柔らかくぐにゃぐにゃした「女性差別」

読者に「もうあなたはへこへこしないでくれ」「自信をもって女性差別を教えてやるという態度でいてくれ」「なぜなら、相手はあなたに敬意を持っていない。そして、あなたが書くものを読む若い人が堂々とした態度を学ぶから」

と言ったので、ああ、そうか、じゃあ、わたしはそうしようと思った。

長い間、二十年近く、女性差別について書いているのに、なぜ、わたしは今だに教えを乞う態度でいるのだろうかと考えたら、それは、わたしが「女性」は「教えを乞う態度でいるべき」というコードを内面化していたからだった。

改めて考えてみると、わたしは、子供たちを教えているのだから、もう、わたしは学ぶよりも教える立場として書くべきなのだ。

指摘の通り、わたしが女性差別を訴えるとき、ほかの差別を訴える人が、便乗してきて、わたしの勢いをそぐことがよくある。

ある女性とある男性がもめたとき、女性にだけ「注意」される、というのはよく見た光景ではないか。

ある男性が女性差別をし、女性が取り乱しながら指摘をすると、その取り乱した内容に第三者からの「注意」がされ、女性は謝り、改めますと言い、その間に男性はいなくなる。そんなことがずっと繰り返されてきた。

女性と男性がいたとき、同じ分量の指摘がいかないこと、それは二回目の女性差別が行われている。そもそも、差別をしたのは男性なのに「あなたの訴えはわかるけれど、でも、あなたはさらにほかの属性を踏んでいる」と言いながら、男性に対しては何も言わないのは、男性を「許している」し、女性差別に加担している。

複合差別を訴える人が、まさに、「複合的な問題に悩む女性」からの指摘に対して「でも、複合的差別もあるのだから、男性特権が特別なものではない」と言い返したのは印象的だった。今、まさに、あなたに男性が女性差別をしていることを話しているのに、どうして、「男性特権が特別なものではない」と言えるのか。男性特権は特権のひとつで特別なものじゃない、と言えるのなら、それは、男性特権だ。いくら、柔らかい言葉で穏やかに話したとしても、「複合的問題」を抱えた相手に「複合的差別」を利用して、女性差別を無化したことは消えない。ある女性が、複合的差別を抱えたまさにその人物であっても、男性なら「複合的差別」について、レクチャーできると思っている。その男性が複合的差別を受けていなくても。

 

シンプルに「今女性差別をしている」と言っても、「あなたは複合的差別を知っているか」と話をそらされてしまう。

いや、今わたしは複合的差別を抱えているとあなたに言ったし、そして、あなたが、「今差別をした」という話をしたのに。それに、あなたは「複合的差別を理解しない人がいるのはなんででしょうね」と言ったじゃないか。今あなたがこちらの複合的差別を理解していないでしょう。こちらの事情も属性も話したから、知っているのに。

といっても、相手は理解しないで「こんなにも丁寧な態度をとったのに」とほかの人に呼び掛ける。「今俺はこんなにも責められている」と。

 

それがまかり通ってしまうことが、女性差別である。

女性差別を訴えた相手に、それをなかったことにされること。周囲にも、それよりも大事な差別について考えろと言われること。

 

わたしは、これから、指摘について謝らない。それでは不満だとしたら、今は取り乱しているので一か月後にお願いしますそして相手にも同じ分量の指摘をしてくれ、と言ってみようではないか。それは小さな一歩だけれど。

 

障碍者差別を訴えるときに「一部の差別的な健常者が行う障碍者差別」と言わない。でも、女性差別を訴えるときに「一部の男性が行う女性差別」「すべての男性という意味じゃなく、男性の枠組みが」という言い方をどれだけ繰り返してきただろう。

わたしは、それに飽き飽きしていたのに、攻撃されることが嫌で、ずっとそれを言わなかった。

男性の「被差別者」がその枕詞を使わずに済んでいるのならば、それは男性特権なのだ。

男性は容姿をたたかれない、経歴をたたかれない、だから、実名と顔を出して経歴を宣伝しながら、差別を訴えることができる。そして、なんだったら、「差別」について書いて、仕事を得たり、賞賛を得たりすることもできる。それは男性特権だ。

女性差別は、社会的な文化、社会的に必要なものなので、それをやめろというとき、社会構造が崩れることを恐れられるので、決して褒められることはないし、それどころか、目障りなので、どうにかして、口をふさごうとされる。目障りじゃなければ、差別を訴える意味もないということだ。

わたしは、理系理系、というが、それは理系が素晴らしいという意味ではなくて、理工学部の女性の大学の進学率が、数パーセントだから言っている。医学部、法学部の進学率も低い。そもそも、大学への進学率は女性のほうが低い。半分半分になったら、わたしはもう何も言わない。

