暇で、さみしく、悲しいのである

久しぶりにテレビをつけてみたら、うるさかった。

今は退屈で、暇だから、悲しくなった。

とにかく気持ちが沈む。
悲しい、さみしい、誰かと話したい、という心境だ。

世の中とは十分なじめたので、これ以上なじむ必要はないと思っている。テレビを見ないと人生の半分を損していると言うが、テレビを見て失う時間もやはりあるのだ。どちらの経験を選ぶのかは本人の自由なので、わたしはそっとしておいてほしい。

今年は、知り合いが増えた。知り合いが増えるということは、摩擦が増えるということ。

わたしをより良くしようと助言する人の数が二倍に増えた。わたしは今の生活を自分なりに日々よくしようと思ってはいるので、助言をされるとペースが乱れる。それが、今の不調、さみしいと言う気持ちにつながっている。

来年は服と化粧品を買わないで、お金を貯めようと思う。

文章をほぼ毎日書いてきた。

それで、出来上がったのが今のさみしさ、悲しさだ。

わたしはこのさみしさ、悲しさを十分に味わう必要がある。
自分で作り上げたものを鑑賞する時間を持つことが贅沢だからだ。

毎日何かしら書くことがあった。もう書くことがないということはなかった。
自分自身が毎日更新されていて、新しければ、思いつくことも違う、切り方も、着目することも違う。

今年と来年で何が変わるわけでもないだろうけれど、出会いと別れがあるだろう。
そして、また、さみしさが来るだろう。

わたしは以前と比べてさみしさに対して抗わなくなった。受け入れるようになった。
年を取って、鈍くなった代わりに、さみしさの先がわかるようになったからだろう。

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セックスと人権


ご報告とわたしの気持ち〔1〕 – goodnight, sweetie

人権ってのは主張していないとなくなるものです。

人権は、生まれながらに持っているものです。

それは約束事として、お互い信頼し合うことで生まれます。国に対して主張できることです。
だから、人権はある、と信じている状態がなくては、人権ってのは存在しないわけです。

約束事だから、ないといえばない。ファンタジーです。お金の価値をみんなが信じているから一万円札に価値があるように、人権があるとみんなが信じているから、人権はあるんです。

信じることで、価値が生じるのです。
貨幣と同じ仕組みです。
価値があるとみんなが信じて、その約束事を守るから、現実として存在できることです。
だから、その共同幻想を壊す人には厳しく対処しなくてはなりません。

お互いに信じているから、存在する権利。
侵害したら侵害される、ってのがルールです。

人権と言うようなことを言う人のことを夢見がちだとか理想主義だとか言うひともいますが、人権がある、信じている、というのはもっとも現実的な態度なのです。

人対人のときにも、「人権を侵害された」というときには、相手の人権を侵害することが可能になります。それは、私刑によってされてはいけないということになっています。法律に基づいて、国がその人の人権を侵害することになります。それが刑法です。国は、自分勝手にその人の人権を侵害していいわけじゃなくて、国民の総意により作られた法律の中で、人権を侵害しかえすわけです。みんなが納得しているという建前で法律ができている(国会で法律が作られる)からです。

セックスワーカーのことは詳しくありません。

でも、売っているものをお金を払わず、盗られたらそれは泥棒です。
売ってないものを盗られてもやっぱり泥棒です。
脅されて売り物じゃないサービスを盗られたら、それは恐喝です。
暴力を伴っていたら強姦です。

セックスの開始の時点で、お互いの合意があったとしても、その最中で「合意じゃない出来事」があった場合、それはレイプになります。
これは、刑法上では認められていないことですが、そういうことになっています。

セックスの最中、体格差がある場合、それは権力になります。いやだ、といっても、体格の力が有無を言わさない力を持たせます。

写真撮影について「性サービスではそういうオプションもある」と言っていた人がいるのですが、それは、話が違います。

オプションでそれがついている店で働いていたとしても、それにお金を払っていなかったら、それは泥棒です。

サービスとは商品です。

労働も商品です。お金で売り買いすることができるものです。
だけど、そこには人権を売り買いしている、ということはあってはならないのです。
それは、みんな、お互いとの約束だからです。
この世の中が今、動いている根本の約束事だから、それがなくなってしまったら、すべてが瓦解してしまいます。

