脱コルセットへの批判、トランスジェンダリズムの構造との類似

「こんなことを書くとめんどくさいことになるだろうな」と思いながら、いっつもそういうめんどうくさいことを書くのは、自分の魂の自由のためだ。誰のためではない。

誰かのためでもないことを書くために、わたしはサーバを借りて、誰にもお金をもらわないで書いている。また、こんな風に発信せず、何も言わなければ、ひどいことを言われずにも済む。書くことで得られる外から与えられるメリットはない。書くことで得られるのは魂の自由だけだ。

そして、これは書いたらまずいだろう、ということがあれば、それこそが批判するべきことなんだと思う。今日は脱コルセットへの批判を書く。それは、わたしが「脱コルセットを批判するとめんどくさくなるな」と思わせる、それ自体が問題だと思うからだ。

「ほかの人のためにしていることなんですよ」と、誰かが何かをしているとき、その「ほかの人」に含まれるとどうしようもない嫌悪感がある。

脱コル系フェミニストのメッセージは、分裂している

脱コルセットを肯定する人は、「ほかの人がコルセットを脱ぐ自由があると示すために、社会抗議としてするんですよ。化粧やファッションへのコストを削減してほかのことに回せるメリットがあるし」という。それでいて、「やりたい人がやればいいとしか言っていない。押し付けてない」という。「でも、脱コルしていない人は、体制に加担していることを自覚してほしい」とも言う。別々の人が言っていて、それ自体に問題はない。でも、これらのメッセージはそれぞれ矛盾している。しかし、別々な人がいっていたり、言語的な階層、非言語的な階層とことなるメッセージだったりして、矛盾を指摘しにくいようになっている。個人の主張を批判するようには、できない。それは、脱コルセットにはっきりした論理がないからだ。定義や論理がはっきりしないものは、批判できない。

わたしはそれに嫌悪感がある。「ほかの人が楽になるためにしているんだ」って、人を支配する人が良く言うことだ。自覚をしろと突きつけるのは、自省を強いることになる。このやり方も、支配的だ。

「ほかの人にコルセットを脱いでもいいというメッセージを伝えるためにしている、おしつけるわけじゃない、けど、体制への加担していることを自覚してほしい」という分裂したメッセージをまじめに受け取っていくと、心がばらばらになる。

押し付けてないと言いながら、加担への自覚を求める、という行為が、どう作用するか。

脱コルの定義のあいまいさ

脱コルセットの問題なのは、言葉が、ゆるゆると境界線をあいまいにして、「そんなことは言っていない」と言ったり、「わかっていない」と言ったりする人があまりにも多いからだ。

わたしが脱コルと類似だと思う現象は、自然食品のようなものだ。意義は正しくても、実行できる人は少ない。お金持ちしかできない。そして、理念を知っても、できない人は罪悪感を持つ。

クィア理論との類似

脱コルセットはトランスジェンダリズムやクィア理論とも理屈の構造がよく似ている。

クィア理論やトランスジェンダリズムと、脱コルセットは、右手と左手の両極に見えるが、その形は鏡合わせだ。出てきた時期も似通っている。脱コルがでてきたのは、2018年の6月。トランスジェンダリズムによるジェンダーの撹乱、つまり女湯問題が出てきたのは、11月。そして、まず、「リベフェミ」と「ラディフェミ」が分断された。それから、脱コルによって、ラディカルフェミニストが二つに分断された。

前提がおかしければ、結論もおかしくなる。その途中の理屈がいかに整ってても。

脱コルセットという概念は、ぐにゃぐにゃしている。だから、批判できない構造をしている。

権利運動は、具体的な利益か、具体的な批判する相手がいるはずだ。だが、脱コルセットは「家父長制」「社会」というあいまいなものを相手にしているし、具体的な利益はない。「抑圧からの解放」や「化粧品やファッションへかけているコストの削減」が具体的だろうか?

それはよく考えてみる必要がある。

ポルノ批判が主でないラディカルフェミニズムは存在できるのか

フェミニズムは、権利運動だ。そして、ラディカルフェミニズムは、第一義に、ポルノグラフィティへの抗議から始まった。それは、性別としての男女の区別を前提に主張している。

脱コル系ラディカルフェミニズムは、ポルノグラフィティ批判が主ではない。そういうフェミニズムを「ラディカル」と呼んでいいのか。

ポルノグラフィティ批判をしているラディカルフェミニストは、脱コルセットをしていない。それは脱コルセットが生まれたのが、2018年6月だからだ。それ以前から、ラディカルフェミニズムについて、考えている人は、第一義に、ポルノグラフィティ批判をするので、彼女たちには、脱コルは重要ではない。

けれど、脱コルを主張する人は、「脱コルをしていないのにラディフェミとはいえない」というようなことを言う。そして、彼女たちは、ポルノグラフィティ批判を一番に置かない。だったら、ラディフェミには二派に分けられたわけだ。

「ラディフェミ」の分断

そう、これは分断だ。もともとのラディカルフェミニズムについて考えていた人たちは、葛藤する。ポルノグラフィティ批判を優先したいのに、脱コルをしていない、脱コルを否定する、というだけで、「あなたはラディカルフェミニズムではない」と言われるから。

脱コル実践による葛藤

そして、葛藤は、支配を容易にする。

脱コルを批判すると、「そんなことはいっていない」と言われる。このしぐさは、トランスジェンダリズム推進派とよく似ている。

また、脱コルセットをすると、葛藤が生まれる。それは、「装飾」から脱却したときの後遺症なのではなくて、脱コルセット思想の持つ瑕疵なのだ。

脱コルセットは、女の記号をやめることで、抑圧から解放されるという。そして、それは自由を意味しないともいう。これは、矛盾している。抑圧から解放されれば、自由が得られるはずだ。

女の体があるから、女の記号が生まれたはずだ

なぜ、矛盾するかというと、女の記号は、女の体があるから、発生した。差別があるから、女の記号が生まれる。差別は、身体的な特徴により発生した。

逆ではない。女の記号を否定したら、差別はなくなるだろうか?

トランスジェンダリズムが「男女の区別があるから、差別があるのだ」「だから、男女の区別をなくせば、差別がなくなる」という理屈と同じだ。トランスジェンダリズムのこの理屈をおかしいと思う人は多いだろう。脱コルも同じ理屈を採用している。わたしは、脱コルを提唱している人と、トランスジェンダリズムを推奨している人は同じ人か、同じグループの人だと思っている。

「女の記号をやめる」ことで差別はなくならない。女の体は消えないから。差別の根拠になる女の体は存在し続けるから。そして、女の体がまとう布は、必ず、女の記号を発生させる。

差別をなくすためではなく抵抗としての脱コル?

わたしがこう書くと「差別がなくならなくても、抵抗としてしているのだ」という人が出るだろう。「競争の場から降りること自体に意味があるのだ」と。

だが、そもそも、抵抗として、競争から降りる行為として、有効だろうか?

抵抗として有効になるためには、「何に対して、こういうことをしたら抵抗になる」と定義して、そして、その相手や、その定義や抵抗が実際に有効かどうか、考えなくてはならない。

だが、脱コルセットは、「こういうこと」がそもそもあいまいだ。

脱コルセットは女の記号をやめることだというけれど

まず、女の記号とは何か。それは、文化や時代、場所によって変わる。ある程度、共有できるものもある。パンプスや、ヒール、脱毛、化粧、スカート、長い髪など。

だが、ちょっと考えてほしいのだが、ヒジャブ、ブルカ、ビキニ、タンクトップやショートパンツ、スカートはそれぞれ女の記号だ。見た目は逆だ。それなのにこれらが、女の記号になるのは、女が着ているからだ。

ハロウィンも、イースターも、節分も、温泉もそれぞれ奇妙な風習だ。クリスマスも、初詣も、宗教的だ。しかし、他文化からみて、奇妙で問題があっても、それを尊重する原則はあるべきだ。脱コルセットにも、トランスジェンダリズムにも、その点の問題がある。文化への介入は、慎重になるべきだ。

「ヒジャブ、ブルカ、そして、身体を露出した服」をやめられるような、共通した、普遍的な「正しい」脱コルセットができる服装は何だろう?わたしは、正解がないと思う。それらは文化や時代に依存しているからだ。そして、正解がないのは大問題だ。

「これを着たら、正解になる」というものがないので、実行できない。そして、理屈が正しそうに見えるのに、実行できないので、罪悪感が生まれる。罪悪感が生じると、生きるための活力が失われる。これは、正しいことではない。これという正解がないものを実践するときに、必ず葛藤が生まれる。化粧や服装によるコストが減っても、脱コルを考えるときの、精神的なコストは増える。

権力がないから差別される

服装コードへの決定権がないから、女性は抑圧される。逆ではない。抑圧されるのをやめれば、服装コードへの決定権が生まれるわけではない。そもそも、パワー(権力、地位、経済力)があれば、自分たちでいろいろなことが決められる。決められない状況が問題なのなら、権力をよこせというべきだ。脱コルセットは、「やめる」ことで、権力を取り戻せる抵抗運動だろうか?

