mtfへのわたしの混乱及びバグ

以前、「トランス女性のことは女性と認識している」と書いたけれど、自分でよく考えてみて、「認識してないな」と思ったので、その理由を書く。

(そういう風に認識しているならトランス女性という言い方をしないで女性だけで済ませるはずだという指摘を受けた)

わたしは、mtfのことを考えるとバグる。

その理由は、

  • mtfは、おそらく男性として扱われて育ったので、女性として味わった差別的な経験を共有できるのか疑念がある
  • パス度が高ければ、そもそもmtfだとこちらが気づかないのだが、その過程で男尊女卑的な考え方を強化していないか疑念がある
  • パス度が高い低いを社会が求めているのはいいことじゃない。わたしは、女らしくあれと言われていることが嫌だという価値観を持っているから。しかし、パス度が低い人を、無警戒で女性として受け入れる自信がない。それは矛盾している。

という三つである。

今回は上記の上から二つを論点として書きたい。

本来なら、「女性にも女性差別をされた経験がないという人いる」「男尊女卑的な考え方を身に着けた女性も掃いて捨てるほどいる」で、終わりだ。

けれど、ひっかかっているのは、以前に、「女だから理解できないだろう、適性がないと受けられなかった授業があった」と女性が発言したのに対して、mtfの方が言った「高専だったけど、英語を勉強させてもらえなかった」という反応に傷ついたままでいるからだ。

どちらも、勉強をする権利を奪われたことに変わりがないのだけど、前者は女性差別のよくある例なのに、その前提を踏まえられていないのが悲しかった。

それで、わたしは、それとこれとは違うということを説明したが、理解されなかったので、「男性として育てられたから、教育については、男性特権を享受してきたため、見えないことがあるのではないか」と批判した。

こういったとき「彼女」が無理解だった、と終わらせるべきだったのか、「mtfだから無理解だったのだ」と範囲を広げてよかったのか、いまだに迷っている。

 

わたしは「mtfです」と言われたとき、わたしの頭の中では、この人は「m」だった、「m」として扱われてきた、という歴史性が存在するのだ、という発想が生まれる。その人が、その歴史をどう考えているか、その歴史があっても、女性の子供時代に遭う差別に対してのリアリティを共有できるか、とても気になる。

そのうえで、その人が、男性的な価値観で、加害的な言動を取ったときに、わたしはバグる。

批判していいのか?マイノリティに対する、マジョリティからの攻撃なんじゃないか?

そもそも、わたしは、女性の権利を向上するために戦いたい。

そこで、本来はこうすればいいんだろう。

女性の権利向上に反するものは、たとえそれが女性であっても、mtfであっても批判する。わたしは、前述の発言者を「彼女」と呼んだ。だから、守るべき権利を持つ彼女の女性としての権利を守りたい。一方で、女性差別に無理解であったり、女性差別的であったら、批判する。

 

ただ、わたしは、現実問題として、実際には、女性差別的な価値観を身につけた女性に対して、ほとんど批判しない。彼女たちこそ被害者だと思うからだ。平等な社会だったら、差別に対して、生存のための適応をしなくていい。

また、わたしは前述の発言をした彼女が不意に出した、男性的な価値観が恐ろしかった。女性だと思おうとしていたとき、「やっぱり男性なのかもしれない」と思うと警戒してしまう。わたしに関していえば、それはトランスフォビアと呼ばれてもそれは仕方がないと思う。けれど、同じようにおびえる女性に対して、「それはトランスフォビアだ」と言いたくない。わたしは、その恐れを理解できるし、それはもっともだと思うからだ。そうなったら、絶対に、わたしは、「シス女性」の味方をする。そういう風に決めている。

結果、わたしはバグる。(どちらも女性なのに、シス女性を優先する。つまり、わたしは、シス女性を優先すべき「女性」と考えているのだ)

 

以前、「あなたは、mtfのおすみつきをもらおうとしてきょろきょろしている。苦しんでいる女性はあなたを見ている。あなたは、女性のために戦ってほしい」と指摘された。

それも事実で、指摘を受け入れるのは、無性に苦しかった。それからずっと悩んでいる(長いやり取りをしてもらって指摘に感謝している)。悩んでいるのは「正しくありたい」という欲のためだ。

悩んだ結果、わたしは、「女性」を優先することに決めた。わたしはシス女性で、自分の権利や、同じ状況の人のため、権利を向上させたい。

結果として、ほかの人々が生きやすくなれば一番いいが、それは結果として伴えばいいくらいのことで、わたし自身戦うのは、女性のため。

一番いいのは、誰かが、「男性的な価値観」をとりだして、人をおびえさせたら、そのこと自体を批判することだ。その誰かの属性を考慮せず。

でも、実際には、わたしは、発言者の属性を非常に考慮する。それが女性か男性かとても気にする。社会構造の産んだ被害者なのか、加害者なのか、それに適応して防御しようとしているのか、ただ、加害しようとしているのか、それによって、批判内容が大きく異なるからだ。

だから、やっぱり、わたしは、「mtfです」と名乗られた上で、男性的な、加害的な価値観や考え方を表出させられたら、その属性を考慮しうえで批判するだろう。ただ、それも、マイノリティに対する過剰な要請である可能性も捨てきれない。

 

こうやって、整理をして、方針を立てようとしても、現実の流れで、ネット上でも現実でも、具体的な個別のケースで適切に対応する自信がまだない。

 

これを公開するのもさんざん悩んだけれど、自分にとって、大切なことなので、公開する。


悪い表現に悪いということ

たとえば、小川榮太郎の書いたような文章を読んだ時(それは余命三年だろうがなんだろうが好きなものを当てはめてください)、人は傷つけられる。

文章は人を傷つける。

傷つけられた人の反応はさまざまだ。我慢する人、黙る人、傷つく自分が悪いと思う人、そして、「これは悪いものだ」という人。

「これは悪い」という人の意義は高い。我慢し、黙り、傷ついて孤立した人を助けることができる。傷ついた人を孤立させない、また、傷ついたという感情を肯定するメッセージを発している。

「批判」というものをネガティブに思う人がいるらしいが、批判は、無言で孤立している人をエンパワーメントする役割もある。また、世の中にこういうものは許さない人間がいる、ということを伝えることもできる。

