#サービスするわよ に便乗するセックスワーク、マイノリティ関係のエントリまとめ

セックスと意思表示、人権関係について書いたエントリ

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セックスと女と働き方に関して考えたエントリc71.hatenablog.com
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だんだん成長している様子が分かってもらえると思います。

めんどくさくなったので、風俗で検索した結果のリンクc71.hatenablog.com
これは食い詰めたときにセックスワークが選択に入ったことを言いたかった。c71.hatenablog.com

マイノリティ支援c71.hatenablog.com

これでだいたい全部だと思う。


マイノリティとアドバイス

長患いしていると、アドバイスをもらうことがあり、困惑する。

長患いしていると、病気に関して医者よりも詳しくなる。医者に、薬の使用感がどうだったか、情報提供するようになる。

わたしは精神疾患とアレルギーがある。両方とも、相互に作用する。
人生がいろいろ難しかった。

わたしは、好きで病気になったわけじゃない。
悪いことをしたから、または、生活態度が悪かったから病気になったわけじゃない。

だけど、病気の人に対して、人は容易くアドバイスする。
病気の人は、全体のバランスを見ながら、生活しているので、そのアドバイスを断ることがある。そうすると言われる。「だから、治らないんじゃないの」「病は気から」「素直にならなきゃ」

そう、人格まで口を出されるのである。わたしが、病気であるという一点を持って。

医者でさえ、言わないことを、素人の皆さんはおっしゃる。聞きかじりの情報を、病人が既に知っているとは思わないらしい。愚かだなあと思う。

医者からアドバイスを受けるのは、医者を信頼しているからだ。この医者に言われたことを実践してどうにかなっても、わたしはそれを受け入れる、という覚悟ができているから、医者に向き合い、どんなことでも言う。その内容には羞恥心を伴うこともある。

アドバイスしてくる人には、そんなことまで言いたくない。だから、言葉を濁して交わそうとするけれど、なかなか逃がしてもらえない。理由も内のに「アドバイス」を実行しないのは怠惰だからと決めてかかる。

健康な人だったら、テレビ見て夜更かしして不規則な食生活をしてだらだら生きて、パチンコして、お酒飲んで、過労しがちなほど労働しても、口を出されることはほとんどないだろう。

でも、病気だと、生活態度から心構えからなにからなにまで口を出される。
一人前の大人として扱われない。見ず知らずの人でさえ、見た目でわかる疾患に関しては、口を出す。なんて嫌がらせなんだ。

たとえば、わたしは、ストレスがかかると過食する。でも、リストカットするとか、オーバードーズするよりは良いと思っている。でも、家族に過食はやめなさい、甘いものをやめなさいと言われたので必死になってやめた。ストレスのはけ口はないので、調子を崩した。だが、これはまだいい。
過食は確かにからだに負担がかかる。

だから、今度は、浪費を始めた。心のバランスをとるために何かあるのは仕方がないとあきらめてやっている。ストレスが減れば収まることだ。

でも家族は月にいくら貯金しなさい、と言ってくる。わたしは、自分が普通に生活するだけで、仕事に行くだけで精一杯だ。

ダイエットしなさいとも言われる。だから、ダイエットした。

わたしは不眠がひどくなった。これには解決法がないのだけど、今度は彼氏が「パソコンをやるから眠れないんじゃない?」と言った。
わたしはテレビを見ることができない。感覚に過剰な負担がかかるから苦痛なのだ。音楽も聴けない。ラジオも聞かない。PTSDを発症してから、本を読むこともできなくなった。
深夜に目が覚めたら、じゃあ、わたしは何をして、やるせない苦痛を耐えれば良いんだろう?

わたしはそういって泣いた。
わたしが健康だったら言わないことを、どうして、あなたは言うの?
そのアドバイスを実行して、わたしがどれだけ苦しむかわかっていっているの?あなたは医者よりも詳しいの?わたし自身よりも病気に詳しいの?もし、あなたが、同じようにアドバイスされたらどんな気持ちになるの?あなたは完璧なの?誰にも指摘されない生活をできているの?

そういったら、わかってもらえた。
彼はまだいい。説明を聞き入れてくれるからだ。困るのはこうした、どうしてアドバイスを聞けないかの、説明を聞く気がないひとだ。一方的に言い放っていい気持ちになりたがることに、ただでさえ人生がたいへんなのにどうして、付き合わなきゃいけないんだろう。

人を救いたい人は、一方的だ。そして、弱者と認めた人に対して、あれこれ言いたがる。たまたま、不便がないだけで、どうして自分をそんなに良いものだと思えるのだろうか、不思議でならない。
そんな資格も、力もないはずだ。
専門家にもどうしようもないことを、どうして、自分のアドバイスで変えられると信じているのかわからないし、それが「人の暖かみ」と表現したりそれを拒絶することを「冷たい」と表現するのも、理解しがたい。

説明しないからわからないのだ、とも、良く言われるし、知らなかったんだと悲しそうに言われるが、反論や説明を聞く気がないというシグナルを受け取ったからそうしているだけなので、聞く耳を持つ人には相談している。
(相談するのが苦手な人もいるだろうけど、わたしは相談する方だ)

わたしはわたしに独立して、考えて行動している。
だけど、健康な人は、それを否定する。足りないという。
わたしがアドバイスを聞き入れない理由を、説明を、理解しない。受け付けない。
そういう人たちは、ただ、自分の言う通りにすれば解決するのに、あなたのためを思っていっているのに、恩知らずだなあ、くらいなことを言う。

わたしが病気なのは選んだことじゃない。
わたしはそもそもストレスがかかっているので、だから、ストレスに弱く見えるだけで、他の人よりも負担に耐えながら暮らしている。

ほんのささやかな息抜きさえ、非難されるのは、わたしが病気だから。
それは、わたしにはどうしようもないこと。
病気の人に、何か言っていいかどうか、病気の人に聞いてから言う人はほとんどいない。
ありがた迷惑だと言うことを理解しない人が多い。

わたしが困っているから助けてほしい、助言が欲しい、と頼むことと、頼んでもいないのに、助言をくれると言うことは違っている。
わたしは助言を聞き入れないわけじゃないけれど、その助言が役立たないことを経験上知っている。それだから、わたしはアドバイスを好まない。

占いを始めたとき、家族にはっきりと非難された。反論を許されなかった。
だけど、お金を取ることがそんなにいけないことだろうか?
占いは労働だ。話を聞くという労働だ。
集中して、一生懸命その人のことだけを考える。

どんな仕事だって、値段のつき方はいい加減だ。
住宅を例にとると、100万円下げたら買います、と言うことは良くあると思う。そして、実際に値段はあっさり下がったりする。だったら、そのもともとの100万円の値段は、なんだったのだろう。