(消しゴム買ったから同じ店で缶ジュース万引きしていいわけじゃないですよね?原理的には同じことです。缶ジュースも、消しゴムも同じ店で買えても、お金を払わなければ、泥棒です)

わたしが自分の賢さを塾で売っているように、性労働を売っている人がいる、ということをわたしは知っています。

わたしはサービス業ですが、無断で写真を撮られたら驚きます。それは売り物じゃないからです。
自分の賢さに付随して、相手のムードを読んで励ましたり、話を聞いたりすることもサービスに入りますし、時間外でも対応はしますが、基本的には時間内でわたしのサービスは売られています。それ以上のことはしません。

わたしの場合は、相手が子どもです。だから、わたしが脅かされることはないです。

だけど、セックスワーカーの人たちはそうはいかないでしょう。

わたしはパニック障害を持っているので、パニックのつらさはわかるつもりです。性暴力サバイバーでもあるので、タイの女性が陥った恐怖もある程度想像できるかもしれません。

被害者にならないと、つらさがわからない人がいる、という事実を知ったのはつらいことです。
わたしは世の中を少し信じているので。

人権と言ったからと言って、タイの現状が変わるのかとも言われました。意味がないと。でも、意味がないなら、わたしが人権と言って、発言する意味がないのだったら、わたしが言うのも自由なんじゃないでしょうか。無意味なら、誰も傷つける心配がないので。

わたしが人権に対して、言葉を連ねるとき、そこには意味なんかないのかもしれません。
セックスワーカーの現状を変えることができるとも思っていません。

でも、わたしにとって、意味はあるのです。
誰かに届くことはあるのです。
わたし自身にもわたしの言葉は届き、自分自身の戸惑いを整理する効果があるのです。
だから、わたしの文章を読んで、混乱が治まる人がいる可能性だってないわけじゃないのです。

そして、人権とは不断の努力によって、勝ち取るものです。
だから、人権がある、わたしは人権を信じている、と言うことには、意味があるのです。

椎名さんのメールを読んだ人がいます。それで、考えを変えた人も大勢いるでしょう。彼女を傷つける言葉を吐いた人もいます。

それは世の中を、世界を変えたことにならないでしょうか。
誰かの気持ちを変える、というのはよくも悪くも、世の中を変えることと等しいのです。

セックスは、人権が守られた状態でしなくてはなりません。
これは絶対のことです。

セックス(性別のことじゃなく、行為として行うことが誰にでも与えられた権利だと思っている人もいます)が人権の一部だと勘違いしている人は、論外として、セックスをしている、当事者同士というのは、そこにお金が介在したとしても、人権をお互い守る、という意識の上でなされないといけないでしょう。

そうしないと、世界の理が壊れ、お互いの生存が脅かされる事態となる、とわたしは思っています。

イリーガルな世界では、法律が守られないでしょう。そこで、人権侵害が起きたら、イリーガルに処理される(法律に守ってもらえない=国民の総意である法律によって裁かれない)ことにもなりかねません。お互いの約束事、というのは、自分の身を守るものとして、必要なことです。

約束を破ったら、相手も約束を守ってくれる保障がなくなるのです。

セックスワーカーはすでに、世の中に存在しています。

だから、その人たちが、「人権を放棄している」「実質的に捨てている」などと言われてしまう現状は憂虜すべきものです。

人権を捨てる?放棄する?そうじゃないでしょう。放棄させ捨てさせる「主体」がそこでは語られていません。セックスワーカーたちに、人権を放棄させ、捨てさせているのは誰ですか?サービスを買っている人たちでしょう。だから、結果的に、捨てているように見えるんでしょう。

もし、誰かが、人権を放棄しているように見えたら、ひとは、その弱みに付け込んで、搾取するんでしょうか。自分で放棄しているんだから侵害しても悪くないんだと居直るんでしょうか。