女性の多い高校では、理数系のコースがない場合がある。進学校にしか、物理化学の授業がないが、進学校に入れる女性が少ないので、理系の科目を受けることができる女性が少ない。そして、その中で、「物理」「数学ⅡB以上」を受ける女性がどれだけいろいろなことを言われるか、そして、気持ちをそがれるか。物理を履修できる女性は、推測すると、人口の数パーセントだろう。それは、実際、理工学部の女性たちが数パーセントだということとも合致する。受験できる科目数が多ければ多いほど受験は有利だから、物理を勉強した人は、センター試験で物理を取る。物理は一番範囲が狭く、簡単な科目だから。簡単なのは、受ける人が少ないから。受ける人数が少ないのは、そこから女性が排除されているから。

理工学部のキャンパスが真っ黒な男たちで埋め尽くされ、その学生たちがこの世には女性などいないという錯覚のもとでその価値観を育てていく。

理系の学部に進むことがゴールではない、なにしろ、理系の「職業」は「男性」に占められているから、その職業に就けることはないかもしれない。そのときに、どれだけ悔しいか、わたし自身も経験したことだから、わかる。

でも、それは単なるチケットなのだ。別に日本で生かす必要はない。わたしは、ずいぶんと日本をあきらめているので、グローバリズムが、「世界的出稼ぎ」の言い換えだとしても、女性が亡命することに反対するものではない。

 

女性たちは、柔らかく、可能性から、排除される。「自発的にあきらめる」という過程を経たうえで。その「過程」では「まあ、計算が遅いのは女の子だから仕方がないよね」「女の子は機械が苦手だよね」「勉強よりも大事なことがあるよね」「こんなこともできないのか、女だからな」と言われて、ああそうか、とあきらめる。たとえ、苦手だとしても、適切な支援を受ければ乗り越えられることなのに、その機会を「女の子だから」与えられないで、自分はバカだと思い込んで、あきらめる女の子がいかに多いことか。

 

どんなに優秀な女性の学生がいても、その子自体があきらめていたり、学校にカリキュラムがなかったりするせいで、チャレンジを呼びかけることすらできない。

頑張ればできる、あなたならできる、と言いたくても、その学校に、そもそもカリキュラムがなくて、可能性が最初から立たれているときの何ともいえない喪失感。むなしい。

そうやって日本は回ってきたのだ、と言われれば、はい、そうですか、と言えても、「だから、これからもそうするのだ」と言われたら、それは「変えることのできる文化だ」という。

誰もかれもが少子化少子化といい、少子化をなんとかするには「女性から賃金を奪えばいい」と政府自体が思っている。そして、それは、当然「普通の人」も思っている。それを感じる。そうした社会で育った女たちは、どうやって生きようとするのか。その一方で、「勤労人口」も増やしたいから、女性には賃金の安い、なんなら無償の仕事についてもらおうと、企んでいる。

少子化は悪いことで、それは女が産まないからで、だから、女が少子化の責任を負えばいいとみんなが思っているから、常に女を罰してその責任を取らせようとしている。その空気に抗うために、わたしはもう謝らない。

障碍者差別を訴えるときに、民族差別や学歴差別や、貧富の差、障害の種類や重度さで、どうのこうのといわれることも今までなかったし、ほかの差別を訴える人たちが、「今、あなたは障碍者差別を訴えるために、Y差別に苦しんでいる人を踏んでいる」と言われたことはない。

女性差別なら言われる。

その差をわたしに納得させることができ、わたしに対する敬意を払ったうえで、わたしが訴える差別に対して同じくらい指摘し、また、わたしが落ち着いて対処できる期間を待ってくれる相手になら、その指摘を受け入れて、改めることはするだろう。でも、基本的にはわたしが今まで払ってきた敬意を踏みにじられるばかりだったので、それを忘れないようにする。

柔らかくがんじがらめにされ窒息させられるような女性差別について、男性たちは、わたしに教えてほしいというべきなのだ。教えてやると言わんばかりに、手にほかの差別をもって押し掛けるのではなくて。


マサキチトセ氏の差別的放送後の抗議の記録《エロくない性の話》批判

やりとりの、わたしが送った部分を公開します。

批判は批判が存在すること自体で、意味があると思うので、謝罪を目的としません。

しかし、マサキチトセ氏がどんな言葉を何回使っているか、検索して数えたところ、

申し訳 1
ご理解 2
すみません 0
ごめんなさい 0(出先でごめんなさい1)
謝罪 0

ということになりました。申し訳ないというのは、「コニーさんに絶望感を与えたのですね。申し訳ないです」という文脈で使われました。

ご理解くださいという言葉に問題があるのは、自分が害を加えた属性の相手にさらに負担を強いるからです。

今回の件の問題は、「反差別・セクシャルマイノリティについて書く・講演会をするライター」が主催したツイキャス番組でゲストが「女性差別にあたる言動」をとり、主催者がそれを放置した点にあります。

彼には、「ゲイがアウティングされたら自殺するかもしれないこと」を心配する能力があります。しかし、女性差別的言動が、「反差別的な立ち位置の番組」で行われた結果、「女性が自殺するかもしれない」という可能性を想像することはできませんでした。これは、能力的なものではなく、彼自身の「価値観」に依存するものです。はっきりいえば、女性の権利や健康に関心がなく、自分のコミュニティにのみ、関心があるからそういう態度になるはずです。

