本を読まないフェミニストもまた尊い

以前わたしは、フェミニストならば本を読むべきとツイッターで発言した。

今は、撤回する。わたしは、本を読むべきと言わなければよかった。

わたし自身は、読書をする環境や資質に恵まれ、図書館の使い方も熟知しており、大学では、読書にほとんどの時間、四年間を費やした。

わたしが精神疾患を発症したのは、16歳のころだと思われるが、そのときに、集中力や体力の多くを失ったものの、本を読む力はまだ残されていた。

わたしが精神疾患を発症した理由は、社会の女性蔑視によるものだと理解したとき、わたしは本に感謝した。

わたしにとって、読書とは、今ここにいない知性との対話の時間であった。わたしはひどく寂しかったから、いつでも誰かの考えを知ることができる読書は、ほとんど人との関わりと同義であった。人と会話するような気持で、すがるように読書をした。

今、わたしは、読書をする体力が本当にない。時間もない。一日二冊読んでいたことが信じられない。一か月に二冊読むのがやっとだ。

それでも読むことができるのは、子供時代から、本を読むという技術を身に着けていたからだ。本を読むという作業は、字を追い、意味をとり、文と文の間で意味をつなぎ合わせる根気のいる作業だという言葉を知って、わたしはとんでもない勘違いをしていたと悟った。

わたしが、本を読むべきだ、と言ったことで、プレッシャーを感じている人を想像した。ぞっとした。本を読まなければフェミニストになれない、フェミニズムを語れないなんて、そんな馬鹿な話はないのに、わたしはそんな馬鹿なことを言ったのだ。罪に震える思いだった。敷居を高くすることは悪だ。

アカデミックのフェミニズムが本当のフェミニズムだと信じていた。わたしはアカデミックに学んだことがなかったから、それを負い目に感じていた。

それでも、わたしは、フェミニストの目で、大学の授業からも、男女の待遇の偏りを知った。刑法において、性暴力の扱い方は女性に不利で戦うことができないように思えた。民法でも、自分の子供が子供だと主張すること、育てる困難、産むか産まないかの自由から始まって、女性が自分の健康と財産を守ることが、法律によって不可能になっていることに気付いた。

わたしは、ジェンダーの専門の学者にあこがれを持った。彼らは、真実を知っているのだ。わたしは知らないのだ。そう思った。

わたしは、フェミニズムよりもウーマンリブのほうが好きだった。女が、貧しい女が、学ぶことができなかった女が、戦っていたから。

わたしは、大学を出たから、恵まれていて、それが誇らしく、そして、恥ずかしかった。

本は高価で、図書館に行く時間があるかどうか、読む時間があるかどうか、邪魔されないかどうか、そもそも何を読めばいいのかわからない、という問題がある。

今、わたしは、どの本を勧めればいいのか、わからない。大学生の頃に読んでいた本しか勧めることができない。そして、ほとんどの題名は忘れてしまっている。今、これから読むべき本もわからない。調べる時間もない。

そんなわたしが、フェミニストならば本を読むべきと言ったのだ。どれだけ恥ずかしいことを言ったのだろう。今はとても後悔している。

本を読めば、様々な疑問が氷解する。考えに行き詰っていた箇所が流れる。新たな視点を得る。自分の周りにいない人間の考えの蓄積に触れることができる。とても有用だ。

逆に、学者のフェミニストにも、種類があり、対立があるので、正解があるわけでもないから、混乱する面もある。読みながら、それらを取捨選択し、精査する必要がある。本を読むのは一冊読めば終わるわけじゃないのだ。

読書は、あってよかったというものであって、どうしても必要なことじゃないのだ。

必要なのは、女性差別について、おかしいと感じる心だ。おかしいと感じ、それを表現する自由を渇望する魂をもっとも尊ぶべきではなかったか。

わたしはそれを失っていた。わたし自身のコンプレックス故。わたしが学者ではないから。わたしのフェミニズムは間違っているといつも思っていたから。

わたしは、言いたい。一人一人に、その人の戦いがある。それがフェミニズムだと。ウーマンリブのように、形而上ではなく、形而下、つまり現実で戦うことが尊いのだと。


女性差別を語るときクソコメントがやってくる

フェミニズムや女性差別について語ると、何も読めない人がやってきてクソコメがくるのを可視化してみた。

これは、2015年のはてなブックマークです。http://b.hatena.ne.jp/entry/c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

元記事は、http://c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

今と全く変わらない。

データがない、非論理的などと言いたい放題。フォローすると、一部は、ちゃんと読んで意味が分かっている人もいる。でも、それはやはり少数派である。下の画像の人工無能みたいなコメントを飛ばす人間は多い。

データというのは、問題が可視化してはじめて「データを取って検証しますか」ということになるので、問題提起がはじめにある。問題提起がなければ、調べることもできない。何について調べるのか、それが問題なのだ。

今、女性差別について考える人が多いので、いかに女性が差別されているのか実証するデータがネット上で簡単に見つけられるほど増えた。それは、女性差別について考え、発見し、発言してきた人の成果でもある。

情報の非対称があるんだから、については、「情報の非対称」という言葉は強者から弱者について使うべき言葉じゃないから、意味不明である。

データがない、非論理的と言っているが、実際に、医学部では、入試の不正がずいぶん以前から行われていたのは明らかになった。

また、わたしが自分のブログでいちいちデータを提示しなくても、調べれば済むことである。わたしがなぜ労力を費やさなくてはならないのだろうか。データの提示をしていることもあるが、それは完全にサービスであり、善意である。そして、データを示しても、彼らはそれを読む素養がないので無意味なのだ。データやらソースやらよこせよこせという彼らは、データもソースも意味を取れないのだ。

しかし、実際のところ、こういう無意味で愚かなコメントであっても、心にずしりと重くなる。どんなに意味がないとわかっていても、罵倒というのは、人を疲弊させるのである。

