支援だ。親が大変なら親のための支援もいろいろある。

障害の診断をつけるということは支援に結びつくために必要であって、支援しないほうを選ぶのなら、そもそも診断を受ける必要もない。それならそれでいい。障害があっても健常者のように育てるという方針なら。

でも、いちいち「支援を受け入れることに決めました」と悲壮な風に言われても、こっちは「はあ?」ってなる。
支援は当事者が楽になるためのものだから、親が苦しいだの、決断が必要だったっだの、言う必要はないんじゃないか。見ず知らずの当事者に向かって言うのは、甘えだ。暴力だ。カウンセリングを受けたほうがいい。

あのことも、障碍者差別の一環だったと思う。障碍者は親の批判をしてはいけない、モノを言ってはいけない、というような。
親だって苦労しているんだ!と当事者にいうとき、そこには何が発生するのか。

「味方になるはずだった人を敵に回すなんて」ということもコメントに書かれた。
でも、いきなり敵視してきたのはモビゾウさんやその周りの人だ。モビゾウさんとその周りの人はリプライで「ブログにコメントしておきましたよ!」「ありがとうございます」というやりとりをしていた。
モビゾウさんはわたしに「晒された」と言っていたけど、モビゾウさんは数を頼んで、わたしを攻撃してきた。
モビゾウさんが「ありがとうございます」と言わなかったら、コメントを付けた人個人の問題だったけれど、モビゾウさんがわざわざお礼を言っていたとなると意味が変わってくる。

モビゾウさんはご子息の写真や、習い事や、いろいろなことを公開している。子供にも人権はある。
モビゾウさん自身が、言葉を封じさせるという形で、わたしの人格を認めず、わたしを差別した。

わたしは彼女が発信した以上のことを知るはずがない。それ以上のことは何もわからないのに「曲解された」という風に言われた。
何がどう曲解なのかわたしにはいまだにわからない。
ことの発端としてツイートをリンクしただけで、本文にはモビゾウさんのことは何も書いていなかったから。
でも「モビゾウさんのツイートなしでは成立しない記事。モビゾウさんのツイートを利用してアクセス数を増やそうとしている」とまで言われた。読んでいないのはそちらじゃないか、と思った。

当事者でなくても、当事者の親じゃなくても、発達障害を理解し味方になってくれる人はたくさんいる。
逆に当事者であっても当事者の親でも差別審がある人はいっぱいいる。

わたしなりに、発達障害だということを受け止めようとしているさなかに、「今まで療育を受けられなかったからこれから療育をしていきたい」と書いたことが、どうしてモビゾウさんを腹立てさせたのか。それは、わたしの中にある問題ではなくモビゾウさんの中の問題だ。

発達障碍者の親の気持ちはわからない。そこで見下される理由もわからない。
たいへんだったら、支援を求める。そんなの当たり前のことなのに。
そういう風に言われるとむっとするのは、支援を受けることに抵抗があるのではないか。抵抗がある、ということは、そこに偏見があるからだ。
支援を受けると現実になってしまうようだとか、認めることになるだとか。
障害を認められないのは、障害は悪いこと、下に見られるようなことだ、という差別があるからだ。

障害は、もう、すでにあるものだから、認めるしかない。
当事者は認めるしかない。
認めないで生きていくこともできるが、相当ハードモードだ。
工夫ができない。ずれのことを説明できない。そうした手段を奪うことは暴力だ。

わたしはこんな風に穿っている。
モビゾウさんは自分のことをかわいそうだと思いたいんじゃないかって。発達障害がかわいそうじゃないと、自分が子供の支援をしている大義名分がなくなる。子供がかわいそうな子、ということにしないと、その子を育てている自分もかわいそう、ということに続かないから。
モビゾウさんは、自分のご子息が、発達障害だということを認めきっていないように見える。だから、そこで葛藤が起きて、第三者の、わたしのブログのようなどうでもいい話にも反応するんじゃないか。

上記の記事について、モビゾウさんは「ブログにブログ主の偏見が反映されている。障害がアイデンティティになっている。障害に固執している」という風にツイッターに書いていた。