そうじゃないでしょう。
そんなことをするのは、良くないことです。ならぬことはならぬのです。
人権は、フィクションです。だからこそ、守らなければならないのです。

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わたしは家事がすげー下手だってことと、介護の話


その家事が、誰にとってのメリットがあるのかを考えること。 – スズコ、考える。

このエントリを書いた方は、家事に関して(たぶん)わたしより優秀なんじゃないかなーと思います。

見たわけじゃないからわからないし、家族がいる分苦労しているだろうし…でも思ったことを書きます。

わたしは家事ができないです。苦手です。ヘルパーさんにきてもらっています。

わたしの問題点を書きます。

部屋が散らかっていることに鈍いです。まずこれ。

メリット、デメリットということを理解できません。
自分に取ってのメリット、って何かがわからないのです。
得とかね。わかるときとわからないときがある。
正しいとか正しくないとかは理解しやすいんだけど。

理解できたからと言って、できるとは限らないのも困っていることのひとつですが。

そして、部屋の散らかり、台所の混乱(混乱と表現したところに情緒を感じてほしい)、閾値が越えるまで何もしません。何をすれば良いのか、何をしたら部屋が片付くのかもわかりません。(最近脱いだコートをハンガーにかけることを覚えました。そのレベル)

でも、散らかっているのはいやです。だんだん気分が悪くなります。意識しない中で、何かが圧迫されます。

最終段階では、途方もなく散らかっているので、何をどうすれば良いのかわからないし、ものに居場所が決まっていないので、どうすれば片付くのかわからないのです。

(今は場所を移すことを片付けとしています)

お皿を洗うのも苦手だし、洗濯物も畳むと手が痛い感じがするからしたくない、できないし、分別も苦手です。頭が混乱してパニックになります。
この時点で、病気が悪化します。

だから、片付けていない部屋は人体に悪影響があるなあという実験を期せずしています。

わたしは常識もないので、お客さんが来るときには片付ける、という意識が乏しいです。知っていることは知っているのですが、あまり実行できない…。でも、恥ずかしいという感情はあるので、のちのち恥ずかしく、惨めな気持ちになり、消え入りたくなって、精神状態が悪化して頓服を飲みます。

服も脱いだままにしています…。今はお風呂場に脱いでいます。そしてそのままにしています。とりあえず。
一度着た服をタンスに入れて良いのかわからないからです。

わたしには散らかし終わるまで、片付けるメリットがわからない、ということもあるし、精神的体力もないから、綺麗な部屋を維持する、ってことがかなり難関なのです。片付け方もわからない、料理の仕方もわからない、お皿の収納の仕方もわからない、わからないづくしです。

だから、もしも同居する人ができた場合、「散らかしたなー片付けたいけど片付けられないなー、あ、同居人が片付けてくれた、ラッキー」と思ってしまうか、悪ければ「あの人は片付けるのが好きなんだな…。わたしも快適になるしいいことづくめ」とか思ってしまう可能性があるのです。

行き着く先には、同居人のカサンドラ症候群!!!!

わたしは空気を読むことが苦手ですし、社会的発達というものが欠けているので、その辺を自主性にまかされると、できないままです。できないし、迷惑をかけている自覚もないし、自分が困っているのに、なにもできないで、そのまま病気を悪化させてしまう…ということを繰り返してきました。

だから、できる人が「自分のメリットに沿ってやってもらうことにし、自分もそうしよう」と自己完結されると、たいへんに困る、困るわけです。

想像力がないから、どのくらい迷惑をかけているのかもわからない。作業量の見積もりもできない、かといって、自分がやります、と言い出せるだけの気遣いもできない、ないないづくしーの、人として最低の自分が露出するだけなのです。まあじゃあ、やれよ、って話なんだけど、できないんだもん…。