わたしも委縮して書くのをやめたり、書き方をマイルドにしたりもする。

想定している読者は、アンチフェミニストではなく、フェミニズムに触れたことがないが、今後、この思想が役に立つかもしれない人に向けてなので、彼らが読んでわかろうとわかるまいとどうでもいい。以前は、彼らについても啓もうしようと頑張っていたが、あまりにも言葉が通じないのであきらめた。

例えば、TM2501は、経験談すらないと言っているが、経験談を書いたところで「個人の経験に過ぎない」という人間が現れるのでやはり無駄なのだ。また、一つのエントリで、データや、ソースを交えながら、論を進めるのは難しい。ほかのエントリでやっている。やっていても、それは違う方向の罵倒を受ける。

データやソースというのは、誰かが疑問をもって、問題があると認識したときにようやく調査が始まるものだ。自動的に存在しているわけでもないのに、彼らは、データソースと言いたてる。彼らには、先行して考え調査する人間に対して敬意がないのだ。敬意がない人間のために、どうして時間を費やさなくてはならないのだろうか。時間というのは命である。命を減らす義理はない。

彼らは、無知を武器にしていて、どんなに説明しても、無知のままである。

宇野ゆうかさんをはじめ、様々な人が言っているが、「どんなに説明してもわからない」というのは、ハラスメントであり、攻撃であり、権力の誇示なのだ。わたしがどれだけ説明を積み上げても、理解というゴールは、質問者がどんどん遠ざけてしまうので、絶対に彼らは無知から動かない。無知をもって疲弊させることが彼らの攻撃なのだ。わからなければなかったことになる。それが彼らの勝利である。

そうした、不誠実な人間に対して、どうして誠実にふるまう必要があるのだろう?全くない。

フェミニストをしていると、「この差別についても考えろ」とよく言われる。

例えば、わたしは障碍者差別についても書いたことがあるが、例えば、「男性差別や男性の解放のことも考えろ」とは言われたことがない。女性差別について考えると、あらゆる不公正や差別についてもアクションしろと迫られる。

ミヒャエルエンデの「鏡の中の鏡」で、ある試験を受ける青年が、いろいろな頼みごとを受けていった結果、不合格になるという物語がある。

彼は、「幸福でい続ける」という試験を受けていた。いい人であろうとして、様々な頼みごとをきいているうちに、背負わされるものが増えて、飛ぶことができなくなり、落第して、落伍者の町から永遠に出られなくなる。

フェミニストが、女性差別以外について、コストを割くというのは、鏡の中の鏡の試験と同じ轍を踏むことだと思っている。飛べるようになるためには、このようなくだらないコメントを超えていかなくてはならない。

それでも、目にすれば心が重くなる。そういう環境の中で、女性たちは声をあげているということを知ってほしい。何かしろというわけじゃなく、ただ、差別をするなと思う。わたしもほかの差別をしないように心がける。でも、それだけにする。お互いにそうしよう。罵倒に負けるななんてとても言えない。勝ち続けているはずの彼らはこんなにもみっともない。

それにわたしはいつも負けている。それでいいのだ。負けていて何が悪いのだろう。最初から、負けている。それが差別を受けているということなのだから。


三大悪男はいない

歴史を教えているとき、三大悪女について話していました。

そのときに「三大悪男はいない。それは、歴史を書いたのが男だから」という話をしました。

男視点の歴史では、自分の信じる女と違う行動をとるものを”女”と分けます。それを悪女と呼びます。

フェミニストをアホフェミと呼ぶのと同じことです。自分に都合の悪い行動をとるものは、普通の者ではないと区別する必要があるのです。

曹操のことを”悪男”と呼ぶ人はいません。
武則天はたしかに恐ろしいですが、自分の係累を殺して、敵対者を皆殺しにした男は数えきれないほどいます。

悪女に対する言葉として、”悪漢”をTwitterで提案されましたが、悪女が、貴族王族政治家から始まって、上から下まで使われる言葉なのに対して、悪漢は、野卑な男についてしか使われません。身分が低かったり、貧しかったり、教育のない男にしか使われないイメージですがどうでしょう。腕力以外のパワーに乏しいイメージです。曹操って”悪漢”ではないですよね?極悪非道で頭がいいから人気があるのだと思います。

歴史上極悪非道な男はたくさんいましたが、それを一言で表す言葉は、いまだありません。日本語は、特に男をののしるための言葉に乏しいのです。女性をののしる言葉はたくさんあります。そこが、言葉の非対称でもあり、歴史の非対称でもあります。女偏の漢字は、悪い感情を表すものが多く、男偏の漢字はそもそも存在しません。それは、女というものがイレギュラーであるため、特別に言葉を作っておこうという考えの総意ではないでしょうか。実際には、人間の半分は女なのですが。

このことが示唆しているのは、言葉や歴史の見方が男視点に偏っていることです。

 

 


自然の中のちんぽ

痴漢は”自然化”されて、人間の仕業だということが隠されています。

「仕方がない」と諦めるように促す行為が、痴漢を自然化して、人間の仕業だということを隠す行為なのです。

「あいつらは人間じゃない」という非難の言葉も同じです。人間だから、責任があるはずなのに、人間じゃない、となったら、責任も問えません。社会の成員でもないのなら、痴漢をはじめとする性暴力を社会の問題として考えることができなくなります。あいつらは人間じゃないという言葉は、「自分とは関係がないこと」といって、周囲の、社会としての責任放棄を正当化する言葉なのです。

本来ならば、断固として許さないという姿勢をあらわにする必要があります。

どこか、仕方がないこと、しょうがないこと、と社会全体が考えているから、性暴力者は「仕方がないこと」「よくあること」「たまたま自分だけが罰せられたこと」と考えるのです。

 

