オンラインショップを作ってるという日記

今はワードプレスでオンラインショップを作ってる。
カートがあって、商品をいれて、クレジットカード決済ができたり、銀行振込口座のメールが行くようなやつ。
woocommerceというのを使っている。
クレジットカード決済は、いくつか使えるものが用意されている。手数料が3.6パーセントくらい。
それとは別にアマゾンペイというのがあって、それを使うとアマゾンのアカウントから決済できる。手数料が4パーセント。
アマゾンペイとwoocommereceとどう連携するのかはこれから調べるけど、決済に関しては、手数が少なければ少ないほど、そのまま進んでくれる可能性があるから。
store.jpもあるし、BASEもある。けど、なんかちょっといやだし。
サンプルページ
こういうのもつくってる。これは、まだ途中で、あるハンドメイド作家さんに協力してもらって、もっと実用的なものにする予定。
海外向けに特化したハンドメイド販売サイトがあるといいなと思って作ってる。
わたし自身は、ハンドメイド作って売るわけじゃないんだけど、日本のハンドメイド作家のレベルはすごく高いのに、値段があまりにも安いので、いっそほかの国の人に見てもらいたいと思ったから作った。
技術的にはたいしたことはしてないんだけど。
今後の課題は、関税について調べることかな。発送料金をどの程度にするかもちゃんと決めないといけない。
それと、法律。裁判にならないような注意書きの書き方を学ばないといけない。

したいことを忘れないように書いておこう。
ベシー占いのサイトは、長い間あきばれさんにお世話になっていたけど、自分のところでやっていきたい。
ベシー占い
SEO対策も多少はできるようになった。
旅行も行きたい。ミシンを買って洋裁を覚えたい。洋裁はおばあちゃんが仕事でやっていて、自分で小さな工場を立ち上げて、マクレガーとかあとは名前は忘れたけどブランドの下請けをやっていた。わたしは、おばあちゃんから、そういう魂みたいなものを受け継ぎたい。起業精神とかね。
彼女は、水飲み百姓をして、洋裁を覚えて、セーターを編んで、シイタケ栽培をやって、畑やって、いいタイミングで売って、洋裁工場して、山やって、って暮らしていた。それでも最後には弱って死んでしまった。
形見になるものを受け取れなかったから、せめて精神だけは受け継ぎたいな。
とはいっても、できることがすごく少ないんだけど。
どれもちょっとやっては中断してて、何もかも中途半端。
中途半端なのは、オンラインショップ、プログラミング、英語の勉強とか。すぐ疲れて動けなくなってしまうから悔しい。


「キモイ」は女の武器になる言葉

女には拒絶の言葉も罵り言葉もない。

言葉がなければ、従順に、なにかも受け入れらしかない。Fwordがないから、素早く罵れない。

女は、怒ってはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけない、という抑圧がある。

「やめろ」ではなく、「やめてください」と頼まなくてはならない。

もし、「止めろ」と言ったら、「非常識で同情できない」と言われる。

「キモイ」という言葉は、感覚的な言葉だ。

男の言葉が「理屈」「説明」的な言葉だとすると、対極にある。

だからか、男は「キモイ」という言葉を嫌う。キモイと言った女性を、頭が悪いと非難する。男への差別だと言ったり、フェミニストが罵倒語を使うなんて、と言ったりする。

説明をするのは男性の文化だ。彼らは、感覚的なものをバカにする。説明しろと強いる。

それを無化する可能性があるのは「キモイ」という言葉だ。

相手に、やめてくれ、こういうことはしないでと懇願せずに、使える、唯一の拒絶の言葉だ。

キモイという言葉は、時として「相手を理解しようとすることをしない最低の言葉だ」と言われる。

でも、考えてほしい。男たちは、こちらの「キモイ」という言葉を理解しようとしていない。経緯も払っていない。

キモイと言われた男は逆上する。自分を虐げる女という風に認識する。

ただ単に拒絶しただけなのに、被害者みたいなことを言う。胸糞悪いことに、フェミニズムが連綿と紡いできた言葉を盗んでまで、否定する。

女には乱暴な言葉が許されてない。もし、乱暴な言葉を使ったら、物理的に、攻撃されることだってある。

「キモイ」という言葉は、数少ない、「お前には用はない、お前はわたしに近づくな」という意味を持つ言葉だ。これは、女の言葉だ。だから、男は否定する。

わたしたちは、相手を理解しなくていい。ずっと、わたしたちは、男を理解しようとしてきた。でも、男が女を理解しようとしてきただろうか。

お前を理解しない、とわざわざいう必要もない男と対照的に、女はずっと説明しろ、わかるようにしろと言われてきた。その「わかるように」のゴールは、男によって、位置を変えられてしまうから、相手を納得させることは構造的にできない。