ポルノグラフィティの話になると、ポルノグラフィティに関する表現の自由を守りたい人たちは、傷ついた人々にも「批判する自由」があることを忘れてしまう。それも表現の自由であるのに。

弾圧だ、という。

しかし、ヘイトスピーチが、表現の自由の範疇にないことを、市井の人々が勝ち取ったように、「ヘイト画像」(今作った造語)にも表現の自由の範疇にないことを、これから我々は勝ち取れるはずだと思う。

良い言説があり、悪い言説がある。批判は、それが好きかどうかは全く別に起きるものだ。

「表現の自由」をたてに「ヘイト画像」と呼べるようなポルノグラフィティに一切の批判を許さない人々は、「批判をする人はそれを嫌いだから批判する」のだと思っている。

しかし、批判は。半ば自動的に導かれるものだとわたしは感じていて、例えば、それが好きであっても、批判をしなくてはならない時、わたしは批判をする。それが論理的に導かれるものであるときもあり、直感的に導かれるものであるときもある。

良い言説、悪い言説があるように、良い画像、悪い画像がある。

良いエロティックなもの、悪いエロティックなものもあるだろう。

言論について、それが「悪いもの」があることは、社会的に共通に認識されているが、「イラスト」「グラビア」「広告」に関しては、「悪いものと良いものがある」と示しただけで、「弾圧だ」「表現の自由の侵害だ」「価値判断をすること自体がいけない」とすら言われてしまう。

しかし、意図して表現されているものすべて、それには、メッセージ性がある。

わたしたち人間は、言葉でなくても、それらのメッセージを読み取ることができる。

絵画、イラスト、写真、それらはすべて、誰かが意図して表現方法を練り、伝えたいこと(無意識か、自覚的であるかどうかは別として、作者の価値観を反映するのが表現である)があるために存在しているのだ。その伝えたいことが、なんなのかは作者にもわからないとしても、それを「見る」人がいれば、そこには、メッセージが生まれる。

わたしは、消滅するべき言説があると思う。ヘイトスピーチのようなもの。

それと同じように、消滅させるべき、「エロ表現」「ポルノグラフィティ」があると思う。それらは、「ヘイト画像」と呼んでいい。

社会構造が作り出す弱者をいたぶり、居心地が悪くなるようなメッセージを発しているもの。それらは、ヘイト画像と呼びたい。

「女をいたぶるとエロティックであり、興奮する。女は、何をされても決して痛がらず、最終的には喜ぶ」「女が身に着けている【下着】はエロティックなものだ」「制服はエロい」「女の胸と尻を観たらだれでも興奮する」というようなメッセージを発しているもの。そういうものは、ヘイトスピーチが許されないのと同じように、許されないという価値観を育てていくべきだ。

時代はよくなって、ヘイトスピーチを規制することに、社会的な合意ができてきた。ヘイトスピーチをヘイトスピーチと呼ぶことで、それを「言論に対する弾圧であり表現の自由の侵害だ」という人は、呆れられる。

それに引き換え、ポルノグラフィティ、中でも「被害者」がいないとされる「イラスト」に関して、「批判」するだけで、「表現の自由の侵害」と言われる現状は、イラストに関しても、社会の理解が浅いと思う。

イラストの持つメッセージ性が軽んじられているから、批判から逃れているのではないか。あるイラストを批判すること自体は、なんら、どの自由も侵害していない。それは自明なことだ。

人が生活しているとき、場面による文脈がある。

たとえば、朝、起きて、人と会えば「おはよう」という。それは、朝の場面という文脈が人と人の間に共有されているからだ。非言語的な文脈は、存在しているという一例である。

その、非言語的な文脈の中で、ふさわしくない登場の仕方をしているポルノグラフィティがあれば、それは、「登場する場面とイラストとのそぐわなさ」が発しているメッセージについても、批判するべきだ。

例えば、子供向けの売り場に、エロ技法で描かれたイラストの表紙があれば、そのメッセージは「男性は、常に自分が女や子供を性的に扱う権力を持つことを誇示できる」というものだ。これは、言論と同じように批判できるはずだ。

 

 

わたしたちは、文章を読むとき、自然と、その文脈を追って読む。

そのうえ、例えば、小説を読んだ時、その小説が書かれた時代背景についてすら考えることもできる。「夏目漱石が坊ちゃんを書いた時の時代背景」について。

漫画にもそれをできる。「手塚治虫の漫画で出てくる黒人表現は、今では差別的なものだと了解されているが、当時はそうではなかった。しかし、それでも、傑作である」というように。

わたしたちは、文脈を追って読む、という訓練をしてきており、また、生活においても、「生活の文脈」に沿って生活している。

それなのに、「イラスト」「写真」となると、その感覚を失ってしまう。

 

悪いポルノグラフィティは存在する。

そのとき、悪いポルノグラフィティを二つの観点から批判できる。

「場にそぐわない展示をしている」「ヘイト的なメッセージを含有している」

愛好者も、批判者も、ビジュアル的な表現の持つメッセージ性を軽んじてはいけない。

悪いものは悪い、そういう批判が、豊かな表現を育てるだろう。そして、女性や子供が安心して過ごせる、人格権を尊重する社会を作るだろう。

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女性や子供を消費物とする表現はもう嫌だ

女性や子供を消費物として扱う、というと、よくわからない人も多いかもしれません。

女性や子供の表象を利用して、そこから人格をはぎ取り、見た者が一方的な意味づけをする…ようなものを想定しています。

具体的には、

学生服姿の女性のスカートから伸びる足を切り取って撮ったもの。

女性の胸元だけを切り取って撮った写真やイラスト。

衣服を身に着けているはずなのに、布が股間に張り付くかのような表現をされたイラスト。

マイルドなものの例をあげましたが。

女性や子供が、主に男性の妄想に都合がよく描かれたものすべてが、わたしはもうつくづく嫌です。

もし、家庭の中で、ポルノグラフィティを子供に見せたら虐待です。

しかし、一歩外に出たら、それに類するものがあふれています。

わたしは、子供のころから、それを嫌だと思う気持ちにふたをしてきました。

「それがある理由」を一生懸命考えて、「仕方がないんだ」と飲み込もうとしました。

興味をもって、慣れようとしたこともあります。いったんは慣れたと思ったこともあります。

でも、今思えばそれは過剰適応でした。

今、書店に並ぶライトノベル(ラノベ)の表紙について、喧々囂々です。

ゾーニングをすべきだ、いや、それは隔離になる、隔離されて周縁においやるのか、ゾーニングするとしたらその基準を国にゆだねるのか、表現の自由はなんとしても守らなければならない。