値段と言うのは、共同幻想から、こんなものだろうと、みんながなんとなく同意してできている。同意できない人はその値段で買わない。買う人は、それを了解している。
肉体労働だろうが、なんだろうが、弁護士だろうが、コンサルタントだろうが、そういうものだ、とみんなが思っているからお金を払う。何か根拠があって、値段が決まっているわけじゃない。慣例とか、習慣とか、歴史とか、その人が生活できるレベルかどうか、とか、専門知識がいるか、どうかで値段が決まっている。

美術品なんて、ある人にとっては、がらくただし、ある人にとってはすごい価値があるものだ。
だから、値段は、固定されているものではなく、流動的なものだ。

わたしは商売は、人を傷つけたりだましたりしなければそれで良いと思っている。それに、占いをしたがったのは、わたしの別人格だから、わたしには干渉することができなかった。

それもわたしの病気の一部だ。多重人格が病気かどうか、わたしにはわからない部分もあるけれど、病気と同じで、わたし自身にはコントロールできないどうしようもないものだ。

健康な人だって、コントロールできない領域があるだろう。そこに、アドバイスされて、それが実践できないことだったら、丁重にお断りするだろうし、そこまで踏み込まれたことを言われてむっとすることもあるだろう。

だけど、病気の人に関しては、何を言っても良いという共通認識が出来上がっている。
それは、病気の人だけじゃなく、「弱者」と呼ばれる人すべてに共通のことだと思っている。
「弱者」とは、コントロールできないことがあり、なおかつ、そのコントロールできないことが、本人の怠慢や選択の仕方の不備によるものだと、勝手に思われることで発生していると思う。そういったときに、他人はアドバイスする。

弱者にはいろいろなバリエーションがあって、貧困だったり健康だったり職業だったり性だったり、いろいろなマイノリティがいるのだが、そういった人は、実行不可能なアドバイスをされやすい。
しかし、根本的に、解決するのは、マイノリティだということをやめることに等しく、そして、マイノリティの属性を持っているのはその人が選んだことだとしても、結局どうしようもないことなのであった。
職業だろうとなんだろうと、マイノリティになると同時に、プライバシーや、気持ちを侵害される機会が圧倒的に多くなる。
マイノリティになることを、選んだんだろうがそうじゃなかろうが、侵害されることまで込みで選んだり、マイノリティになった人なんていなかろうに。

侵害されたがっている人なんて、この世にいない。

弱者になるのは、何か悪いことをしたからじゃない。悪いことをしたからだとしても、私的領域にずかずか踏み込まれるのはいやだ。
いやだ、という気持ちを持つこと自体を否定されることだってある。
わたしはとても悲しい。
腹がたつ。

それを、人に理解してほしいとまでは言えないけれど、平穏な生活を送るために、人との接触を極力減らしているのは、そういうわけなのだった。
そして、そのことをやっぱり世間が狭くなると言ってくる人もいるので、この世は地獄だなあとも思うのだった。


精神病患者はネットの妖精 #サービスするわよ

#サービスするわよ は、わたしの友だちの発達障害の人も見ていた。

マイノリティとしての共通点があるためと、わたしがたびたび取り上げるので、セックスワークに興味を持っている、精神疾患を持っているひとはこのブログの読者に関してはそこそこいるように感じている。

精神病患者は、からだも不調である場合が多いため活動場所をネットにしている場合が多い。
そして、文章を書く人もなかなか多いように感じている。

わたしの場合だと、セックスワーカーについて、セックスワークとはなにかの概念、どういうものなのか、何に困っているのか、どうして選んだのか、当事者に言ってはいけないことはなにか、職業の種類、業態、実際働く人の言葉、労働環境、やりがい、歴史、リスク、喜び、参入の仕方、等が知りたい。

なぜなら、知らなければ、コミットできないと思うから。
そして、セックスワークには、何かしらの共通点があると思うから。

「救う」人の迷惑さは、精神疾患の人ならみんなわかると思う。
変えられないものを変えようとしてくる力に遭遇すると、限りなく消耗する。疾患をどうすることもできないので、いっそのこと自分の存在自体を消したくなる。
だから、自分も「救う人」の用な存在にはなりたくないのだ。
救う人、と言う風に関わるのではなく、何か力になるようになりたいと思う。

マイノリティ全般に関わる問題だから、と言うことも含めて、だけど、精神疾患を持っているひとは、仕事に苦労しやすい。また、その当事者が女だとすると、女性労働者の働き方、という点で、単にマイノリティだからシンパシィを感じると言うことにとどまらず、セックスワーク精神疾患は地続きの問題だとわたしは感じている。
また、話によると、セックスワーカーが、精神疾患を患う場合もある、ということなので、そういう意味でも、共通点がある。

精神疾患を持っているひとは、あまり活動できない。ネットの妖精のようなものだ。

だからこそ、わたしも、ネットの妖精として関わっていきたい。

ユーストも、発達障害の特性上、最後まで見ることが非常に難しかった。脳みそがパンパンになった感覚で、聞くことが難しかったのだ。
しかし、ネットがあるおかげで、当事者の話が聞けた。
ネットの妖精としての本懐である。
これを手がかりにして、もっと考えていきたい。
ひいては、自分のためになることだから。また自分のためにはならなくても、興味深いことだから。


セックスワークと人権問題 #サービスするわよ

セックスワークの問題のひとつに、人権侵害がある。

それはいくつかの場面で起きる。

職業選択の自由を侵害されること。
仕事自体を、善悪で裁かれること。善悪で考えられることが人権侵害だ。
よく考えれば、人を傷つけるような、全く問題がない。
善悪で、仕事を裁いてはいけない。
また、契約関係が、曖昧なことも、労働環境を悪くさせている。
客側も店側も、契約という概念に疎く、労働者のみの安全を守ることにたいして、万全な態勢とは言えないようだ。

差別は、人権侵害の総称として考えると、差別されているセックスワーカーは、深刻な人権侵害下に置かれている。
それは不当なことだ。
セックスワークが良いとか悪いとか、裁くことは誰にもできない。
たとえば、コンビニの仕事が良いとか悪いとか、わざわざ裁く人がいないように、塾講師が良いとか悪いとかわざわざ裁く人がいないように。

塾講師の良いところは、勤務中に、感染症にかかる可能性が少ないことだ。
だが、それは当たり前のことだ。
セックスワーカーは、感染症にかかるリスクが高いようで、そのうえ、それを避ける行為も、「サービスが悪い」と取られてしまうようだ。しかし、労働者の健康を守る、というのは、最低限のことで、その最低限をするだけで、サービスが悪い、と言われるのは、労働環境が悪く、人権侵害が怒っていると言わざるを得ない。

人権侵害を行うのが、客だと言うのも困ったことだ。本番を契約違反だ。法律違反でもある。(法律が必ずしもいつでも保護的だとは限らないし、正しい、有益とも限らないが)
しかし、セックスワークの場では、それを止めるものが誰もいない。