相手は理解したくないから、ゴールの位置を勝手に変えてしまう。

それを防ぐのは「キモイ」という言葉だ。

お前はキモイ、だから関わるな。そういう意味がある。

だから、キモイという言葉を、わたしは悪者にしない。

丁寧な言葉で説明して、こちらの領域を侵害され、攻撃されてきた。それをはねのける言葉が女にはなかった。

キモイ、という言葉は、その始まりだ。わたしは、キモイ、と言う。相手を理解することを拒む。相手には私に対するリスペクトがないのだから、わたしもリスペクトを持たない。


生産性の中に出産育児家事は含まれない

出産なんて生産そのものだと思うけど、世の中の人が「生産性」というとき、出産は入っていない。それどころか「生産性を落とす理由」として語られるくらいだ。

出産、育児、家事。それらがないと、誰も生きていられない。存在しない。

それが生産でなくて何なのか、と思うけど、「報酬が生まれるものを生産と定義しましょう。ちなみに、何に対して報酬を出すかはこちらが決めます」ってされちゃったばかりに、今のところ、出産には報酬が出ないので、出産は生産として認められない。

誰が評価するのか、ってことが、「透明」になっているうちは、「その誰か」は批判されない。批判する人たちは常にいるんだけど、その人たちは「反社会勢力」っていわれる。

まあ、実際、社会の成り立ちがおかしいって言ってるんだからおかしくないけどね。


ナショナリズムとグローバリズムが結びつく理由

ナショナリズムとグローバリズムが結びつくのはおかしなことだと思うかもしれない。

グローバリズムは、個人と世界を直接退治させるものだ。

わたしたちは、まず、個人であって、そのうえで地域社会や家族というコミュニティの一員として、役割を持ち、アイデンティティを確立する。

でも、その中間の社会がなくなってしまうと、もう、アイデンティティを保証するものが、記号的な「日本」しか残らない。

たいていの人間は、世界の六十億人のうち、何位くらいの能力の持ち主だ、と突きつけられることを好まない。そして、耐えられない。

だから、自分にカバーをかける。

日本=(イコール)自分にする。そうすると、自分が傷つかなくなる。どういうことかというと、まず、自分の失敗や、「できなさ」は、日本という大きな記号によって見えにくくなる。

そして、「日本スゲー=自分スゲー」が成り立つと、自分が何もしなくても、自分がすごいように思える。

例えば、日本の結弦スゲー=日本の自分スゲーにもできる。努力したのも、結果を出しているのも結弦だが、そこの過程なしに、自分の鼻の穴を膨らませることができる。

逆に、このことも成り立つ。

「日本を批判=自分を批判」

日本が批判されると、自分が批判されたように感じる人はとても多い。それは、不断「日本スゲー=自分スゲー」にしている代償のようなものだ。

わたしは、自分が生きているうちに「反日」という言葉が、死語じゃなくなるなんて思いもしなかった。

そして、これは、

「日本の誰かが失敗したとき=日本の失敗=自分の失敗」にもつながるから、「あいつは、日本人じゃない」となる。

「普通」を「健康な男性」に設定すると、それ以外の人間は「普通」じゃなくなる。

でも、あいつは「普通じゃない」「日本人じゃない」ということをやっていると、なんだか、「自分がすごい」と思えるんだろう。

でも、これには、やっぱり代償があって、「普通」を「いいこと」と思うと、ちょっとでも瑕疵がある人を「あいつは普通じゃない」としていくので、「普通の世界」にいる人が少なくなってしまう。普通の世界にしがみつくのに必死になる。