ここまで、読んできたひとは「家事ができないってどういうことなんだよ。できようとできまいとやるんだよ」と思うか、できないってどういうことかわからないと思います。

わたしも自分が塾講師をするまで、できる人とわからない人の差がわかっていませんでした。

勉強に関してのことだと、わたしは勉強ができます。だから、できない人の気持ちはそうぞうでしかわからないです。そういうことなんだと思います。

塾講師をするまで、できない人っていうのを想像はしていたんですけど、やっぱりどこか何かの冗談というか、やらないだけ、とか思っていたんですよね。

でも、そうじゃないのですよ。
怠けてなくても、そうじゃなくても、できないときはできない。
心の問題だったり、頭の成長の度合いだったり、いろんな状況があって、はじめてできるようになるし、訓練の方法も知らない人には教えないといけない。

わたしは教えられなくても教科書を読んで、自分なりに法則を解釈して、覚える点を最小限にまで整理し、なおかつ問題のパターンを理解するまで解きこなして、パターンごと覚え、ということができましたけれど、できない人の気持ちを実際にインタビューするまでわからなかったです。自分で考えればできる、って思っていたことを教えると感謝されるしお金になるんだ、ということを自分の得意な分野ではじめて知りました。

できない間は、できないんですよ。それをできるはず、と責めても、何も良いことがないと仕事で学びました。

なので、わたしが家事ができないのは、できないんであって、なんでできないのか、とか、本当にできないのか、とかそういうことを詮索することは大事じゃないと思います。

何が大事なのかと言うと、勉強が苦手な人でも、ポイントを教えれば、わかるようになって成績が上がります。もともとできる人もいるし、教えられることでできる人もいるし、強制的に、宿題を出されることでやる気になる人もいるし、自主性にまかされた方が実力が出せるタイプもいて、さまざまだ、ということなのです。

わたしは、だから、家事をある程度分担して、メリット、デメリットがなくても、生活の場を共有するときのルールとして、分担する、っていうのは大事だと思うんです。じゃないとできるようにならないから。塾のことを応用して考えると。

わたしは今ヘルパーさんに家事を習っています。布団をかぶって逃避しているときもあるけれど、作業の様子を見学して、自分なりにやったり、皿洗いにチャレンジしたり、少しずつ成長しています。ゆっくりだけど。(発達障害でも成長はするのだ!定型発達と違いはあるけど)

そして、社会的な側面を考えるのも大事だと思うんですよね。わたしの時代は男女関係なく勉強を優先させ、お手伝いをさせないブームがきていたと思います。家事に対する当事者意識がなかったのと、社会的発達が遅く文字通りにしか話を理解しない性質が災いし、「お風呂見て来て」「見た」(そしてあふれる風呂)「お風呂栓をして来て」「はい」(栓だけしかしない)「鍵見て来て」(見てくるだけ)などを繰り返したという過去があります。

教えてもらえないからってできないのは甘え、必要に迫られればできるようになる、っていうのは、できる人の話ですわ…。

という話を生徒さんから何度も聞き、最初は信じられなかったものの、信じざるを得ない現実を知りました。
教えてもらわなくてもできる人ばかりだったら塾いらないし、必要に迫られても勉強できない人はたくさんいる…。

そして、分野さえ違えば、「わたしもできないことがあるのは甘えじゃないんだよなー」と思うようになったわたし。あまり自分を責めなくなったですよ。

わたしは動作性が悪いので、家事などの動作を伴う動きが苦手です。
何をどうしたら良いのか、何処に置いたら良いのか、脳みそが動かない感じなのです。

家事に関してはできるようになる、というのはおかしい。

できないものはできない、と言いたい。

そして、常識とか空気読むとか社会的に見せていい部屋とかそういう価値観が最初から育つような人には、教育がいらないかもしれないが、わたしのような人にはいる!!!!身だしなみすらわたしはダメだから!