女性の体が「装飾的」だと男性が決めた。だから、何をまとっても「女性的」と思われる。「装飾的」なことをやめても、「決定権」は手に入らない。

理念が正しくても、実践できない思想の問題

自然食品に関する思想がある。それは、環境への負荷をなくし、安全で健康な食べ物を食べるという理念がある。

だが、これは、結果としてお金持ちしかできない。自然食品は少量しか生産できないので、値段が高く、少量を流通網を使って、遠方まで運ばなくてはならないからだ。これには、流通による環境負荷がかかるからこの時点で矛盾している。

また、自然食品に関する思想に共感しても、お金のない人は、実行できない。罪悪感と焦りだけが生まれる。理屈が正しくても、矛盾があり、また権力がないと、実行できないことは、人を葛藤させる。

女の記号を、最も要求させられるのは、貧しい人だ。資格をもっている、高い社会的地位を持っている人たちは、女の記号をそもそも身に着ける必要が少ない。だから、選ぶことができる。

たとえば、弁護士や、医師は、女の記号を身に着けるべきか、選ぶことができるだろう。

しかし、時給千円以下の接客業や、販売業、小売に携わる女性は、選択することができない。

いわゆる水商売をしている人もそうだろう。

体制へ加担していることの自覚を求めることも問題

脱コルセットは、「体制に加担していることの自覚」を求める。これは、「脱コルセットは正しくても、自分はできない」という葛藤と、「脱コルセット実践者に感謝をするべき」という二つの気持ちを産む。本当はしなくてはならないことができず、できている人に感謝しなくてはいけない、と葛藤すると、自尊心が減る。

結果として、脱コルを知ると、人は不安定になる。

脱コルセットが、自分が工夫して楽な服装を目指すことにとどまるのではなく、「脱いでもいいというメッセージを他人に与え、社会抗議をする」ことである以上、その発信自体に葛藤を生む危険があるなら、それは慎重になるべきだ。脱いでもいいというメッセージを与えられ、そして、それができる人は楽になるが、できない人は、余計苦しむ。「あなたの代わりにしてあげている」というメッセージ自体が、人の自尊心を奪う。

パワーの象徴としてのニュートラルな服装

ジョブスは、どんな場所でも、タートルネックのセーターとジーンズで過ごした。どんな場所、時間でも。これは、権力の象徴だ。彼のように、権力を持たなければ、誰であっても、TPOにあった服装をするしかない。ある意味で、彼のような服装は、「脱コル」の正解と言えるだろう。彼は、男だが、「人として標準」的な服装だから、女性がしたら「脱コル」になる。それこそ、化粧やおしゃれに割くコストを削減して、ほかのことに回すことを選んだ人の服装だから。

だから、ジョブス的な服装は、男女どちらであっても、「ニュートラル」な服装と言えるだろう。しかし、それを選択できるのは、権力を持つ人だけだ。そして、女性は、男性に比べて、権力を持たないので、彼のような服装を選択できない。

彼のような服を着ることはできる。しかし、失うものがある。失うものがある以上、「選択できる」とはいえない。また、ジョブス的な服装は「アメリカ的な文脈」での正解だから、他文化では応用できない。

ニュートラルな服装の文化的文脈上での限界

また、ジョブス的な服装を仮に正解として、それは、アメリカ中心的な価値観であることからは逃れられない。

だから、個別に考えていくしかないが、個別に考えていった結果、たとえば「スカートを穿くことがわたしの脱コル」というのは、許されないそうだ。それは、脱コルセットが、女の記号を排するものだからのようだ。でも、それならば「その正解」を決める人が存在すると、暗示されもする。しかし、その暗示された「正解を決める」権力がある人は、表に出てこない。

これは、ダブルバインドだ。パワー(地位や経済力)がなければ実行不可能なのに、できなければ、体制強化へ加担していると自覚を求められるので、罪悪感と不安に引き裂かれる。

「正解」は明示されないのに、「正解」を定める存在は暗示され、かつ、個別に考えるしかない。これは、抑圧だ。

あさま山荘事件では、こいつは「女らしい」から体制への加担をしている、と「総括(自己批判)」され、女性が殺された。そして、殺されないために、女性は、各自、女性らしさを封印していったが、なにが女性らしいか決めるのは、「権力のある女性」だったので、正解がつねに揺らいでおり、殺されることから絶対に免れる服装やしぐさはなかった。

男が犠牲を払わずに済む「抵抗運動」

脱コルセットは、男に変化することを求めない。これは、男にとって、都合がいい。女性が、変わる。それが「美しさの競技場」から降りることであって、社会への抵抗、批判であっても、男は変わらないで済む。

脱コルセットは本当に男化ではないのか

また、脱コルセットは「男化」ではない、というのは、どういうことか、きちんと考えてみよう。

トランスジェンダリズムの問題で、わたしは「女」の定義についてかなり考えた。それは、女が生殖可能な身体をもつ性別であるがゆえに、差別されてきたこと、また、女はnot男として、定義されていることの二つで定義されるのだと結論を出した。これは、ラディカルフェミニズムの考えを踏まえた結論だ。

女が、not 男であり、脱コルが、「not女」(女性性の拒否)なら、それは男だ。not 男=女、not 女=男、だから。ラディカルフェミニズムは、女と男の二つの性別を前提に、構造を考えてきたものだ。だから、その構造に準拠して考えれば、not女=男が成り立つはずだが、ラディカルフェミニズムであるはずの脱コルは、女の記号の排除を男化だと言われたとき、それを否定する。男化ではないと。

わたしは、やりもしないで脱コルを批判することをまずいと思って、一か月以上、髪を切り、化粧をせず、スカートとパンプスを履くのをやめて過ごした。そして、わかった。

今のわたしには、それをやめられる環境があるということ。環境があるからやめられたということ。今、十代から二十代の女性には、わたしがそのころ過ごしていた時よりも、強い抑圧があるから、それを和らげるために、脱コルは必要なのはよくわかったが、その一方で、脱コルをすればするほど、社会的適応を犠牲にするしかないという実感を得た。

社会的適応としての服装コード

わたしは、発達障碍者として、感覚過敏や社会不適応があり、TPOに沿った服装そのものが理解できず、それゆえにできなかった。それによって、社会になじめないという苦しみを長く持っていた。そのなじめなさには、もちろん、就労機会の損失も伴っていた。

それを、社会的適応をした服装を学んで、直した時、その苦しみは中和された。しかし、脱コル実践によって、その苦しみは、戻ってきた。

裸を含む、あらゆる服装は、社会との接点であり、その接点にどう対峙しているのかを示す。布一枚羽織っているだけでも、その人が、どういう人間なのか、社会的記号を伴って、人にメッセージを送る。服装が自己表現だといわれるのはそういう側面がある。たとえ男でも、高級なスーツを着ていたら、社会的地位がある人だと思われる。身だしなみは雄弁に、その人のありようを物語る。

靴、眼鏡、爪の長さ、そういうものすべてから、人は、その人がどういう人なのか、読み取っていく。また、読み取られていく。どのように読み取られたいかも、逆にある程度コントロールできる。

女が服を着るということ

女の体の上に、社会的号を身に着けて、どういう人間なのか示す。社会的記号の身に着け方で、ある程度、どんな人間なのか、読み取られ方をコントロールできるが、土台にある女の体やそれへの読み取られ方はコントロールできない。

脱コルセットは、それも承知の上で、できることをしていくのだ、という。けれど、それまで培ってきた社会的適応を捨てると、人は葛藤する。それは、個人が楽な服装を工夫する以上のことを、脱コルセットは求めるのだから必然だ。だが、脱コルセットはその葛藤を、「装飾」に求める。ここで「ずらし」が発生している。

脱コルは、6Bも提唱している。6Bとは非恋愛、非セックス、非結婚、非出産、非協力、非消費だそうだ。

脱コルセットも、6Bも検索してもなかなかでてこない。それ自体にも問題があると感じる。

いくつかの軸から、これについて考えることができる。

対:政府、資本主義、社会適応、個人レベルの感情の変化などの軸について考えるべきだろう。

再生産の拒否は、資本主義にまきとられる

政府にとって、また、資本主義にとって、6Bは不都合ではない。だから、これは抵抗にならない。女性が、6Bを実践すると、政府は中絶、出産について考えなくてよくなる。考え、実行すべきことが減るのは、都合が良いといえるだろう。

また、再生産をしない人間は、男と同様に扱えるので、労働者として都合がいい。そういう意味で、6Bは資本主義への加担になる。旧来のフェミニズムは女性の、中絶、出産の権利を求めてきた。しかし、脱コルセットや、6Bはそれらの権利運動を白紙に戻す。

生殖問題を個人問題化させる

あるフェミニストが、6Bを実践したら、その個人としてのフェミニストの関心から、出産や中絶への関心が薄れる。フェミニズムは、「自分の問題」を追求するものだからだ。出産や中絶の権利運動が空洞化する。それは、アンチフェミニズム的だ。

トランスジェンダリズムやクィア理論が、フェミニズムの顔をしながら、結果として、「女性の定義をあいまいにする(トランス女性は女性です。ペニス付きの女性もいます)」ように働いたのと同じだ。

再生産について、政府は熱心ではない。女性の権利を保証すれば、出生率は戻るという正解はすでに示されているのに、それを実行しないことからも、それは明らかだ。そして、6Bはそれに沿うのだ。

出産に関して、社会にはダブルバインドがある。産めというプレッシャーと、出産は迷惑だというプレッシャーがある。やりたい人がやればいいが、その先は自己責任だというプレッシャーもある。

産まないことが、資本主義社会に都合がいいという一面もある。

6Bや脱コル実践によって、社会問題がかえって個人化される

6Bも同じで、やりたい人がやればいい、という。でも、その先は自己責任で負うしかない。それは、脱コルも6Bも「個人で考えること」が前提で、「正解」がないから。産むことが家父長制の加担だというプレッシャーを与える一方で、産みたい人を否定するわけではない、という。それは、矛盾で、ダブルバインドだ。

ダブルバインドとは

ダブルバインドは「おいで」と言いながら「つきとばす」というようなことで、言語と非言語の別階層で違うメッセージを与えるので、矛盾に気が付きにくくするという概念だ。

6Bをして、社会に抵抗しよう、と言いながら、実践を「個人の自由」「自己責任」という。脱コルをしないなら、家父長制に加担していることを自覚して、そのうえで、おしゃれや「装飾」をしたらいい、ということ。これは、フェミニストでありたい人を葛藤をさせる。

仕組まれたフェミニズムの分断

脱コルセットと、トランスジェンダリズムが、ジェンダーロールをかく乱することで、差別をなくすという主張をしていることが相似の関係にあり、同時期に議論されており、トランスジェンダリズムが「リベフェミ」と「ラディフェミ」を分断し、脱コルが「ラディフェミ」を分断したことにより、これは、仕組まれた分断だと考える。

ラディカルフェミニズムが、ポルノ批判が第一義なのに、それをしてる人が脱コルをしていないなら「ラディフェミ」として失格だというメタメッセージを与えていること。

脱コルセットが二つの水準で実行不可能なこと。「正解」がないので実行できない。パワーがなければ、実行できない。女がnot 男として定義される以上、not 女ならば、男化するしかないのに、それを否定していること。また、男化を否定しながら、「男が人間の標準とされているので、女の記号を捨てることで、標準に近づける」ということ。社会の中の標準が、男ならば、その標準に近づくことは、男に近づくのと同義のはずだが、同義ではないということは矛盾している。しかし、「矛盾していない」「そんなことはいっていない」ということ。だから、そこにダブルバインドが生じる。

突如として、2018年に6月に、脱コル提唱者が現れた。脱コルは、フェミニストに、ダブルバインドを強いた。それは、脱コル提唱者が葛藤を利用して、支配したいからだとわたしは考えている。

自分の生活を工夫して、楽にする以上のことを脱コルセットが求めるならば、何が「女性の記号」に当たるのか、明確に議論するべきだ。女の記号が何を示すのか、定義が移動するのに、体制への加担への自覚は求めるのは、暴力だ。


ちんこにこだわってるのは誰?