(きっとそうではないというでしょう。しかし、実際、わたしは健康を害しましたし、自殺を考えました。そういう疾患を持っているからです。そして、それを伝えました。けれど、彼は「指摘に感謝」という言葉遣いを選びました。)

「指摘に感謝」するとブログやツイキャスのページ、ツイッターに書かれていました。

まず、この発言自体に問題があります。

  • わたしの苦痛は感謝されるようなものなのか。
  • わたし(たち)の苦痛は、シス男性を賢くしてアップデートするための踏み台ではない。

ことが問題としてあげられます。

(自分の番組をよくするための材料としか考えておらず、こちら側の感覚的な理解がない。どれだけわたしが言葉を費やしたか下記で見てください。最初の日のDMを受けて、なお、彼は「感謝」という言葉を使っています。そして、ご理解くださいという一方、「絶望を感を感じさせてしまったのですね……。申し訳ないです」のみの謝罪は一回にとどまる。負担をさらに与えてもかまわないと思っている、そもそもそのことに気が付きもしない。ようは自分のことしか考えていない)

また、最後の貼ったリプライの応酬は、かなり良いように見えます。

(反省する、努力する、反映する、謝罪する、大変申し訳ない気持ちと書いてある)

しかし、今、自分の番組で起きている女性差別への批判の話なのに、なぜかマサキチトセ氏は、「トランス女性」「民族差別」「経済格差」の話が混入をさせている。その話はしていない。話をそらされている。

同じ差別だからではなく、今現在進行形で起きている差別を、わたしが、差別の実行者である彼に対して、「女性差別の話に関して抗議している」のに「経済格差や民族差別と同じように」と言われてしまう。おかしいと思います。

彼はいったいどこへ行った?自らを透明化してしまった。彼は、透明人間だ!

また、DMでは見られなかった言葉が、どうして、リプライでは見られるのかということを考えると、絶対に「そんなことはない」と言われるかもしれないけれど、受け手としては「見えるところと見えないところでは態度が違うのだな」と思います。

使う言葉が、場面によって違う、というのが、差別の表れの一つだからだ。

わたしが、このような扱い(わたしは不当だと思う)を受けるのは、わたしのどの属性に依存するのだろうか。

わたしは、この件では、女性差別について、抗議している。その点で、このような態度の違いを使い分けられると「女性」という属性に対して向けられた差別だと考える。

改めて言うが、今回のことは、「やか氏」の差別的な意識がきっかけだったかもしれないが、「マサキチトセ氏」自身の差別意識が問題だと言える。

「トランス女性だから」という理由によってのみ経験の差異があるのだと考えることは(それがゼロではない、あるいは大いに関係しているとしても)危ないような気がします。

性別はとても大きな要素で、男女差別の影響はほぼすべての人/が受けていますが、他の不正義(経済格差、民族差別、etc.)によって私たちが受けている影響も計り知れません。

だとしても、わたしなら、このことを違う言い方で表現します。

「経験の差異があるとしたらお互い学ぶことで克服できる」というように。

また、やか氏の差別的言動と、それを看過することで女性を抑圧する形の差別を行った主体であるマサキチトセ氏が「トランス女性に経験の差異があるからと考えることは危うい」と、この時に言うのは間違っています。はっきりと。

それは、わたしに対して、また、女性に対して抑圧として働きます。

なぜならば、彼には権威があるからです。

彼は、華々しい経歴と、セクシャルマイノリティについての文章を商業ベースで掲載されています。それは、彼の言動に、「説得力」を与えます。

わたしは、まさにこのような言動によって、抗議をためらいました。そして、抗議の最中にそれを「再び」されたのです。

私自身シス男性として生活しており、ミソジニーやトランスフォビアから全く自由でない立場で言うのは何様という感じですが、願わくば、シス女性とトランス女性が女性同士として(民族や障害、階層などの他の軸と同様に)意見し合えるような状況が望ましいと思います

これは、自分の行った差別と抑圧を、他人事にする一言です。

「何様」ということになるから、発言を控えるという態度が、自らの行った差別に対して許されるのかと言えば、許されません。

願わくば、ということこそ「何様」ということになります。

これは、「シス男性」が頭上から「トランス女性」と「シス女性」の争いを眺めているから出ている言葉です。

そういう構造を自分で作りだしておきながら、「自分はシス男性だからとやかく言えない」というのは、カマトトとしか言いようがありません。

意見し合える環境を、今、まさに、作り上げることができないばかりか「抑圧を実行した」反省の口の根も乾かぬうちに、「願えてしまう」ことは非常になんというか私の語彙では表せないけれど醜い言動です。

トランスフォビアやミソジニーから自由にならないから、だめなんじゃなくて、「差別的な言動を発信した」実行者なんですよ。そして、三時間、それについて一切反省しておらず、他人事のまま、六日までいたる。

差別的な言動を三時間たっぷり流して聞かせた人間が「願わくば」という。

わたしは、それが許せません。

ブログなどの追記を見ましたが、彼が本質的な問題を理解しているとは思えません。

彼が、差別的な言動を公に流した実行者なんです。それを選択したんです。そして、継続し、番組が終わるまで、止めず、今もなお、高みから見物しているような物言いをしています。