だから、自然としてのちんぽということについて考えてみたいと思います。

 

二項対立という考え方が昔ありました。

例えば、男と女をわける。論理的と感情を分ける。人工と自然を分ける。

この順番には意味があって、男は”論理的で人工的”、女は”感情的で自然に近い”。

前者は優れていて後者は劣っている。女には子宮があるから、子宮でモノを考える。女が怒れば子宮のせい(ヒステリー)だと病名までつく。女が精神病になると、「彼女は自分にペニスがないことを気に病んでいるからだ」と高名な医者が言う。これって、わたしの子供のころ大真面目に信じられていました。

今でも信じている人は多いようで、わたしのブログに「感情的」「気持ちだけで主張している」というコメントはよくつきます。感情的に、自分の気持ちを語ることの何が悪いのかさっぱりわからないのですが、彼らは、感情をあらわにすることはとにかく悪いことだと思っているようです。感情について「冷静に」語ることもできますし、激高しながら論理的に感情について説明することもできます。

感情的、という言葉を目にすると「我を忘れて支離滅裂なことを言う人」ということが連想的に思いつく人は、それ自体が「論理的」とは言い難いのですが、そこまで深く考えることをしないのでしょう。

小学生の時「女は自分にペニスがないことを気に病んで子供時代を送る」という文章を読んだ時、まだペニスを見たことがなく、ペニスという言葉も調べなければ知らなかったので、そのばかばかしさに呆れかえったものでした。こんなバカなことを論理的に語るなんて。最初にゴールを決めてから論理を組み立てても、正しい答えに行きつくわけがない。

それ以来、論理性に疑義的な気持ちが生まれました。道筋が正しいことは答えを保証しない。問いの正しさが、すべてなのだと。

よく、痴漢に対して「痴漢をどうにかするしかないのだから対策するしかない」という人がいます。

実際、子を持って驚いたことですが、今どきの子供は、スカートを素足ではいている子はほとんどいません。スカートの下には、必ずスパッツかズボン、タイツを履いています。変態の恐ろしさが周知され、子供の服装が変化したのです。

わたしは思うのです。

どうして、変態をなんとかしようとしないのだろうか、と。

「変態をどうすることもできない」と多くの人は言います。

それって、昔、誘拐を神隠しと言っていたのと何が違うのだろう?

どうにもできないことを、「神」「自然」の力の仕業だと覆い隠すことは、昔の生きる知恵だったとは思いますが、今、必要なことだろうか?

「ちんぽの加害は自然なことだから、どうすることもできない」ということでしょうか。「性欲は本能だから」とよく聞きますね。「性欲がなくなったら人間は亡びる。それでいいのか」と。

滅びればいいと思います。また、性加害の結果、人間が増えたとしても、それを育てるのは誰なんだろうか?人間は、生物の中でも最も保育のための年月がかかる生物なのに、射精して受精したら殖えると考える人は、果たして人間としての資格があるのだろうか。そして、ちんぽに独自の意思があり、コントロールできないという人は、自分の知性を放棄して、悔しくないのだろうかと思います。

本来、自分の欲をコントロールできない人は、社会の中で暮らせません。誰もがルールに則って暮らしているはずです。しかし、あらゆる場面で、男性の性欲に関しては、制御できなくても仕方がないというメタメッセージが発せられています。

わたしが子供のころ、道を歩いているだけで、変態が「いくら?」と声をかけてきました。体をいくらで売るのか?と聞いているわけです。そのころ、援助交際がセンセーショナルに報じられており、大人たちは、子供が自分から体を進んで売ると信じていたのです。「売る人間がいるから買うのだ」と大人たちは子供に責任を取らせようとしていました。わたしは、体を売るために道を歩いていません。でも、「売る人間がいるから、買う人間がいる。それは経済学的に正しいのだ」と大人は言っていました。売っていないのに。買うつもりでいる。報道を信じている。妄想と現実の差が分からなくなっている大人の男がそこかしこにいました。

 

大人に訴えましたが、一顧だにされませんでした。「魅力的だと思われたのでしょう。思われるうちが花だよ」と言われました。彼らも妄想と現実の差がつけられていなかったのです。

スカートを素足ではくと、変態に目を付けられるかもしれないから、下になにか穿いておこう、男性が向かいから歩いてきたら、すれ違いざまに何かされるかもしれないから身構えておこう、そう防衛するためには、

いつも変態のことが脳に張り付いたようになります。

「自衛をしろ」という人がいますが、自衛をするためにはあらゆる瞬間に「変態ならこうするだろうか」ということを考え、変態の行動を調べる必要があります。そうすると、脳に非常な負荷がかかります。性暴力に遭ったことのある人なら、常に加害された経験のことを思い出す状態です。それは、その負担がなければできたかもしれないあらゆる機会を失わせます。

(防衛のためにしていることを「加害者の視点を身に着けた被害者」と揶揄する人までいてめまいがしました)

 

最初に戻りますが、「男は理性的or論理的」なのに、ちんぽについては、それは適応外なのです。人工の代名詞であるはずなのに、男は、股間にぶら下がっているたった一つの臓器だけは、彼の自然を象徴させます。股間のものを息子と呼ぶ人もいます。自分とは違う人格を持っているのだ、という人もいます。

 

彼らは、ちんぽを自分とは別のものとみなし、ちんぽに関する自由を一生懸命求めます。それは、彼らが自分自身の中で自然を感じられる唯一の場所がちんぽだからなのでしょう。ちんぽは、ちんぽ自身の”自然”と、”女性という自然”とつながれるたった一つの臓器だから。

男が論理的で感情的ではない、という理屈と、性加害を行うほとんどの人間が男であるという現実は、本来成り立ちません。性加害の動機は、支配欲と加害欲だからです。しかし、それを両立させるためには、男は、自分とちんぽを切り離さなくてはなりません。そうしなくては、矛盾するからです。