表現の自由を持ち出すのならば、人格権を持ち出したいと思います。

わたしは素朴な「嫌だ」という感覚、感情を重要だと思っています。

例えば、損害賠償請求の際にも、「心の状況」「不快に思ったか否か」というのは、非常に大切な点になります。

人格権とは、基本的人権から導かれる権利です。憲法11条、憲法13条に基づきます。

憲法13条は、

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

としています。

これは、労働法上の感情型セクハラについての条文の根拠となります。

現在、残念ながら、特定人以外への差別的表現に対して、規制する条文はないので、わたしが「ああいう表現は嫌だ」と言ったとしても、法律上はどうすることもできません。

環境的セクハラというのは、労働厚生省によると

「環境型セクシュアルハラスメント」とは、職場において行われる女性労働者の意に反する性的な言動により女性労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該女性労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることであって、その状況は多様であるが、典型的な例として、次のようなものがある。

(1)

 事務所内において事業主が女性労働者の腰、胸等に度々触ったため、当該女性労働者が苦痛に感じてその就業意欲が低下していること。

(2)

 同僚が取引先において女性労働者に係る性的な内容の情報を意図的かつ継続的に流布したため、当該女性労働者が苦痛に感じて仕事が手につかないこと。

(3)

 女性労働者が抗議をしているにもかかわらず、事務所内にヌードポスターを掲示しているため、当該女性労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

と定義されています。職場環境の問題と、生活空間や公共空間を並列に並べるのは乱暴かとも思いますが、援用できそうな気もするんですよね。

つまり、ヌードポスターを公に掲示することが、女性労働者の苦痛に感じるため、それをやめさせることができる、という理論を使えないかということです。

男性社会では、「気持ち」「感情」というのは、論拠として、バカにされる要素ですが、まさに、その「苦痛に感じ」ることが、要件になっています。

ヌードポスターを掲示することで、女性にどんなメッセージを送るか、というと、「女とは、記号的な、肉体に還元できる」「お前は女である」「お前はエロい肉である」「俺はこの空間を自分の好きなように支配する」「ゆえに、この空間にいるお前のことも支配できる」ということなんです。

女性や子供が性被害に遭ったとき、まず言われることは「そこにいたのが悪い」「自衛しなかったことが悪い」「気を持たせたのが悪い」ということです。

職場というのは「そこにいるしかなく」「自衛することもできない」場所です。気を持たせたのが悪いに至っては、相手の妄想をコントロールすることができないのですから、なおさら逃げられません(妄想型セクシュアルハラスメントというのもがります)。

ところで、職場でなくても、これは同じです。

すべての人はあらゆる場所に自由に行く権利を持っています。

ある場所に行くのが、仕方なくでも、自発的にであっても、その場所にいたから犯罪に遭っても仕方がない、ということはありません。

どの場所にいたとしても、「安全に過ごせる」というのは、基本的人権です。

しかし、女性や子供にとって、すべての場所が安全な場所ではありません。

書店、公衆トイレ、電車、駅、図書館、美術館、大通りの歩道、信号待ち、エスカレーター前、遊園地、学校、会社、カラオケ、などなど、あらゆる場所が性的被害に遭う可能性のある場所です。これらは、わたしが危険な目や被害に遭った場所です。これらをすべて避けて生活することはできません。もし、それをしろ、という人がいたら、その人は、女性や子供に、「幸福な人生」をあきらめるように勧めているのと同じです。それこそ人権侵害です。具体的には先ほど挙げた13条違反です。13条は、対私人に適用されます。

例えば、書店の全年齢向けの「ラノベ」の表紙が、女性や子供の表象を性的、もしくは「もののように消費物のように」描いたとしたら、それの発するメッセージはこうです。

「女性や子供は、このように扱われて当然の存在だ」ということです。

(ラノベ、というのは、そもそも子供が小説を読みたいと思ったときに、最初に手に取るジャンルの一つだとも思いますが)

公共空間にあるというのは、そういうメッセージ性があるということです。

わたしは、もっと悪いもの、つまり、イラストや漫画の形式で描かれた、女性や子供の体を破壊する表現もあることを知っています。

それらがわたしに投げかけたメッセージは、こうです。

「女性や子供の体を破壊することはとても興奮する、エロチックなことである。そのとき、女性や子供は痛みを感じない」

これは、端的に言って間違っています。

わたしは、ずいぶん、このような文脈やコードに取り込まれました。

ポルノ表現を見続けると、脳や思考に悪影響がある、という記事も読んだことがあります。女性蔑視を当然とする考え方にも結びつき、何が女性蔑視に当たるかを感じ取るためのセンサーも壊れてしまうんでしょう。

「女性蔑視なんてない、なぜなら俺は認識したことがないから」とうそぶくような人間がいます。

表現の自由は、批判する自由でもあります。

だから、わたしは、女性や子供を消費するような表現を嫌だと言います。そして、消え去ってほしいと思います。

それは、かつて子供だったわたしのためであり、今、子供時代を送る、新しい世代に同じ思いをして、傷つき歪まずに育ってほしいからです。

 

 

参考

セクシュアル・ハラスメント 法務省


子供を持つか、持たざるべきか

子供を産んでから後悔したことは一度もない。

毎日この幸せな瞬間を覚えておくことができないなんて切ない、と思う。

しかしながら、友達には子供を産むこと自体は勧めない。

理由は命の危険があるからだ。

妊娠初期では化学的流産をする場合がある。中期後期も切迫流産をしたり、安定期になっても気は抜けない。胎盤剥離は、速やかに対処しなければ、失血死してしまう。

つわりは、わたしは妊娠初期から、産むまであった。なんなら今も吐きやすい。

牡蠣にあたって、インフルエンザにかかったみたいな具合の悪さが八か月続いた挙句、産んだら産んだで回復していないのに、二十四時間緊張しながら、一時間ごとに子供の世話をしないといけない。