わたしは障碍者だから、障害がアイデンティティの一部にもなる。
大きな特徴だからそこだけ認めないのはかえっておかしい。わたしに「障害に固執しているかわいそうな人」みたいなことを書くのは差別や暴力だと思う。

むしろ、障碍者の親だということに、アイデンティティをおいて、固執しているのはそっちじゃないのか。

わたしは固執しようがしまいが、自分について回る性質から逃れられない。診断されて、数年目だったから、あのころ自分が自分の障害について考えるのはそんなに不自然じゃなかった。それなのに「障害に固執している」と言われて、わたしはショックだった。
そんなことを言われたら、わたしは考えることも許されないんじゃないか。

療育は、発達障碍者本人を楽にするため。親のほうがつらい、それは手間暇の面でそうかもしれないけれど親自身が悲鳴を上げるほど大変なら、親のほうも支援を受ければいい。

大変な人が支援を受けるのだから。

わたしは障害がある、わたしはこういう風に考えていると書いただけで、どうして、あんなにモビゾウさんがかき乱されたのか、全然いまでもわからない。

親御さんがどんなに大変か想像もつかないけど、療育はやっぱり本人のためのもの。
わたしは「大人になってから、療育を受けられなかった自分が、自分なりに自分を療育したい」と書いたことをあんなに馬鹿にされ、矛盾だといわれたことがいまでもわからない。
療育を受けてなくても、大人になってからでも、やり直しは効くということを書きたかったのに。
それがどうして、あんなふうになるのか。大人になったら療育に近づいたらいけないのか。
わたしたちは線形に発達しないから、長い時間をかけて一生発達していく。
それを否定されたら、わたしは生きていけない。

療育を受けられるというのはチャンスなのだから親が悲壮になるのは理解できない。しんどかったらゆっくりやればいい。
モビゾウさんは四歳になる前にお金や暇を注ぎ込まないと後悔するみたいなツイートをしていた。それについて、わたしは反応したわけだけど。

悲壮になるのは親のエゴで、「普通にしたい」という欲求があるのだと思う・
療育を子供に受けさせたら子供も親も楽になるんじゃないかと思う。
健常者のためのルールを学べるのだから。
(世の中が発達障害の人ばかりだったら、別に療育はいらない)

どうして、わたし側に偏見があるという飛躍になるのか。

障碍者はたくさんいる。普通にいる。普通のことだ。どうして、親がかわいそう、という話になるのか。百歩譲っても「親の苦労を分かれ」とわたしに言ってくる理由には一つもならない。

モビゾウさんは「子供が健常だったら、娘とピアノの連弾をしているところを見れたかもしれないのに」という趣旨のツイートをしていた。
それだって、ご子息が発達障害であろうとなかろうと、かなうかかなわないかわからない話で、そして、連弾ができたら、子供が幸せになるかというと、結びつかない。やっぱり、そういう子供を育てたい、という親のエゴに見えるのだ。

わたしは、大人になったら療育を受けられない、ということは否定したい。
もしそうなら、絶望しかないから。
今は、療育を受けられる世界で、その世界では四歳までにすることで将来が決まる、ということになっているらしいけれど、それだって、先のことはわからない。
今、実際わたしは生き延びてきたわけだから。
わたしが書いた記事に「療育否定だ」と言ってきたのはモビゾウさん。わたしは大人になってからでも間に合うと言いたかった。
それを否定してきたのはモビゾウさんのほうだ。


モビゾウさんは、わたしに謝らないまま、ツイッターをやめた。
曲解されたり、人の悪意にさらされたからとのこと。

わたしは、モビゾウさんから悪意を向けられたと思っている。
人の視点によって見える景色は違う。

「みつばさん」がツイッターをやめたから、ということが理由みたいだ。
でも、「みつばさん」は人に堕胎をさせた側のくせに、女には堕胎をさせればいい、ということを言っているような人だ。
女の権利として、堕胎はある。そして、悪いことじゃない。けれど、心身の苦しみは、させた側にはどうにも償えないものだ。妊娠した時点で、とりかえしがつかないものだ。生むにしろ、堕胎するにしろ。完ぺきな責任なんて取りようがない。
そんな人を、好きだと思い、その人がネットの悪意でいなくなるをえない、みたいに言えるモビゾウさんとは善悪の価値観が根本的に違うんだなと思う。