誰がためにちんちんはあるか

今ちいさいちんちんがキテる!みたいな話は出ないわけですよ。

女の人に関しては、背丈から胸のサイズお尻の形まであらゆる話題が出るのに、男については「背が高い、低い」くらいしか話題に出ない。それは、話題を作っているのは男性だから。

男性は、自分のちんちんが小さいことに悩み、ちんちんを大きくするために努力するけれど、ちんちん補正器具を買うことを人に言うことは少ない(ちんちんを補正する器具は売ってる)。

でも、女性は体形から何から何まで補正するものが売っていて、話題にも出す。そこですごく非対称がある。女性の体は自分のものというより、他者のものである。男の体は、そもそも「誰のため」か問われない。問われるとしたら、徴兵の時。つまり、人を殺すときに男かどうか問われる。

女の体は生殖のためにある

殺すのが男の役割だとしたら、産むのは女の役割だとばかりに、生殖は女に押し付けられてきました。

すごく雑に言うと、女の役割というのは、マイナスをゼロにする仕事。トイレの壁や天井に飛び散った男の尿をきれいにするのは女の仕事だし、料理を作って食べさせるのも、子供を産んで育てるのも。

というのは、何がゼロで何がマイナスか、その目盛りを決めたのが男だから。

金銭を稼ぐのがマイナスをゼロにする役割と規定してもよかった。だって、どうせ消費してなくなるんだから。でも、稼いだ額は、足していって、生涯これだけ稼ぎました、と胸を張れるようにしたわけ。それは、男が物差しと目盛りを決める階級にいるから。だから、育児家事介護は足せない。

わたしのフェミニズムはむなしい

わたしがフェミニズムを知ってから腑に落ちないのは、主婦業を金銭換算したとき。それは三十年前の話だ。

パラダイムシフトというのが流行ったことがあった。人はある枠組みからものを見る。それは偏見だったり思い込みだったり、常識だったりする。その「当然の見方」を変える手段として、フェミニズムは画期的だった。

でも、今、振り返ってみると、それは日本ではうまくいかなかった。女性も大変なんだね、というのは、了解されやすくなったけど、その一方、「女ばっかりずるい」という男が増えたりして……。

当時の女たちは、資本経済中心の、金勘定ばっかりの、心が貧しい男にも理解できるように、かみ砕いて話した結果「主婦業はこんだけ金銭価値がある」ということを示すことができた……、のだけど、それでは、「出産は金銭換算できないから。金銭換算できないから、つまり無価値というより、マイナスでしょ」ということは覆せなかった。

そして、今でも「お前が産んだんだから責任もってミルク代は母親が出せ」とか、「出産はお前がすることなんだから出産に関する費用と子供の生活費は妻の貯金から出せよ」「おむつ使いすぎだからおむつ代節約しろよ」という男が後を絶たなかったのである。命は金銭換算できない。だから、金勘定男たちには、命が理解できなかった。

というよりも、女というカテゴリーは「生殖をする性から搾取する」男たちが勝手に決めたことで成り立っている。だから、生殖はなくてはならないけど、男が関与しなくてもいいように、設計しているんだから知らねーよ、ということである。女は穢れを全部引き受けるのだから、男はゼロをプラスにすることに専念していればよろしい。これが、社会的合意である。

母が育児を放棄すれば、大騒ぎになるが、父がおむつを変えなくても誰も騒がない。しょうがないよねと言われる。ミルク代?おむつ代?それも、母が黙って立て替えて置けばよろしい!そうすれば、誰も困らない(女と子供を除いては)。

その立場では、上記の父は正しいのである。そのために、わざわざ女を女たらしめてきたわけだから。

30年前から比べると、女は賃労働をするようになった。それで、いい面は、離婚ができるようになった、ということ。悪い面は「家事妊娠出産育児介護、それに加えて賃労働」をしてくれる人間は便利だから死ぬまで使い倒す、と状況が社会で起きてしまったこと。

トイレの話は本質

トイレの話は、些末な話ではない。育児も介護も、人間の本質に迫るテーマであるのと同じように、排泄に関わる文化と慣習は、性別において最も重要なテーマだ。人が、一日で一番排泄器、つまり生殖器を使うのはトイレだからだ。

トイレには文化がある。トイレの扉のサイズ、隙間、水を流すボタンの位置、もしくは、取っ手の形、上から水が流れてくるのか、タンクのサイズ、便座の形、トイレットペーパーはダブルなのかシングルなのか、などなどなど。

一番は排尿スタイルだ。洋式トイレでは、女性は座ってする。男性は(たいてい)立ちしょんをする。

そうすると、どうなるのか。

男性の尿は、天井から壁に至るまでびっちりと飛び散る。男性はちんこを振るので、便座の裏から床までしっこが垂れる。掃除したことあります?なくても、見たり、においがわかったりすれば、男性のトイレの使い方はものすごく汚いってわかるはずだけど、男性は「座りしょんなんて」と時には怒り、時には笑う。

洋式トイレで座ってしっこ

洋式トイレで座ってしっこできない理由を今まで聞いたことがあるのだけど

  • ちんちんが便器につく
  • ちんちんは下を向かない
  • ちんちんがいんぽになる
  • ズボンをおろすのがめんどい

の4つだけど、全部否定するね。

うんこのとき、座ってしているよね?つまり、座ってしていても問題ないわけじゃん。あと、ちんちん、便器につくほど大きくない。それに、いんぽになってもらっても、全然かまわない、座ってしっこしたくらいでいんぽにならない。ちんちんには手を添えて下を向かせればいい。じゃなきゃ、うんこのたびにちんこをうんこまみれにしてるってこと?うんこのときに、上記の主張を本当だと認めたら、ちんこはともかく玉はえらいことになるじゃん?

たった、それだけのことなのに男はしっこでトイレを汚し、(たいてい)女が汚れを引き受けて、ひざまずいて掃除をする。

ちんこにこだわっているのは誰か

男は汚し、女はその汚れを引き受ける。

その仕組みがあまりにも便利なので、男たちは変わらなくていられる。変わりたくないし、変わる必要もないし。

それで、女は出産をやめた。これは、女たちの静かなストライキと呼ばれてもいた。結果、若い人間の人口が減った。

しかし、生きている女が「生殖する性別」な以上、進学、就労、賃金、あらゆる場面で差別されるのは順当なこととされ続けた。

女は生殖するから、会社にマイナスを与えるので、賃金は低くていい、学はいらない、とか、女は生殖するから家庭の仕事をさぼるので、怒鳴ったり殴ったりしてもいい、とか。女は生殖するから、ついでに介護も育児もしておけ、とか。それで、社会進出しないようにされていたから、いまだに国会議事堂や大学に女性用のトイレがない、とか。

ちんこむかつく!と女が言い出すとき

そういう風に、女たちは汚いものとちんこの出すものを押し付けられ続けた結果、ちんこを大っ嫌いになった。

ちんこに差別されてきたから”NO!ちんこ”を主張するわけである。

それを見聞きして男は……「悪かったな」と反省するばかりか……

「女ってちんこにこだわっているんだな!つまり、ちんこが大好きだから、ちんこの話をしているんだ!」と解釈した。

わたしからすると、男は、今まで、トイレをめちゃくちゃに汚す自由、いつでもどこでもオナニーする自由、オナニーの道具として女を使う自由、自分の子供を産ませる道具(女)を得る自由、それを維持するために仕事をする自由などなどを得てきた。ちんこ中心主義である。ちんこを満たすために、社会を形成してきたように見える。ちんこ自由主義である。

ちんこに勝ち、ちんこに死ぬ。ちんこ死んでもちんこ中心主義は死なぬ!

ほかのちんこを倒すために、死ぬほどの努力をするのも、自分のちんこ自由を獲得するためだし、死ぬほどの努力の結果、死ぬのも、つまり、ほかのちんことの競争と負けただけである。

そして、インセルのような男たちが、女を呪詛するのも、女を踏みにじっている間は「真の男」という幻想を得られるからだろう。憎しみが、女に向かうのは、「本来は、自分のものになるはずだったモノ」が手に入らないからだ。すっぱい葡萄みたいに。本来は、「ほかのちんこ(自由を享受しているちんこ)」を呪詛したいのだろうが、そのちんこには、すでに負けている。すでに勝者となったちんこを呪詛するには、インセルは弱すぎる。 自分がなりたくて、なれなかったものを憎むよりは、得られなかったものを憎むほうが簡単だ。

NO!ちんこ

女がまともに人間として生きるためには、NOちんこスペースが必要である。ちんこある限り、汚物処理としての役割から、女は自由になれない。

いや、この言い回しでは男を透明化しすぎている。

男は女を自由にしない。穢れをうけいれさせるために、男は何でもする。

男は、ちんこがあるゆえに、「生殖する性」だという役割から逃れた。それを確認するために、ちんこを使い続けた。トイレで、痴漢で、性加害で。それを女に見せつけている間、男というのは自由でいられる。性暴力について、司法はいつも甘い。それは、性暴力が「財産としての女を傷物にした罪」だった明治時代を終えても。司法は男たちに牛耳られており、彼らは、判決を通して、彼らのちんこをむき出しにする。ちんこによる罪は軽い。ちんこを出す必然性は重く判断され、ちんこにより、傷んだ心身は評価されない。今なお女性は人間ではないからだ。男は、理性的な判断でさえ、男だというからだから逃れられない。それは、ちんこごしに世界を観る枠組みがあり、文化があるからだ。ちんこパラダイムだ。

女性カテゴリーをなくすためのちんこありの女性

ちんこごしに世界を見れば、ちんこの入れない「女性専用スペース」というのは、「支配不能な場所」である。それはちんこの負けである。

また、女性は、女性という言葉によって、女性差別と闘ってきた。

女性という言葉自体が、「NOちんこ概念」である。

つまり、女性という概念が、支配不能になっていることに、ちんこ中心主義者は、危機感を感じた。

ちんこパラダイム的には「女性」という言葉にちんこを挿入すれば、ちんこによって女性カテゴリーを無意味にし、真の支配が完了する。だから、ちんこありの女性を彼らは歓迎する。