わたしは、期間の長さから言って、陣痛よりつわりのほうがつらかったと思うが、陣痛が痛くなかったわけでもない。

妊娠直前、出産直後に歯を診てもらったのにかかわらず、一年後、三本も虫歯が見つかった。歯がボロボロになるのは本当だ。

産む前よりも産んだほうが大変というが、産んだ後は、子供と親がセパレートされているので、人に預けることができる。産んだあとは、休める。

男は産むことができない。わたしは今でも伴侶が産んでいないことを疑問に思うくらいだ。「君、産んでないよね」というと「産んでないねごめんね」と言われる。妊婦あるあるを共有できないのはさみしい。

女性は、死の危険を潜り抜けてようやく子供を手にするけど、男性は寝ている間にいつの間にか子供ができて「心の準備ができていない」「母親にはかなわない」といって敵前逃亡をする。

そんな奴は焼き払え、と言いたいが、誰も屑と結婚したいと思って屑と結婚したわけじゃないのだ。素敵だと思っていた相手が、実は「心の準備ができていないから妊娠中しっかり心の準備をしていて、生まれたときから母になるべく仕組みが備わっている母親が子育てをするのがいい」とほざくあほだと誰が思うだろう?

思わないだろう。

みんな、自分の連れ合いはそうじゃない、屑じゃないと信じていてなおかつ産後屑だったとわかるので、人生はつらい。見抜くも何も、未婚女性は、結婚の経験がないから、予兆があってもそれが予兆だと思わない。

なんだかおかしいかも?と思い始めたときには結婚話が進んでおり、それが「なんかおかしいかも?」くらいで後戻りできない暗い話が進行しており、なおかつ「これを逃したらもう結婚できないかもしれない」と思っていたら、絶対に結婚をやめることはできない。やめたほうがいいと思うけど。現実は難しいのだ。

わたしたちは、実家を双方一切頼っていない。その代わり社会の資源を頼っている。社会はわたしの子育ての困難さを軽減するために存在しているのだ。

社会はなぜ存在しているかというと、お互い助け合うことによって生存率を上げるというために存在しているのだから、社会の不備は人類の不備である。

人類を増やす目的で死にかけたのだから社会的資源を当てにしても当然の権利である。ただ、当然の権利だと思っていない人は多い。

当然と思っていない人は罵詈雑言を解き放つし、もしくは解き放たれることを恐れて自分で何とかしようとする。

男性の連れ合いが屑でも「でもあいつ、いいやつだから」と言って、愚痴を封印してくる自称友達は事欠かない。

そういう状況で産むのは難しい。

せめてもと思って、ネットで書いて共有しようとするとどこからともなくミソジニストが現れる。

女が安全に子供を産み育てるためには安全な医療と、安全を保障する社会が必要なのだ。

一人の女が産むことを決意するだけでは足りない。

本来は、自己決定権に基づき、女が一人で産むことを決意したら産める育てるという社会がベストだが今はそうなっていない。女が一人で産むことを決意するという意味は、結局腹の中で子供を育てて、それを外に出すという行為は、一人きりでするしかない、という意味だ。

産むときは一人だ。だから、わたしは「子供のいる生活は最高だが、勧めはしない」という。


母親という役割を休むことが必要だ #ママ閉店

わたしは、今日、日曜日から五日間熱と咳がひどくて体力がなかった。

毎日メイバランスを飲んでいる。食欲もない。

今一人で子を見ていた。

今は子が寝ているのでブログを書ける。

普段、子育ては連れ合いとの二人でしている。

だから、かわいい、愛している、いとおしいという気持ちだけで接することができている。

離乳食にも、想像より、苦労しなくて済んだ。こぼしても拭けばいい。食べてもらえなくて悔しいと思うほど、丁寧な食べ物を作ってもいない。それは、最初から方針として決めた。わたしと子が苦しまなくていいように、楽なやり方をしようと思った。だから、最初からドライのおかゆにお湯を注いで、ドロドロ期を過ごした。離乳食も終盤の今は、親の食べるものを細かくして分けるスタイルだ。それほど苦労しないように、苦心してきた。

 

それでも、今日は、とてもきつかった。

めまいはするのに、子は泣く。だっこしてくれと泣く。でも、だっこする体力がない。どんどん大きな声を出す。大好きなのに、こちらもパニックになる。子がパソコンのキーボードをたたいて、機内モードにしてしまって、普通の手順では治せなくなってしまった。

トイレにも行きたくなった。トイレに行ったら、まず間違いなく、子は火のついたようにもっと泣くだろう。子を泣かせてもいいからトイレに行こうと思うけれど、精神的に追い詰められていて、泣き声がしんどい。さらに泣くことを踏まえると、トイレに行くのもためらってしまう。

子は眠いのだ、わかっていた。でも、子が叫んでいるうちに自分の何かが壊れて、無理なの!と叫んでしまった。叫んでも伝わるわけない。多少、意思の疎通はできるくらい、子も成長したけど、わたしが無理だから静かにするなんて、できない年齢だ。わかっている。でも、叫んでしまった。

自分で嫌になりつつ、叫んで、子も叫んだ。だっこしてほしいのだ、慰めてほしいのだ、お母さんが叫んでいるからびっくりした、だから、落ち着かせてほしいのだ。それはよくわかっている。でも、一人になりたい。

 

お医者さんには、短時間、三十分くらい、別の部屋に親が逃げて、クールダウンをすることを勧められてもいる。そうすればいいとわかっている。でも、決断できなかった。

そうこうするうちに、子は、わたしの体によじ登って、泣きながら眠った。泣き始めてからたぶん全部で十分くらいだった。

でも、わたしは自分が怖かった。自分が何かするんじゃないかと怖かった。

何もしなくて済んでほっとしている。

母親という役割を休むことは必要だ。

24時間母として、子の要求をすべて満たすことができたら最高だ。

それを求める人は完璧主義だ。

求めることはできる。でも、実行することはできない。なぜなら私は完ぺきじゃない人間だから。

完ぺきじゃない人間だったら、産むな、という人もいる。そうした人たちは、人に対して厳しい。子供に対して優しい。反出生主義の人たちは、子供の負担が大きすぎるから、子供を産むなという。この世に生まれてもいいことがないのに産むのは子供への暴力だという。そういう人たちは正しい。その通りだと思う。でも、厳しい。