普通基準は普通じゃない人を普通になれという圧力としても働くし、普通世界にいる人を追い立てもする。

人を数字以外で見ると、「痛み」というものが大切になる。

何がその人に盗っていたいのか、どこからが痛いのか、というのは、人の輪郭をくっきりさせる。

ナショナリストはだいたい人の痛みに疎い。

それは、自分が「日本スゲー」の陰に隠れていて、日本を批判された=自分が痛いになっていて、痛みがあやふやになっているからだと思う。

自分の痛みを認識して、初めて、自分と他人の区別がついて、そのあと、「他人も痛い」ということがわかる。

ナショナリストはその段階に至っていない。


大学受験は難しくなる

今年は都市の大学の定員の規制のため、明治を筆頭に、とにかく難しくなった。

早慶東大などのトップレベルを受ける人については何も変わりはないが、それ以下の大学が非常に難しくなった。

Marchを受けるよりも、地方国公立のほうがずっと入りやすい。逆に言えば、地上の大学は今お得に受けることができる。

都市の大学が難しくなったのは、定員数が減ったこと、受験方法の多様化によって何度も受けられることがあげられる。

二十年前は、滑り止めを含めて、三回受験すれば多いほうだったのが、今では、似十回受験する人も珍しくない。同大学の同学部を受けるだけでも五回のチャンスがある場合もある。そうすると、定員数に対して、受験人数が跳ね上がるので、結果的に偏差値が上がってしまう。偏差値が上がると、「偏差値が高い」から受ける人たちが殺到する。

日東駒専はもはや滑り止めの大学ではない。

センター利用で明治大学を受けた人は、8割でも落ちた。合格ラインは、8割五分らしい。それだけ取れれば、東大も入れてしまう。

 

大学進学を機に、地元から出るのが最終チャンスの地方に住んでいた人には、あまり良い情報ではない。

都市に行けば、広告を含めて、多くの情報に強制的に触れて、どんなものがあるか知ることができるから。学生時代という短い間だけでも、都市に住むのには意味がある。

ただ、大学に限って言えば、偏差値によって大学の質が大きく変わることはない。

学生のレベルが変わるだけだ。

偏差値が低くても、親身になって育ててくれるような大学を探して、入学するのもとてもいい。都市部に集中しているということは、それ以外の大学に入りやすいということだ。

視点を変えれば、いい面もある。

決してあきらめず、これからの一年を頑張ってほしい。

大学の考え方をよく調べることが大切だ。


柔らかくぐにゃぐにゃした「女性差別」

読者に「もうあなたはへこへこしないでくれ」「自信をもって女性差別を教えてやるという態度でいてくれ」「なぜなら、相手はあなたに敬意を持っていない。そして、あなたが書くものを読む若い人が堂々とした態度を学ぶから」

と言ったので、ああ、そうか、じゃあ、わたしはそうしようと思った。

長い間、二十年近く、女性差別について書いているのに、なぜ、わたしは今だに教えを乞う態度でいるのだろうかと考えたら、それは、わたしが「女性」は「教えを乞う態度でいるべき」というコードを内面化していたからだった。

改めて考えてみると、わたしは、子供たちを教えているのだから、もう、わたしは学ぶよりも教える立場として書くべきなのだ。

指摘の通り、わたしが女性差別を訴えるとき、ほかの差別を訴える人が、便乗してきて、わたしの勢いをそぐことがよくある。

ある女性とある男性がもめたとき、女性にだけ「注意」される、というのはよく見た光景ではないか。

ある男性が女性差別をし、女性が取り乱しながら指摘をすると、その取り乱した内容に第三者からの「注意」がされ、女性は謝り、改めますと言い、その間に男性はいなくなる。そんなことがずっと繰り返されてきた。

女性と男性がいたとき、同じ分量の指摘がいかないこと、それは二回目の女性差別が行われている。そもそも、差別をしたのは男性なのに「あなたの訴えはわかるけれど、でも、あなたはさらにほかの属性を踏んでいる」と言いながら、男性に対しては何も言わないのは、男性を「許している」し、女性差別に加担している。

複合差別を訴える人が、まさに、「複合的な問題に悩む女性」からの指摘に対して「でも、複合的差別もあるのだから、男性特権が特別なものではない」と言い返したのは印象的だった。今、まさに、あなたに男性が女性差別をしていることを話しているのに、どうして、「男性特権が特別なものではない」と言えるのか。男性特権は特権のひとつで特別なものじゃない、と言えるのなら、それは、男性特権だ。いくら、柔らかい言葉で穏やかに話したとしても、「複合的問題」を抱えた相手に「複合的差別」を利用して、女性差別を無化したことは消えない。ある女性が、複合的差別を抱えたまさにその人物であっても、男性なら「複合的差別」について、レクチャーできると思っている。その男性が複合的差別を受けていなくても。