そして、社会構造的に、家事しなくていい立場、とされてきて、当事者意識の薄いまま育って来た人って、実際存在していると思うので、そこについても議論するのはいいんじゃないですかね…、って思いました。それも必要なことじゃないだろうか。それないことにしたら、結局、孤立しちゃうんじゃないんですかね、と思います。

わたしはすげー家事ができないし、ヘルパーさんにきてもらっています。
ヘルパーさんは全員女性で、みんな家事については、自分ちの技術を使ってくれています。
主婦業のプロの技です。
それに関しては研修がなかったと言っていました。
個人によって違います。

そういうのを見ると、社会的要因は関係ない、とか言えないんじゃないかなあと思います。
社会的要因があったから、わたしのヘルパーさんが全員家事のうまい主婦経験のある女性、ってことになるんじゃないだろうか。介護、って分野の職業が出たから、主婦業にお金が発生するようになったからよかったものの、そうじゃないと、日の目を見なかった技術がたくさんあると思います。

彼女らの知識、技術の蓄積は素晴らしいものがあります。
でも介護は安くて過酷だそうです。

これも、安く家事能力が買いたたかれている一面で、社会構造なんじゃないでしょうか。

もっと給料を上げたらいいのにと思います。

じゃないと、介護業界が衰退して人がいなくなったら、結局利用者が困ります。

今、介護関係、福祉関係は利用できることがどんどん減っているらしいのです。

これも、介護にお世話になる可能性のある人、つまりみんなが考えなくてはいけないことだから、介護ひとつをとっても、家事能力の有無、は貧困と直結する話だから、メリットがある人だけがやればいい、ってことにならないと思います。家事能力が乏しいと、体力も落ち、精神的にも参っていき、貧困の原因になることもあるでしょう。また、極端に、家事能力がないと、家事介助の人のすごさがわからなくて、どのくらいお金を払えば良いのか、真価が理解できないと思ういます。

そして、当事者意識を持って、家事全体を管理している人が、それだけの大仕事をした上に、家事をやってあげて、ちょっと手伝ってくれた人に感謝の気持ちを抱く、っていうのは、ちょっとバランスを欠いているのではないか…と思いました。

それは関係として歪んでいるんじゃないだろうか、と思います。
(よその家庭にものを言うことになって申し訳ないです)

つまり、「勉強できないんだ、わたしにはできるよー。メリットが理解できたら、すればいいんじゃない?できなくても、代わりにわたしがやっておいてあげるし、ものごとも代わりに考えてあげるよ」というのとはちょっとずれたたとえか…。でもうまいたとえが思いつきませんでした。

終わり。

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さみしいときにはひとりになる

今、調子が悪いです。

疑心暗鬼です。誰もがわたしを嫌っていて、低い評価を下していて、バカにしているような気がします。
わたしなんかと、関わりたくないと思っている、そんな気がします。

でも、これは気分です。薬を飲んだり、眠ったりしたら変わるものです。

だから、焦って、誰かに連絡をとって、嘆きにあふれた声を聞かせてはならない。

孤独は、手を伸ばすきっかけになるものだから、大切に、適切に育てないといけません。

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今年のわたし総括

今年の出来事

一月 冬期講習の先生をやらしてもらえた。大きなクレームがあってドキドキした。
二月 教え子さんが全員合格した。
三月 トルコに行った。
四月 おばあちゃんに会った。
五月 仕事が暇だった。仕事を干された。
六月 コンビニのアルバイトを始めた。
   観音様にお祈りしたその日に申し込みした街コンで今の彼氏と会った。
   そのときに祈った「清潔感があって、わたしより十センチ背が高く、イケメンじゃなくても良いから普通くらいの顔で、細マッチョでおしゃれは派手すぎずじみすぎない綺麗系で、手に職があって、お金持ちじゃなくていいから、お金の使い方綺麗で、その上家事が好きじゃなくても良いから苦にならないか、わたしのだらしなさを許してくれる人が良いです。もちろん、わたしの過去も受け入れてくれるのが前提です。話は合わなくていいし、趣味も合わなくていいので、優しい人、とにかく優しい人をお願いします」と願いました。そしたら、その通りの男が出て来たので、観音様はそのとき彼を作り出したんじゃないかと思います。

七月 夏休みの講習でぶいぶい言わせます。けっこう良い感じに忙しく。
八月 本格的に太ります。
九月 太り方が止まらない。お買い物が止まらない。さみしかったり夜中に目が覚めると買ってしまう。
十月 なんだか知らないが死ぬほど忙しい。
十一月 休みが全くなくきつい。お金の使い方と食べ方がコントロールできず、つらい。
十二月 ますますデブになり、そして、付き合っている人がわたしをよりよくしようと忠告してくるのでつらい状況になります。お金の使い方とか食べ物とかわかってるんじゃー。できないんじゃー。
    仕事は順調です。クレームもないこともないけど営業もうまくいっているし。休みが取れたら良いなあ。あと訃報が届いて落ち込みました。