この件については、発達障害かどうかは関係なく、倫理観の問題だと思う。

一連の話のログをまとめました


困っていることを分散する

妊娠七週目。
冷えのぼせがひどい。光に過敏になって、まぶしくて、いつも右目をつぶっている。
右目の視力が落ちたのは、つわりがひどくてスマホを見る時間が長いから。
睡眠は吐き気と痛みのせいであまりとれない。
股関節周りをもむと、吐き気とめまいが少し収まる。
股関節のところで痛みをこらえているらしく、すごく硬くなっている。

今日六帖さんが病院に電話をしてくれたのだけど「吐き気はあるけど吐いていない。よく眠れている」と説明したので、かなり怒って暴れて、枕を壁に投げつけて号泣した。
吐き気がなくて眠れているなら困ってないじゃん。困ってるから電話したんじゃん。と思った。

困っているときには、大げさに言ったくらいのほうがよく伝わる。
大丈夫なんです、と言っていたら、困っていても助けてもらえないし、助ける側も手の出しようがない。
ヘルパーさんが来る日だったので、ヘルパーさんの前で、暴れて号泣した。
でも、平気ですよ、というよりも困っているところを共有してもらったほうが、密室にならなくていい。

近所にいるAちゃんは、最初一緒に住んでいた。
Aちゃんは、体を壊して仕事をやめたものの、その先がなかった。
だから、100キロ以上離れて住んでいたけど、オフ会であって、スカウトした。
Aちゃんは、退職した会社の近くに住んでいたから、精神的に辛そうだった。

それで、うちに来てもらった。
一か月くらいパートナーの六帖さんとわたしと三人で住んでいたけど、そのころAちゃんは荒れていたので、矛先が六帖さんに向かっていた。だから、近所に引っ越してもらった。

少しずつ、家族っぽい感じになっていった。
三食うちで食べて、わたしが紹介したところで働き始めた。

わたしは愛がなくても、血縁じゃなくても、家族になれると思っている。

Aちゃんはセクシャルマイノリティで、恋愛をしない種類の属性だから、恋愛を経て家族を作ることが不可能だった。
でも、恋愛を経なければ家族はほしいといっていたので、とりあえず家族になってもらった。

Aちゃんは、家族がほしいけど、それは無理だと思っていたらしい。

わたしはといえば、まあ、人が増えたら何かという時に便利だろうと思った。

別に家族なんて簡単になったり簡単に壊れたりしていいと思ってる。
結婚しても、離婚するし、離婚しなくても、心は離れる。

一生同じ組成で家族になるのは難しい。
でも、困ったときに助け合うという観点から見たら、いろいろな人がいる家庭というのはいいと思った。

それから、わたしは妊娠した。
Aちゃんは、家のことやわたしの世話をいろいろしてくれる。六帖さん一人では無理だったろうから、とても助かっている。
Aちゃんも、孤独じゃないし、家を借りる時の保証人やらで困らなくなったからよかったみたい。

わたしは一人でやることは好きだけど、一人でできない時もあるから、いろいろな人に助けてもらいたい。
利害が一致していて、人柄がよければ、家族が増えることに何の異存もない。
助かることばかりだ。

Aちゃんはもちろん、子供を産むことは考えていない。でも、子育てには興味津々だから、手伝ってくれるという。
別に恋愛しなくても家族になれるとわたしは信じていたら、そういう風に生きていたら、そういう人たちが集まった。
六帖さんと一緒に住むことにしたのも、六帖さんがあのとき困っていたからだ。

大人の手が三人あれば、子育てもなんとかできる気がしている。
一人や二人で育てるのが大変でも、子供の親になりたいけど生む気のない人をスカウトして、一緒に経験を共有する試みをこの妊娠でしてみたい。

まだ、人手が足りないから、いいな、と思った人には声をかけている。
もちろん、話に乗るか乗らないかは、本人の意思と決断だから、無理強いはしないけど。

別に恋愛から始まる男女のつがいに限らず、家族の発生は自由であればいい。
社会的な制度がなくても(あったらもっといいかもしれないけど)経済的にそれぞれが自立していたら、家族になるのは可能だ。