 

シンプルに「今女性差別をしている」と言っても、「あなたは複合的差別を知っているか」と話をそらされてしまう。

いや、今わたしは複合的差別を抱えているとあなたに言ったし、そして、あなたが、「今差別をした」という話をしたのに。それに、あなたは「複合的差別を理解しない人がいるのはなんででしょうね」と言ったじゃないか。今あなたがこちらの複合的差別を理解していないでしょう。こちらの事情も属性も話したから、知っているのに。

といっても、相手は理解しないで「こんなにも丁寧な態度をとったのに」とほかの人に呼び掛ける。「今俺はこんなにも責められている」と。

 

それがまかり通ってしまうことが、女性差別である。

女性差別を訴えた相手に、それをなかったことにされること。周囲にも、それよりも大事な差別について考えろと言われること。

 

わたしは、これから、指摘について謝らない。それでは不満だとしたら、今は取り乱しているので一か月後にお願いしますそして相手にも同じ分量の指摘をしてくれ、と言ってみようではないか。それは小さな一歩だけれど。

 

障碍者差別を訴えるときに「一部の差別的な健常者が行う障碍者差別」と言わない。でも、女性差別を訴えるときに「一部の男性が行う女性差別」「すべての男性という意味じゃなく、男性の枠組みが」という言い方をどれだけ繰り返してきただろう。

わたしは、それに飽き飽きしていたのに、攻撃されることが嫌で、ずっとそれを言わなかった。

男性の「被差別者」がその枕詞を使わずに済んでいるのならば、それは男性特権なのだ。

男性は容姿をたたかれない、経歴をたたかれない、だから、実名と顔を出して経歴を宣伝しながら、差別を訴えることができる。そして、なんだったら、「差別」について書いて、仕事を得たり、賞賛を得たりすることもできる。それは男性特権だ。

女性差別は、社会的な文化、社会的に必要なものなので、それをやめろというとき、社会構造が崩れることを恐れられるので、決して褒められることはないし、それどころか、目障りなので、どうにかして、口をふさごうとされる。目障りじゃなければ、差別を訴える意味もないということだ。

わたしは、理系理系、というが、それは理系が素晴らしいという意味ではなくて、理工学部の女性の大学の進学率が、数パーセントだから言っている。医学部、法学部の進学率も低い。そもそも、大学への進学率は女性のほうが低い。半分半分になったら、わたしはもう何も言わない。

女性の多い高校では、理数系のコースがない場合がある。進学校にしか、物理化学の授業がないが、進学校に入れる女性が少ないので、理系の科目を受けることができる女性が少ない。そして、その中で、「物理」「数学ⅡB以上」を受ける女性がどれだけいろいろなことを言われるか、そして、気持ちをそがれるか。物理を履修できる女性は、推測すると、人口の数パーセントだろう。それは、実際、理工学部の女性たちが数パーセントだということとも合致する。受験できる科目数が多ければ多いほど受験は有利だから、物理を勉強した人は、センター試験で物理を取る。物理は一番範囲が狭く、簡単な科目だから。簡単なのは、受ける人が少ないから。受ける人数が少ないのは、そこから女性が排除されているから。

理工学部のキャンパスが真っ黒な男たちで埋め尽くされ、その学生たちがこの世には女性などいないという錯覚のもとでその価値観を育てていく。

理系の学部に進むことがゴールではない、なにしろ、理系の「職業」は「男性」に占められているから、その職業に就けることはないかもしれない。そのときに、どれだけ悔しいか、わたし自身も経験したことだから、わかる。

でも、それは単なるチケットなのだ。別に日本で生かす必要はない。わたしは、ずいぶんと日本をあきらめているので、グローバリズムが、「世界的出稼ぎ」の言い換えだとしても、女性が亡命することに反対するものではない。

 

女性たちは、柔らかく、可能性から、排除される。「自発的にあきらめる」という過程を経たうえで。その「過程」では「まあ、計算が遅いのは女の子だから仕方がないよね」「女の子は機械が苦手だよね」「勉強よりも大事なことがあるよね」「こんなこともできないのか、女だからな」と言われて、ああそうか、とあきらめる。たとえ、苦手だとしても、適切な支援を受ければ乗り越えられることなのに、その機会を「女の子だから」与えられないで、自分はバカだと思い込んで、あきらめる女の子がいかに多いことか。