社会は、男性によって牛耳られています。そして、女性は、それを維持するために、常に「劣ったもの」として欲されています。「優れている」はずの男が、「劣っている」はずの女を求めるのは一見矛盾のように思えます。

しかし、それは、現実には劣っているか、優れているかで二分し対立させることができないものを、無理やり対立されているから起きる矛盾です。

放火魔を誰もが憎めます。しかし、性加害者は見えなくさせられます。放火された人に「放火されたなんて知られると恥ずかしいから届けるのはやめたほうがいい」という人はいませんが、性加害された被害者に黙っておいたほうがいいという人はたくさんいます。被害者がいなかったのだから、加害もなかったのだというわけです。

被害を表ざたにする人に対してはこういいます。「隙があったのだ」と。

これはちんぽを”自然化”する行為です。また、ちんぽの持ち主の”人格”や”判断力”を無化する行為です。男が女を襲うのは自然なことだから、あきらめたほうがいい。自衛するしかないと。

被害に遭った女は”だから女は感情的でダメなんだ”(歴史的にも性虐待を訴えた女性の症状はヒステリーと呼ばれ、収容の理由になりました)、”証拠がない”とののしられます。隙を見せて誘ったのだろうと言われます。隙を見せることと誘うことは、まったくつながりがないのですが。

普段、女性は口をふさがれています。そして、「女は自分から言葉にすることができないのだから男が察してあげるのがやさしさ」という風につながって、女の隙はOKのしるし、と性加害視点の男独自の考えにつながっていきます。女を黙らせることと、性加害の正当化は、つながっているのです。だから、性加害視点の男は、女を黙らせるのに必死なのです。

逆に言えば、女を黙らせようとする男は、加害者に利することをしています。それは、加害者と同じ立場です。

 

女は”自然”で”劣っている”。

男は、”人工的”で”理性的”である。

しかし、男のちんぽは、理性では制御できない。性加害は”自然な”ことだ。

ここにはねじれがあります。女性に性加害をする男は、報酬として自らを差し出さない女を恨んでいるので、その恨みを晴らす手段として性加害を行います。

そして、社会は、そのことを”自然”といって許すのです。


男にはちんぽがある

男にはちんぽがある。

ありていにいえば、ちんぽがあるから、男は支配階級であり、そのため全能感に浸る。それを揺るがすものは許さないばかりか、揺るがすものを傷つけ支配しなおすことで、さらなる全能感に浸るのである。

男が男であると最初に認められるのは、誕生の時点である。そのとき、取り上げた医師によって、赤ん坊は男になる。彼が男であると認識されたのは、股の間になる一つの臓器によってである。その臓器は、長じるにつれ、社会的なシンボルに成長する。

男であるがゆえに優遇される。男であることを保証するのはちんぽである。彼らにとって、ちんぽがあるかどうかは、仲間として認められるかどうか、とても重要なことなのだ。

だから、男は、いつでも「俺にはちんぽがある」ということを誇示したい。

彼らが社会的に優遇されているたった一つの根拠が、「ちんぽ」にあることを彼らはよく知っている。

彼らは、本当のところ、女性がどんなに悲惨な人生を歩んでいるのかどこかで知っている。だから、絶対に、女と思われないようにふるまう。それがたとえ、ネットの世界であっても。

彼らが女としてふるまう時もある。いわゆるネカマは、彼らがちんぽを誇示していることと矛盾しているように思える。しかし、それは、彼が男である現実の人格と、直結しない場であるときに限られる。体と人格が同一の場で、彼がもし「女のよう」だとみなされると、彼はそのコミュニティで最下層になる。

 

 

彼らは、ちんぽによって「全能感」「支配階級」を感じているので、それがもろいことも知っている。

それを補強するために、性暴力や、常に公共の場に提示されるポルノを必要とする。

彼らは、女を憎みながら、彼が支配階級に居続けるためのいけにえとして、女を必要としている。彼にもしモノにした女がいなければ、彼は不完全な男としてみなされる。彼はそのとき女を憎む。そうした状況に陥るのは、「モノにならない、拒絶する女が悪い」と思い込む。彼らは支配階級に属したいので、支配階級に反抗することは思いもよらないのだ。

男が男であるためには、ちんぽがあるだけでは不十分である。ちんぽを入れる容器としての女が必要なのだ。

男は、女を劣ったものとして規定してきた。それは、学問の世界であっても、思想の世界であっても、家庭生活であっても、経済世界であっても、どこであってもだ。

それは隅々にしみわたっている。

性犯罪は、女を蔑視し、憎むことで発生している。彼らは自分の力が通用するのか確かめるために、女の体を使い捨てる。女に人格があって、それが傷つくことで、どれだけ苦しむのか、考えもしないのは、彼らにとって、人間とは男のみを示すからである。

 


家の中の性差別・暴力

「妊娠出産のために仕事をやめ、知り合いが一人もいない場所に引っ越し。家事をしてほしいと夫に頼んだら、自分と同じだけ稼げるのかと言われた。捨ててきたのは、自分の世界のすべてだった。その痛みを愛する人にもわかってもらえない苦しみ」というのは、定期的にツイッターでよく見る。

家の中での差別構造について、ここで書いたが、「女性の賃金は安い。だから、仕事を辞めさせる。そして、家事をさせ、逃げられない状況で、夫が妻にモラハラをする」というループが生じる。