また、セックスワークをしていない人も、セックスワーカーを迫害することも困ったことだ。
「誰にも迷惑をかけていない」という言葉を昔テレビで否定的に言っている人を見たことがある。「誰にも迷惑をかけていないからと言って、やって良いことと悪いことがある」と。

やって良いことと、悪いことがあるからと言って、外部の人がそれを当事者に言うこととにはかなりの隔たりがある。もし、本当に、信念があったとしても、それを伝えるのには、かなりの準備が必要なはずだ。その準備を怠って、やって良いことと悪いことがある、とむき出しに言うのは、やはり、普通ではないことだ。

セックスワーカー労働環境も良くないようだし、重大な人権侵害にさらされやすく、しかも、それを防御するすべを持たない場合が多いようだ。

これは、フェミニズム関係なく、権利の問題として考えていかないといけない。

セックスワークは、違法ではない。からだと頭と心を使って働くやり方のひとつだ。
なのに、どうして、こんなに責められるのか、恥ずかしいことだと思われるのか。
恥ずかしいことなのならば、なぜ、客としていく人が後を絶たず、業界自体が消滅することが内のか。もし、やって良いことと悪いことがあると、消費者が思っていたら、業種自体がなくなるはずだ。

鶏を飼って、生業にしている人に対して、「インフルエンザというリスクがあるのに、それがわかっているのに、それをやるなんて愚かだ」と言う人がいたとしたら、その発言者が愚かになる。
でも、セックスワーカーに同じことを言う人はたくさんおり、その発言者は自分の愚かさを顧みない。

フェアじゃないこと、不均衡がここで起きている。

わたしはフェアじゃないことが嫌いだ。

セックスは、女のシャドウワークのひとつである。しかしながら、セックスワーク自体は、金銭が発生する仕事だ。
男からすると、本来なら、ただでできるはずのことを、お金を払ってしなくてはいけない、ということに屈辱を感じるかもしれない。男は、シャドウワークによって得られる利益を当たり前だと思っているから、その当たり前が崩されたときに、怒りを感じる様子だ。

女は再生産を担当している。再生産には、金銭を生み出すことができない。そして、世の中では金銭を生み出すことが評価されている。だから、女は一段下に見られる。

セックスワーカーは、再生産の途中までを担当している。金銭を得ている。だから、人は、セックスワーカーを見たときに、どうしたら良いのか、反応できなくなる。そして、「汚い仕事」と位置づける。

わたしは以前、セックスワークの客を汚いものだと思っていた。ミサンドリーがあるからだ。そして偏見もあった。
だが、今思うと間違いだった。
塾に来る生徒にはいろいろな子がいる。マナーのいい子も悪い子もいる。必要だから来ている。汚いも悪いもない。
それと同じことのはずなのだ。

だが、状況をややこしくするのは、セックスワーカーの客は、塾の生徒と異なる行動をとる。
それは、人権侵害を行う場合が多いと言うことだ。塾の生徒はわたしに対して、人権侵害を行うことはまずない。
しかし、セックスワーカーの客は、セックスワーカーに人権侵害を行い、暴力を振るい、盗撮をする場合があるという。そのところが違う。
より、危険な仕事だ。

ここまでのことを書いていて、セックスワーカーは、悪いことはひとつもしていないとわかる。
(違法行為をする店もあることは知っているが。法律が正しいかどうかわたしには判断できない)
そして、悪いことをしていようとしていまいと、人権は守られるべきだ。
しかし、そうじゃない。
そうすると、非セックスワーカーにできることは、「セックスワークが良いことか悪いことか」悩むことじゃなく、セックスワーカーが安心して、安全に働けるように、人権侵害が発生しない労働環境を整えるために動くことではないだろうか。

セックスワークを単なる労働だと考えると、その特徴になるのは突出して、「心身の危険」が高いことだ。そして、労働環境が悪いことだ。だから、そこを改善していかないといけない。
本当はシンプルな話なのに、セックスワークになると、人は冷静でいられなくなる。
「セックス」に対して、いろいろな思いがありすぎるからだ。
「セックス」を正しく理解できないのは、教育のなさ、考える機会のなさのせいだろう。

もちろん、このことを研究している人はたくさんいるだろう。
だが、市井の人間も考えていかなくてはならない。

良く言われることだが、弱者から、じわじわと人権と言うものは剥奪される。
人権を本当に常に守っていくためには、不断の努力が必要とされる。
自分自身の人権を守りたかったら、人権侵害の最前線である、セックスワーカーの人権を守ることを意識することが、大切だ。

セックスに対する教育の充実も大切だ。
それはセックスワーカーを守ることにつながるだけでなく、非セックスワーカーの身を守ることにもつながる。セックスワーカーの良い客は、性知識を正確に持っているひとだとすると、個人的なパートナーとしても、優れた人になるだろう。
「セックス」を正しく、フラットに理解できていること、それが大切だ。
(セックスがいやらしいものだから良い、隠れたものだから良い、と言う人はいるだろうが、それは性癖なので特殊事例だ。なのに、セックスに関してだと特殊事例であるべきなのに、王道みたいに語られるのはおかしなことだ)

セックスは生殖活動でもあり、濃密なコミュニケーションでもある。そのため、安全に執り行わなくてはいけない。もちろん、双方の合意が前提だ。
だが、その「双方の合意」を得るときに、「若干の脅し」を交渉の技術だと勘違いしている男性に、わたし自身出くわす。セックスワーカーはもっと頻繁にそうだろう。それが、得になることだと思っている人や、自分に対して相手が好意を持っているから、意思をねじ曲げてくれたのだ、と歪んだ解釈をする人までいる。

合意とは何か。
そうした、本当に、最低限の前提から始める必要がある。
セックスワーカーが安全に働けるように考えるとき、社会の変化が必要だ。
社会の変化は一人一人の意識の変化から始まる。
その、一人として、わたしは考え始めたい。


楽しさが薄ら笑いを蹴り飛ばす #サービスするわよ!!

冷笑は人の心を壊してしまう。

セックスワーカーのためのユーストリームを見た。

OUR SCHOOL » ユーストイベント『サービスするわよ!!』 vol.01 「セックスワーカーのためのサービス開発準備局『サービスするわよ!!』開局大プレゼン会!」

面白いことがたくさんあった。労働環境、どうして就労したか、性病、法律など。

でも、一番興味深かったのは「労働として楽しい」「性病になって医者に行くと冷笑される」と発言だった。

アトピーも、「掻くからひどくなるんだ」と医者に言われて理不尽な思いをしたものだ。アトピーだからかゆくて掻くんだよ!