 

どんなに優秀な女性の学生がいても、その子自体があきらめていたり、学校にカリキュラムがなかったりするせいで、チャレンジを呼びかけることすらできない。

頑張ればできる、あなたならできる、と言いたくても、その学校に、そもそもカリキュラムがなくて、可能性が最初から立たれているときの何ともいえない喪失感。むなしい。

そうやって日本は回ってきたのだ、と言われれば、はい、そうですか、と言えても、「だから、これからもそうするのだ」と言われたら、それは「変えることのできる文化だ」という。

誰もかれもが少子化少子化といい、少子化をなんとかするには「女性から賃金を奪えばいい」と政府自体が思っている。そして、それは、当然「普通の人」も思っている。それを感じる。そうした社会で育った女たちは、どうやって生きようとするのか。その一方で、「勤労人口」も増やしたいから、女性には賃金の安い、なんなら無償の仕事についてもらおうと、企んでいる。

少子化は悪いことで、それは女が産まないからで、だから、女が少子化の責任を負えばいいとみんなが思っているから、常に女を罰してその責任を取らせようとしている。その空気に抗うために、わたしはもう謝らない。

障碍者差別を訴えるときに、民族差別や学歴差別や、貧富の差、障害の種類や重度さで、どうのこうのといわれることも今までなかったし、ほかの差別を訴える人たちが、「今、あなたは障碍者差別を訴えるために、Y差別に苦しんでいる人を踏んでいる」と言われたことはない。

女性差別なら言われる。

その差をわたしに納得させることができ、わたしに対する敬意を払ったうえで、わたしが訴える差別に対して同じくらい指摘し、また、わたしが落ち着いて対処できる期間を待ってくれる相手になら、その指摘を受け入れて、改めることはするだろう。でも、基本的にはわたしが今まで払ってきた敬意を踏みにじられるばかりだったので、それを忘れないようにする。

柔らかくがんじがらめにされ窒息させられるような女性差別について、男性たちは、わたしに教えてほしいというべきなのだ。教えてやると言わんばかりに、手にほかの差別をもって押し掛けるのではなくて。


マサキチトセ氏の差別的放送後の抗議の記録《エロくない性の話》批判

やりとりの、わたしが送った部分を公開します。

批判は批判が存在すること自体で、意味があると思うので、謝罪を目的としません。

しかし、マサキチトセ氏がどんな言葉を何回使っているか、検索して数えたところ、

申し訳 1
ご理解 2
すみません 0
ごめんなさい 0(出先でごめんなさい1)
謝罪 0

ということになりました。申し訳ないというのは、「コニーさんに絶望感を与えたのですね。申し訳ないです」という文脈で使われました。

ご理解くださいという言葉に問題があるのは、自分が害を加えた属性の相手にさらに負担を強いるからです。

今回の件の問題は、「反差別・セクシャルマイノリティについて書く・講演会をするライター」が主催したツイキャス番組でゲストが「女性差別にあたる言動」をとり、主催者がそれを放置した点にあります。

彼には、「ゲイがアウティングされたら自殺するかもしれないこと」を心配する能力があります。しかし、女性差別的言動が、「反差別的な立ち位置の番組」で行われた結果、「女性が自殺するかもしれない」という可能性を想像することはできませんでした。これは、能力的なものではなく、彼自身の「価値観」に依存するものです。はっきりいえば、女性の権利や健康に関心がなく、自分のコミュニティにのみ、関心があるからそういう態度になるはずです。

(きっとそうではないというでしょう。しかし、実際、わたしは健康を害しましたし、自殺を考えました。そういう疾患を持っているからです。そして、それを伝えました。けれど、彼は「指摘に感謝」という言葉遣いを選びました。)

「指摘に感謝」するとブログやツイキャスのページ、ツイッターに書かれていました。

まず、この発言自体に問題があります。

  • わたしの苦痛は感謝されるようなものなのか。
  • わたし(たち)の苦痛は、シス男性を賢くしてアップデートするための踏み台ではない。

ことが問題としてあげられます。

(自分の番組をよくするための材料としか考えておらず、こちら側の感覚的な理解がない。どれだけわたしが言葉を費やしたか下記で見てください。最初の日のDMを受けて、なお、彼は「感謝」という言葉を使っています。そして、ご理解くださいという一方、「絶望を感を感じさせてしまったのですね……。申し訳ないです」のみの謝罪は一回にとどまる。負担をさらに与えてもかまわないと思っている、そもそもそのことに気が付きもしない。ようは自分のことしか考えていない)