バトラーを持ち出す学者はバカだ

ポストモダニズムは、キリスト教的な権威について批判するものだったのに、それを権威として持ち出すのは、皮肉である。

そもそも、バトラーを読んでいないだけで、女性の定義を変える議論に参加できないのはバカみたいな話だ。それを主張している人は大バカだ。カテゴリーや語彙がなければ、それを語ることもできないのに、カテゴリーがなくなれば差別がなくなると思っている。

バトラーを読んでいない人も、ほかの分野ではものすごく知恵や知識や知見がある。そういうことはめちゃくちゃ多い。というか当たり前だ。

抑圧については、被抑圧者がもっとも詳しいんだから、女性差別についてもっとも詳しいのは、市井の女性である。男社会であるアカデミアでのし上がった人は、女性差別には詳しくなれない。

バトラーだろうがクィア理論であろうがジェンダー学だろうが、世界のちょーーーーーー狭い世界の話である。

人々が、生活の中で生きていてその中で考えたり感じていることのほうがずっと広い。その広さに気付かない人たちが先導している議論なんて、蟻のおしっこだ。においはついて、あとからうろうろ群はついてくるだろうが、その先に何があるのかなんて、誰も知らない。アリジゴクかもしれない。

ちんこによる加害、支配について、NOを叫ぶ側と、ちんこによって支配している側と、どちらがちんこにこだわっているのか、よく考えたほうがいい。ちんこをどうつかえば、どのように支配できるのか、よく知っているのは、ちんこ脳である。ちんこ、ちんこ、ちんこよ!ちんこは崩壊した。

女性にはちんこがない。わたしはネットの中心で叫ぶけだものになる。朕は、女という概念へのNOちんこを宣言する。

これがたったひとつの冴えたおしっこのやりかただ。TINY chinko!


女らしさの虚構を生きる

わたしたちは、ミソジニーのある世界に生まれて生きてきたので、心にも体にもその価値観が刻まれている。

その背景や、生まれてから積み重ねてきた歴史、人とのかかわり、健康、来歴を無視してはならない。理論を重んじる人は、それを軽んじているので、間違っている。

わたしが、男を恐れているのは、身体に刻まれた痛みが、傷となって、考え方に影響しているからだ。

偏見の必然

偏見や思い込み、レッテル張り、直感は、素早く身を守るために備わっている何かだ。それを理性で調整することで、なるべく人を差別したり、踏みにじったりしないようにしなくてはならない。その必要はある。けれど、今まで男にばかり、暴行されてきた女が、男の姿をおびえないというのは、それが偏見だとしても、適応だ。

ミソジニーという虚構を生きる

ミソジニーというのは虚構である。女というものは、便宜的な区分である。その根拠は、はっきりしていない。それは、男たちが、女とは何かを探ることを重要だとは思わなかったからだ。知性を使う仕事をしている人たちの場は、男が管理してきた。定義は、知性を武器に仕事をする人たちの領域で定まることなので、女の守備範囲とはされてこなかった。

だから、虚構は、現実と相互作用し、時には相補的でもある。

女はだから駄目なんだ、というセリフは虚構だが、女を損なう現実でもある。女という属性を貶めることで、自分をあげるのだという機能を知っていたとしても、傷つくことを防げない。

女のミソジニーは自己否定につながる

繰り返された傷が、自分の否定に向かうこともあるし、男という属性への憎悪に向かうこともある。それは、時には自傷、自殺企図という形で表現される。

わたしたちは、装うという圧力の下で、様々に装ってきた。

装いというのは、社会規範に従属することだ。言い方を変えれば適応だ。

わたしは社会に適応できなかったから、場にふさわしい服装やふるまいを教わったとき、ようやく人間になれたと感じた。

そして、それを誇らしく思った。

きちんとした女になれない

初めてデパートでコスメを買おうとしたとき、何が必要で必要じゃないのかわからず、お金を使うことが不安で泣いてしまった。断るのも難しく、勧められたものを全部買う勇気もなくて、怖くなった。

これではだめだ、社会性が欠けたままではいけないと、人の手を借りて訓練して、転院の前で泣かずに口紅を購入したときの喜び、足が地につかないふわふわした感じ、恐ろしさと喜びで気持ち悪くなった感じを今でも覚えている。

自分で選んだ口紅の名前はロシアンレッドという。口紅にはいろいろな美しい名前がついていて、それはまるで詩のようだ。身に着ける前と、身に付けた後で、人の肌の温度で解けて、ニュアンスを変える。人によって、発色が代わる。そういう美しさをわたしは慈しもうと思った。

それは、ミソジニー的な行為だ。女の記号を身に着けることで、家父長制を補強するのだから。

理屈に合わない感情がわたしを生かす

しかし、わたしは生きていて、今も生きている。生きているときに外部の価値観を吸収して、自分の感覚を養ってきた。生きるというのは、自分の中のミソジニー的な虚構を現実に変えることでもある。それを常に直視していても、それもまた自己否定になる。自己否定をやめたいから、ミソジニーを拒否しているのに、自己否定という結果が同じになる。

生きる上でのこまごまとした喜びを捨てることはできない。理屈上正しいからと言っても、理屈上正しくない、感情というものが、わたしを生かしているから。

わたしは、左翼的なイデオロギーを正しいと思い、それに従って生きてきた。

しかし、左翼はミソジニーを色濃く抱えていた。わたしはイデオロギーを同じくする人にひどく傷つけられた。

生きていることのほうが、イデオロギーよりも大切だ。なぜなら、わたしは生きるために、思想を選んだから。そして、命を懸けるとしても、左翼の暴言のために命を落としたくないと思った。

わかりあえないゆえの労わり

わたしに寄り添ったのは、傷ついた女性たちだった。

彼女たちにはわたしのことがわかる。わたしにも彼女たちのことが分かる。わたしたちは、とても異なる。異なっていることを、お互い知っている。それがわかるということの意味だ。

理解できない。理解できないから、距離を取る。その距離の取るときの静けさ、やさしさがわたしにはわかる。

GIDの女性と、インターネット越しに話をした。

わたしには、ミソジニーがある。そういったら、ひどく感謝された。

彼女は、生まれたとき、男だった。わたしはその経験が示す苦しさを知らない。想像はできても、理解はできないだろう。それと同時に、生まれてから、ずっと女だったという経験を、彼女は理解できない。だから、わたしたちは異なっている。痛みを想像することはできても、分かち合うことはできない。

それで、わたしは、「彼女にはわたしの生がわからないのだ」と胸が痛くなった。だから、不安だったのだ。ミソジニーを抱える孤独を一人で耐えていたのだとわかって、そして、わたしたちは同じミソジニーを生きているのだと、少し、あたたかな気持ちになった。ときどき振り返って、ときどき拒絶して、ときどき見ないふりをして、なんとかやり過ごしているのは同じなんだと。矛盾に片目をつぶって、でも、時には正しいことをしようと奮起することも。

彼女は、きっと、カムアウトすれば孤独でなくなるが、「普通の女性」ではなくなるという引き裂かれた状態だろうから、語るのは苦しいだろう。

矛盾に片目をつぶること

トランスは、ミソジニー的な行動だ。女性への変化は、社会規範による、女の記号を身に着けること。男性への変化は、女性に降りかかるミソジニーから解放されること。

だが、わたしだって、同じことをしている。女の記号を身に着けて、時に喜び、時には煩わしい。虚構は現実に影響力を与えて、わたしを縛り、虚構の価値観に沿えば、わたしは嬉しい。

虚構は、男を暴力へ駆り立てる。男であることは不安だからだ。男は自分ばかりが男に殴られている、自分ばかりが頑張らさせられている、自分ばかりが弱音を吐いてはいけない、自分ばかりが美しいものを身につけてはいけない、と思い、そして、なぜだか、その憎しみを女に向ける。

女子割礼は、女性器全体を切り取る。ときには、ガラスの破片でこそぎ取る。そうして、不浄ではない女にする。女から、快楽の機能を取り去って、産む機械に変貌させる。それは、ふしだらな女を貞淑な女に変える儀式だ。

ペニスを持つものは女性ではない

ガールズディックという言葉を知っていますか?トランス女性のペニスを、巨大なクリトリスと呼んだり、ガールズディックと呼んだりする。ガールズディックという言葉を使う人は、女性の定義を「ペニスがついていても、女性」という風に変えようとしている。それは、社会的混乱を招く。

わたしは、ペニスを持つものは女性ではないと思う。彼らが、もしくは彼女らが、異性装を楽しむのは好きにすればいい。そして、社会的性別役割から一時解放され、そして、男であるうまみを享受するために男に戻ることも好きにすればいい。わたしにはどうせとめることができないから。

でも、彼らはペニスを持つ限り女ではない。

そもそも、彼らは男だから苦しいのだろう。それで、男をやめたいんだろう。だったら、ペニス付きで「トランス女性は女性です」というのはおかしい。女性ならば、女性であることに悩みはしても、男であることに悩まないんだから。

男や、トランス女性の考える女性らしさ

彼らや彼女らの考える「女性」「女性らしさ」というのは、「きらきらしていてちやほやされている美少女」だ。それは、おっさんの考える少女であって、本物の少女ではない。

男が考えている女性らしさが、女性を抑圧し、現実になることはあるけれど、彼らの考える女性らしさ、そのものは間違っている。それはおっさんの考えた女性らしさであって、女性の考えではない。

だが、彼らは、それを本物の美少女だと考え、嫉妬して、少女に近づき、その姿をまね、時には加害して、傷つける。

虚構との距離、スタンスが重要だ

誰もが虚構を生きている。その虚構との距離の取り方、解釈の仕方、スタンスの取り方で、現実での表現方法が変わる。

同じ場面に出くわしても、行動に違いが出るように。同じ自傷の前でも、表現が違う。それが個体固有の個性だ。

それは、人生のあらゆる瞬間の集合が方向づけたものだ。

だから、わたしが、自分の「女らしさ」に相当するものを愛していて、コマーシャルにのせられて、美しいと思える服を買って、流行りの髪形を気にして、ヘアオイルで手入れすることも、間違っているが、同時に、正しい。それがわたしを作ってきた喜びと煩わしさだから。理論的に、それが間違っていると指摘されても、その指摘がわたしの個性をはぎ取るのならば、それをわたしは暴力と呼ぶ。

それは、GIDの人にも同じように思う。彼女たちが、社会の決めた規範に沿った姿でいることや、選択が、彼女たちを安らぎに導くなら、わたしはそうしていてほしい。

わたしたちの抑圧は異なっている

わたしたちは、同じ抑圧を受けていない。男の体から女を模したものになることと、女の体で生まれ育ったこととは違う。わたしたちは、肉体という檻から出られず、思考も自由ではない。