その仕事をしているから病気になるんだよ、というのは、理屈が通っているようで、通っていない。
職業病はどんな職業でもある。
だけど、たしかに、セックスワーカーをしている人に対しては、わたしも、正直に言うと「なぜ」と反射的に思ってしまう(からといって、表に出すのは別だと思うが)。

そして、事務員をしていて目が痛くなったり肩が凝ったりするのはその通りだから、それを非難されず、セックスワーカーだけは、罪深いように言われて、だから、そのせいで、罪深いことをしていることが原因で病気になるのだという言いようは、病気の人に対して本当にひどいと思った。

エリコ新聞
話は変わるけれど、宮沢楽さんが描いた自伝まんがが、話題になってた。「宮崎駿に人生を壊された女」と題名をつけたことで、宮崎駿をけなされたと誤解され、だいぶ非難されているようだ。しかし、あれは、どれだけ、彼女が宮崎駿作品を愛してきたか、を描いてある作品だ。

だから、本当はあれは、ラブレターだ。宮崎駿が、彼自身の人生をかけて、作品を作って来たことに対する、受け側の答えだ。

あの題名は、宮崎駿にひどい目に遭わされた、という意味じゃなくて、宮崎駿作品を愛しすぎて、だからこそ、だんだん彼の作品が初期と変わっていくことに幻滅していくことや、作品に沿って人生が変わっていくことを描いた作品だ。そして、彼女の人生がどれだけ救われたかも。

いつも思うことだが、女が何かを表現すると、それが、誰かを傷つけたことでもないのに、「みんなが好きなものを嫌いと言った」ということ自体を叩く、ということが良く発生する。
「みんなが思っていることと違うことを言った。した。あると教えた」というと、その人を憎む、ということが発生する。

男が、本当に誰かを傷つける意図で、作品を発表しても、「芸術だから」の一言で非難が病む場面はいくらでもあると言うのに。

宮沢楽さんが叩かれたことと、セックスワーカーの仕事が眉をひそめられることは、わたしの中では同じ現象だ。

セックスワーカーが「仕事は楽しい」というと、「セックスが好きだ」という意味に思われる。
わたしも塾で教えていると「勉強が好き」だとか、「子どもが好き」だと思われる。
それもどちらも間違いじゃないけれど、間違っている。労働が楽しいのだ。
働いて、結果が出て、お金がもらえるゲームが楽しい。わたしは。
それと同じように、セックスワーカーが「仕事が楽しい」と語ったのだ。
だから、わたしは嬉しかった。

共感は、大切なものではないが、それでも、やはり嬉しかった。
(共感ベースで考えすぎると、共感できない問題について、考えなくてもいいという話になってしまうから)

楽しさの種類には、人間の数以上にバリエーションがある。ひとりの人間が感じられる楽しさにはたくさんの種類がある。その上、人間はたくさんいる。かけ算するととてもたくさんの楽しさがあることになる。

人間はひとりひとりカラフルだ。

カラフルな人間が、職業のひとつとして、たとえば、好奇心から、貧困から、お金が欲しいから、暇つぶしで、いろいろな理由でセックスワークを選ぶ。または、選ばない。

職業には危険がつきものだけれど、世の中から隠された職業にはもっと危険が隣り合わせだ。
法律の目が届かないから。そして、それを利用する人たちが、何をしても良いのだと、よけい勘違いしやすいから。
ただでさえ、男の人は、女の人に、何をしても良いと考えている。
ただでさえ、消費者は、お金を払いさえすれば、労働者に何を要求しても良いと思っている。
世の中から隠された労働は、それが加速するだろうことが、想像に難くない。

宮沢楽さんは、ずっと、精神病患者として、発信をして来た。そして、女として生きることの苦しみを発信し、医療関係者に人生を損なわれ続けた苦しみや、そして、ただ好きだった趣味を踏みにじられた苦しみを語った。弱者として扱われて、本来の力を奪われ、弱者になってしまった苦しみをずっと語って来た。彼女は、本当に正確に物事を見ることができるから。

精神疾患も、セックスワークも、みんな目を伏せたいことらしい。そして、それについて、言葉を発すると、みんなでよってたかって言葉自体を踏みつぶそうとする。その言葉のあらを探して、だからダメなのだと言う。言葉だけではなく、あなた自体もダメだという。人格まで否定する。選ばざるを得なかった選択肢の選び方を否定する。

そして、その否定が、「あなたのため」なのだから「受け取らないといけない」「そうしないと、あなたは不幸になる」と言う。
人の言うことを素直に聞かないから、あなたは苦しむのだ、とまで言われる。

弱っているときは、その悪意の魔法にかかってしまう。

わたしも良く言われる。悪意に染まらないように、ぐっと踏みとどまるように、耐えるだけでも相当しんどい。

男性は、女がなにかを表現するとき薄ら笑いを浮かべる。気に入らないときにも薄ら笑いを浮かべる。加害を加える前にも薄ら笑いを浮かべる。

それは言語じゃないから、わたしたちは、その薄ら笑いを指摘しにくい。そんなことはしていない、被害妄想だ、という。

しかし、それは現実に作用して、わたしたちの活動を制限する。薄ら笑いには、力がある。

冷笑は、言葉にならない攻撃だ。あの、薄ら笑いには、恐れを感じる。黙らされて来た。なぜかわからないが、恐ろしい。肉体的な恐怖だけじゃなく、もっと何か、怖いものがある。
だけど、最近はあの薄ら笑いは、愚かさを表現しているのだと思うようになって来た。

接客は楽しい。人に触れることも楽しい。お金を稼ぐことも楽しい。評価されるのも楽しい。お礼を言われるのも楽しい。なにか、教えることも楽しい。歩合制で稼ぐことが楽しい。評判が良くなることが楽しい。ちやほやされることが楽しい。自分のすべてが武器になることが楽しい。

これは、わたしの仕事と、セックスワークの共通点をあげたものだ。
これだけあげると、むしろ、わたしがセックスワークをしていないことの方が不思議に思われるくらいだ。

女の人は、なんとなく、セックスワーカーに対して罪悪感を持っている。自分がセックスワークをしていないから。でも、同じように「性」を売っていることを意識しているから。

お金を持っている男に、営業をかけるとき、男と同じような戦略は採れない。
事務員をしているとき、男と同じ程度の気遣いでは、いじめられる。
接客をするときには、女の美しさや柔らかさを求められる。
結婚するときには「女らしさ」をアピールする。そして、社会が用意した、女の賃金の少なさを補うために、女らしさを差し出して、なんとか食いつなごうとする。

女の形をして生まれて、女として判断されたら、誰でも、いくらかは、女を差し出さないと生きていけない状況がある。
女を拒否する、という形でも、女であることをわざわざ意識せざるを得ない。

だから、女はセックスワーカーに対して罪悪感を抱くのだ、とわたしは考えている。少なくともわたしはそうだ。

男たちは、ただ、女を見下している。生まれたときから、女を見下しても良いというサインを社会から受け取っているから、ただそれを吸収して、無邪気に放出し、再生産をしているのだ。
そして、中でも、セックスに関しては、より、見下しても良いと思っている人が多いようだ。