また、最後の貼ったリプライの応酬は、かなり良いように見えます。

(反省する、努力する、反映する、謝罪する、大変申し訳ない気持ちと書いてある)

しかし、今、自分の番組で起きている女性差別への批判の話なのに、なぜかマサキチトセ氏は、「トランス女性」「民族差別」「経済格差」の話が混入をさせている。その話はしていない。話をそらされている。

同じ差別だからではなく、今現在進行形で起きている差別を、わたしが、差別の実行者である彼に対して、「女性差別の話に関して抗議している」のに「経済格差や民族差別と同じように」と言われてしまう。おかしいと思います。

彼はいったいどこへ行った?自らを透明化してしまった。彼は、透明人間だ!

また、DMでは見られなかった言葉が、どうして、リプライでは見られるのかということを考えると、絶対に「そんなことはない」と言われるかもしれないけれど、受け手としては「見えるところと見えないところでは態度が違うのだな」と思います。

使う言葉が、場面によって違う、というのが、差別の表れの一つだからだ。

わたしが、このような扱い(わたしは不当だと思う)を受けるのは、わたしのどの属性に依存するのだろうか。

わたしは、この件では、女性差別について、抗議している。その点で、このような態度の違いを使い分けられると「女性」という属性に対して向けられた差別だと考える。

改めて言うが、今回のことは、「やか氏」の差別的な意識がきっかけだったかもしれないが、「マサキチトセ氏」自身の差別意識が問題だと言える。

「トランス女性だから」という理由によってのみ経験の差異があるのだと考えることは(それがゼロではない、あるいは大いに関係しているとしても)危ないような気がします。

性別はとても大きな要素で、男女差別の影響はほぼすべての人/が受けていますが、他の不正義(経済格差、民族差別、etc.)によって私たちが受けている影響も計り知れません。

だとしても、わたしなら、このことを違う言い方で表現します。

「経験の差異があるとしたらお互い学ぶことで克服できる」というように。

また、やか氏の差別的言動と、それを看過することで女性を抑圧する形の差別を行った主体であるマサキチトセ氏が「トランス女性に経験の差異があるからと考えることは危うい」と、この時に言うのは間違っています。はっきりと。

それは、わたしに対して、また、女性に対して抑圧として働きます。

なぜならば、彼には権威があるからです。

彼は、華々しい経歴と、セクシャルマイノリティについての文章を商業ベースで掲載されています。それは、彼の言動に、「説得力」を与えます。

わたしは、まさにこのような言動によって、抗議をためらいました。そして、抗議の最中にそれを「再び」されたのです。

私自身シス男性として生活しており、ミソジニーやトランスフォビアから全く自由でない立場で言うのは何様という感じですが、願わくば、シス女性とトランス女性が女性同士として(民族や障害、階層などの他の軸と同様に)意見し合えるような状況が望ましいと思います

これは、自分の行った差別と抑圧を、他人事にする一言です。

「何様」ということになるから、発言を控えるという態度が、自らの行った差別に対して許されるのかと言えば、許されません。

願わくば、ということこそ「何様」ということになります。

これは、「シス男性」が頭上から「トランス女性」と「シス女性」の争いを眺めているから出ている言葉です。

そういう構造を自分で作りだしておきながら、「自分はシス男性だからとやかく言えない」というのは、カマトトとしか言いようがありません。

意見し合える環境を、今、まさに、作り上げることができないばかりか「抑圧を実行した」反省の口の根も乾かぬうちに、「願えてしまう」ことは非常になんというか私の語彙では表せないけれど醜い言動です。

トランスフォビアやミソジニーから自由にならないから、だめなんじゃなくて、「差別的な言動を発信した」実行者なんですよ。そして、三時間、それについて一切反省しておらず、他人事のまま、六日までいたる。

差別的な言動を三時間たっぷり流して聞かせた人間が「願わくば」という。

わたしは、それが許せません。

ブログなどの追記を見ましたが、彼が本質的な問題を理解しているとは思えません。

彼が、差別的な言動を公に流した実行者なんです。それを選択したんです。そして、継続し、番組が終わるまで、止めず、今もなお、高みから見物しているような物言いをしています。