以下、資料として、わたしのDMに書いた文章を公開します。

マサキチトセ氏が書いた文章はここには載せていないので問題はないはずです。

まさきさーん こんばんはー ラジオありがとーございました

ちょっと自分でもきもちがまとまらないので、リプライじゃなくてDしますね

わたしのなかに、トランス女性にたいしてフォビアがあるのかについては、きちんと考えなくてはと思うのですが

教育格差についてです

ラジオいつもたのしみにきいています いつも刺激になりますで、教育格差のくだりなんだけど、むねがぐっさりしました

 自分の気持ちをありのままにいうことをゆるしてほしいのだけど

 今もなお、女の子だからあきらめないといけない進学があったり、理系の科目にかんする興味を巧妙に折られる現実や

 ストーカーや変質者にあって、安全に学校生活をおくれず、慰めたりします
私自身、女性だからと理系メーカーを全滅した上、同期に「女性が志望しないから理系メーカーには女性がいない」といわれて、声がでなかったことがあります
塾で、理系は男性教師に教えてほしいと言う親もたくさんいます

 理系科目より古文ばかり振られます

というのをぱっと思い出して

同じ家庭でも男の子は浪人して県外を受けられても

 女の子はダメとか往々にあり、それを慰めながら授業します
 でもそれもましなくらいで、そもそも同じ兄弟でもかける額が違います

 女の子は理系にいくなら看護か薬学部です

塾にいっても、そこでそれ以外を勧められません

ゲストの人に同じ認識をもってもらうのは難しいのは承知ですが

 いまなお、教育格差にまつわる話は、女性には生々しいものです

女性として学生時代をおくらないとみえにくいのでしょうか。

ということをおもいました

構造がちがうんですよね。


読んでくださる方へ

わたしは生きています。昨日はリスパダールを飲んでも死にたいという気持ちや衝動が消えず、心配をおかけしました。

ありがとうございます。気にかけてくださって。

 

Twitterやコメント、メールで、「何の役に立てなくてごめんなさい」と言われることが最近あります。

そんなことない、って言いたくて書きます。

ブログ、読むのにも、それぞれの生活や人生があって、その、一部を使って、読んでくださっていることに、本当に感謝しています。

アクセス数を見ることができますが、それは数字じゃなくてその背後に一人一人がいること、伝わっています。

正直に言って、はてなブログで書いていた時には、有名な人に読んでもらったり、言及されたり、いろいろな人に引用されたりすることが、単純にうれしいと思っていました。

読んでもらうと、アクセス数が増えて、それが自分の力だと思いました。

でも、波が引くように人がいなくなってから、それでも残ってくださった人がいて、わたしは、感動しました。

ほんとに、死のうかと思うこともよくありますが、それでも踏みとどまれているのは、支えてくれている人がいるからです。それは、家族、友人、今この文章を読んでくださる人です。わたしのことを嫌いで読んでいる人も当然いらっしゃるとは思いますが、それでも、時間を割いてくださることに感謝します。

 

もともと、不正義について描いていたことが多いブログでしたが、アクセス数が単に数字じゃないと気づいて、さらに、不正義や疑問を書いていくことにしたのは、みなさんのおかげです。

 

わたしは、たまたま文章が得意で、書くことができます。得意というと語弊があるかな?傲慢かな?とも思うのですが、自分の思っていることを伝える技術を持っているくらいに思ってくださればいいです。

 

一方で、わたしにはソーシャルスキルが欠けていたり、ほかにも、年齢の割に、獲得していない能力がいくつかあります。

コメントや、ツイッターで声をかけてくださる人や、メールをくださる人に、そういう面で助けられています。

いわば、わたしは、みなさんの助けを借りて、文章を書いています。

読む人がいなければ、文章の意味がないです。いや、自分では読むし、記憶の整理にはなるんですけどね。

わたしは、わたしの考えたことを書きます。わたしにはその力があって、だから、その力を正しく使いたいと思います。

鋭い刃物を振り回しているだけじゃなくて、その刃物に、方向性を与えてくれるのは、読んでくださる人です。

アドバイス、励まし、いたわり、共感、そういうものがなければ、今まで続けることができなかったでしょう。

わたし一人で書いていると考えていたのは、傲慢でした。

わたしは、歴史上の人や、本を書いてくれる人や、話してくれる人、交流する人、読んでくれる人、そういう人の力を借りて、文章を書けているのだなと今は思います。

影響力がある人が偉い、すごい、という気持ちが全く消え去ったとは言えませんが、そうじゃなくて、わたしは、わたしの信じることをこれからも続けていきます。

間違っていた時には自己保身はせずに、反省や、謝罪を、できる人間でありたいと願います。

読んでくださっている人で、何もできていない、と心を痛めている方がいたら、そんなことはない、わたしは、あなたのおかげで生きていられるし、書いていられると伝えたくて書きました。

読んでくださってありがとう。

わたしは、卑怯な人間にならない。そして、これからもブログを続けます。


ハンター×ハンターは家族の欠如の物語

物語は、主人公の持つ価値観が示され、それが「邪魔される」という葛藤を解消すて終結を迎えるという構造を持つ。

 