人は欲望に沿って生きる。わたしは、子を育てたいという欲求を持ち、それを果たした。

屑と結婚したい人がいないように、悪い親になりたい人もいない。

みんな素敵な人だと思って結婚し、相手の豹変や変わらなさ、相性の悪さに幻滅しながら離婚するのだ。離婚をして、自分を知る。何が自分にとって嫌なのか知ることで、自分の輪郭を理解することができる。

やってみないとわからない。屑と結婚しても、大人だから、離婚をすることができるが、子を産んでからやっぱりやめることはできない。そこはかなり違うから、ずいぶん悩んだ。

悪い親になりたいわけじゃない。誰だって、みんな、いい親になりたいと願いながら悪い親になる。だから、わたしもそうなるかもしれない。

でも、連れ合いがとてもいい人間だったので、きっとバランスが取れると踏み切った。

わたしは子供を産んでよかった。子のことがとても好きだ。一緒にいると幸せだそんな気持ちにさせてくれて、感謝している。子が一人で生きていくために必要な助力を惜しまないつもりだ。仲良くしていきたい。

でも、子供と一緒に叫ぶ日もある。

わたしは、社会で生きている。社会は、助け合うために存在している。家族も小さい社会で、子供とわたしは助け合って生きている。

子供を産むべきじゃないという人は、社会とのかかわり方をどう思っているのだろうか?

わたしは完ぺきじゃない。わたし以外の人も完ぺきじゃない。だからこそ、社会を必要とする。そして、社会を形成する。社会も私を必要とする。

そうした流れの中に子供がいる。子供は社会を必要とし、社会も子供を必要とする。

一人で生きていくことはできない。完ぺきな人間にもなれない。

だから、産むなという人もいる。

でも、母親という役割を休みながら育てるという選択肢がそれほど悪いとは思えない。

誰でも、いくつもの役割をもって生きているはずだ。

その役割にうんざりしたら、どの役割でも休んでいい。

ほっとできる場所や、ほっとできる関係に退行すること、負担の大きい役割を休むことも必要だ。

子供がわたしを傷つけることもある。わたしが子供を傷つけることもある。

たぶん、わたしが子供を傷つけてしまうことのほうが多いだろう。それは、どれだけ注意していたとしても、構造的に、権力関係が子と私の間に存在する限り、どうしようもないことだ。

だから、それは「あるものだ」という前提で過ごさなくてはならない。「ある」ものだとして、対策を練ることが必要だ。世界は一かゼロではできていない。アナログだ。だから、対策の一つとして、役割を脱ぐことをする。子も、いつか、子としての役割を脱いでくれたらいいと思う。大人になって、わたしと二度と会いたくないと思うかもしれないが、そうしたとき、一人で生きていけるように、手助けをしたい。わたしが今日は母の役割を脱いだから、子にもそうしてほしい。母の役割を休むことで、それより悪い事態を防げた。

完ぺき主義の人には気に入らないかもしれない。でも、わたしはその人たちのために生きていない。子も。連れ合いも。ほかの人も。

 


我慢する三年は本当に短いのか?

90年の中の三年は短いという。

確かに、職業人生の三年は短い。四十年間働くとして、三年あれば一つの職業のあらかたは身につくというから、11回は転職できる。大人だから選べる。

でも、例えば病気や子供のころのいじめに苦しんでいたら、その三年は短いとは言えない。

病気やいじめを自分の意思で終わらせることはできないからだ。

ずっと続くかもしれない。そのうえ、苦しみの日々の中では、息継ぎに当たる和やかで心身ともに楽な時間というものが存在しないから、苦痛に塗りつぶされた真っ黒な時間だけが、のしかかってくる。

 

苦しみが楽になったとしても「あの失われた年月の間、ほかの人たちはどれだけ幸せを感じていたのだろう?それを自分は経験することができなかった」という嘆きは尾を引く。

とても、「終わったことだから切り替えよう」とは思えない。

きれいな服を着て、おいしいものを食べて、風の気持ちのいい日に歩き、歓談し、学ぶ、旅をする、そういうことが一切かなわなかった日々のことを思うと、胸がかきむしられる。

自分の意思をねじ伏せられ、支配されていたら、その苦しみは相手にだけではなく、自分にも向かう。どうして、そこから逃げることができなかったのかと。

悪いことに第三者も「逃げればよかったじゃない。自分の意思でしょ?縛られてたわけじゃないんだから逃げようと思ったら逃げられたんだから、本当は逃げたくなかったんでしょ」とまで言われるのだ。

過去を思い悩んでくよくよしていると、その間の時間も失われる。

三年、意図しない苦しみの日々を過ごしたら、それを悔やむ時間も三年以上かかるのだ。そうすると、体が動く自由な時期を失った、楽しめなかった、とまた苦しむ。

だから、たった三年、とは言い難い。

その間に得るはずだったものを身に着けられなかったから、同世代の人よりも遅れを取り、うだつの上がらない人生を送ていて、その遅れやスキルのなさを追いつけないと思うと、とてもつらい。

わたしがそこから少しでも抜ける時間ができるようになったのは、周りの支援があってこそだ。支援があって、努力する気になった。失敗を恐れず、自分の人生を生きるべく、冒険に挑戦した。そういう形で、わたし自身も努力した。

失敗するなんて馬鹿だ、と嘲笑する人はいた。そんなことをしなかったらよかったのに、とも言われた。

でも、人生を早送りしてでも、自分の思う「普通」になりたかった。だから、わたしはたくさんの失敗に突撃した。そして、失敗の仕方を覚えて、穏やかな日々を手に入れた。

過去を悔やんで苦しむ日が亡くなったわけじゃない。でも、そんなとき、その苦しみから逃げる方法をいくつか持てるようになった。

助けを求める相手も増えた。友達はライフステージが進むにつれて、減っている。

でも、また新しい人と出会えてもいる。

Twitterで「友達は季節に咲く花」と言ってくれた人がいた。

長く付き合うことは大切じゃないのだ。その時、助け合える人がいたならばそれはかけがえないことなのだ。

時間が解決するというのは、半分本当だ。でも、その半分は、いかに失敗するかだ。失敗の数が増えると安全な失敗をできる。それが人生経験となり、充実した人生をはぐくむ。失敗の自由が、人生の果実なのだ。