抑圧してくるものの、その一部を愛することと、抑圧してくるものを憎むことも、批判することも、矛盾しながら両立する。

人間は、愛しながら憎みながら嫌いながら離れながら忘れないで、心を迷わせる。

危険だから、阻止したいこと

わたしが危険に思うのは、「被害を語ることを差別だと呼び、被害の語りを黙らせること」「女の定義を変えて、あらゆる女性差別を無効化すること」「女性専用スペースの安心を奪われること」「ペドフィリアに親和的な言説」だ。わたしはそれを許さない。

許さないといっても、無力だから、どうせ押し切られるのだろうとも思う。それでも許さない。わたしは、未来のわたしのためにこれを書く。わたしは許さない。

性的役割、つまりジェンダーロールを疑っていくことと、ジェンダーとは社会的構築物だから、その定義をなくせばジェンダーの意味がなくなる、ということとは、全く違うので、わたしは後者を批判する。

ジェンダーロールは、強力な虚構だから、目に見える形で、現実になっている。そのジェンダーロールをなぞることで生き延びている人を否定したくない。生身の人間や人生を否定したくないことと、ジェンダーロールを疑い、批判することとは、折り合えるのだ。

名乗ることと、扱われることの差

自分が何者だと名乗るのは自由だ。それがなんであれ。ただ、その名乗りを受け入れるのは他者だから、思い通りにはならない。つまり、思った通りに、扱ってくれない。他者はコントロールできない。無理にコントロールするのは暴力だ。

ペニスがあっても女だといえば、内心は他人からはわからないので、判断に使える材料は「トランス女性です」という名乗りだけだ。人類すべて女性になれば、今の経済、行政、立法、司法を牛耳っているのも、全員女だということになる。そうすれば、女性差別なんてものもなくなる。

人類すべてが女性ならば確かに女性差別はなくなる

性自認は確かめようがないから、他者には名乗りのみが重要になる。

ペニスがあっても「トランス女性」を名乗れば、トランス女性になるのなら、人類すべてが女性だといってもいいだろう。

だが、女性の定義を変えて差別をなかったことにしても、女性の体を持つから、扱いに差をつけられ続けた事実は消えない。それなのに、ペニス付きの女性が存在してしまえば、わたしは、自分に起きたことを差別だといえなくなる。女性差別は、わたしの妄想に堕ちる。わたしの身体ゆえに起きたすべてのことは、同じ女性のカテゴリーにいる人には起きないわけだから。同じカテゴリーに属する人たちが、共通の体験をすることで、わたしたちはそれを差別と呼ぶことができていた。でも、できなくなった。

ペニスは巨大なクリトリス、だとか、ジェンダーを越境する打とか、調べていくうちに、そもそも、わたしには、女性というものがわからなくなった。わたしの体は女性だという根拠にはならないらしい。わたしの体が理由になって、あらゆる暴力の対象になったのに。わたしが男だったら、されなかったことがたくさんあった。

でも、今は「女性です」と名乗られても、それが何を示すのかわからない。

女性の定義の変更で、抵抗が奪われた

虚構を表現する言葉を奪えば、虚構に抗うことはでいなくなる。定義がずらされて、言葉がなくなっても、生きている人が、虚構に押しつぶされていることに変わりはない。

ましてわたしに暴言を吐き続け、正しい顔をした男は、わたしのことを知らない。わたしの役割は、彼らが正しいことをしているという快感のために、使い捨てられたティッシュのようだ。

そして、訴えが「お前の妄想だ」と押さえつけられても、苦しみはなくならない。虚構は現実に相互作用し、相補的でもある。押しつぶされれば、黙るか憎む。

トランスジェンダーの女性が受ける差別と、女性が受ける差別は、重なる部分と重ならない部分がある。女性に見えるから受ける差別は女性差別。それ以外は、女性差別ではない。どこまで重なっているか考えることは難しい。認識の壁を超えられないからだ。

だから、女性とトランスジェンダーの女性は一緒に戦えない。権利が衝突するし、何が女性差別なのか、認識に差がある。権利の衝突は、相手の権利を認めているがゆえに起きる。

ミソジニーや、女らしさという規範に反対する立場と、その虚構の中で、現実を生きることとは両立する。

ミソジニーとの距離の取り方

わたしは、女らしさには向かう一方で、ワンピースを買う。初めてMACで口紅を買ったときは緊張から解放されたと同時に、どんなにか嬉しかったかわからない。人から浮かない服装を覚えたときにもうれしかった。

社会に適応するということは、ミソジニーを中心に据えた虚構を習得するということでもある。

それは否定されうる。しかし否定しながら、適応して生きることも両立する。

ミソジニーを中心とした虚構は、例えば「女はイージーモード」「ちやほやされて、きらきらしている女の子」「美少女は自分がかわいいと思って自撮りをする」これらはミソジニーだ。

女の表象を借りて、男の妄想を実現しているだけに過ぎない。現実にはない女らしさを、現実にもってきているだけだ。

VRで美少女になった男は、「美少女の気持ちが分かった」と言ったが、それは勘違いだ。「美少女になったつもりの中年男性の気持ちをわかった」だけだ。姿を借りても美少女にはならない。

それがなぜかというと、生れてきてからずっと味わってきた苦難があれば、美少女だということをただ喜べる女などいないからだ。危険がある。それに対して、怒りをもって立ち向かうか、庇護を求めて立ち振る舞うかの違いがある。後者を「ちやほや」と呼ぶならそれは違う。ちやほやしている男には腕力と悪い目論見があり、少女を目論見を果たすためのオブジェクトとして見る。

こういう人は、ミソジニーと自己を同一化させすぎている。どうしてこれがミソジニーかわからない人もいるだろう。この場合、少女を人間として扱っていない部分が、ミソジニーである。

わたしたちは、ミソジニーと言う虚構を生きている。女は男と体の形が違うから、本当は女も一人一人違うのに、女の記号を背負わせて、その個性を平たく均一化して、「女」という集団にひとまとめにする。そして、それに抵抗するために、「ひとまとめにされた名」を使って、わたしたちは戦ってきた。でも、その「ひとまとめ」の名を突然変えられた。

わたしたちは、バラバラになって、不適切な取り扱いを、個人だけで受け止めなくてはならなくなった。

それはとても不安で、恐ろしい。

人を尊敬するということ

人間だから、自分の思い通りにはならない。

人間だから、理解できない。

何を考えているかわからない相手がいる。それは恐怖だ。

理解できると思うのは傲慢だ。理解しようとするのは誠実さだ。理解できないというのはあきらめだ。

そして、それらを経て、理解できないという事実を見つめることは、人間への尊敬だ。


「病院に行け」の暴力と希死念慮の説明

わたしが「トランス女性と女湯・トイレ問題」に関わってから「病院行け」「カウンセリング受けろ」「希死念慮は自分で治療してなんとかしてください」「トラウマは自分で病院行け」「恐怖を盾にとって差別を正当化する」「憎悪の扇動をしている」「水晶の夜やルワンダ大虐殺を起こしたのはお前」みたいにリベラル・左翼・フェミニストに言われました。

ただ、病院に行くにしても、まず、病院の数が少ない、カウンセラーの情報がないので、良いカウンセラーを見つけにくい、病院があったとしても、人気のある所は予約が半年待ち、しかも、先生との相性が悪い場合もある、薬が体質にあわなかったら膨大な時間と負担がかかる、薬が効いたとしても、環境が変わらなければ、一度よくなってもぶり返す、相性が悪い病院だったらすべてやり直し、そのうえ、治療中に働ける人はまれという問題があります。

それで、希死念慮がひどくなって年始年末は最悪でした。死のうかなと思ってそう言ったらいろいろな人に心配をかけてしまった。申し訳ない。

とはいえ、はっきり言っておくと、PTSDや、希死念慮は治りません!

いや、啓蒙のために「治ります」っていうよ。「治療すれば治ります」って。そういう啓蒙は大事だよ。病院行かない人を行かせる効果もあるし、絶望している人に希望を与えるじゃん。めっちゃいい。

でも、治りません。寛解することもあるし、社会復帰することもあるし、症状が軽くなったり、対処法を覚えたり、薬でコントロールができて、症状がマックスで悪い時よりは生きられるようになります。でも、完治というか、普通の人が思うような意味で「全快」はしません。骨折だって治っても、冬になると傷むじゃないですか。人は病気になるたびに、少しずつ壊れていくんですよ。回復しやすい身体的なケガでも、完全に治るかっていうと治らないじゃないですか。腰痛だって、一度治っても、なったら、同じ生活をするとぶり返すから、生活を改善したり、ストレッチしたりして気を使うでしょう?

希死念慮は、「死にたい」と表現しますが「死ぬべきだ」という使命感だったり「死ななければならない」という確信だったり、「死ぬことが正しかったのだ」という清々しい真理のような形をもって、訪れます。必ずしも「つらいことから逃げたいから死ぬ」という形態ばかりではなく、前向きな解決策としての死が、きらきらとわたしを誘いに来ます。

洗濯物にハンカチを入れ忘れたから、わたしはおろかでダメな人間だ、だから死のう、そうしたら、洗濯物がそもそも発生しないから、すべてが解決する。

世界に幸福の総量があるといたら、わたしが死ぬことで喜ぶ人がいるので、わたしが死にさえすれば、その人たちが喜ぶので、世界の幸福総量は増える。あらゆる意味で、死ぬことは正しい。

また、わたしがどうしてもいやだということがあるけれど、その意見は邪魔であり、そして、ほかの人にとってはいやどころか歓迎すべきなので、反対意見を言われることさえ彼らは嫌がるから、発言することをやめて、死ねば、彼らの思い通りの世界が実現するので、死ぬことは正しい。そういうすっきりとした気持ちで死にたいときもあるし、苦しくて苦しみから逃れることを夢見ることもある。

わたしの場合、中学生の時に、子宮内膜症で道端で気絶して救急車で運ばれ点滴を打っていたら、母に胸ぐらをつかまれました。そして、婦人科に出入りするところみられると人生が終わるぞと脅され、人に知られると外聞が悪いといわれて、しかし、放置しておくと痛いうえに出血で死ぬ可能性があると調べたので、高速バスで二時間の病院に通いました。お金は出してもらえなかったので、愛人と暮らす別居している父に、お小遣いと称して手のひらの上から落とされる小銭を拾って交通費と薬代にして、足りない分は親せきからのお年玉で賄うというのを高校卒業までしていました。