女の賃金が安いのは、「夫が外で稼ぐのだから女性は補助的な賃金で構わない」という社会通念、社会的慣習のためだ。

しかし昔から、単身者の女性はたくさんいた。単身の女性であっても、リストラの時に「彼には家庭があるから」といって、首を切られてきた。

彼女にも生活があったのに、彼女の生活は、「どうでもいいもの」として、扱われてきた。

裁判の時に、社会通念、社会的慣習は、法律の次に重い根拠となる。

社会的通念のために、生活が苦しいのに、社会的通念にそれを正当化される状況だ。

秩序を乱すことを嫌う人が多いが、秩序が人を苦しめているとき、その秩序は壊すべきだ。それを公民権運動という。フェミニズムは、公民権運動の一つなのだ。

「賃金が安いから、家事労働を長時間しろ」と夫が言い、「家庭労働を長時間するのだから、賃金を安くする」と社会が言う。

その中で、女性は一人で生きることが難しかった。社会運動をするにしても、社会運動でさえ、補助的な役割を強いられ、また、運動体でも性暴力に遭った。声をあげようとしても「社会運動をつぶす気か」と恫喝される。

社会運動からも排除され、社会のメインにもなれないできたのが女である。

経済的に圧迫されると、「モノを言うこと」すら、難しい。

家庭内の「誰に食わせてもらっているのだ」に象徴されるモラルハラスメントは、社会における女性差別を利用している。利用して、それを強化している。

前述した「モラハラ」は、女性蔑視を基にした、女性差別の再生産なのだ。

女性が一人で生きることが難しい状況、女性が子供を産みたいと願えば、結婚し、仕事をあきらめざるを得ない状況を利用することで、1人の人間を苛め抜くことができる。それは、男の万能感を満たす。

「女をモノにする」という言葉は「女を物にする」という意味だと、最近思い知った。物にすることで、男は「個」を承認されたと思う。何に承認されたかはわからないまま、彼らは承認欲求を満たし、満足する。彼らは深く考えない。

彼らは彼らの内なる社会に「男は女をモノにすることで一人前になる」という基準を持っている。一人の人間を自分の一存で生死を握れる。それを常に確認する行為が、「モラルハラスメント」として現れる。

そして彼らはどんどん狂暴になっていく。

自分を満たすためには、前よりももっとひどいことをしても、女が自分についてくるということを確認するしかないからだ。だから、すべてのハラスメントは激化する。

男が男であることを示すたった一つの根拠は、股の間にぶら下がっている一つの臓器である。医学的にも社会的にも、股の間にぶら下がっている臓器があるかどうかで、彼が男性かそうじゃないかを判断する。男性器というのは社会的なシンボルなのだ。

その臓器が彼らの力の源である。彼らが「男である」ただそれだけのことで、支配する側になる。だから、彼らは股の間のものを使いたがる。努力に応じて、女をモノにして使うことができなければ、彼らは女を恨みにくしむ。彼らは、女を報酬として受け取ることを権利だと思っている。

だから、彼らは女にどんなこともできる。

 

参考

あのね〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

女っていうのはね!!!!!

男のためのステータスとか!!!!!

賞品とかじゃね〜〜〜〜〜んだわ!!!!

努力に応じて与えられるべき報酬として女を見るのはええかげんにせぇ!!!!!

こちとら人格があるんじゃ!!!!!

どんだけその股座の棒と玉に支配されとんねん!!!!!!


女の賃金・男の賃金

女の賃金は低い。誰と比べて?男と比べて。正社員同士で比べても六割から七割。そして、女性は非正規雇用が多い。いわずもなが、非正規雇用の賃金はさらに低い。

女の賃金が低ければ、時間をかけて、男性の賃金も低くなる。

職場での正社員の数が削られ、非正規雇用に置き換えられていくからだ。同じ仕事をするならば、非正規雇用にやらせたいと考える経営者が多いからだ。

同一の会社であっても、女の賃金のほうが安い事例もたびたび見てきた。

出産、育児で休んだら、当然のごとく出世の道は断たれる。新卒一年後の時点で男性よりも手当や昇給が違っていた人もいる。人事の裁量によって部署配置が決められるので、会社の規定の範囲内でそういうことが起きるのだ。

女性が育休を取り、男性が取らない時、男性側の会社は、盗っている。女性の会社から盗んでいる。休みに伴うコストを。だから、男性ばかり採用する会社は泥棒なのだ。

 

同質性の担保された内側でいくら競争しても、それは、内輪の競争に過ぎない。何を言っているかと言えば、

の「ダイバーシティ抵抗勢力」とは、「日本人」「男性」「高学歴」の属性を持つ人間だと分析されている。

これらの人々が、それ以外の人々を職場から排除する。

「男性の賃金を上げるためには女性の賃金をあげざるを得ない」という利己的な理由でも、男性たちは、女性の賃金を上げることを拒む。

女性は、安い賃金で働かされ、また、たいして賃金を獲得しないからと言われて、家庭内でも長時間の家事労働に従事させられている。

そして、家庭での長時間の家事労働があるから、子供を産むから、という理由で、「女の安い賃金は正当なのだ」と脳に刷り込まれて、それがおかしいということもできない。こんがらがっている根元を探せば、そこには女性差別がある。

社会は「女性が家庭を支えるものだ、だから、賃金は安くてかまわない」と言い、家の中で夫は「賃金が安いのだから、せめて家庭を支えてもらわなくては困る」という。これは女性差別なのだ。人権問題だ。

これから、消費税が上がるので、非正規雇用・低賃金・低学歴・障害者・病身者の女性たちのことが心配でならない。

 


人付き合い

わたしは人とうまくやれないなと気付いたのはかなり幼い時だった。なにかなじめなかった。

そのまま大人になって、自衛として礼儀正しくしようと心がけた。感情をおもてなしするのは難しくても、礼儀正しさというのは、理屈で積んでいけるものだからだ。

礼儀正しくない人は、価値観が合わないから付き合わなくてもいいとルールも定めた。

だいたい、人と人とうまくいかないのは、距離が近すぎることが問題だ。

人はさみしくなるものだから、距離が遠いと感じたら、近づく努力をする。そうして、双方が納得すればより親しくなるし、そうでなければ疎遠になる。

自分が疎遠になることを決めたらその理由は知っているので納得しやすい。でも、相手が疎遠になることを選んだ時、心がちりちりと痛む。

痛みをなんとかしようとして、より大きな問題を引き起こしてきた。たいていは、その人に向かって理由を問いただそうとしたり、無理やり連絡を取ったりすると事態が悪化する。