そういうわけで、女も男も、セックスについて考えるときに「利害」について連想してしまうし、その「利害」を直接的に「お金」に変えてしまう人たちのことを、「わけがわからない」存在だと思い、そして、どうして良いかわからないからか、はっきり見下してもかまわないと思うのか「冷笑」する。

だいたいの人は、人生を毎日選びながら生きている。だけど、どうなるのか、わからず生きているという意味で、「選べていない」。どうなるか、あらかじめ分かっていないという意味で、自分の人生を主体的に選べている人がどれだけいるのか。

なのに、その自分を棚に上げて、弱そうな人間を見つけたら、攻撃して、そのことによって、自分を正当化して、ほっとしたい、癒されたい、と考える人々はいる。

その標的として、選ばれやすい属性が存在する。

ただ、人は、ひとつの属性だけでできているわけじゃなくて、複数の属性が重なり合ってできている。
冷笑する人は、ただひとつの属性だけを見て冷笑する。

わたしは存在する。発達障害者として存在する。たとえば、このユーストリームを最後まで見るのが困難だった。頭が停止してしまった感じがして。
また、わたしは、文章をたくさん書けるという属性も持っている。
たくさん勉強して来て言葉を知っているという属性も持っている。

わたしをけなす人は、ひとつの属性だけを見ている。

この人は存在してはいけない、この職業は存在してはいけない、と人が言うときには、そのひとつの側面や属性だけを見て判断しているのだろう。

そこには楽しさや、新規性や、奇跡のような瞬間があって、わかり合ったりわかり合えなかったり、つらかったり、楽しかったり、役に立ったと思えたり、評価されたと感じることができたりする瞬間が、本当はある。それは邪悪さとはほど遠い。

ほど遠いのに、ひとつの属性があるばかりに、冷笑の対象となる職業があるのは悲しいことだ。
それは、わたしが教えてもらった通りに言うと「もうすでにある」のに。
すでにあるものを消すことは時間がかからないとできない。すぐに消そうとすると、多くの人が苦しみ、下手をすると死んでしまう。職を失うということだから。
それは、わたしたちがあると信じている架空の属性、セックスワークが悪いものだと信じている、共同幻想からの結果としては大きすぎる悲劇だ。
それは避けなければいけない。わたしたちは、知らなくてはいけない。
セックスワークが、接客だということを。そして、接客には、客と労働者の中で教え合う美しい瞬間があると言うことを、知らなくてはいけない。美しい瞬間がなかったとしても、それが、存在してはいけない、という理由にはならないことをわからないといけない。

わたしたちには、労働者が等しく、健康で過ごせる社会を作る義務がある。
セックスワーカーも労働者だ。だから、セックスワーカーも、健康で過ごせるようにしなくてはいけない。

わたしも労働者のひとりで、健康で過ごせているわけじゃない。
だから、セックスワーカーの困難の一部を、理解できるかもしれないと思っている。

仕事を楽しめても、楽しめなくても良い。楽しめたらもっと良いだけの話だから。
だけど、わたしは、これからも、ずっと、薄ら笑いを浮かべて、わたしに何か言う相手に出くわしたら、わたしは楽しいのだ、とそれがたとえ虚勢でも、言い放って、その薄ら笑いを消し去りたい。

そういう意味で、セックスワークを考えることは、女であるわたしの労働を考えることの役に立つ。わたしはわたしの利益ゆえ、そして、政治信条ゆえに、これからもセックスワークについて考えていきたい。

わたしはセックスワークの内部に入ることはしないと決めているけれども、いつでも肯定したい。
わたしはセックスワークを肯定する。
わたしひとりが肯定しても、何もならないとしても、肯定する。
わたしはセックスワークを肯定する。この言葉が、誰かひとりにでも届いて、そして、少しでも楽に楽しく生きられることを祈る。
楽しさだけが、抑圧してくる人々に対して、武器になる。彼らは、幸せを奪うことが生き甲斐だ。ただしさなんて、流動的だということに目をつぶって、いつでも人を裁きたがる。

わたしは、楽しんで生きる。
ユーストリームで、「楽しい」と言って、お互いの拳をぶつけた図を見て、わたしは力をもらった。
わたしは楽しむ。
楽しんで、薄ら笑いを蹴り飛ばす。


女が働くことに含まれる危険、セックスワーク、接客業

コンビニで接客をしていると危険な目に遭うことも多い。

殺してやる、ふざけんな、なめてんのか、等と言われることもある。
身の危険を感じる。

多かれ少なかれ、女性の接客業をしている人は同じような目に遭っているのだと思う。
それは、セックスワーカーも同様だ。
そういう意味では「女の接客業」というのは危険がつきまとう。そして、低賃金だ。
低賃金の中で、どの職業に就くのか、を選択するのは個人の自由や尊厳だが、セックスワーカーに限らず、女でいると、どうしてその職業に就いたのか聞かれることが多い。

もっと努力しなかったのか、他にもこういう職業があるのに、とか、貧乏でも頑張っている人もいる、とか。

だけど、個人の事情には様々なものがあって、体力や気質や性格や体調や家族関係、運などそれぞれ勘案して、就ける職業に就くしかないのであった。
まともな仕事に就きたくても、まともな仕事は男たちのものだ。
そういう風に社会ができている。
少ない人数が、おこぼれで、女でもまともな仕事や、正社員になれることもある、というくらいだ。
まともな仕事とは、安全で、適正な価格の賃金を支払われる仕事だ。
安全とは、性別で、弱いかろうと強かろうと、命の危険を感じずに存在できることだ。

わたしは占いもしているけれど、どうして占いをしているんだ、と言われても答えられない。
たまたまだ。
それと同じように、たいていの人は、どうして自分がその仕事に就いたのか、説明できないだろう。
自分の特技を生かしたから、それを選んだと言う人も、それが、どうして、自分の資質となったのか、説明できないだろう。
資質も、伸ばせた才能も、努力も、環境も、ほとんどの人が選び取ったと思ってはいても、たまたま、運がよかったために、与えられたものだ。

コンビニで殺すぞと言われながらも続けている理由は、自分では説明できるし、友だちにも話すけれど、友だち以外に話したい理由ではない。まして、詮索されたら無礼だと感じる。

セックスワークをしている人も同じで、友だちには話せる理由だけど、詮索されたり分析されるために差し出して解剖されたいと思いながら語る人は少なかろうと思う。
なのに、セックスワーカーに対しては、その無礼をする人が後を絶たない。

女はどの職業を選んでも、罪を背負わされる。

結婚はどうするの、子どもは、だんなさんは、と。いつかやめるんでしょと。リストラをするときも女からリストラされる。男には家庭があるからと。女にも生活があるのだが。
そんな風に生きるしかないなんて、かわいそう、もっと賢く生きれば良かったのに、無計画、などとも言われる。