「なぜ騙されたの?」と聞いてくる人

こういう人はまずデリカシーがないので、これを言われたら、とっとと絶縁することをお勧めする。

または、「こうしたら騙されなかったんじゃないの?そういう考え方だからだmされるんだよ」という人もいる。それも屑だ。

 

騙されたと嘆いている人は騙されたことに気付く聡明さがあった人である。

「なんで騙されたの?」と言ってくる人は、自分も騙されていることに気付いていない場合もとても多い。

ツイーターでも見たが、「自分の思考の死角」になっていることを指摘してくれる人はありがたい。思いやり、親身になる気持ちがある人だったら、見当はずれだとしてもうれしい。

でも、「自分は騙されるようなバカではないが」「自分なら騙されないがあなたは間抜けだから」という言葉を隠して「なんで騙されたの?」と言ってくる人はバカなので相手にしなくていい。

実際、「なんであんなくずな人と結婚したの?」「なんでDVされたの?」「なんでレイプなんてされたの?」と聞いてくる人たちは、自分もマルチやネットワークやねずみ講に騙されていた李、DVに遭っていたり、搾取されていたりしていても、それに気づいていない人が多かった。外から見て不幸でも、自分が「なかったこと」にできればそれでいい人たちだ。

なんで騙されたの?と聞いてきた継母がマルチ系の化粧品ばかり持っており、五十万円の美顔器を買うだけじゃなくて、売るほうもやっていたのは衝撃的だった。「相手がほしがっていないものを売る、というのは、可能性を分けてあげるということなんですよ。いいものを教えてあげている、と思えば、相手のためになるんだ」という講演会にも行っていた。

「なんで騙されたの?」と言われたとき「そもそもお前は騙されていることにも気づいていないじゃないか」と思ったものだが、そういうことは多いらしい。

先日も、十年来の友人が傍若無人で失礼だった。

一年に一度、三時間程度会う関係で、ほとんど手が身でのやり取りだったことと、自分が最も弱っていてさみしい時にできた友達だったので、その人の思いやりのなさ、他人を人間だと思っていない、という点に気付かなかった。

その結果が爆発して、一週間近くたったがストレスが原因で今も咳が止まらない。

でも、その人に何がダメだったのか言ってもたぶん通じない。

跡から思えば、片鱗はあった。気づかなかった自分が憎い。

でも、一番の原因は、言葉を素直にそのまま受け取っていたことだ。

「わたしってすごいの」というようなことを意味することを言われたら「そうか、すごいんだ」と思ってしまう。

行動が伴っていない、言動が首尾一貫しておらず、言っていることが常に矛盾しており、言ったことを忘れて責任を取らない。

でも、言葉を鵜呑みにして、行動と食い違っていることに気付ていても、長年の付き合いだから、最初からエキセントリックだからと何とか自分をごまかしていた。

人が人を支配しようとするとき、巧妙に、その人を孤立させて、価値観を混乱させる。矛盾があっても堂々としていて、たいしたことじゃないと見せかける。

一方的に話し続けて、相手をマヒさせる。

どうして騙されたの?どうして支配されたの?どうしてそんなめにあったの?という人たちは、そういうことに遭っているはずだ。でも、気づけない。気付くと不都合だからだ。

そういう無神経な人たちは、気づいた人を攻撃する。騙されたことに気付けない人は、騙されたことに気付きたくない。だから、気づいた人は目障りなのだ。


説明されてもお礼を言わない男性

Twitterで、バズったツイートのリプライ欄を見ていると、

  • 知らなかったのか、間違った認識を持っている男性に対して、女性が説明している
  • 男性はその説明を理解したようなのにお礼を言わない
  • それどころか、「では、これはどうなんです?」という風に話題を変えていく

という場面を目にする。

なぜなのか。

それは、相手に敬意を払っていないからだ。

女性が何かものを言ったとき、男性の多くは(この注釈をいつまでつけなくてはならないのか、それを思うと気が遠くなる)、「聞いてやっている」とどこかで思っているのだろう。

相手が女性ならなおさらそう思うのだろう。だから、間違った認識を訂正することもなく、謝罪をすることもない。

「女性差別?僕の周りにはありませんねーw」

「もし周りにそういう人ばかりならお気の毒ですが…。でも、だからと言って、男性全体が差別しているとか、主語大きすぎませんか?」

「うちの父は家事してますよw」

というような人が説明されても、よくて「そうなんですねー」という反応で、お礼を言わないので、失礼だなと思う。

相手に失礼な態度をとっても、許されてきた歴史が見て取れる。それが当たり前だと思っている時点で、それは差別者だ。

 

「自分は女性差別をしていない、周りに女性差別をする男性が多いのなら、あなたは見る目がないか、そういう悪い環境に身を置く(ほどレベルが低い)のですね、どうして逃げないんですか?」ということを言う人は良くいる。

「僕はそういうのは見たことないですね」

「性犯罪に遭う女性が悪いっていう人いるんですか…?ああ、服装とかそれは聞きますよね?事件の詳細は聞きますよ、だって、防犯する必要はありますよね?泥棒に入られたくなければ、戸締りしろ、って言いますよね?それと同じことですよね。は?セカンドレイプ?何言ってるんですか、誤解です」

みたいなことを言う男性はたくさんいる。全部同じ人が言う場合もある。

まず、男性は女性差別を目にすることはない。差別は女性に向けられる。嫌だと思うのは女性自身なので、それを目撃したとしても、男性は「文化」「よくあること」「普通のこと」として認識するのではないか。まず、差別だとは思わないだろう。