だから、疎遠になったことに気付いたら、自分で気を紛らわせることをしたほうがいいい。

疎遠になった相手と話せることは何もないのだとわかるようになってから少し経つのだけど、まだ慣れないでもいる。


男女間の”役割分担”の条件

男女間の”役割分担”が成立するときは、それが交換可能かどうかが必須になります。交換可能ではなかったら、それは”役割分担”ではないでしょう。

わたしの家でも、平等ではないです。それは、わたしのほうが賃労働でもらえる単価が低く、労働時間も短いからです。だから、わたしは、家を維持するためには、伴侶に賃労働の主たる担い手になってもらい、わたしが家事の主たる担い手になるしかありません。選んだ結果ではありません。家事労働することを自発的に選ぶことができません。それは、伴侶もそうです。

家の中の社会は、家の外の社会が反映されています。家の外の社会が、「男のほうが働きやすい」社会である以上、家の中でもそれを踏まえた社会にならざるを得ません。

 

「女性は出産、男性は力仕事(狩り、お金を稼ぐ)を担当するのは、役割分担だ」という言い方をみます。

でも、力仕事で人はすぐには死なないけれど出産ではよく死にます。わたしも選べるなら、出産より力仕事のほうがいいですね。私の場合、母子ともに危険になり、ほぼ三日にわたる陣痛のち、カイザーになりました。カイザーって、おなかだけじゃなくて臓器も切るので痛いです。医者が腕を肘まで入れて臓器から赤ちゃんを引っ張り出すんですよ。引きはがすときにべりべりと音がしました。そしておなかの中を洗浄します。

だから痛いけど、心無い助産師に「切ったら痛いのは当たり前だから我慢して」と言われました。そういう痛みを選びたいか?

伴侶は、私が死ぬかもしれないと思っておびえていました。

比較にならないものを並べるのは詭弁です。

「わたし、出産が怖くて嫌だから代わって」と言ったことがあります。「代われるものなら代わりたいけど」と伴侶は言いました。そうです、代われないんです。力仕事は代われます。ほかの人に頼んでもいいですね。でも、出産は、そうはいかない。(代理母というものがありますが、ここでは話が違いますので)

わたしが小学生の時「女子は掃除、男子はサッカー。役割分担だから」と言われたことがあります。サッカーが好きなわけじゃないけれど、サッカーのほうがいいです。でも、わたしは選べなかったんです。こういうのは、”役割分担”とは言えません。何の役割なんだろう?サッカーって。男子が遊ぶことで、集団にメリットが発生するのだろうか?

集団にメリットが発生しないことは、そもそも”役割分担”じゃないですよね。役割分担という言葉は、押し付けられる側を黙らせる機能を持っています。

女性は出産があるから、仕事をやめるだろうと思われて、賃金が安いため、男女間では、どちらかが仕事をセーブしなければならない時、女性がセーブすることを選ばなくてはならないことが多いのです。そして、セーブすれば、出世できない現状があります。よく、アンチフェミニストが、男は育休を取りたくても、出世できなくなるし、周りが変に思うから取れない、と言っていますが、女性も同じです。出世できなくなります。そして、女性は、賃金が安くなる→家事育児をしてくれ→ますます仕事をセーブせざるを得ないというループに陥れられます。

(余談ですが、女性の賃金が安いと、男性の賃金もつられて下がります。そりゃそうですよね)

こういうのは、対等でもなく、役割分担とは言えません。

仕事か家事育児か、を女性の自由な意思で選べる状況ではないわけです。

女性よりも男性のほうが賃金労働しやすい社会である、という前提があります。だから、アンチフェミニストは「男性が働いて女性が家で支える」ということをいいます。

でも、考え方を変えれば、女性よりも男性のほうが転職先が見つかりやすく、パート以外でも仕事が見つかりやすいので、収入も落ちにくい、だから、男性のほうが転職をして、女性が同じ仕事を続けるというのも同じ状況でありえます。でも、このやり方を選ぶ人はほとんどみません。

差別的な社会状況があるから、それに乗って同じようにふるまうことは必須ではないのです。

そもそも、今は、ダブルインカムが主流になっています。だから、「男が大黒柱」はできません。それなのに、女性がかいがいしく、ハウスキープをして、子供を身ごもり、産み、育てています。そのうえ賃労働をして、男性伴侶の実家のご機嫌伺い、近所づきあいもする。逆はあまりない。それはなぜでしょうか。

 

わたしが知っている男性は「女性にはかなわない」「女性はこまやかだから」と、家事を女性がすることを必然のように言う人がいます。でも、ハウスキープに関していえば、あれは技能と責任感によって行われるものなので、女性である必要はないのです。

 

わたしの家では、わたしが工具を使った作業、裁縫をします。重い組み立て家具でも、わたしが一人で作りますし、家電の設置や修理もします。でも、皿洗いと洗濯物畳みは大嫌いなので、それは伴侶が主にします(わたしもします)。でも、どの作業も、得意不得意があっても、お互いに交換不可能な家事作業はありません。普段、これは自分がやり、それは伴侶がやる、ということが何となく決まっていることでも、相手ができない時には代わります。役割を固定化させないことが大切です。でも、固定化してしまいます。社会の差別構造が、家の中にまでやってくるからです。