ゴンは父を求め、キルアは支配する家族からの逃走を求めた。

彼らはその役割を終えたので、退場した。

作中でもっとも人望があると描かれているのは、レオリオである。

彼は人望でハンター協会の会長になる。彼は最も安定した人間である。

安定した人格であるレオリオは、家族のことを語らない。

語る必要がないからだ。それは、彼の家庭が健全であることを示している。

レオリオには葛藤がないので、物語にあまり関わらない。物語は葛藤を必要とする。

クロロをはじめとする蜘蛛たちは、一切の血縁を持たない。そして、「わたしたち」と同じ倫理観を持たない。仲間以外を人間として認識しないので、心を痛めずに殺すことができる。

しかし、彼らは。強固な絆で結ばれた仲間がおり、おそらくクロロは孤独でいた時期がない。

呪いにかけられて初めて彼は孤独になる。

一方、クラピカは、一族の中で大切に育てられたようだ。しかし、彼には血縁が一切いなくなる。彼は、彼の一族の遺体の一部を取り戻す、という物語を生きている。

ハンター×ハンターは、古典的な物語構造を丁寧に維持し続けている。

主人公が葛藤し、それを解消する構造を崩さない。葛藤が解消されたら、物語から退場する。

kクロロとクラピカは徹底的に対照的な存在として描かれる。

クロロの能力が人のものを盗む、拡張的な性質を持つものであるのに対して、クラピカは、「蜘蛛を罰する」ことにしか使えない限定的な性質を持つ。自己を罰する。ある能力を使えば、寿命がなくなるというのは象徴的だ。彼は、自分を罰しながら、人を罰しようとしている。

クラピカを除く一族を殺されるという悲劇がある。彼はそれを取り戻そうとする。生きた一族を取り戻すことは不可能なので、それは悲壮である。

その上。その前に彼は死ぬかもしれない。ただ、その復讐の過程によって、一族に代わる仲間が生まれる可能性が示唆されている。

クロロが、家族はいないが仲間に恵まれていた存在であれば、クラピカは家族はいたが仲間を奪われた存在だった。

クラピカはクロロから仲間を奪う。クロロはクラピカから奪われた仲間を取り戻すことができない。一度失われた存在は二度と戻らないからだ。

死ぬと二度と会えない、ということが一回だけ覆った。それがアリ編だが、その軌跡は二度と起きないだろう。

 


転職するかもしれない

職場で女性差別があったので、いやけがさした。
別に悪い人じゃないんだろうけど、女性差別をしたことを認めないだろう。
わたしは、さんざん、実力不足を疑ったが、そうじゃなくて、「女だから」ということに絞られた。
差別の嫌なところは、自分の実力不足だから不当な扱いを受けているのじゃないか、不当な扱いだと思っているのはわたしだけで、じつは正当な評価難はないかと思うところだ。

だから、wpfとxamlを覚えて、サンプルを公開して、在宅の仕事を探そうと思う。
サイトで見たら、ワールドプレスのコーディングもかなり高い値段で案件があった。
ワールドプレスのコーディングもやってみよう。

嫌な職場を改善するよりも、一人でやっていったほうが楽だ。
改善するために戦うには時間がない。

腹が立つし、もうやる気がなくなった。
別の努力をしたほうがいい。

昨日から無料配布中なのでよかったら読んでみてください。そして、気が向いたらレビューを書いてくれると嬉しいです。

どっちもアソシエイトリンクだから、買い物してくれると小銭が入ってうれしい。


フェミニストってなんだろうね

なんかしょうもないエントリ書く。
最初ブログを始めたときは、もう雑記で気楽に書いててツイッターみたいに。読んでる人も少なかった。五人とか。そんで、十人超えるとすごいって喜んだりして、はてなのグループに入って読み合ったり励まし合ったりSkypeしたりして、でもみんなもうあの頃の人やめちゃったのかな。さみしい。わたしがネットに物書くようになってなんと二十年だしもはや。
ダイアルアップとか夜十二時からテレホーダイしたりОSをフロッピーで何枚も使ってインストールしたりしたよ。途中で落ちて泣いた。そして、二十四時間を何回か。そして、PC98じゃなくてWindows買ったから周りにはなんで珍しいねって言われたけどなんでってわたしゲームしないし。14万円した。
ぴーごろごろって言ったりとか、ICQとかの音とか幻聴する今はほんとにあの頃わくわくした。

今はツイッターもしんどい。
ゴヒエツコがわたしに近づいた理由は「フェミニストで同じ性暴力被害者」だからってはっきり言っていた。
そして、今だってわたしは「卑怯者」「卑劣」「嘘つき」「もう信じられない」「著作権侵害」とか言われている。
週刊金曜日もわざわざDMで連絡したならスクショ使うなってはっきり言えばいいじゃんね。
拡散されてちょっとおいしいとは思ったんでしょう。