以上こんな感じです。仕事も三年目に入り、順調に行き始めて幸せじゃないだろうか。

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気分障害の怖いところ

気分で考えが変わってしまう。

気分で動けなくなってしまう。

単に、泣いたり、悲しくなったりなんてかわいいものじゃなくて、動けなくなったり、食べ過ぎてしまったり、お金を使いすぎて紛らわせようとしてしまったり、気分を変えるために環境を変えようとして、大きな結論を出して人生をたいへんなことにしてしまったりする。

気分は薬でだいぶ変わる。安定して、幅が狭くなると、考えることが少なくなり、いちいち、これは良いのか悪いのか正しいのか間違っているのか精査しなくても、間違ってもいいや、とどーんと、動けるようになった。間違っていても、ちゃんとリカバリーできると信じられる気分になった。

今までは信じられない気分だった。未来なんてわからないし、の結論がだからダメなんだ、と、わからないけど、自分の力でなんとでもなる、と二種類ある。

今は、生徒さんに決断は正しいとわかっているなら決断と呼ばない、正しいか正しくないかわからない状態でするのが決断だから、間違っていることもあるだろうけど、一生懸命考えた結果選んだ中で、最善を尽くすのが一番の正解だし、「もし」はないから、そっちの道を選んだとしても、何かしら問題があって、やっぱりあっちにしたらよかったと、思わないわけじゃないだろうと思うよ、とアドバイスできるまでになった。

気分は自分でコントロールできないから、良く寝て良く運動して良く食べる健康的な生活を送って、それでも、加齢による様々な不調からの影響も受け続ける。仕事はストレスであり、喜びである。
外界と接して、何が、中庸なのか、いつもわかっていることが、気分障害と付き合うポイントだと思う。

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考えと気分

前から思っていたことなのだけれど、わたしは考えるとき、考える振りをしているだけだ。

考えても結論は最初から決まっている。それを納得させるために、手順を踏んで、それまでの道をわかるように指し示すのだ。

結論はいつでも、うっすらと出ていて、その方向に結論が導きだせるように考えている。
その結論は、気分が決めている。
人を信頼できるか、という命題があったときに、信じられない、と結論を出すことも、信じられるという結論を出すことも可能だ。どちらも不合理ではない。
それは気分が決めている。

論理的に、人を信じられない、という結論を説得力があるように述べることもわたしにはできる。
そういう気分だったり、周りをそういう気分にしたいとき、そうするだろう。

現実はいつでも観測者の視点によって揺らぐ。
何を見たいのかその側面を、どのように見てどのように評価するのかが、結論よりも大事な点だ。
(だから、小論文を書くときには結論をとにかくにも決めてから書くと早く書ける。そうなるように道筋を決めれば良いから)

論理的思考も大事だけれど、気分を整えることも同じように大事で、そうでなければ、間違った結論が出ても気がつかない。

論理的思考とは訓練が必要だ。何がどうなってだからこうなると、人にもわかるように説明しなくてはいけない。
それは、親切でしていることだ。
他人や自分自身に説明するために、考えているのだ。

新しい発想をしたときに、自分でも驚くけれど、本当は自分の内部に、露がたまって落ちるように、それまでゆっくりと準備していたことが、発露したということ。

人は、言葉よりも早く考えられる。
言葉は、未来の自分や、周囲に説明するためのもの。忘れてしまうときのために用意した道しるべ。

そして、さらに、リニアに考えるだけでなく人間は飛躍してものを考えることができる。
それは、よくも悪くも感情に左右される思考だ。

そのとき、真新しい断面を見ることができる。

発想の転換や飛躍には個性が出る。そこに知性が現れる。
考える練習の成果は、論理的思考ではなくて、飛躍のときに現れる。豊かな考えをする人には、豊かな飛躍が現れるし、貧しい思考の持ち主には貧しい差分が現れるだろう。