血のつながりや体の関係は、家族と切り離せる。
別に集まっていて、お互いが居心地のよい家庭運営が出来さえすれば、血縁であることは、必要な条件から外れる。
子供を産もうが産まなかろうが、結婚しようがしまいが、最後にはひとりだ。

一人でも、孤独じゃない場合もある。家族がいても孤独な場合もある。子供は将来の担保には絶対にならない。
子供には子供の人生があるから、わたしはそういうのと関係なく家族を作りたい。

わたしが子供を産むのは、将来のためじゃない。ただ、子供がいたら面白いかな、という気まぐれだ。
産んだからと言ってうまく育てられるわけじゃない。
子供のころに「c71は虐待しそう」と言われたことをいまだに根に持っている。
それを逆手にとって、子育ては苦手だろうから、わたし一人がやらなくて済む環境づくりを頑張っている。

一人でやることを頑張ると行き詰まる。
それよりも、他人を巻き込んで、一緒に困ってもらうほうが、みんなが愉快でいられると思う。

戸籍が違おうが、セクシャリティが違おうが、人柄がよくて協力し合えるという前提があったら、わたしはどうでもいい。
わたしが家族だと決めた人たちが家族だ。

そうやって、困りごとを分散して、お互いの困りごとを共有し合えば、なんとか生きていけると思う。


家制度に固執する「誰も懲りない」


中村珍さんの本です。
この本は、お父さんがとにかく大好き!殴られても大好き。
で、お母さんは浮気して出て行ったから悪。
と言っている。

で、なんで悪なのかというと最初よくわからなかったのだけど、よく読むと「藪家」を捨てて「名前」を変えたからってわかる。
殴られたこととレイプされたことはとても悲惨な虐待なんですけど、失うべきものがたくさんあってうらやましい……という感じ。
健康な体や傷のない経歴、不足のない経済、とかね、もともとないから普通の人は。たいてい。
そんで、お母さんの頭をお母さんの彼氏の前で踏むんですけど、その数か月後にのこのこ会いに行って、その場に彼氏が同席していたからって「誰も懲りない」ってコマが出るんだけど、自分の彼女が自分の娘に頭踏まれてたら、次回から合わせないか絶対目の届くところでってなる。

そんで、自分の選択でもずっと不幸っていってる。
でも自分で父親と暮らせねえって出て行ったことも、高校辞めたのも自分の責任じゃん。
そりゃあとから、この選択肢じゃなければよかったと思うことはあれど、高校に行くチャンスがあって、でもやめられて、自活できて、その後バイトして、血縁から借金を負わされることもなく、専門学校行けたんだからいいじゃん……。自分の金だろうけど。

この作品はノンフィクションなのかフィクションなのかわからないから、安心して読めない。
どっちでもいいということなのかな?
わたしはわたしの「ものさし」で測らせてもらうけど、家制度の上の家族に固執しすぎ。
離婚したら夫婦じゃねえし。
死んでも同情されないし。
愛がなくても家族にはなれるし。
愛があっても暴力があるときはあるし。

女にすげえ冷たい。
男が悪さしてても全然悪く言わないのに、おばあさんやお母さんに暴力ふるいすぎ。
その理由もぼけたとか、男作ったとか、普通の悪いことじゃないのに、お母さんが離婚しても彼氏と続いているからって暴言吐きすぎ。
というか、お母さんが離婚するのも、彼氏作るのも人生的に自由だから。

離婚したらお母さんは藪家の妻じゃない。結婚いいやだったらだれでも出て行っていいし。人間だから藪家に虐げられたまま死ななくていいのに、お母さんに離婚するよりかは結婚したまま死ねって言ってるよねこの人。死ぬべきだったみたいなさ。
離婚したからって娘に頭踏まれるのっておかしいよ。

一番お母さんに怒っているところはお母さんの名前が変わって、彼氏を紹介されたときなんだよね。
なんか自他の区別ついていない。家制度上の中では自他は混然一体になるけど。家制度には人格ないからね。
一家の大黒柱のためにほかの家族が耐え忍ぶのが素晴らしいってやつだから家制度は。
そこからはずれて自分の幸せ探しに行ったお母さんのこと憎いんだろうけど、そのあと一緒に暮らしているし。