同じ程度に無計画で、同じ程度に無能な男には、職業が多様に用意されており、給料も高い場合が多い。それは、女の努力の多寡ではない。社会制度のためだ。

女は、危険な仕事をする場合が多い。女は女だというだけで危険な目に遭う。殺すぞと言ってくる客は、屈強な男性相手には、同じことを言わないだろう。
コンビニ店員をしていて、ストーカーにあって、職を失う人もいる。

職を失うことは生活に直結している。女だから、仕事をしなくても生きていけるはずだという妄想を抱いている人がなぜか世の中にいて、その上、社会制度にも組み込まれているからだ。しかし、たいていの女は、働かないと生きていけない。女の背負っている危険は、男の危険とは違う。
男の職業の危険とは、例えば高所の作業だとか、肉体労働だとか、そのようなものだろうと思われるが、女の危険は「男から加えられる有形無形の危害」だ。

その危害からは、いや、損失と言い換えても良いが、それは、暴力だけではなく、社会制度からくるものや、会社の風土、たとえば女がシャドウワークを強いられることも含まれる。
たとえば、リストラをされるときに女から選ばれることだったり、法律が整備されていないために起きるマタハラなどもそうだ。セクハラもそうだ。シャドウワークをやらせて、その上で、男性と同じ量の仕事をさせ、無能だと言い募り、自尊心をへし折る、ということも、女特有の危害の加えられ方だ。
女には、男と同じような仕事をさせない、補助的な仕事に終始させる、また、研修を受けさせない、出世のチャンスを与えない、ということもそうだ。
飲み会などで親睦を深める、という場で、女が男と同じように振る舞えず、上司に気に入られる機会を逸することもそうだ。男と女では、上司に気に入られるという意味が変わってしまうと言うこと自体もそうだ。
(日本の社会では上司という立場にあるものは、たいてい、男だ)

男と同じように、いや、それ以上に努力しても、女は出世することもできないし、賃金の高い仕事に就くこともできない。大卒の女の給料は、中卒の男と同程度だ。

女と男の労働状況はフェアじゃない。

その中で、セックスワークを選ぶ人もいる。

なのに、セックスワークに関しては、職業選択の自由を尊重せず、詮索し、裁き、責める人がいる。
たいていの人は生きるためや生き甲斐や、暇つぶしのために仕事をしているのだと思うが、セックスワーカに関しては、そうであってはいけないとでもいうように。

同じ接客の仕事に就いても、男性が殺すと脅されることと、女性が殺すと脅されることとの、アンバランスはあり続ける。

セックスワーカーが詮索されるのと同じように、低賃金の仕事に就く女へ、「どうして、もっと計画的に人生計画を練らなかったのだ」と詮索する人は多い。
女は、子ども生むから、不利だとか、それが最初からわかっているんだから組み込まないとダメだとか、いう人までいる。

だったらそれは、社会が用意するべきじゃないのか。女が子どもを産むことができる性だというのは、人類発症の時点でわかっていることだから、個人がそれを知るよりも早い。

でも、そうはなっていない。

女というだけで、危険。
女というだけで、生きることが困難。
女の接客業はもっと危険。

だったら、賃金の低い接客業よりも、賃金の高い接客業を選んだ方がましじゃないのか。

セックスワーカーの危険と、コンビニの接客業の危険は、危険の量が違っていても、種類は同じだ。
密室でいること、裸でいること、を除けば同じだ。

でも、だからといって、給料が高いのだから危険でも良いじゃないか、それも織り込み済みで働いているのだから我慢すべき、という意見があったとしたら、わたしは断固として否定する。

その危険を許すならば、わたしもやはり、危険にさらされることでは同じだからだ。
給料は何で決まるか。
それは、儲かっているかどうかで決まる。
危険の量で決まるわけじゃない。

危険が嬉しい人はいないだろう。
なのに、セックスワーカーに対しては、その常識を失って発言する人が多い。
如何である。

セックスワーカーに対するまなざしと、その他の接客業に関する女、もっというと、働いている女はすべて同じまなざしで裁かれている。
わたしたちは、みな同じ危険の中で働いている。

保障は名ばかりで、何かあれば滑り落ち転落する。
詮索する人たちは、責めるばかりで何もしてくれない。

自衛にも限度がある。
なぜならば女をやめることはできないからだ。
女だから狙われるのだから。
女を狙って、犯罪が行われる。男でも女でも良い、というわけじゃない犯罪が多数存在する。
女だから、虐待される。
女だから、暴行される。
弱い属性だと見なされているから、低い身分だと見なされているから、何をしても良いと思われている。

女という形を、表象を、わたしたちはやめることができない。
ボーイッシュな形をしても、女らしい形をしても、わたしたちは、女という性だ。
社会がそれを決めた。
女という表象を持っている限り、あなたは「女」だと。
だから、「女」としての扱いをすると。
わたしたちは、女という表象を捨てられない限り、その扱いから逃れられない。
その性である限り、わたしたちは、危険の中で生きている。
わたしは女である。
危険をくぐり抜けるサバイバーである。
すべての女はサバイバーである。


胸を裂く悲しみと

十二時に眠ったら一時に目が覚めた。一時間だけ眠ることができた。

短期間睡眠を繰り返していて、だんだん、情動が不安定になって来た。
疲れ果て、悲しみ、自分を情けなく思う。

わたしはどうしてこうだめなのか、自問自答し始める。本来なら、自分に良いところがあろうとなかろうと、生きることになんにも関係がないはずなのに、こんなに、ダメな自分に価値がないように思う。

どうして散財したのだろうか、どうして、太ってしまったのだろうか、こんなにダメだから、愛される資格がない、等と思う。

太っていても、散財しても、愛には全く関係がないのに。

落ち込むと関係のないことと、関係のないことを結びつけてしまうらしい。

わけもなく、悲しい。胸を引き裂かれるようだ。
深夜には誰とも話すことができない。
昼間ひとりでいることと、深夜にひとりでいることとでは何かが違うらしい。
孤独に胸が引き裂かれそうだ。見捨てられてしまった感じがする。

小さな画面がわたしの向き合う世界で、わたしは画面越しに、話しかける。
ねえ、わたしはこう考えています。

こう思っています。

こういうことを感じました。
わたしは生きています。

あなたは生きていますか?
死んでいますか?