それは、意思や思いやりや愛情ではどうすることもできません。

「お前は一生、皿洗いだ」と言われたらいやじゃないですか?自分の分だけならともかく。でも、家族を持った女性は、一生皿洗いをします。たいていの場合。

一緒に住むうえで、「気が付いたほうがすればいい」という人はたいてい地雷でした。こちらにとっては、「気が付いたら損をする」けど「気が付かないと家が崩壊する」という感じ。だいたい、押し付け合いになり、負けるのはたいていこちらなんですよね。いつもこちらが気が付きます。もうそこまでいくと「やって」というのもめんどくさい。

「ここ、汚れているよ」と言われる始末でした。気が付いたほうがやるんじゃないのかい。建前も守れないのか、とわたしは頭にきました。

 

そういう過去のパートナー達は稼ぎもよくないのですが、家の中ではでーんとごろごろ鎮座していました。でーんとしているつもりもたぶんなく、デフォルトがそうなんですよね。稼ぎも悪く、家事もしないならいらねえと思って出て行ってもらいました。でも、彼らは、なぜかがわからないんですよね。説明しても。(なぜかセックスが悪かったのかと考える屑もいました。たぶん、女性は「性欲」で管理できると考える屑だったのですね。お恥ずかしながら、屑って、付き合わないとわからなかったんですよ。あと屑が多すぎます)

 

説明してもわからないので、役割が固定化されていたのです。分担じゃなくて、わたしが一方的に負担を負っていました。こういうのは、”役割分担”じゃない。”役割専任”?

ごろごろしているのと家の中で立ち働くのとどちらか選べるなら、ごろごろしているほうが良かったです。選べない、というのが肝なんですよね。向こうは選べない状況にもっていくのがとてもうまいのです。わたしにはとてもかないません。いろいろ、精神的に攻撃してきます。「普通」「ちゃんと」とか言って。

わたしが「選べない」のはなんでか、というと、女だからです。社会構造がそうなっています。愛があれば乗り越えられるという人もいますが、構造から言えば、愛も搾取の対象になります。「愛しているならできるはず」という搾取です。

「本当に愛していたなら何もかも捨ててついていく選択もあったはずだよ」とは実際に言われた言葉です。何もかも捨てたら、どうなるでしょうか?

逃げる力もなくして、うまくいかなかったときに、誰も責任を取ってはくれません。不幸になった女性は、たいてい自業自得と言われます。それに、わたしの人生は、愛よりもずっと大事なのです。

役割分担、という言葉は、たいてい「パワーの差」をはらんでます。女の子は家事育児ができるように育てられ、男の子にはそこまで教えない、という家庭は多いでしょう。その「できない」ということも「パワー」に含まれます。女の子ならできるよね、と生まれてこの方浴びせられた「期待」みたいなものも抑圧に働くパワーです。

 

そのパワーというのは、「女性蔑視」に基づいています。女性を蔑視することで、男性が持ち上がります。そして、男性が女性に対して力を持つことができます。これが差別構造です。だから、男性にとって、差別というのは気が付くことができないし、気が付きたくもない、不名誉な事実なのです。男性は「構造の話」をしても、あまり聞きたがらないのは、構造の上部にいるからでしょう。

女性蔑視や女性差別構造がある限り、家の中で、男女間が平等に役割分担をすることはできません。

 


「お気持ち」「まなざし論」に対する反論

わたしの嫌いな言葉に「お気持ち」「まなざし論」というのがあります。

客体化という概念は、社会学でもフェミニズムでも普通にあるので、なぜそこがひっかかるのか謎です。

女性はエロい目で見られたら気分が悪くなり恐怖を覚えます。

男性にとって、エロい目で見られることは楽しいことなのかもしれませんが、女性にとっては恐ろしいことです。危害が加えられる前の段階だ、と認識する人が多いでしょう。

モノ扱いされたらいやだ、モノ扱いされると、拒否しても拒否が通らない、という経験をしている人が多いからです。

オタクはよく、「キモイっていわれる」「迫害される」というけれど、もしそうなら、「キモイなーと思われているのが目でわかる」はずじゃないかと思います。

もしくは、「あいつからカツアゲしよ」という目で見られてたらわかりますよね?

よく、痴漢くらいで、という人や、やめてくださいと言えばいいという人がいますが、カツアゲされているときに「やめてください」と言える人ばっかりじゃないですよね。勝手に触ってくる段階で、通常の判断力を持つ人ではなく、考え方がおかしい人間なので、拒否が伝わるとは思えないだけでなく、もっとひどいことをされると思って怖いから言えません。

もし、強盗に遭ったとき、毅然と「やめてください。お金は出しません」と言ったら、殺されるかもしれないから怖いと思いますよね。それと同じです。

 

見ただけでダメなの?というけれど、ええ、ダメなんです。ちらっと見るのと、じろじろ見るのと、やっぱり違いがあります。そして、じろじろ見られたあと、ひどい目に遭ったことがあれば、経験上、それは嫌で恐ろしい行為になります。

女性がキレて怒ると、「ヒステリー」と言われるけれど、男性にはそれにあたる言葉がありません。男性は怒っている状態に名前を付けるまでもないわけです。

わたしは治安のいい場所に住んでいるけれど、日中に男性から怒鳴られたりけられたり、つけられたり、というのはあります。そういうことをするのは男性でした。例外なく。

「人格のある人間だと尊重される」の意味は「嫌だ、やめろ」と言ったときにその意思が通るということです。

「モノとして見られる」というのは、見ている側がその妄想通りに動かそうとしているときのことです。女性は、男性に迫られて(きれいな言葉であえて言いますが、実際には怖い)、丁重に断っても、逆切れされて怖い思いをした人はかなり多いです。つまり、断るってことを受け入れられていないのが怖い。

子供たちは、小学生のころから、盗撮、痴漢の被害に遭っています。それも、人格を尊重されていないってこと。

 

 