女すげえ嫌いなんだなと思う。子供を産んだのは「お母さん」だから「お母さんが選んだから自分がいる」みたいなことを書いているんだけど、お父さんはどこに行ったんだよ、と思う。

なんつーか、続けて読むと「家制度に忠実」という意味で「お母さん二人いてもいいですか?」と同じなんだなと思った。

「お母さん二人いてもいいですか?」でも思ったんだけど別にヘテロカップルでも外で子供作れるから。
わたし一人目は六帖さんの子だけど二人目はどうするかわからない。
そんなの、家族によって形は自由だし。
ヘテロはみんな同じだと思ってるのも思い込みだろうと思う。

家族の理想の形が強固にある。
みとられないで死ぬのは悲しいとか、離婚は許さない、とかね。
でも、そんなのないから。


妊婦から見た「お母さん二人いてもいいかな?」について

いろいろもやもやが続くので、また書く。

一番釈然としないのは矛盾だ。
子供たちのアウティングを避けるために、カミングアウトしないという話なのに、そのくだりも含めて本を出している。
婚姻制度を否定しているのに、疑似婚姻届を出す。
家族扱いされないっていってる。
結婚したい人に結婚の自由を、と言っている。
じゃあ、婚姻制度がどうというわけじゃなくて、婚姻制度を実現していたいんじゃない?
でも、そうじゃないといっている。
矛盾。

矛盾点をいくつか挙げていくけど、矛盾しているから以下の部分はうまく読めないと思う。
破たんしているから何度読んでも意味が分からない。
制度上の話に絞るけど。

婚外子差別のことにも触れているけど、制度上の話なら家制度に触れないとおかしい。
でも触れていない。同性婚は大賛成、婚外子差別のお祭り差別には乗りません、というのも矛盾だ。
中村さんの頭の中には結婚するかしないか、という話しかない。
権利を認めるのが大切?という言い方をしているけど、この言い方はおかしい。権利は認めるものじゃないんだよね。権利はあるものだから、権利が侵害されているかしていないかというのも。
どっちなんでしょうか。
婚外子差別があるから仮に同性婚制度があったとしても、結婚していない、と言っている。
わたしも何を書いているかわからないけど、本が矛盾しているから、仕方がない。
(同性婚ができたら、すでに生まれている子はもちろん婚外子にならない。また、婚外子に自分の子がなろうとなるまいと、差別はいけない。そして、自分の妻のことを「妻」っていっているんだから、やっぱ結婚したいんだろうな)
矛盾している本の矛盾点を書いていても、うまく書けないから、このへん自分でもうまく書けないけど。

わたしのために子供を産んでくれてありがとう、これで先に安心して死ねるというシーンがあるんだけど、これもおかしい。サツキさんは、子供のために生んだんだよね。

だってこれさ、六帖さんが「子供を産んでくれてありがとう。これで僕は安心して死ねる人生を用意してもらった」といってたら、おかしいよ。

わたしは、自分の子供を生むけど、籍を入れるつもりはない。
「もともと権利がある人だから選べるんだよね」と言われたらその通りだけど、家制度に反対だから。簡単な話だ。
家制度に反対なのか、制度に乗っかりたいのか、その違いは大きいのに、ポジションをいくつもとってる。矛盾している。
こちらは、意味が分からないからスルーしてしまう。そして、読みたい部分だけを読んで、安心したいと思ってしまう。そういう商売だなと思った。
なんか主張するとき絶対に言いきらないで、逃げ道が用意されているんだよね。だから言葉数が多くなって読みにくくなるんだ。

また男性について種馬扱いを崩さない。男にも人格はあるんだよ。

この本を読む超人しか子育てできないのかと思わされる。
別にわたしにも夜通し起きている体力なんてないし。

産後に弱っている人にああいう言い方したら自尊心削れる。わざといっているのかな、と思う。
サツキさんに無職のおばさんっていっているし。

亡くなった人を婚姻届けの証人にしているのも、亡くなった女性の人格を認めていないから怖いと思う。
もちろん法的に根拠のあるものを求めていないというのはわかるんだけど「この人ならきっと認めてくれる」というのは故人の人格を踏みにじっている。理想化されてもね。