理由もなく悲しみがわたしを支配する。
切り裂かれるような深夜のさみしさが、しんしんと降り積もる。
生暖かい部屋の湿度が追いつめる。


モラルを爆破せよ ミサンドリーという名の手榴弾

モラルを押し付けられて分断される女が、ミサンドリー、男という組織を憎まずにいるのは難しいことだ。
モラルなんて、くだらない。男社会を円滑に回すための恣意的なルールだ。
そのために、女の心が殺される。
モラルを作る側には都合良く、守らされる側には、苦痛ばかり。
それがモラルだ。
モラルは、男に大義名分を与え、弱いものを攻撃する理由を作る。

モラルは女を分断する。
孤立させる。
周縁化させる。

普通の女と、何をしても良い女とを分ける。
分けるのは男だ。
モラルを作るのも男だ。
女はそれをこわごわ守る。
だけど、モラルの運営はいつでも恣意的だから、どんなに気をつけても、わたしたちは転落する。

例えば、被害者になっただけでも、汚れた女と糾弾される。
まして、被害者になったと言上げをすれば。
さらに、何をしても良い存在になる。
それをセカンドレイプという。
セカンドレイプ複数に無限に飽きて壊されるまでされる。壊れてもされる。

職業でも、汚れた女と呼ばれる。
ただ、食べて生きていくためですら、モラル、というものは許さないらしい。

そうして、女は、分断される。恵まれた女も貧しい女も等しくモラルに裁かれる。

わたしにはミサンドリーがある。社会的に迫害されているからだ。個人の資質以前に、性別で切り分けられている。社会は、男性のためにある。男性たちがわたしを迫害する。

ある男性がわたしに危害を加える。これは、個人的なことだろうか?
男性はわたしが「女」という属性を持っていたから、容易く犯行に及んだのではないか。
わたしを襲った男は、女だったら誰でも良かったと供述していた。
わたしが、犯罪に遭ったのは女だからだ。

2chで、わたしが被害を告白すると、揶揄される。
わたしは感情を表明することも押さえつけられる。
それは女だからだ。

女という表象を持っている場合、黙すのがモラルなのだ。
モラルは、男性社会に都合良く設定されている。モラル通りに行動していると心が死ぬ。
女は、あらかじめ心を殺すように設計されている。

味方面をする人もいる。しかし、そういう人はわたしにモラルを押し付ける。よかれと思って。こうすれば良いと思って。それは抑圧だと反論すると、豹変して、攻撃してくる。それは、言い返すわたしの属性が、女だから。女だから庇護して矯正してやろうと思っていたのに、「論理的じゃなく」「感情的に」「女特有の愚かさで」言い返す女のことを男は好まない。

わたしは論理的だ。感情的だ。どちらでも良い。だが、男が論理的で女が感情的だと言う区分を男が決めたことが気に食わない。だから、わたしはミサンドリーだ。

女が「女である」だけで、危害を加えられる、という現実を認識できない愚かな奴らがいるらしい。そいつらの多くは「男」という表象を持っているらしい。
ならば、わたしはその男という表象を持っている奴らを憎んでやる。
攻撃されたら怒る。反撃する。
反撃した結果、逆上されて、より大きな危害を加えられても。
わたしは心を二度と殺されない。

構造的な加害を受け続けて来たから、わたしは男が嫌いだ。憎い。
男に殴られたことがある。女も痛みを感じるのか、試されたのだ。当然痛かった。痛いと言った。彼はわたしが痛いと言ったのを冗談だと思った様子でまた殴った。彼は男を殴らなかった。わたしは女だから殴られた。
これは、構造的なことではないのか。
女という性質を持っている存在を、同質にとらえて実験する神経を持つ人間の集団を憎んで何が悪い。

女という表象を持っていても、その実、中身はカラフルだ。
カラフルさに歩み寄る男がどれだけいるのだろう?

男たちはどこまでカラフルなのか、わたしは今まで見ることができなかった。
理解しようとした。殴られても襲われても。
しかし、彼らはカラフルではない。
単一だ。鈍いグラデーションの持ち主だ。

庇護と攻撃は同じものだ。男はわたしを庇護しようとする。庇護しながら攻撃する。抑圧する。素敵な「女」に仕立て上げようとして、はみ出た部分を切り取ろうとする。それはわたしの一部なのだが。切り取れば血も流れるのだが。彼らには想像力がないらしい。
わたしと彼が、同じ人間で同じように痛むのだと、想像する力が男社会の恩恵を受けるうちにスポイルされてしまったらしい。

成人して独立した人間に、一方的に庇護しようと持ちかけてくる人間は抑圧と制限をセットで持って来る。

それに「モラル」と名付けて差し出す。わたしはそれをはねのけるが、そうすると、「可愛くない」「愚か」「他にも女はいる」と言われる。「だから女は」と言われる。薬を盛られて昏睡したこともある。わたしを夜道で殴った男は、刑務所から出所するそうだ。彼は弱そうな「女」を物色した。弱そうな「男」じゃなくて。そういうことをわたしは憎む。わたしでなくても、女であれば、彼は良かったのだ。
そして、わたしがこうして言葉を発すると口を塞ぎにくる、おぞましい人間を憎む。彼らは男なのか?男社会に順応し、価値観を内面化した名誉男性なのか?どちらにしてもかまわない。わたしは彼らを憎み、怒る。

どうして、あなたはそんなにも、罵詈雑言を吐くのですかと言われる。
その不安定さは伝染すると言われる。

だからなんなのだ。わたしは怒っている。それを妨げられるいわれはない。
攻撃されたら叫び怒り反撃する。当たり前のことだ。
黙っていた方が無難だ、というルールはいつからできたのか。
スルーする方が偉いのか。無難なのか。処世術として、その方が賢いとされるのは不均衡があるからだ。
心を病むほど攻撃されるほど続けるつもりはないけれど、不当な攻撃には反撃すると決めている。
それは、「あなたは心に傷があるからですか」と書かれたが、心に傷が内人間がいるのか?いたとして、それがなにか、関係あるのか?
どうでも良いことだろう。

親切面して、アドバイスしてくる人をわたしは憎む。
境界を侵略する人間を憎む。それらの人々がどれだけ「モラル」を持っていたとして、わたしがわたしであるための、「女」という属性を持ちながら生きていくわたしの邪魔になるのなら、わたしはミサンドリーのままでいる。

モラルがある人間は扱いやすいのだ。男社会の恩恵を享受している連中にとっては手なづけやすい。自ら自分を律してくれるのだから。自ら、自分を社会の形に合わせて矯正してくれるのだから。
じゃあ、わたしはそいつらに、利益を渡す義理はないのではないか。わたしが矯正されることによって心を殺した結果を誰も責任を取ってくれなかったのじゃないのか。責任をとりようもないどころか、心を病んだわたしを、キチガイと呼び、頭がおかしいと呼び、狂っていると呼んだその声をわたしは忘れない。

モラルとミソジニーの会わせ技がわたしの心を殺しにくる。わたしの心は一度殺されかけた。
もう二度と殺されない。
ミサンドリーという手榴弾を心に抱いて、わたしはモラルもミソジニーも爆破する。

モラルに、ミサンドリーという名の手榴弾を投げつける。
懐にいつも、隠し持つ。殺せるように。いつでも。息の根を止められるように。男社会という名の、幻想かつ実体のある何かを。

c71.hatenablog.com


ダイエット

どかぐいがやめられなかった。

去年の夏には一日五個アイスを食べていた。
そういう自分がいやだった。鏡を見るのもいやだった。
自分が醜いと思っていた。
隠したかった。
でも人に会う以上、隠れられないのだった。だけど、隠れたかったので、布の多い服を着ていた。