結論を変えるためには、気分を変えることが大切だ。気分を変えるためには環境を変えること、体調を整えることが大切だ。
それには知性が必要だ。

豊かな知性とは、小さな差異から喜びを見つけ出す手法のことである。

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現実

体調が悪い。
寒気がする。

人は死ぬ。
そこが事実で、それまでどう過ごすのか、わたしにとってはそれが大切だ。

お金が欲しかったからたくさん働いたら、疲れてしまって、具合が悪い。幸せな感じがしない。
幸せな感じ、がしないと、生きていることが苦痛になる。

ちょっと気晴らしをするつもりで、味の濃いものをたべてしまって、自己嫌悪になる。自分を悪く思っても仕方がないのに。

どんな死に方をするかって、どんな生き方をしているか、ってことなんだろう。だから、死に方にこだわる人が多いんだろう。

幸せだとわざわざ言う人は幸せじゃないと、言う人がいたけれど、今までが幸せじゃなく、これから、今、幸せを獲得した、と言う人は、自分にそれが、本当の現実なのか、確かめたくて、言い聞かせることで、幸せが現実のものとして、感じられるんだと思う。だから、そんな無慈悲なことを言わないでほしい。

二年前に比べて、太ったり金遣いが荒いままだったりするものの、お金は稼げるようになった。
仕事も、より良い品質のものができるようになった。高いレベルになると、前よりも相手の状況が見えるようになって、より、高いレベルの商品を渡せるようになる。

今は頑張っているから、太ったり、金遣いが荒かったりするところを、コントロールする余裕がない。一生懸命生きているから、勘弁してほしい。許してほしい。

許してほしい、と思ったけれど、誰になんだろう、と今思った。
これは現実のことじゃない。

現実では、仕事がうまくいって稼げるようになって、気分の上下もコントロールできているから、去年よりいい状態だ。人生は修行だ。修行すればするほど、快適になる。わがままになれる。自分を出すことで、生きているという感覚を実感できる。

怖かったり恐ろしかったり不安だったり、して、押し殺していた自分の生きる、という生々しい力が、攻撃的になる、というわけじゃなくて、燃え上がる感じがある。ほんのりと。少しだけでも。

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卑屈をやめる

友人が、天才の定義を教えてくれた。

「天才とは、並外れた闘志がある人のことを言う。闘志とは、欲から成り立っていて、インテリジェンス、創造性への欲があるということ」というようなことを言っていて、なるほどな、と思った。

同じ人間でも、卑屈なときは、いろいろなことが考えられない。目に入っても、うまく処理できない。わからないものだと思ってしまう。そして、適切な努力を適切に組み立てられない。

目標があってこうすればこうなると思っていると、そうなる。

そう信じていないと、その出来事は起こらない。悪いことは起きる。良い出来事、というのは、動いている中で起きる。

わたしは、実は弱くなくて、現実的で、シビアだ。

自分に害をなす人だと判断したら、さっさと縁を切る。
それは、わたしに卑屈であれと強いる人だったり、愛がなかったりする人だ。

そう言う人と関わると、ストレスになるし、良い思念が来ないから、離れてしまう。

わたしは弱くない。

(買い物欲と食欲には弱い)

精神病グループに入っているけど、精神病の人は、強いと思う。

世間一般の感想と違って、精神病の人には、病気に向き合う強さがある。

ずけずけ人の領域に入ってこない慎ましさ、賢さがある。人付き合いが苦手だと思っている人が多いけれど、わたしには、慎重で、好ましく思える。

健常者と呼ばれている人たちの中には、自分の弱さに向き合う強さがなくて、自分が完璧な存在だと思い込みたくて、弱そうな人たちを攻撃して、自分はそれよりもましだ、と思い込みたがる部分がある。
それは、とても卑屈な態度だ。自分には現実を見る力がないと告白しているようなものだ。
病気になることができないのだ。その力がない。
病気になるということは、死の一歩手前であがけるということだ。
粘り強いということだ。