すごく失望したのは、そのころ相互だったフェミニストがわたしを責めたこと。
性暴力被害者に対してひどいとかね。わたしに対してメンヘラとか、きちがい、発達障害だから人の気持ちがわからないとか言っているほうは、責めないで、わたしを責めた。あいつら人間の屑じゃねえの。
わたしも性暴力被害者だしその経験を利用された挙句ひどい言葉を投げかけられて死にそうだけど死にそうなわたしに追い打ちをかけたのはフェミニスト。フェミニストじゃない人は関心ないし。それか、議論に使おうとするか。
あのさ、わたしは題材じゃないんだよね。わたしを使って議論するなと言って書いたらもうみんな静かになる。根性ねえな。実はあまりみんな頭よくないだろう複雑なことを考えられないだろうそして立場のことを先に考えるんだろう。
それか最初から最後まで黙ってるの。

シーン。あれ、透明人間かなみたいな。
気の毒だと思いますよ、とか、ゴヒさんはその件については謝ったほうがいいでしょうね、とかね、言われてもあんた何様かよ、バカにしてるのかと思った。あんたどういう立場で言っているのよ、お前死ねばいいって思ったけど言わなかったからすげーえらくない?

あの頃、ブログのアクセス数が一日1000から3000があって多い時は一万アクセスが普通だった。はてなのトップに連続四回載ったりしたし。いろんな人が励まされたとか感動したとか言ってくれたり、逆に誹謗中傷されたり、近づく人がいたり離れたり。

まあでもね。あのゴヒエツコを責めた後。
不自然なくらいみんなシーンとして。そんで、ツイッターで相互フォロワーだったフェミニストとかもわたしをブロックした。
フォロワー数が多いフェミニストほど不穏な動きというか、それまでリプライとかしてたよね?みたいな人がさっといなくなった。
わたしのブログにブクマしたり引用してツイートしてたりした人がぜーんぜん無視するようになった。
すごいがっかりした。というか信じられなかった。まじでなのなんでなの、あんたたちどこいったの。
ゴヒエツコのことはまあどうでもいいというかあの人はあの人の事情があるし言いたいことがあるのに言わないで外堀埋めてったりプロパイダ開示請求したりはてなから追い出したりツイッター凍結させたりよくもまあそんなにできるねと思う。
そういうのからわたしを守る人はいないけど、政治がうまい人というか人間を支配するとかコントロールするとか人から守られるのが得意な人はいてわたしはそうじゃない。
あの頃からわたしは全然変わってない。

わたしのブログに感動したとか力をもらったとか重要な指摘だとかなんとかかんとか言ってた人はどこにいったんですかね。
なんか心に穴が開いたみたいですーすーするというか。

政治的に同じ主張を持っていても人間としては全然信用できない。フェミニストだからって素晴らしい人でもなければフェアでもない。そんなんわかってたつもりだったのに、軟弱なわたしは打ちのめされた。
わかりやすい敵みたいな人には心構えができていても、フェミニストにはできてなかった。

こういうことを書くと、アンチフェミニストに利用されるとかそういうのも考えたけど別に利用したい人はとっくにわたしを利用していて、わたしは自分でもバカみたいにいまだにフェミニストを名乗っている。連帯も裏切られてもう信じられないのにね。
フェミニストが一人一派だってこういうことなんでしょう。分断ってこういうことなんでしょう。だから、フェミニストは一人きりなんでしょう。

だから、わたしは沈黙するフェミニストのことを全然賢いとは思わないし浅薄で薄情でどうしようもないと思う。でもアンチフェミニストにはならない。ただすごくがっかりしているししんどいしなんだかね。
わたしは自分が利用価値のある人間だと思ってなかったけどあの時のわたしには利用価値があり、今はない。すっげーわかりやすい。

ツイッターフォロワー多い人ってあれだよね、単純に物事を考えすぎて表層的で、でもだからこそ断言するから気持ち良いから、乗っかる人も増えて、そして、人に受ける言葉もわかるしで、そうすると、自分のちやほやされる立場みたいなの失うのが怖くなるんですかね。全員とは言わないけど。

わたしにはできることやりたいことがまだまだあるから死なないけど死んでもおかしくないというか、わりとずっと寝たきりだし。ひどいよね、二年たったけど、ようやく、本を読めたんだよそれまで読めなかったのあれだけ読んでたのに。一日二冊とか三冊読んでたのに、毎日一万字とか書いてたのに、読めないし書けないし、働けないし、一日五時間くらいしか起きられなくなった。二年間だよ二年間、ずっと良い時で五時間起きられる跡は寝てる、寝ながらわたしの人生って何だろうと思い続けている。無為に終わるのかなと思うと心から血がビューって出る。本も読めない映画も見られない字も書けない。地味に困ったのは書類を開けなくなったこと。心から血がビュービューで続けたら失血死するんじゃなかろうか。弱って。あのね、わたしが死んだとしたらみんながわたしを殺したんだよはっきり書いておくけど。絶対お悔やみとかいうんじゃねえよ、「お前がわたしを殺した」んだからな。