もやもやする本

妊娠七週目で、つらりがひどくて、めまいがする。
マーライオンみたいに吐いた。胃痙攣が起きるほど吐いた。胃が痛くて眠れないし、どういう態勢になってもしんどい。
食中毒かと思ったけどつわりだって。

ところで、この本を批判するために読み返した。
この本はめちゃくちゃ批判しにくい。

フィクションなのかノンフィクションなのかわからないつくりなので、登場人物の言動に突っ込んだら、生きている人間を否定したみたいな気持ちになるのだ。
でも、いつも通り書く。
「お母さん二人いてもいいかな?」 中村キヨ さん

自分でもともと持っていたのだけど、LGBT的な観点から勧められたので、再読した。
でも、これ、危ない本だよなと思った点が二点。

レイプ被害者に、「おばちゃん(キヨさん)」は「体が勝手に起こした反応だ」というのをかなりページを割いて説明しているんだけど、わたしだったら、お医者さん以外にキヨさんみたいな言い方で、ああいう風に言われるのはいやだ。黙れって思う。
レイプ被害者としてのわたしが読むとすごく嫌な気分になった。
なんか、子供に説明しているみたいなんだよ。被害に遭ったからってバカになったわけじゃないんだから普通に話せばいいのにと思った。
あと知ってるし。サツキさんが知らなかったのかもしれないけど、読者に読ませるって、サツキさんだけに話すのとは違って、むき出しのままじゃならん気がする。
わたしの好みだけども。

レイプによって生まれた子供だということをトナくんという長男に話すシーンがあるんだけど「僕はいいけど、ママがかわいそう」というシーンがあって、つ、つらい、と思った。
中学生に何を背負わせているんだって。
家庭の問題だから口を出しにくい部分だけど、こうして本にされているから、まあいつも通りいうのだけど、これって、一生背負うには重すぎる話題だと思う。

公表するかどうか、本人が選べる年になるまで、隠し通す、とサツキさんはLGBTについては、言うのに、レイプの被害の結果生まれた子だ、ということは隠さないのか、そして、漫画に描くのかという風にわたしのなかで物議をかもした。

子育てエッセイってすごく難しくて、子供は、それについて、どうもいえないじゃないですか。でも、プライバシーや自分の反応について書かれて、そのうえ、その稼がれたお金で自分がもの食べたりするじゃないですか。
それらがわかったときの負担てつらいと思うんですよね。
もちろん、わたしはトナくんじゃないから、自分の体験の類推でしかないんだけど。

レイプ被害者が読むとしんどいってわかるように、レイプって話をどこかに帯とかにつけておいてくれないかな、と思った。
わたしはもちろん人のことをさばく立場にないし、誰かが最良だと思った選択肢を否定する立場にもいないけれど、漫画として読むなら、登場人物であるトナ君がこういう目に合わないでほしいと思ったし、トナ君のプライバシーも知らないでいたかった。


つわりの流れ

四週目、つまり最終月経日から一か月後たってから、吐き気とめまい、下腹部痛がひどくなった。
カキにあたって、二日酔いが重なったみたいだった。
首の周りから汗をべったりとかいて、熱も下がらなかった。
ふらつくし、気持ち悪いし、眠いしで、横になっても、どんな態勢でも目がぐるぐるした。
今は六週目から七週目だけれど、味覚がだいぶ変わった。
四週目は塩味しか感じず、ひたすらしょっぱいものやジャンクなもの、肉などを食べていた。
近頃は、コメが気持ち悪くて、すっぱいものがおいしく感じる。
何を食べても酸っぱさがあるものがおいしい、ないものはまずい、という感じだ。
塩味しか感じない、という極端なところは、すぎたみたいだ。

食生活は、バランスが良いものを六帖さんに作ってもらっている。
三食きちんととっている。
それでも、人にやせたね、と言われるから、子供を体内で育てるというのは、すごいことだ。
最近は眠気もだいぶ収まった。