男性は「視姦」ってことば使いますよね。実行にも移しますよね。男同士で、ネットでも、現実でも語り合いますよね。あんな気持ち悪い言葉を選択するんだから、本当は見るだけでもダメだってことわかってるんじゃないかなあ。でも、ホモソーシャルにおいては「悪ければ悪いほど男らしい」という規範があるからそれに乗っているんじゃないかと思います。

 

「まなざし論」「お気持ち」という言葉って「お前の感じたことには意味がない」って意味しか伝えていないんですよね。まなざし論、まなざし村、お気持ち論、こういう言葉を使えば、「客体化はやめろ」という女性の主張を無効化できると思っているのかもしれません。でも、それには根拠がない。つまり「お気持ち論」「まなざし論」「まなざし村」って言っている人のほうが、主観だけで根拠なくいっているんですよね、言い返したいだけで。それってとても貧しい行為です。お気持ち、まなざし論といっていたら、女はバカだ、しかし、男は冷静で賢いのだ、と仲間同士で慰められる、そういう符丁と化しているように思います。

 

一方「客体化やめろ」という女性たちの声には、根拠がないんでしょうか?

根拠はありますよね。嫌なものを嫌だという、やめてほしいことにやめろという。

それを尊重されるのは、人間として当たり前のことです。当たり前のことを言っている、というのが、根拠です。人には嫌なものを嫌だという権利があります。

Rightですからね。権利って。正しいことって意味です。嫌なことを嫌だというのは正しいことです。

じゃあ、「まなざし論」という言葉を使う側の人も、「不快だ」と言えば通るはずだと思います?見るだけでダメだという意見に対して「見るくらいならいいだろう」というのは正しいことだと思うのでしょうか。「視姦」という言葉がまだ死語になっていない社会なのに。

例えば、ポルノ的な漫画表現をやめさせられるのは不快だし表現の自由を侵害しているって思います?

ポルノ的表現が、女性や子供への加害行為を助長している事例は、いくつもすでにありましたよね。それで女性は怖がっているのです。

外出先で、子供がトイレに行くときには、女性は必ず付き添います。トイレで暴行される事件が絶えないからです。生活に不自由があるのです。実害があります。

ところで、わたしはネット通販が好きですが、見ているとどんどんほしくなります。見るという行為は、欲望を喚起させるからです。滞在時間が長いサイトでは、購入する可能性が高いということは言うまでもないかもしれません。サイトを作るとき、コンサルタントは必ず言います。

広告の基本で、「この欠けているものを手に入れれば、あなたは今よりも幸せになる」というメッセージを発するという手段があります。だから、広告は何度も見せることが大切なのですね。

人は、自分に欠けるものがあると知ると、それがほしくなります。見ていると、本当はまだ持っていないものなのに、すでに持っているかのようにも錯覚して、執着してしまいます。これは、フリマアプリでも使われているテクニックです。

 

だから、ポルノ的な漫画表現が、児童や女性への欲望を喚起していない、というのは、結構苦しいんです。「あなたには、女性や児童に対する性虐待が欠けている」って訴えかけているわけですからね。「あなたにはこれができてないんですよね」というメタメッセージを発しています。

本当は、ポルノも、性的な夢想へ、安全に導くものに過ぎなかったらいいんですけれど、ヘテロシス男性向けのポルノでは、女性か児童が性虐待の対象になっています。それが、本物の人間であっても、「性的キャラクターのイデア」としての女性であっても、結局、「その特徴を持つ者への性虐待」という欲望を喚起する点では同じです。

性虐待ポルノを見ているだけにとどまらず、仲間内で、符丁を語り合って、結束を強め合う状況は、かなり危機的に感じます。すでに「そこまでやるなんてすごい」という風潮もありますよね。日々、変質者から子供を守るために、ぼんやりすることもゆるされず、神経をとがらせると、「児童への性虐待」を面白い冗談のように消費する人を信頼できません。

 

また、表現の自由というのは、いつでもどこでも、完全に自由に許される根拠になるものでもありません。もしそうなら、ほかの自由も完全に保証されるべきですよね。でも、「安全に暮らす自由」「心配をしないで道を歩く自由」というのは、弱者にはありません。この場合の弱者というのは、社会的肉体的弱者、という意味です。あらゆる自由の中で、表現の自由は何をおいても尊重されるという決まりはないんです。

 

自由は自ら守るものだとどこかで習った人は多いでしょう。それは、いつでも自由にさせろ、という態度だけじゃなく、周りの人に気を使ったふるまいをすることで、信頼され、規制を最小限にするという態度も含まれます。

人を客体化する害については、様々な人が述べています。

でも、「まなざし論」とバカにする人たちは、「なぜまなざし論といってバカにするのか」ということを丁寧に人に伝えるように書いたことがあるんでしょうか。せいぜい、恫喝的な文章しか、わたしはみたことがありません。

気持ちや感情は大切なものです。

でも、男尊女卑な社会では、感情を女性特有の属性だとみなします。感情は理屈よりも低いもので、それを尊重するのは悪い、と考えるのが、女性差別の一つです。「男は感情をあらわにするべきじゃない」という規範を内面化しているんでしょうね。ただ、それは、男性が自分で乗り越えるべきことです。よく、女性に「フェミは男を救わない」というようなことを言う人がいますが、女性はケア要員じゃないですからね。それを言うのもフェミニズムの仕事です。

だから、「まなざし論」、「お気持ち」といって、女性の訴えを「感情的なものだから揶揄してもいいんだ」と思い、それを言ってのける、ということ自体が、女性差別的な行為と言っていいでしょう。

結論は、「感情を女性特有のものとして、価値のない、根拠にするのに足りない、バカにしてもいいもの」という態度で発せられる言葉自体は、男尊女卑、女性差別のあらわれなので、「お気持ち」「まなざし論」「客体化w」というのはやめましょう。そういう人間は紛れもなく差別者です。