「もうわたしなんて生きてても仕方がないみんながわたしをいらないと言って殺してもいいと思ってるし関心がない死にたいしなせて」というと伴侶は泣きそうになる。僕が死ねばいいという。
夜中の三時から目が覚めて止まらなくなることもあるしか呼吸にもなる。
それね、ゴヒエツコはじめとする、無言のあんたたちのせいだから。
今まで「感動しました」「救われました」とかいっていたあんただよあんた。
あんたたちに殺されるの。

中立ぶってるやつもどっちもどっちとかいうやつも真正のバカだけど一番の真正のバカは「DM公開するなんてやりすぎ」とかいうバカね。公開しないとそもそもバカなお前が知ることにならなかったわけ。公開しなければ証拠がないわけ。
そもそもDMという密室を悪用したことも、訴えたいことの一つなわけ。
真正のバカは真正のバカだということを自覚して恥じて死ね。
まじで生きてなくていい、生きてるおかげでわたしはいたく傷ついた。お前がバカで思慮がなくて浅薄な人間だからだ。
脳みそも使えない上思いやりがないからだ。

この一連のことをを知っているのに黙っている人間は薄情で浅薄だと思う。どうしようもないと思う。
知らないで調べないでモノを言っている人間もずいぶん文章が苦手で読むのが苦手でバカだなと思う。
そんで、菅野完の味方でもないからわたしを利用するな。逆に、菅野完をたたくのにも利用するなわたしは関係ない。
わたしが知っていることで言えることは全部書いているから。

まあ愚痴だよね、わたしなんて別に知られているわけでも有名人でもなんでもないし、知らない人のほうが多い、このまま片隅にうずもれていてみんなあいつどうしているんだろうと思うことすらされない。
あー、でも数少ないネット上の友達(と言ってもいいのかな)はずっと気にかけてくれていて人というのは本当にふり幅が大きいと思う。
ねえ、あのさ、声の大きい拡散力のある人のついていくの楽かもしれないけどその人どこに連れていくか考えたことある?地獄かもよ。
そいつ自体もどこに行くのかわかってないから、地獄に行くとは言ってないんだけど知らないことって誠実だろうか、わたしは誠実であることがとても大事だからそうするけど大事じゃない人の行く末ってどうなるのまあ死ぬときに苦しんだってそれって一瞬だから人生の過程でいい思いしたほうがいいのかもしれないね、でも、それって底の浅いいい思いだよねいいもの食べていい服着ていい家に住んで人気者でちやほやされるくらいの人生って大したことない、そんなの一夜で吹き飛んでみんな地獄に落ちてしまえ。


自分にやさしい家事:家事は愛の作法の実践である


自分にやさしい家事”

 

具体的な実践部分もあります。片付けはどう考えるべきか、調理はどう考えるべきか。

ヘルパーさんは何をしてくれるのか?

どういう風に家事スキルを身に着けるか。

 

家事は指示出しも難しいです。

例えば、カーキ色のバッグとって、といっても、カーキ色が分からない人はそのバッグ探せないんです。

お皿洗って、といっても、お皿を洗う範囲が、「洗って、水切りにおいて、シンクを代吹きで磨いて、代吹きを洗う」ところまでなのか「

「皿は洗うけど調理器具は洗わない」

「皿調理器具を洗って、拭いてしまう」

ところまでする人なのか、相手によって違うし、スキルも違うので、他の味方も考えないといけません。

家事やケアをするというっ行為には、両面からの暴力性があります。

ケアをしろ、という強制も暴力です。

また、「ケアをする」ということは、相手を「矯正」することもできるので、権力になります。ケアと引き換えに取引もできる。

療育なんか、全部を否定するわけではないけど、「相手を思い通りにする」という意味では気を付けないといけない。

(今度そのテーマでも書きます。障害をどこまで「世の中に合わせる」か、慎重にならないといけない)

例えば、子供が風邪をひいても、看病をする、しない、で相手を支配できます。

強いように見える相手でも、食事の量や内容で支配できてしまう。

そういう面についても書きました。

一部引用します。

下記の分だけじゃなくて、

自分で自分の生活を工夫するということは、自分で自分をコントロールする、できるんだ、という自信を育てます。
家事とは思想の実践です。ルーチンワークでもあり、仮定を実践して変化する結論を試す場でもあります。家事について、誰もが何かの意見を持っているのは、生きる上でどこまでも軽視することができるからです。家事は、女性や子供の領域でした。わたしの祖父の世代のほうが、わたしの親世代よりも、男性たちが家事をしていたと感じています。家事を軽視することは、女性軽視が前提です。生産性がないという言葉は、お金を産まないという意味で使われてきました。家事の経済的価値が低いのは、経済的価値を設定する性別の人間が男性だからです。男性が「家事は価値が低い」と決め、女性にやらせて「女性は経済的に価値がない」「誰にでもできる」といって、その愚痴の捨て場所になっていたのがわたしたち世代だと思います。 自分にやさしい収納の続編です。 母達は孤立し、連帯することが「家庭」によって不可能でした。社会的な構造が、彼女たちを「自然」「健康」「子供の学歴」に走らせました。彼女たちは、自己実現を社会によって奪われていたからです。唯一、許されていたのが、「素晴らしい家事」をすることだけでした。