つらいのは、減薬だ。
減薬をしていると、情緒不安定になり、細かいことが気になるようになって、すぐ泣いてしまう。暴れることもある。
別の人格になっているみたいだ。
一時的にはこれが本省なのかと思ったけど、具合が悪い時を基準に考える必要はないと思った。
薬を飲まないととにかくきつい。
自分をコントロールできない。
コントロールできないと、不安になる。そのループだ。

今日は比較的落ち着いている。


セクシャリティについて

友達のAちゃんとご飯を食べながら、セクシャリティの話になった。
そして、「ヘテロではない人……」と言ってから、うっとなった。

今化学を勉強しているから「ホモ」っていうのが最初の語彙としてきた。
化学の語彙だとヘテロに対応するのはホモなのだ。
でも、文明人だから「ゲイ」という言葉を知っている以上、ホモという言葉をあえて使う必要はない。
で、Aちゃんが「ゲイ?」と言った。
「そうそう、そうなんだけど、ゲイ、といった瞬間に、イメージするものが、レズビアンやそれ以外の人も含まれるイメージの人と、そうじゃない人もいるじゃんね」
という話になった。
「そうそう、それで、ゲイやレズビアン、という言い方をしたところで、こぼれる人はいるわけだから、LGTBsという言い方をしようとするんだけど、そこにも含まれていない人いるし」
「セクシャリティで分けると、マジョリティなのはヘテロでシスになるけど、マジョリティマイノリティで分けると、経済的にはゲイが強いよね?という話になり、どこで見ているかで、言葉遣いが変わる」
「かといって、シスでヘテロであるという意味のマジョリティの人間が、せくシャリマイノリティについて語らなくなるのも、それはそれで問題があるわけで、周縁化してしまう」
「自分のセクだけを語ればいいって話もあるんだけど、そうすると、どんどん追い詰められるし」
という話になった。

障碍者もそうなんだけど、障碍者だけが語るようになると、語られないという作法自体がすでに差別なのであって、目に見えなくさせられている時点で、差別の強化に加担していることになるのだ。

セクシャリティを当事者じゃない人が語ろうとすると、「うっ」と詰まってしまう問題があるなあ、と思った。
語るべきことを語らないと、どんどん構造というのは強化されてしまうし、そうすると、丁寧に語るしかないよなと思った。


親子断絶防止法に反対だ

オーストラリアの親子断絶防止法は失敗した―小川富之教授(福岡大法科大学院)に聞く

いくつかの理由で、親子断絶防止法に反対である。

一つ目は、子供の立場から。
わたしの父は、小学高中学年の時に家出をした。それから、理由を作ってなかなか離婚しなかった。それでいて、会いに来た。
母は、わたしに父の悪口を吹き込んだりはしなかったけれど、ストレスで病気になったり、家の外に出られなくなったりした。
車で後をつけられて声をかけられたりしたからだ。

すんなり離婚の話し合いができる夫婦なら、法律などなくても、子供との面会はできる。
子供の面会という話ができない時点で、問題があるのだ。
その問題があるまま、子供に合わせるのは危険だ。
ストレス、心身の危険、DVの延長の嫌がらせが考えられる。

もう一つの理由は、女性としてからの立場からだ。

わたしは心神喪失時に、婚姻届けを出されて、私文書偽造などされ、貯金を一切奪われ、クレジットカードにも、勝手に申し込まれた。
一千万円近くの損失だった。
また、身体的なDVもあった。それまで飲んでいた薬を全部断薬され、家族や友人と連絡が取れない状態で、子猫含めて四匹の猫がいて、糞尿の片づけがなされない八畳一間の一室に閉じ込められた。そして、統合失調症の薬を致死量飲まされて死にかけた。

三回の切迫流産が起きて、死ぬと思い、なんとか着の身着のままで逃げだした。
逃げた先も知られると、「殺してやる」「火をつけるぞ」という脅迫があった。

堕胎をしたいと思ったが、日本の法律では、婚姻届けが出ている以上、父の推定がなされるため、どうしても、堕胎の届け出に、相手の名前が必要だった。
しかし、殺す、と言ってくる相手に、居場所を知られるリスクを冒して、そのうえ、絶対に同意が得られない交渉をすることはできなかった。
堕胎をできる期間も、十週を超えると法律上も、身体的にも、難しくなる。