現実には、発達障害の特性が強くても、あまり困っていない人もいるし、発達障害の特性が強くて困っていても、現実的な手だてを考えられる人もいる。

脳の物質の分泌があまりうまくいかなくて、考え方が、病気に支配されてしまっている中で、もがいて、暗闇から光へ手探りで歩いている人もいる。

それは、強さ以外の何者でもない。現実と、うまく折り合いを付けるために、自分自身と戦う必要を理解して、観察を怠らず、周りを見ながら生きている人が多い。

わたしは空気が読めないから、観察をした。観察は現実的なことで、定型だろうと、発達障害だろうと関係なくできることだから。
この顔をしたらこういう意味を持っていると、文章を読むように、さまざまなパターンを理解して、画像で記憶して、適切な対応を取ることは可能だった。

最初はぎこちなかった。だから、そのことがトラウマになって、わたしは今治療中だけれど、今は、そこに余分のリソースを割き続けているから、疲れやすいという欠点はあるものの、ほとんど、困難はなく過ごせている。

たまに、このシチュエーションではどの台詞が適切かわからないものの。

そういうときには、自分の感性を優先するようにしている。だめだったら、相性が悪いのだ。

病気の人は休んでいると勘違いされるけれど、自分の体と戦っている。休んでいない。

健康な人は、そのときの生活を頑張っている人も、もちろんたくさんいて、ほとんどだと思うけれど、病気の人を下に見て、バカにして、怠けているだとか、言っている人もいる。そういう人は、自分自身の問題から逃げているように思う。本来、人は、自分のことで精一杯で、自分の得意なことで勝ちにいくことが気持ちがいいから、能力を磨きたいと思っているはずだ。
そうしたほうが、快適に生き延びられる可能性が強く、人間は動物だから、自然にそうなる。
その感情にふたをしていると、なんで生きているのかわからなくなってしまう。

それをしないで他人を低く見ることに自分の時間を使ってしまう、今の自分を肯定することに必死になって、精一杯になって、余力がない状態、そうでいないと自分が保てない、ということが起きてしまうのは、自分をあきらめているからだ。

それは、自分の能力に自信がなくて、自分の問題に向き合う能力がないと、最初からあきらめている態度だ。卑屈なのだ。

卑屈だと、攻撃的になる。その攻撃性を自分に向ける体力がないからだ。
他人を攻撃することで、不安を紛らわせているのだ。
不安に向き合う力がないのだ。

だから、自分より弱いと判定し、攻撃しても良いと思っている人を攻撃する人の弱点は、まさにそのことだ。

わたしは自分より頭が悪い人を攻撃しない。
それは、わたしの頭が良いと、自分で信じているから、頭が悪い人を見ても、不安にならないのだ。
逆に、礼儀作法がなっていない人を見ると不安になる。それは、自分が対人用に培った鎧が不完全だと知っているからだ。
だから、攻撃的な人を見ると、非難したくなる。

そういう仕組みがある。
わたしもそういう仕組みの中にいる。

動物の社会にいる。

だけど、わたしはこの仕組みを理解したから、利用できる。

わたしは、今まで自分がそんなにダメだと思ってないときに、自分がダメだと書いて来たこともあった。
でも、わたしはどちらかというと強い人間で、逆境にあっても、生き延びて来たし、わりと這い上がれたし、それは、何はなくとも、頭が良い、という武器があるからだ。
頭の回転も速いし観察眼もある。

発達障害というハンデはあるけれど、ほんとにハンデだろうか?

それほどたいしたことじゃない。
助力を求めれば簡単にクリアできることだから、解決している。
実は最近それほど悩んでいない自分に気づいた。

だから、頭が良いことを武器にして、生きていこうと思う。
欲があるのは良いことだ。
バカなふりはやめる。
頭の良さを適切に使う。
自分のために都合良く使う。他人のためにも使う。
わたしは恵まれた才能があるから、ちゃんと使わないともったいない。
わたしには闘志がある。
自分と戦い、周りと戦い、知恵を求める勇気がある。
卑屈になるのをやめる。

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