前編です。


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  • 自分にやさしい収納の続編を書きました。
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自分にやさしい家事

自分で自分の生活を工夫するということは、自分で自分をコントロールする、できるんだ、という自信を育てます。

家事とは思想の実践です。ルーチンワークでもあり、仮定を実践して変化することを試す場でもあります。家事について、誰もが何かの意見を持っているのは、生きる上でどこまでも軽視することができるからです。家事は、女性や子供の領域でした。わたしの祖父の世代のほうが、わたしの親世代よりも、男性たちが家事をしていたと感じています。家事を軽視することは、女性軽視が前提です。生産性がないという言葉は、お金を産まないという意味で使われてきました。家事の経済的価値が低いのは、経済的価値を設定する性別の人間が男性だからです。男性が「家事は価値が低い」と決め、女性にやらせて「女性は経済的に価値がない」「誰にでもできる」といって、家事をないことにしてきました。そうした価値観が、母親世代を追い詰めてきました。自分のしてきたことをなかったことにされることは、人生や存在をなかったことにされることと同じだからです。その愚痴の捨て場所になっていたのがわたしたち世代だと思います。

目次
前書き
無理をしない料理編
調理器具
皿など料理
非常食
食事の作り方
スープ
主菜
主菜洗い物台所の手入れ調味料
野菜の調理
実際の料理時の動き
だしの取り方
たんぱく質おやつ
オイルポット掃除
ごみ箱を減らす
フローリングワイパーの選び方
疲れすぎていて、モノの居場所を決めることができない時
収納の選び方
動線とは何か
洗濯
寝具の選び方
室内掛けのラック
洗濯用品
ネットショッピングのこつ
ネグレクトからケアへ
家事とは愛の方法を実践すること


自由は学ぶことで獲得できる

わたしは、学校の成績が思わしくない人と接点がなかった。
親は、とにかく、わたしを通して人生の実現を図ろうとしていたので、自分が成績が良くてうれしいとか嬉しくないとか考えるよりも、悪い成績を取ってはならないと思って生きていた。
喜ぶなとも言われていたせいもある。

それでも、わたしは本が好きだった。祖母がわたしのために本を買ったり、図書館に連れて行ってくれたりした。
影がどうして長くなったり短くなったりするの?と「影を盗まれた少女」という祖母が買ってくれた本を読んで疑問に思った。
どうして、1+1は2になるのか?

大学に入って疑問を持てることは素晴らしいと学んだ。
塾の仕事についてからもいろいろなことを学んだ。

最初の生徒さんは、中学二年生になって「I」が何を意味するか知らないくらいの学力だった。その子が
「教科書に何が書いてあるか知りたい」と言った。
わたしはひどく心を動かされ、かき乱され、とても崇高なものに触れたと感じた。それがわたしの原点だった。

彼女は豊かな世界を持ち、人にやさしかった。
良い大学に入る人は往々にして、「テストが得意」な人である。
テストが得意だということと、賢く、知恵があることは別なのだということ。

彼女はそれから頑張って、普通くらいの高校に入り、課目によっては学年一位すらとった。

テストが得意かどうかは、単に、運が良いかどうかくらいの意味でしかないと心から思った。

「知りたい」と思うことは、貴い。
学校教育では、興味が持てないことでも、多くの分野の知識に触れることに大いなる意味がある。
学校は素晴らしいと思う。
親がろくでもないとしても、学校に行ければ、その間は、「普通」の生活ができるから。

ただ、こぼれてしまう子もいて、そこは改善していかないといけないけれど。

わたしは、テストが苦手でも学ぶことが好きだと自負していたけど、本当にテストが苦手な子を見て、自分の狭さを知った。

ある子は「先生は怒らないで」と言った。
わたしはそれ以来どの生徒さんにも一回も怒っていない。
それは、その子の言い分に納得したからだ。
「先生が怒っても勉強しないし、怒られても成績は上がらないし、怖いと来たくなくなる」
ああ、その通りだなと思った。
じゃあ、わたしは、勉強したくなるようなことを教え、学校の成績に直結しなくても、この単元からどこまで広がるか、遠いところまでの景色を見せよう、それがわたしの役割なのだ。

わたしは、遠いところに行きたかった。それは心の中にある。
子供を預ける保育園の目標に「自分を好きになる」「心と体で感じて、自分で世界を広げる」ということが挙げられていた。
わたしも一緒に学びたい。

わたしの親はろくでもなかった。
わたしは円満な家庭を知らない。
だけど、円満な家庭を作ることができる。
わたしたちは学べる。過去から自由になるために学ぶ。
学ぶことは、わたしを自由にする。
思い込み、しがらみ、苦痛から、解放するのは、知恵でる。わたしは学ぶことができる。そして、自由を得る。


いったん、Twitter退会しました

耐えられないことを言われたので、Twitter退会しました。
その人はわたしを卑劣だといってるようです。
なにもかも嫌になってしまったので、ちょっとやすみます。
先のことは考えてなくて…
ほんとは、Twitterで世間話するの楽しいんですけどね。
ちょっと心が破れそうたったので避難しました。