そういう人なので、発症したのは16歳の時ですが、精神科に行くと就職で差別されるかもしれない、と言われ、受診できたのは二十歳の時でした。病人に偏見がある場合も受診はできないし、家族に偏見があれば、やはり受診できないように、お金や保険証を隠されます。

だから、病院に行けというのは、暴力なのです。治ることがないのに、言うのは無責任です。風邪とは違います。

わたしは、カウンセリングも、病院にも通って16年ですが、それでも希死念慮があります。彼らが精神疾患にもつ偏見は、差別丸出しですが、それをたしなめる人よりもわたしを「差別者」と言ってののしる数が多かったので、年始年末よりは回復してきたといえども、あらゆる瞬間で、少しのミスで、死にたいと思っています。

双極性障害は、うつ状態の時には全身の痛みと倦怠感、視界が真っ黒に見えるくらいの視力の低下、頭痛、腹痛に悩まされ、躁状態の時には、焦りと切迫感に追い立てられ、また、キレやすくなって暴言を吐きやすいなどの苦しさがあります。そういうものをどんな波があるのか記録して分析して対応策や工夫を考えても、なお、うまくいかない病気です。鬱の時に死にたいと願った気持ちを体が動く躁状態の時期に実現する人は多いのです。

また、ASDであるわたしには、いろいろなこだわりがあり、こだわってしまうこと自体を変えることができないので、こだわりを害のないものにずらす、ということをしています。

精神障害は治らないので、暮らしやすくするために、自他を観察してコントロールする、記録して、パターンを把握するなどの努力をし、医師を信じて薬を飲み、難しい服薬管理をして、ようやく生きていられます。

食に対するこだわりも強く、同じものを半年くらい食べ続けていたり、過食をしていたりもしました。それを工夫によって変えるのに、五年かかりました。

毎日、薬を何種類ものむというのは難しいことです。

死にたがりは自傷するというのも偏見ですし、精神疾患があると理性がないとか、論理的に話せないとか、感情的になる、とか、全部偏見です。差別です。

病気になると、偏見ゆえに孤立し、体力面で就労から遠ざかるので、世間との接点がなくなります。そういう状況下において、「病院に行け」という言葉を罵りとして使う人には一切の知性も、優しさも欠けた、人間とは言えない存在だと思います。医師でさえ、患者が自ら来ない限り診察も診断もできないのに、ネットではびこる素人診断によるお前は病気だという決めつけ、それをする人には、恥じる能力がないだろうので、仕方がないかもしれませんが、わたしはそういう人を、軽蔑します。


病院に行ってきた

今日はだらだら日記みたいなことを書きます。

今日は病院に行ってきた。一日がかりだからすごく疲れる。

十五年通っていたクリニックが高齢のために占めてしまったんで、転院した。これがまあ負担で、それだけで九月からずっと落ち込んでいて具合が悪くて、朝起きて、保育園の送りに行ったあとは、お迎えまで横になっているしかできてなくて。

近頃希死念慮が頻繁だ

人はどうせ死ぬんだという気がしていて、一日五回は死にたいなと思う。その一回が五秒の時もあるし一時間続くときもある。一分を六十回やったら一時間死ななかったことになる。それを八時間すると一日が終わるみたいに乗り越えてた。

今は、死にたい気持ちが強いので、気分の波を減らす薬を新しくためしているところで、200ミリを目標に、一か月25ミリずつの増加で八か月かけてならして言っているところ。

薬は体に悪いかもしれないけど、病気のほうが体に悪い。死んじゃう。

自然に逆らうのはよくないという人がいるけど、自然って、崩壊つまりエントロピーと、自己保存に向かうエネルギーとあるけど、どっちのことを言ってるんだろう。

自然てなんだろう?死ぬことかな

それでいったら、自然に逆らわないのは、死ぬのが一番いいし。自己保存だったら、薬とか飲んでエントロピーに逆らわないといけないし。生き物はエントロピーに逆らって自分の体を維持しようという訴求がある物体のことだと思うんだよね。

生きることは不自然だから、みんな死ぬのが自然だよ。

とか思いつつ、先生と話していたんだけど、一日五回死にたいのに生きているのはえらい、がんばっている、ということと、「こだわり」が強いのによく工夫しているってこと。

こだわりを観察してコントロールする

前は、性的なものにこだわりがあり、依存していたんだけど、それはけっこう苦しかったんで、だんだんこだわりを害のないものにずらしていくのが良いと思っている。例えばお茶の葉っぱにこだわる、とか、そういうこだわりは害が少ないから。

わたしは、まず、性的なこだわりから、洋服へのこだわりに移行して、一時期は借金もあり、その後食べることにこだわりが出て太り、今はやせて、ブログとか正義感とか、そういうのにこだわっている。お皿しまうのも、思った場所にないとキレて泣いてしまうだけじゃなくて伴侶に当たってしまうのはよくない。

わたしは、ASDグレーですか黒ですかときいたら、スペクトラムだからねえ。と言われた。

同じくらいの重さのこだわりがあったとしても、こだわりの対象が害がなかったり、生まれ持ったどうしようもない性格が好かれやすかったり、嫌われやすかったり、という障害以外の性質が困り度を左右するし、困っている度合いが高いほど治療の対象になる、と言われた。

それでいうと、c71さんは、こだわりが強いけど、昔よりもうまく工夫してずらしているし、話してて面白いと思われるような人としての愛されやすさがあるから、そういう意味では同じ重さの人よりも得をしているよね。ということだった。

確かに、と思った。現実で、わたしのことを憎悪する人はそこそこいるんだけど、そういう人たちは、ほかの人にもあまり人気がない。孤立してたりするし。嫌われるのは嫌だけど嫌われて損する人から嫌われること、あんまないな。

死にたいってことは、死にそうってことで症状が重いってこと

で、死にたいというのは、一番重いってことで、病気で言うと、死んじゃうのが症状が最悪だってことだから、そこに焦点を置いて治療をして、薬で波をなくして、死にたいの気持ちをもって、躁に転移したとき、うっかり自殺しちゃうことを防ぎたい目的ですと言われた。意識してないけど、死にたいと思う回数がめっちゃ多いもんな。あまりにも当たり前だったから言語化もできてなかったけど、一時間に一度の頻度で死にたいもん。

わたしが死んだらみんな喜ぶだろうし、伴侶は貯金もできるし、丸く収まるし、苦しみも終わるし、めでたいじゃん。としか思えない瞬間が一時間に一度のペースで来る。

温泉もトイレもいけないから引きこもりが加速してしまった

年末から症状が悪い。ツイッターでの議論のせいで、週二回いっていた温泉もいけなくなった。この辺は温泉文化で、出勤前に朝湯に毎日入りに行く人とか、昼間温泉でずっと過ごしてて、温泉でコミュニティを形成している高齢者の人とか、そういう人が多いところ。温泉に入って、友達と休憩室でみかん食べて、また温泉入って、みたいなことが日常なんだよね。毎日温泉行く人も多い。長患いで湯治に来る人もいるし。湯治ってね、結構修行みたいなんだよ。コンロと水道だけある宿泊施設に泊まって一か月温泉にひたすら入るみたいな人もいる。

だから、そういうお年寄りとか、子供とか、若くても具合が悪いから湯治している人とか、そういう人が、裸でいるとき、異性が入ってきて、通報することを思い出して、通報できて(スマホ持ってない人もいるし)、誰か人がくるまで身を守り、トラウマにならないように、待ってられるかって想像すると、無理だよなと思うんだよね。大丈夫です、って言っている人は自分は大丈夫なのはともかく、その場にいる人も同じだと思ってるのかな。世界線が違うのかもしれないなと思う。わからん。

それで、外でトイレいけないなってなって、外出するのが結構難しい。前は、温泉入ってゲーセン、ご飯食べて帰る、ってパターンで外出できてたんだけど、それができなくなったから、外出の理由がないんだよね。

正義感が強くても、日常では片目をつぶってみることで無用な摩擦を避けるという工夫

まあ、それはともかくとして、治療に話を戻すと、正義感の強さは、人との摩擦になることに気付いたので、片目で見て、立ち入らない、干渉しない、自分に影響するときにだけ対応するみたいにしました、って言ったら、「どこでそれ覚えたの?」と言われた。「自分で気づきました」って言ったらほめられた。

「ネット依存でちょっと困ってて、Twitterとかで疲れるから、ブログだと人の悪意もコントロールできるんで、サーバーも自分で借りて独自ドメインでやってるので、それで若干ましになりました」「ネットで自他をよく観察して、コントロールできてるって言われてうれしかったです」「とはいえ、ツイートは一二と五回くらいだったり、しない日もあります」「同じ障害の人と知り合ったり、話したりできるから、楽しいことも多いし、お互いの工夫とかも話せるから」みたいに言った。

「SNSも道具だからね。SNSだと悪意が飛んできやすいからそこをコントロールできたらいいんだけど難しいよね。でも、ブログに切り替えたのはいい工夫だと思うよ」と言ってもらった。

本当は、精神障害二級で出産したときの減薬の状況とか、その間した工夫とか書いたら役に立つよなと思いだした。女性の障害者でそういうの書いている人少なくて、情報がないんだよね。そういう経験談みたいなので、元気づけられて、子供が産めたらいいと思うし。

今は睡眠障害がちょっと出てて、先生に言うのも忘れてたけど早朝覚醒になってて、四時ごろに起きるのが続いているので、やっぱり調子は悪い。

そのあと心理療法でカウンセラーと初めて話した。伴侶が元家族にDVされて十年物置に監禁されてて、39キロにやせて、水とかも一日に飲んでいい量が決まってて、それは、トイレに行く回数が増えるとか、汗で服が汚れるからだったり、名前は自分の親とのつながりだから、名字だけじゃなくて下の名前も偽名を使わされていたとか、元妻の借金を払うので必死だったとかそういう話をした。彼も障害があるし。で、わたしが一日五回は死にたいと思うといったら、それは苦しいですね見たいな話をした。結構疲れて体ががくがくになった。泣きそうになったし。

ネットのもめごと

あ、そうだ、ラディカルフェミニズム、やっぱり、わたしには賛同できない点があるなと思ったんだった。

あるラディカルフェミニストに、「子連れ様」と言われたんだよね。夫の権威があるんだから、弱者じゃないんだとか言ってて。まあ、そうだよね、わたしは体制の維持になるのが嫌で、婚姻届けを出してはいないけど、伴侶が男だというのはまあそうだよ。

で、子供を産み育てるというのは、ケアをする属性としての、現実を強化しているから反体制としてはまずいっていうか、体制的だよねと言うのも理屈上導き出せるよね。

もちろんラディカルフェミニストの総意じゃないし、彼女はかなり変わっているのは確かだと思うんだけど、でも、ラディカルフェミニズムから論理的に導き出せるのも事実やなと思った。

だけど、産んだし産みたかったししょうがないじゃん。権利でしょ。妊娠出産に関することって女の人の権利じゃん。反体制を貫くために子供は産まないとかあってもいいよ、でも、産んだ人に「子連れ様」って侮蔑を向けていいわけない。人として最低だと思うし。論理的にわたしの書いたものを、それこそブログとかで書いて批判すればいいのに、それをする人ってめちゃ少ない。説得力と魅力があれば読んでもらえるよ。

女は子供を産む、それを否定したら、結局「女は子供を産むから駄目なんだ」といってる人たちと同じになってしまって、ああ、これもわたしのためのフェミニズムじゃなかったんだよねと思った。わたしは石投げてると思われてるんだろうな。リベラルト、ラディカルフェミニズム問わず。わたしどっちでもないし。どちらかというとラディカルに近いのかなと思ってたけど、人と人とのつながりというか、営みを否定するのって無理だなって。わたしにはミソジニーがあります!!!!!ミソジニーのある世界で育ったんだから、感性も価値観もミソジニーがないわけないよ。でも、自覚してない人よりはましだよ!!!!って思っている。子供を産むのはミソジニーなのか?