日常的に行われており、自分の友達、親、そのほかのすべての人がしていることが、特別悪いことだと思えない人はたくさんいる。

部屋の中で、男性が入り口から遠い席に座り、女性が入り口に近い席に座っていたとして、その光景を見て、何がおかしいかぱっと理解できる人が何人いるだろう。

「そこまでして上座に座りたいの?」「別に俺も上座に座りたいわけじゃないし」という人はいるかもしれない。

でも「上」「下」を作られて、常に、そこに座れと言われ、そうじゃないところに座ると「親のしつけが悪いんだな」と言われる世界で、自発的に上座を選ぶ女性はいない。だから「女性は自発的に下座に座る」と男性は認識する。

男性でも、常に、食卓を分けられて、同じ席で食事させてもらえなかったら、苦しくなるのではないかと思うのだけど、絶対に自分の身に降りかからないことを想像することは、難しいらしい。

そうして、女性差別が目の前で起きていても、男性は、認識しない。認識しないので「女性差別はない」という。

性犯罪についても、そうだ。

例えば、男性の医師が暴行され、殺されかかっても、

「期待していたんだろう」「殴られたそうな顔をしていたから」「お金がありそうな服装をしていた」「あの時間、一人で歩かなければよかったのに」「強盗も、元気があってよろしい」「強盗にもお金が欲しいという事情があったんだろ」と言われることはない。

(男性が性犯罪に遭ったと言えば、同じ男性から茶化されて笑いものにされる。それは、男性は、自分も性暴力の対象だと認識したくないから、他人事にして、距離を取りたいという心境によるものだろう。性犯罪に遭った男性は「弱い」から、バカにしてもいいとも思っている。それが「男性の文化」である)

でも、女性は言われる。

家には鍵をかけることができる。家に鍵をかけても、家の人権を侵害することに張らない。

けれど、人間に対して「防犯意識を徹底しろ」という場合、それは、その人の、行動や、働く自由、住居を自由に選ぶ自由を、侵害する結果になる。

被害者に対して、服装や、態度を詮索することは、その人の「その人らしさ」を自由に表現する自由を奪っていることになる。

男性は、そんなことを「してもいい」と思っているから、上記のことを言うんだろう。

してもいい、と思っているのは、性犯罪の被害者が、たいてい弱者だから。

(これで、弱者、と書くと、被害に遭う、女性や子供を弱い人間だと思うのは差別的だ、という人もいる。性犯罪の被害者が女性だ、と書くと、男性も性犯罪の被害に遭う、という人もいる。フェミニストは、女と男の違いにばかり目を向ける、差別主義者だという人もたくさんいる)

 

弱者だと侮るから、モノ相手にすることと、人間相手にすることの違いが判らず、家に鍵をかけるのと同じことを、人間にも「すればいい」と簡単に言えるのだ。

自分が「こうすればいい」という助言ができるという認識も、性暴力に遭った被害者(たいていは女性だ)よりも、自分のほうが賢く、上の立場にあると認識していなければできない。

相手のことを思って、のつもりだろうが、相手のことを思うならば、違うアプローチはたくさんあるのに、それを模索することをさぼっているのだ。

さぼっていても、許されているのは、男性だからである。

人権感覚の欠如がそこから見て取れる。他者に対する人権を軽んじている人間は差別者である。

つまり、女性が発言したことや説明したことに対する態度から、その人が差別主義者だということが、被差別者にはわかるが、差別者は指摘されても認識できないという構造は、相手を自分の同等だと認識できない、ということから発するのだ。それが、説明されてもお礼を言わない、ということにもつながる。


身を守るためのフェミニズム

人権感覚を身に着けると、生きにくくなる面も確かにある。

長いものに巻かれたほうがその場では楽なのだ。

そういう処世術を選ぶことができる人もいる。

けれど、人権を侵害されたとき、それを人権侵害だと認識できなかったら、病気になったり、けがをしたり、財産や仕事を失ったり、最悪な場合死んでしまう。

何が人権侵害か、それは学ぶことができる。

人権を守らない、差別的な風土、家庭に育った場合、感覚がマヒしてしまっていて、何が差別なのか認識できない。自分の育った環境や感覚を擁護したいために、「差別なんてなかった」「これは差別じゃない」「文化である」「本人たちも進んで選んでいる」ということまで言うことさえある。

たとえば、男性に、女性が血みどろになるまで殴られたとして。周りが「そりゃ。あんたも悪い」「殴られるようなことをしたのが悪い」「いうことを聞いていたら殴られなくて済んだのに」という場面がある。

その場合、その人の周囲も、暴力に慣れており、感覚がマヒしている。だから、そういう環境で「殴られずに済む」処世術を磨いていっている。殴られる側も、殴られないための正解を模索している。それはある意味で文化と言えるかもしれない。だが、その文化は正されるべきだ。文化である、という釈明は、何の意味もない。

しかし、「殴られないための正解」というのは、殴る側が作り上げることなので、殴る側の気まぐれで、答えは変わってしまう。そうした相手の気まぐれで正解が変わる環境で暮らしていると、自尊心が減ってしまう。自分が殴られることをみじめだと思うと生きていられない。人はあらゆる選択を自分で行っていると思いたいものだと思う。それがたとえ歪んだ環境であっても、自分が選んでいることだと思えば、みじめさは減る。

 

女が選んでしていることだ、女が男を甘やかすから男が助長するのだ、という言い分は、因果を逆転して捉えている。

 

しかし、幸い、人権感覚については、学ぶことで、価値観を変えることができる。

殴ること、意見を言わせないこと、威張ること、モノに当たること、大きな声や物音を出すこと、モノを投げつけること、人の行動を制限すること、それは、あらゆる意味で対等ではない。

違和感をねじ伏せている期間が長いと、違和感に気付くセンサーが壊れる。

そうすると、暴力を振るう相手、差別をしてくる相手、そういう相手を避けることが難しくなる。

価値観をマヒさせたまま暮らせば、その場では楽に、慣れた処世術を使い、それがたまたま通用しなくても、「運が悪かった」「こっちが悪かったから」と思っていれば波風もたたない。

勉強とはなぜするのか。

人に搾取されないようにするためだ。

人権侵害をする相手に合わせて暮らすことは、人に搾取されているということである。性別で役割分担を勝手に決められ、または、本人が自発的に選ぶように仕向けられていたり、それ以外の行動を実質的に選ぶことができないのならば、それは性差別である。