以下、資料として、わたしのDMに書いた文章を公開します。

マサキチトセ氏が書いた文章はここには載せていないので問題はないはずです。

まさきさーん こんばんはー ラジオありがとーございました

ちょっと自分でもきもちがまとまらないので、リプライじゃなくてDしますね

わたしのなかに、トランス女性にたいしてフォビアがあるのかについては、きちんと考えなくてはと思うのですが

教育格差についてです

ラジオいつもたのしみにきいています いつも刺激になりますで、教育格差のくだりなんだけど、むねがぐっさりしました

 自分の気持ちをありのままにいうことをゆるしてほしいのだけど

 今もなお、女の子だからあきらめないといけない進学があったり、理系の科目にかんする興味を巧妙に折られる現実や

 ストーカーや変質者にあって、安全に学校生活をおくれず、慰めたりします
私自身、女性だからと理系メーカーを全滅した上、同期に「女性が志望しないから理系メーカーには女性がいない」といわれて、声がでなかったことがあります
塾で、理系は男性教師に教えてほしいと言う親もたくさんいます

 理系科目より古文ばかり振られます

というのをぱっと思い出して

同じ家庭でも男の子は浪人して県外を受けられても

 女の子はダメとか往々にあり、それを慰めながら授業します
 でもそれもましなくらいで、そもそも同じ兄弟でもかける額が違います

 女の子は理系にいくなら看護か薬学部です

塾にいっても、そこでそれ以外を勧められません

ゲストの人に同じ認識をもってもらうのは難しいのは承知ですが

 いまなお、教育格差にまつわる話は、女性には生々しいものです

女性として学生時代をおくらないとみえにくいのでしょうか。

ということをおもいました

構造がちがうんですよね。


読んでくださる方へ

わたしは生きています。昨日はリスパダールを飲んでも死にたいという気持ちや衝動が消えず、心配をおかけしました。

ありがとうございます。気にかけてくださって。

 

Twitterやコメント、メールで、「何の役に立てなくてごめんなさい」と言われることが最近あります。

そんなことない、って言いたくて書きます。

ブログ、読むのにも、それぞれの生活や人生があって、その、一部を使って、読んでくださっていることに、本当に感謝しています。

アクセス数を見ることができますが、それは数字じゃなくてその背後に一人一人がいること、伝わっています。

正直に言って、はてなブログで書いていた時には、有名な人に読んでもらったり、言及されたり、いろいろな人に引用されたりすることが、単純にうれしいと思っていました。

読んでもらうと、アクセス数が増えて、それが自分の力だと思いました。

でも、波が引くように人がいなくなってから、それでも残ってくださった人がいて、わたしは、感動しました。

ほんとに、死のうかと思うこともよくありますが、それでも踏みとどまれているのは、支えてくれている人がいるからです。それは、家族、友人、今この文章を読んでくださる人です。わたしのことを嫌いで読んでいる人も当然いらっしゃるとは思いますが、それでも、時間を割いてくださることに感謝します。

 

もともと、不正義について描いていたことが多いブログでしたが、アクセス数が単に数字じゃないと気づいて、さらに、不正義や疑問を書いていくことにしたのは、みなさんのおかげです。

 

わたしは、たまたま文章が得意で、書くことができます。得意というと語弊があるかな?傲慢かな?とも思うのですが、自分の思っていることを伝える技術を持っているくらいに思ってくださればいいです。

 