なら、何のための体制批判なのか?その間、個人的な、属人的な幸せを築けないなら、わたしには意味がない。わたしはわたしのために正義感を発動しているし、わたしが幸せになりたいから、フェミニズム的なものに親和的なだけだから。でも、わたしの幸せよりイデオロギーが優先されることはない。というか、どんなイデオロギーであっても、わたしの幸せを邪魔する思想は許さない。

お互いを相互監視してたら、それこそあさま山荘事件の再現じゃんと思うし、ラディカルフェミニズム文脈からの「子連れ様」発言にその萌芽を感じる。あさま山荘事件って、女らしさを出したら殺されるんだよね。「女らしさ」は体制的であり運動をつぶすものだからって理由で総括されて殺された事件です。

と、いうのは、わたしが死にやすい障害なんだよね。わたしの障害は、寿命が短い。たぶん、自殺して死んじゃうんだと思うけど。障害の症状自体が、身体にすごく負担をかけるし。不眠、精神的な不安定さ、ってメンタルだけじゃなくて体の痛みとして現れるから、これって体に悪いよなと思う。薬の害なんて、それほどじゃない。病気の症状のほうが悪い。だから、天稟にかけて薬を飲むんだけど、薬は体に悪いといってくるバカもいる。薬飲まないで自殺したらそっちのほうが体に悪いんだけどな。

よくわかったんだけど、イデオロギーは、あてにならない。

理論的にはわかるけど、温泉入れなくなって、性犯罪者ぽいな?と思ってもその人の辞任によっては犯罪にならないし、子供を産むことは、男の後ろ盾を得ることで権力側に立つことなんだったら、もう死んだほうがましじゃんみたいに感情が流れていく。わたし死にたくはないんだけど。死にたいのは病気のせいで思わされていることだし。

そういうの、女性の解放のための理論のはずなのに、今の私を生きにくくする。それに、独身女性でも、親が元気だとか、義理の親がいないだとか、介護しなくて済むとか自分が健康だとかそういうのは、ある意味で、結婚している人よりも楽じゃないかな。頭蓋骨われるまでDVされたりしないで済むとか。

別に死をちらつかせて脅す意図はなくて、でも、だんだん死にたくなって、そのほうが良くない?わたしは死にたくないけど、なんか死んじゃうかもとも思うんだよね。

イデオロギーよりも、それより人柄でつながって、優しい人とわかり合ってたほうがいいな。それがリベラルフェミニストでも、ラディカルフェミニストでも、右翼でも。イデオロギー的に一致している人たちの暴言に心が折れた。どんなイデオロギーであっても、違っていても、それを超えて励ましてくれる人のほうがいい。全然。それはわたしの選択だからそれでいい。誰に何を言われても決めた。

トランスジェンダーでも、女でも男でも、違いはあっても。それって、生まれ育った来歴があってそのうえでの属性だから、イデオロギー以外で分かり合えるほうがわたしには今大切だなと思った。じゃないと死んじゃうしうっかり。でも、こういうこというと悲しませちゃうから本当はダメだけど。死なないように頑張ります。


クィア理論を実践するとき

わたしたちは救われない。

女はいつも後回しだからだ。

人類は女と男の二種類にわけた。その二種類を前提にして、社会や医療が成り立っている。

病気をはじめとした困りごとがある場合、対応は二種類に分かれる。自分を変えるか、社会を変えるかだ。

GIDは体を変化させる。トランスジェンダーは、社会的役割をトランス(越境)させる行為なので、社会の変化を求める。

それ自体に、良いも悪いもないが、他者を巻き込む以上、その他者がトランスジェンダーの思い通りに動くとは限らない。変えられる側に含まれるわたしは、社会をそのように変えることを望まない。

社会は人と人とのつながりでできている

机上の空論としての理論に、論理的誤謬がないとしても、さまざまな変数、理論を考えた人の発想を超えた考慮不可能な意図せぬ要素が増える「社会」では理論通りにはいかない。

わたしは、無知蒙昧な民衆の一人だと自分を理解している。無力で、影響力もない。

わたしは、学者を正しいことを正しく知るために研究をしているのだとどこかで思っていた。彼らの蓄積が世の中を豊かにしている。わたしの疑問は、彼らがすでに解決しているか、解決の糸口やヒントを、書籍か何かに書き記してくれており、わたしはそれを読んで目からうろこを落としたり、新しい世界を知ったりして、自分なりに豊かな精神世界を目指していく、わからないことばかりの広大な海に、岸を示す灯台守のようなものだと思っていた。

学者たちが、彼らの占有する言語空間で練り上げたいろいろな理論は、きっとまっすぐに正しいのだろうと思う。

ただ、論理的、手続き的に正しいとしても、その全体が正しいとは限らない。http://rokujo.org/2019/01/12/1589/ で公衆トイレ論文が信用ならないと判明したみたいに。

生活の中で生じるやむを得なさ

社会は人と人とが作っている。それぞれに権利があり、それぞれが衝突する。

生活すること、生きることは、やむを得なさの連続を蓄積したものである。好んで選んだものだけではなく、ただしかたなく受け入れてきたものが、しんしんと体に積もって、記憶して、そして、わたしの感性や、新しい選択を作り出し、人生を導く。

世界はあらゆるやむを得なさに満ちている。生活と理論は、小島剛さんの言葉を借りれば、田んぼと米の関係だ。どんなにすばらしい理論があっても、社会という田んぼを無視すれば、その米は実らない。

理論的には、正しくても、それを社会に持ち込めば、社会にはは悪党だっている。それを織り込まなければ、社会に理論は適用できない。しても、悪い結果になる。

悪を前提に社会設計すべき

わたしたちは、世の中に悪党もいて、無自覚に悪をなす人もいるのだと心得て、社会を構築し、参加していなくてはならないし、そういう風に前もって考えておくべきだ。悪を織り込みながら生きていくべきなのだ。そのためには、予防が大事だ。何か起きた、そのあとに対処したというのは、誰かが損なわれたあとだということだから。未然に防ぐ方法を考えなくてはならない。

社会は、人と人のつながりでできている。フレイバーさんのインタビューを読んだら、社会的接着剤ということが書いてあった。人と人とのつながりが大事なのだと。今のフェミニズムは資本主義に巻き取られて、市場の言葉で語られていると。

「主婦の仕事を賃金で換算することもそうなんだろう」と読んでいて気が付いた。金銭に換算するまでもなく、女がしてきたことは、大切なことなのは明らかだ。金銭で換算するのは、金銭でしか物事の重要性を把握できない男に理解できるよう、わかりやすくしたものだとしても、今度は女がその説明に巻き取られ、金銭に換算できないものは、価値がないと考えるようになってしまった。地域でのコミュニティの維持や、妊娠や出産、愛情、思いやり、そういったものたちを。

わたしは、人を尊重するということを、片目をつぶって見ることだと思っている。自分の価値観と違う人が、それぞれの信念と内心をもって、自由に表現し行動することを、干渉せず、放っておいて、ただ困っていればお互いに助け合い、自分の領域に立ち入れば排除する。これを尊重だと思っている。

わたしにはわたしの社会がある。わたしにも自由があり、守るものがある。

権利の衝突は悪ではない

わたしの権利と他者の権利が衝突すれば、わたしは戦う。ときには、言葉で。行動で。人の手を借りるときもある。それが誠意というものだと思っている。衝突も、人と誠実に向き合うことの一つだ。なあなあに流せることと流せないことがある。自分の境界をきっちり引くことが大切だ。自分を守るときに、領域の線引きをできない人は、自分の主張を通すときにも、他人の線引きを不誠実に超えるだろう。なあなあにしろと押し通すだろう。それが強者だったら、弱者の負担にも気づかず、自分が何をしたか、その罪にも気づかず、自分はいいことをしたくらいに思っている。

今は、誠意とか正義だとかが、埃をかぶった遺物だと感じることも多いけれど、わたしはそういう遺物でできている。

誰を守るか考えることも、発言も、選択である

発言するという行為は、選択だ。選択する限り、誰を守り、誰を守らないか、決めざるをえない。

発言を恐れて、黙っていても、選択からは逃れられない。ほかの人の選択によって、そのまま、誰かが失われていくだけだからだ。それよりは、わたしは自分の責任でだれを守るか決めていたい。わたしは、自分の選別の残酷を丸のみする。それは、選別を含むという意味で、差別もいえるかもしれない。

わたしは、意思決定能力が弱い人や、身体的に弱い人、精神的に弱い人、体の力が衰えた人、幼い人、そういう人を守りたい。

わたしに守れるものはとても少ない。全部を両腕に抱えることができない。だから、優先して守るものと、守れないものがある。本当は誰だってそうなはずだ。

すべての人にやさしくしたくても、すべての人にやさしくできない。

権利の衝突が起き、どちらも悪くないが、どちらかの保護しかできない場合には、選ばなくてはならない。

犯罪者に出くわしてからでは遅いので予防が大事だ

トランスジェンダーが女性専用スペースに入りたいという主張では、わたしはトランスジェンダーではなく、ほかの弱い人、高齢者や子供を選ぶ。

一度犯罪に遭ってからでは遅い。予防が大事なのだ。完全になくせなくても、減らすという姿勢がほしい。

もちろん、犯罪に遭ってからも、治療はできる。でも、その間の時間は永久に戻らない。そして、治療して治ったとしても、それは完全に元に戻ったことを意味しない。少し弱くなっても、現実に帰っていけるという意味でしかない。