そういう風にして、一年過ごした。

どかぐいをすると、おなかがいっぱいになって、眠くなる。眠くなりたくて、食べていた。

さみしかったり惨めだったりイライラしたり、そういう感情を整理することが面倒で、向き合いたくなくて、食べさえすればその間の時間が過ぎるから、ただ、時間の過ぎ方を早めたいだけで、食べ物への愛情なんて何もなく食べていた。
自分のからだを見ることができず、鏡の前で目を背けていた。
自分がどれだけ太っているのか、見たくなかった。
人に知られたくなかった。
そして、人前では平気な振りをしていた。
全然平気ではなかった。

新しい商品が出たら飛びついて、味わってみて、何か達成している気になった。
わたしには、コレクション癖があるのだ。

ある日突然、糖質制限ダイエットをしようと思った。
甘いものを食べる自分が急にいやになったからだ。
でも、やめるのは難しかった。毎日食べないといられなかった。
でも、仕事中に異常な眠気が襲ってくるので、お昼ごはんを抜いていたら、眠くならず、意外と快適だということを感じた。

その勢いで、寝る前には、低糖質のものでお腹いっぱいにする、ということをしてみた。
できた。わたしはヨーグルトが大好物なのだ。

メイクレッスンを受けたり、洋服をプロに選んでもらったりしてから、外見を気にするようになった。

お腹いっぱいにならなくても良いかなと思い始めた。食べなくても、洋服やメイクで満ち足りる部分があった。

ダイエットのやり方に関して、お医者さんや薬局の人に相談して、朝だけは糖質を取った方が良いとアドバイスされた。全く取らないと、糖に敏感なからだになってリバウンドしやすくなったり、問題が出たりするからとのことだった。

自分の感情を受け止めること。見ない振りをしないこと。目を背けないこと。
惨めさを、惨めだと、受け入れる。
なかったことにしない。強いふりもしない。

わたしは泣きたかったり怒ったり、悲しかったりやるせなかったりする。

それをなんとか、ないことにしたいと思っていた。
それで食べていた。

でも、お医者さんは、心の微妙な動きは軽く見ない方が良いと言った。

食べるのはやめられた。でも、今度は、買い物をし始めた。今までも無茶食いをやめると、買い物をし、買い物をやめるとどか食いをしていた。

ただ、今回、食べることを減らして、買い物に走ったのは、わたしは良い変化だと思っている。
自分の欲望が自分のからだをいじめることから、若かった頃に欲しかったものを手に入れようとする行動に変化したから。時間をつぶすだけの行為から、楽しむことを求める方向に依存対称が変わったから。
わたしはまだ自分の感情を正確に見ることができていないから、依存してしまうんだろう。
ひとりでなんとかしたいと思うからもっと苦しんでいるんだろう。

だけど、未来は変えられる。
愚かなわたしだけど、これからはわからない。
少しずつ、時間をかけて、変えていきたい。
自分の姿をまっすぐ見ることができるようになった。
体重計に載ることができるようになった。
食事内容や睡眠時間をメモすることができるようになった。わたしは以前よりは現実を把握している。
把握していないときは、ふわふわと怖かった。足下が不安定な気がしていた。
わたしは、少しでも良いから変わりたい。泣いて、感情を外に出して、そこから始めたい。


泣けないで依存症

ずっと眠れない日が十日くらい続いていた。

十一時に寝て一時に起きてしまってから、八時まで目が冴えて、それから三十分くらいうとうとする毎日で、頭痛がひどい。

ダイエットをして一日200グラムのペースで減っている。体重を記録して、食べたものを記録して、睡眠時間と気分をメモに取っている。それから、糖質制限をしている。

体重が減っていくのはとても楽しい。うきうきする。

それにしても興奮していて、やることがコントロールできない。
やめろと言われてもやめられない。
人に言うことも怖い。

わたしはネットショッピングをして、ずいぶん散財してしまった。
そのことが恥ずかしくて、精神科の先生にしか言えなかった。
先生は私のことを裁かないから。

だから、それから、わたしはようやくいくら使ったのか、見ることができた。
おなかの裏側が冷たくなるような気がした。
でも、見る前の方がもっと怖かった。

わたしは、過活動で、買い物をして、洋服を処分して、いらないものをたくさん捨てた。人に揚げたりもした。
だから、家の中はピカピカになった。そして、とても疲れた。眠れないのもつらかった。
買い物をすると一時的に興奮して苦痛がまぎれるような気がした。楽しかった。なりたい自分に慣れるような気がした。

このまま、隠したまま過ごそうか、と思った。
でも、彼氏から電話がかかって来て、心配されたときに、言おうかな、と思った。
「あなたは、かわいそうだね、わたしみたいな頭のおかしい、人間と付き合って」と言ってしまった。
なんで、と言われたから、買い物の話をした。
いろいろ質問された。優しく言われたので泣いてしまった。なんとかやめる方法があればいいのにねえ、他にも同じような問題で困っている人がいるはずだから、探してみるのも良いかもしれない、解彼は言った。なにか、満足できない、刺激が欲しいみたいなことがあるのかもね。

わたしはこんなに、眠れなくて体調が悪くて落ち込んでいて、自分がダメ人間だとわかっていて、自己嫌悪があって、消えたかったけど、この十日ずっと泣いていなかった。
でも、彼が、ぽつぽつと話している声を聞いているうちに、泣くことができた。
わたしの声はどんどん元気がなくなった。声を張らなくても良いんだ、虚勢を張らなくても良いんだ、という感じがした。

彼は、俺はかわいそうではないよ、あなたのことが好きだから、自然な笑顔が見たいんだよ、と言った。

なんか、物語みたいなすごい話だな、と思った。
買い物、少しずつやめたい。欲しいものがたくさんあって、気持ちを奪われて、隙間を埋めるように買い物をしているけれど、やめられるものならやめたい。

わたしは、恥ずかしいけど、依存を告白した。自分のダメさを見た。人に話した。
これが、治療の一環だと言う気がした。
人に言うのがすごく難しかった。どうしてだろうと思った。
だけど、言えた。
そして、そのことをこのエントリに書いた。
わたしはこんなにダメな人間だけど、そういうことを書くことで、他にも似たような人がいるだろうし、そうやって、お互い励まし合っていけたら良いと思って書いた。

気分の一瞬の高揚のために、依存していてはいけない。買い物はもっと幸福にしたい。
泣けないうちは、依存は治らない気がした。
泣けたから、人に弱みを話せたから、わたしは少しましになれたはず。
なれていなくても、これから、なりたい。
頑張ろうと思うと、それがストレスになって、よけい依存を深めてしまうから、頑張らないように、弱い自分を受け止めたい。弱い自分を知りたい。弱い自分をダメだと責めずに、愛したい。