妊娠させられたこと自体がDVなのに、それをやめるための中絶にも、DVをしてきた相手の承認がいるとは、これは、女性の人権を阻害する。法律の不備だ。

それで、やむをえなく、「望まない妊娠」だということを理由に、中絶した。

今もいやがらせがある。
この夏、一番嫌だった嫌がらせは、わたしが「不法に堕胎した」ということをもって、警察に届けられたことっだ。
そのため、わたしは、警察に呼び出されて、調書を取ることになった。
もちろん、望まない妊娠なので、違法性はない。それでも、犯人扱いされるストレスはたいへんなものだった。

この相手の男を、万が一生んでいたらと思うとぞっとする。
わたしが堕胎しなかったら、逃げられなかった。命の危険があった。
子供の命も危険にさらされていた。
だから、わたしは決断せざるを得なかった。

もし、中絶が禁止で、そのうえ、親子断絶防止法があったとすると、わたしのような女は、殺されるか、自分で死ぬしか道がなくなる。
もちろん、生んで、そのまま逃げたとしたら、地獄の果てまで追いかけられて(生んでいなくても地獄の果てまで追いかけられているのだから)、親子断絶防止法が可決したら、それを盾にして、子供と会うと主張されただろう。

誰かが、死んでも合わせたくないと願うには、それなりの理由がある。
離婚がすんなりいかない相手には、背景がある。
その背景を無視して、法律で抑え込むと、人が死ぬ。
オーストラリアでは子供が殺された事例もある。
わたしをDVした男も非常に粗暴で、子供を殺しかけないだろう。
猫も虐待していた。
猫を虐待する人間は子供も虐待するだろう。
それなのに、意に添わぬ婚姻関係でも、婚姻の関係にあると、女も子供も逃げることができない。
人権が守られなければ、命も守られない。

だから、親子断絶防止法には反対だ。
子供の福祉にも反する。


妊娠六週目の支援

妊娠六週目に入った。
つわりがひどく、めまいと吐き気がひどい。四週目が一番つらかった。
四週目は、中絶した一回目の妊娠がフラッシュバックして、心身ともにまいっていた。

一回目の妊娠は、「子供とわたしを生活保護に入れて、その上前を撥ねる」「子猫を含めて八畳間に四匹の猫がいて、糞尿を片付けていない状態」だったので、劣悪な環境とDVがあった。
そのときには、軟禁されていて、薬を弾薬された上に、統合失調症の薬を無理やり飲まされていた。その状況下の中での妊娠だった。
そこで、逃げて、長い間隠れている生活があった。

生活が落ち着いたので、六帖さんと子供を作ることにした。
六帖さんは、働き者で、勉強をよくするので、わたしの特殊性(フェミニスト、自閉症スペクトラム、躁鬱)と折り合いをつけられると思った。

今の環境は前回よりも良いので、つわりも前よりは軽く済んでいる。
でも、減薬をしているので、情緒が不安定になりやすい。
細かいこと、たとえば、片付けが思うようにいかない、自分で思ったところに物がない、目に入るところに気に入らないものがある、ということで、今日は泣いて暴れてしまった。

ヘルパーさんが来る日で、ちょうどいたときに爆発できたので、今後、どうしようか、という話になった。

ヘルパーさんは「六帖さんが、合わせるように」ということを一つの提案としていった。

「わたしが我慢したり、合わせたりしなくていいんだ」と思ってびっくりした。

今、わたしに必要な支援は、「わたしが適応するように」することじゃなくて、「わたしに居心地の良い環境を作る」ことらしい。
自分では我慢しないと、合わせないと、と思っていたので、本当に驚いた。

具体的に「こうしてほしい」ということがあったら、細かくメモに取って、みんなが共有できるようにしてほしい、というヘルパーさんからの要望も出た。

わたしが「こうならないといけない」という目標を目指すんじゃなくて、「できないことを列挙したり、こうしてほしいということを伝える」ということが必要とされた。
これが福祉や介護の考え方なのか、と思った。

外部の人やプロが入ると、自分たちで何とかしないといけない、特に当事者が変わらないといけないとどこかで思い込んでいたのだけど、その思い込みが一つとれた気がした。