一方で、わたしにはソーシャルスキルが欠けていたり、ほかにも、年齢の割に、獲得していない能力がいくつかあります。

コメントや、ツイッターで声をかけてくださる人や、メールをくださる人に、そういう面で助けられています。

いわば、わたしは、みなさんの助けを借りて、文章を書いています。

読む人がいなければ、文章の意味がないです。いや、自分では読むし、記憶の整理にはなるんですけどね。

わたしは、わたしの考えたことを書きます。わたしにはその力があって、だから、その力を正しく使いたいと思います。

鋭い刃物を振り回しているだけじゃなくて、その刃物に、方向性を与えてくれるのは、読んでくださる人です。

アドバイス、励まし、いたわり、共感、そういうものがなければ、今まで続けることができなかったでしょう。

わたし一人で書いていると考えていたのは、傲慢でした。

わたしは、歴史上の人や、本を書いてくれる人や、話してくれる人、交流する人、読んでくれる人、そういう人の力を借りて、文章を書けているのだなと今は思います。

影響力がある人が偉い、すごい、という気持ちが全く消え去ったとは言えませんが、そうじゃなくて、わたしは、わたしの信じることをこれからも続けていきます。

間違っていた時には自己保身はせずに、反省や、謝罪を、できる人間でありたいと願います。

読んでくださっている人で、何もできていない、と心を痛めている方がいたら、そんなことはない、わたしは、あなたのおかげで生きていられるし、書いていられると伝えたくて書きました。

読んでくださってありがとう。

わたしは、卑怯な人間にならない。そして、これからもブログを続けます。


ハンター×ハンターは家族の欠如の物語

物語は、主人公の持つ価値観が示され、それが「邪魔される」という葛藤を解消すて終結を迎えるという構造を持つ。

 

ゴンは父を求め、キルアは支配する家族からの逃走を求めた。

彼らはその役割を終えたので、退場した。

作中でもっとも人望があると描かれているのは、レオリオである。

彼は人望でハンター協会の会長になる。彼は最も安定した人間である。

安定した人格であるレオリオは、家族のことを語らない。

語る必要がないからだ。それは、彼の家庭が健全であることを示している。

レオリオには葛藤がないので、物語にあまり関わらない。物語は葛藤を必要とする。

クロロをはじめとする蜘蛛たちは、一切の血縁を持たない。そして、「わたしたち」と同じ倫理観を持たない。仲間以外を人間として認識しないので、心を痛めずに殺すことができる。

しかし、彼らは。強固な絆で結ばれた仲間がおり、おそらくクロロは孤独でいた時期がない。

呪いにかけられて初めて彼は孤独になる。

一方、クラピカは、一族の中で大切に育てられたようだ。しかし、彼には血縁が一切いなくなる。彼は、彼の一族の遺体の一部を取り戻す、という物語を生きている。

ハンター×ハンターは、古典的な物語構造を丁寧に維持し続けている。

主人公が葛藤し、それを解消する構造を崩さない。葛藤が解消されたら、物語から退場する。

kクロロとクラピカは徹底的に対照的な存在として描かれる。

クロロの能力が人のものを盗む、拡張的な性質を持つものであるのに対して、クラピカは、「蜘蛛を罰する」ことにしか使えない限定的な性質を持つ。自己を罰する。ある能力を使えば、寿命がなくなるというのは象徴的だ。彼は、自分を罰しながら、人を罰しようとしている。

クラピカを除く一族を殺されるという悲劇がある。彼はそれを取り戻そうとする。生きた一族を取り戻すことは不可能なので、それは悲壮である。

その上。その前に彼は死ぬかもしれない。ただ、その復讐の過程によって、一族に代わる仲間が生まれる可能性が示唆されている。

クロロが、家族はいないが仲間に恵まれていた存在であれば、クラピカは家族はいたが仲間を奪われた存在だった。

クラピカはクロロから仲間を奪う。クロロはクラピカから奪われた仲間を取り戻すことができない。一度失われた存在は二度と戻らないからだ。

死ぬと二度と会えない、ということが一回だけ覆った。それがアリ編だが、その軌跡は二度と起きないだろう。

 


転職するかもしれない

職場で女性差別があったので、いやけがさした。
別に悪い人じゃないんだろうけど、女性差別をしたことを認めないだろう。
わたしは、さんざん、実力不足を疑ったが、そうじゃなくて、「女だから」ということに絞られた。
差別の嫌なところは、自分の実力不足だから不当な扱いを受けているのじゃないか、不当な扱いだと思っているのはわたしだけで、じつは正当な評価難はないかと思うところだ。

だから、wpfとxamlを覚えて、サンプルを公開して、在宅の仕事を探そうと思う。
サイトで見たら、ワールドプレスのコーディングもかなり高い値段で案件があった。
ワールドプレスのコーディングもやってみよう。

嫌な職場を改善するよりも、一人でやっていったほうが楽だ。
改善するために戦うには時間がない。

腹が立つし、もうやる気がなくなった。
別の努力をしたほうがいい。

昨日から無料配布中なのでよかったら読んでみてください。そして、気が向いたらレビューを書いてくれると嬉しいです。

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