「男性が家事育児をしているので差別はありません」という人がいるが、男性が家事をしていようが育児をしていようが、それはそこに差別がないという証拠にはならない。

フェミニズムを学ぶと生きにくくなる。それは、この世の中が、女性差別を中心にして動いている証である。

女が男の気分を損ねたら殴られるのは仕方ない、という世界で、「これは人権侵害だ」と言えば、「頭がおかしい」と言われるのは、被害者のほうである。

だから、フェミニズムを学べば、生きにくくなるのは当たり前なのだ。

しかし、フェミニズムを学ぶことで、人権感覚が身につくと、「この環境はおかしいので、自分には合わない」と認識することが可能である。致命的な出来事を事前に避けたり、避けられなくても、あとから、すぐに対応しようとできるようになったりする。

「これは、自分の利益にならない」「自分の利益にならないことは拒絶してもいいのだ」と学ぶことは非常に大切なことだ。

人の利益が自分の利益になるとは限らない、ということを、女性は認識しないように育てられる。だから、損をしていても、人のために尽くしてしまう。それが美徳だと信じてしまう。そうしているうちに、死んでしまう。

男性の中には「自分はそんなことは言わない」という人がいるが、そんなことはどうでもいい。実際、「女性差別的な言動をとる」男性がいて、それを支えるバックグラウンドが存在することと、「そうではない男性もいる」ということは成り立つので、反証にはならない。

 

人権感覚を身に着けると、人権感覚を身に着けた人と知り合うことができる。そこで、コミュニティを形成することもできる。

そうすると、殴られず、威張られず、脅されず、けなされず、バカにされず、自分の思うように冒険でき、自分のことを選択できるようになる。

誰もが自分の利を追求する世の中で、戦い方を覚えることができる。

どの性別の人でも、自分は我慢できる、という人でも、次世代の人にその文化を引き継がせないでほしい。自分が選んで我慢していたとしても、その子たちにその文化を継承させることは、やっぱり暴力だから。

自分が加害者になることから、身を守るためにも、何がしてはいけないか、知る必要がある。それが学ぶ意義である。


パンを分け合う

おやつにレーズンロールを食べていたら、子がはいはいしながらやってきて、椅子に両手を載せて立ち上がって、わたしの顔をじっと見た。

だから、わたしはかじっていないほうをちぎって、子の口に入れた。

もう、同じものを分け合って食べることができる。

子育ては思ったよりも大変ではなかった。わたしは悲壮な決意をして子供を産んだ。

出産時も、母子ともに危ないということで、帝王切開になり、退院してからすぐ、産後一週間後に、伴侶の身内の不幸があって、ひとりで子の世話を三日しなくてはならなかった。

そのため、産後の肥立ちも悪く、産後鬱になりかかった。どちらの両親にも一度も子を会わせたこともない。会わせるつもりもない。

地域の人を含めた、たくさんの人の手助けがありつつ、伴侶と二人で家を回して、子の命をつないできた。

出産後には一時の猶予もなく、子供の生存を保たなければならない。

思いやりよりも、子が泣いたら、起きて、おむつを替えてミルクをやる、という手続きがとにかく大切だ。そのプロセスが失われたら、この、小さな、首や関節がぐらぐらした、いい匂いのする生き物が冷たくなってしまうという恐怖があった。

 

それでも、子育ては、自分の親との不毛なやり取りで消耗するよりも、ずっと楽だった。

親の子供として、三十年生きてきた、自由を制限されてもそのことに気付くこともできず、自分をたわめながら、暮らしてきた日々よりもずっと楽だった。

おかしいという違和感を、理解してしまうと、生活ができないから、お室止めているうちに、体が違和感を表現した。わたしは病気になった。

病気になって、自分の親はおかしい、と気づきながらも、わたしは同時に自分の親のいいところを見つけようとして、酔っぱらったように、不安定だった。家を出たのに、呼び寄せられるように、すぐに実家に帰ってしまう。実家にはもう暮らしていないのに、自分が「家」と呼ぶのは、「実家」だった。

わたしは、無様に見苦しくあがいて、そして、今の伴侶と出会って、子供をもうけた。

嫌なことを言ってくる人とは、試行錯誤しながら接点を減らした。誰が大切でだれが大切じゃないか、何が大切で何が大切じゃないか、見極めるのは難しい作業だった。

今朝は、公園に行った。朝露が芝生を濡らしていたので、石畳の上を歩いた。乾いた芝生に子を置いたら、草がチクチクするのを嫌がって、伴侶の膝に座った。

みんなで麦茶を飲んでから、ゲームセンターに行って、DRSとDDRをして遊んだ。子は、それを見たり、おもちゃをかじったり、飲み物に入っていた、氷をもてあそんだりしていた。

帰宅してから、わたしはレーズンロールを食べた。食べ終わってから、洗濯物を干していると、子がやってきて、膝の中に座った。

子は、頭蓋骨さえ柔らかくて、ミルクのような甘い匂いがして、すべすべしている。頭髪はふわふわしている。「だあだあ」なのか「あぶあぶ」なのか、よくわからないことを言っているので、一生懸命聞く。かわいくなって、抱きしめる。子が抱きしめてほしそうな瞬間もやっぱり抱きしめる。

子供時代、自発的に何かすることをどんどん封じられていたのに、それと同時に「お前は、自発的に何もしない」と言われて、責められた。ゲームセンターに行ったことはほとんどなく、最近、心の中で「そんなものは無駄だ」といいう声が聞こえるのを振り切って、遊びに行ったら、とても楽しかった。ダンスゲームをするときにも「いい年をしてみっともない。うまくできないかもしれないのに。失敗したらどうするんだ」と母の声が聞こえるような気がしたが、無視して踊ったら、とても楽しかった。

働くのは大変、子育ては大変、家事は大変、とずっと言われてきた。だから、感謝しなさいと。

でも、家を回すのは、たいへんでも、楽しい部分が多い。絞り出すように感謝をするよりも、縮こまっているよりもずっと楽だ。

パンを分け合う人がいる今日のこの瞬間の美しさを目に焼き付けておきたいのに、どうしてもそれができない。