わたしの正しさは、誰かにとっての間違いや不快だ。誰かの正しさは、わたしの不快だ。そういう場合もあるのは重々承知である。

他者を尊重することの意味

違いをそのまま受け入れるとは、違いをそのままにして、少しだけ解像度を低くして、ぼんやりと人付き合いをすることでもある。違いに立ち入らないことだ。変えようとしないことだ。それは時には暴力だから。理解しようとして、できなかったとしたら、そのまま飲み込むべきだ。自分の物差しで測って、それが違ってしまったら、それは丸のみの理解よりも悪い。それが現実的な人付き合いで、一つ違うからと言ってバッサリ切っていくことはできない。

正義も大事だ。争いを避けるために、見て見ぬふりをすること、目をそらすことも必要だ。……弱い人が犠牲にならない限りでは。

わたしは片目をつぶりながら、それでいて、必要な時には直視して、正義を行う人でありたい。

女の記号を身に着けるのはミソジニー的な行為である

ただの単なる人間を、「女」という姿に区別するために、記号が必要だと、「男」が考えたから、「女らしさ」は存在する。manにwoをつけるとwomanになる。woは一説によると、wifeらしい。もともと女という意味でwifeという言葉があったそうだ。女というのは誰かの妻だったのだ。イブとアダムがそうだったように。

男の姿に、いろいろ加えていくと、女になる。それは、女を欠けたものだという発想である。

女を男と区別しなくてはならないという発想が、女に装飾を加えさせる。だから、女の記号を身に着けることは、女嫌いなのだ。女をそのまま認めず、徴をつけておくことで、管理可能性を高めるという意味で。

いろいろな理論がある。たとえば、韓国系ラディカルフェミニストは、とても正しさに厳密だ。若い人が支持していて、わたしはわかくないので、正しさに耐えられない。だから、やむを得ず、正しさに耐えられない自分と、正しさによって割り切っていくまぶしさを薄目で見ている。

若い人の抑圧を取り去るための理論として、素晴らしいものだと思う。重要だと思うからなんども言及している。これから必要なものだと思う。

ただ、いかんせん、わたしはそれより長く生きているため、引きずっているものが多くて、突きつけられることが厳しすぎる。そして、わたしは自分がしんどいものを避けたい。

クィア理論も、バトラーの講演会に感動したから、哀惜可能性についてなど、素晴らしい概念はたくさんある。だが、乗れない部分もある。

わたしは女の記号が記号に過ぎないとわかっていて、化粧をしてきた。髪を整え、肌を整え、先のとがった靴を履いた。それはごまかしである以上に適応でもあった。言い訳に過ぎなくても必要なことだった。

女の記号を身に着けること自体、ミソジニーが原因だ。つまり、極端に言えば、トランス行為には、ミソジニーがある。わたしたち女はそれらの記号から解放されたがっている。しかし、生まれたとき男だった人が、女になることを目指すには、女の記号を身に着ける必要がある。

それがなぜ必要か。あるがままの体で、自分の思った通りの人間でいるためには、本来、後付けの記号はいらないはずだ。それがトランスジェンダーであれ、女性であれ。

規範のない世界ならば、いかなる表現も「女らしさ」「男らしさ」にはならないはずだ。でも、今は規範のある世の中なので、女の記号を示すものを身に着ければ、それは「女らしさ」の枷となる。

そしてトランス行為は、どちらの性に向かうのだとしても、女か男の記号を模したものを目指すことで、そうでなければ、日常に紛れ込めない。わたしも、日常に紛れ込むために、自分を装っている。わたしがしていることも、ミソジナスな行為であることは間違いない。しかし、社会的信用を得るためには、外見をそれに合わせることが必要だし、自分の中にある社会を模したものの判定を受けるので、自分自身の外見を、ミソジニーに合わせて変えていく必要がある。何度も繰り返すが、わたしの住んでいる世界はミソジニーを前提とした世界だからだ。

わたしが装うそれ自体、わたしのミソジニーが、わたしに向かった行為だ。女である自分を女として管理する行為は、自己否定に機能する。女であるためには、あるがままの自分ではいられないからだ。

社会性を保つために必要なこと

だが、ミソジニーのある世界で、社会性を保つ一環として、装いは必要なことでもある。

わたしは、自己卑下や自己嫌悪をする。これも、女である自分を罰する行為だ。自分がバカで愚かでどうしようもないから死にたいと思う。それも、自分の中のミソジニーが、自分を罰しているんだと思っている。

自分の自信を喪失すること、これも自分のミソジニーの結果だ。

今ある世界で培った感覚からは逃れることができない

どういうものを美しいと感じるのか。感触、におい、音、そういうものも、ミソジニーが大いにある世界で暮らしながら育まれたので、そういう感覚自体にもミソジニーが紛れ込んでいるだろう。身体的な感覚すら、ミソジニーからは逃れられない。

だから、わたしはトランス行為をする人を一方的に断罪はできない。彼女たちだって、気が付いているから。何一つ装飾をしないでいても、女に見えるかというと難しい人もいるだろう。それは、彼女たちの体が男だから突きつけてくる事実である。

わたしの女という体にも、同じように、突きつけてくる事実があって、それはどうやっても男と同様には扱われず、女枠から一定以上はみ出せば暴力の対象になるだろうということだ。

欺瞞をそのままにしておく意味

だから、わたしはわたし自身の欺瞞や矛盾に片目をつぶって、存在することが分かっていても、自分自身をそのまま受け入れようと思う。それは、他者に対しても同じだ。

他人が、いかに行動して、いかに表現していようと、それがわたしの権利、わたしの社会を傷つけない限り、わたしは彼らを放っておく。ただ、わたしの権利と衝突したときにはその限りではないだけだ。

内心がどうであれ、自由であること、それ自体は尊重しても、こちらにとってもその内心に合わせない自由があり、キャパシティ的な問題もある。

ただ、これも社会の問題だから、人と人とのつながりがあり、そうしたとき、相手への気持ちがあれば、内心を尊重して、内心通りに取り扱うこともできる。

権利と接し方の問題

トランスジェンダーも、異性装の人も、権利がある。わたしはそれを認めている。尊重したいと思っている。存在しているのだから、認めるも何もない。ただ、わたしは、女性専用スペースを彼らとわけたい。そこに不一致がある。

彼らの、性暴力被害の防止や、被害後のケアの足りなさ、就労や、心無い言葉の投げつけ、そういったものについて、心を痛めるのは本当だ。どうにかならないものかと思う。

しかし、トランスジェンダーの女性が、セーフスペースに入ってきたら、それが不特定多数のいる場所ならば、全員が足並みをそろえて、彼女を怖がらないでいるのは無理なのだ。

GIDは体の性別を変えている人だから、たいていの人は受け入れられるだろう。

GIDにとって、性自認は重要ではない。

(追記:トランスジェンダーとGIDでは、性自認の意味が異なります。GID にとって、性自認とは、手術の要件に足る精神と身体の不一致です。手術をすることが優先だそうです。そういう意味では性自認がどうよりも身体の不一致を早くなんとか治療したいという気持ちが強いそうです。それで、GIDは性自認が重要ではないと書きました。体の問題が優先するので。


GID とトランスジェンダーの性自認とは異なります。GID にとっては、身体の問題が優先するので、性自認はトランスジェンダーより大事ではないそうです。ただし、手術の用件足り得る精神と身体の不一致はトランスジェンダーより強いので、その意味では、性自認が重要という言い方もできるでしょう)

身体を暮らしやすい形に変えることが大切らしい。だから、彼女たちを怖がる人はうんと少ないだろう。体の形が似ていれば、脅威を感じにくいからだ。

彼女たち、彼らに必要なのは、手術を行う要件としての精神状態だから、性自認を必要とするTG(トランスジェンダー)とは、概念が全く異なる。

でも、トランスジェンダーは、社会的性別を変えたい人たちだから、身体を変えることはGIDほど重要ではなく、社会からの取り扱いを変えることを求める。だから、トランス女性の体の形が、女性に近いとは限らない。だから、女性専用スペースに入りたいという願いには応じられない場合がある。トランスジェンダーの女性が、男性から、被害を受け、苦しんでいるのは、こちらにも痛い。むごい。憤りを感じる。

(なぜ男はそういう男を非難しないか、とも思う。なぜ、女性が受け入れていないことばかり、男は攻め立てるんだろう。自分が属している集団の暴力性について、どれだけ反省しているのだろう。女性よりも、1000倍以上は、性犯罪を起こす集団に属しているのに)

トランスジェンダーの言葉の広さ

トランスジェンダーとは、性自認が男性女性問わず、内心がどうであれ、ジェンダー(社会的性別の役割)を超えていく人たちなので、その役割のどれをどう負いたいかによって体の改変の度合いを変える。トランスジェンダーの主張は、こちらの対応、社会を変えろという主張だから、変わるのはわたしたちでもある。TGにTV(異性装。性自認は男)が含まれるので、そういう解釈になる。トランスジェンダーが、異性装を含むほど大きな概念だから、トランスジェンダーの中には、男に見えたり男の記号を背負ったりしている人がいるはずだ。

また、トランスジェンダーの中には、女性を性的にみる精神のままトランスして女性的になった(オートガネイフィリア:性的対象としての女性を好きすぎて女性になる人)人や、男の記号を持ったままの人とがいる。そうすると、それらの人と、性犯罪をもくろむ人と、区別はつかない。女性専用スペースにそうした人が来たら、わたしはそれを怖がる。

恐怖を感じること自体、被害なのだと認めてほしい

怖がること自体でダメージを負う。ダメージを負ってから対処するのでは遅い。もし、性犯罪者があらわれたら、通報すればいいという人は、ダメージを軽く見ていると思う。実際問題、性犯罪者ではないかと思えば、恐怖はあるし、恐怖があれば、声も出ないし、体も動かない。相手にも事情があるのかなと考えもするから、そもそも性犯罪者か確信も持てない。混乱すると、頭も真っ白になり、体の力が抜けてしまい、判断力はなくなる。訓練によって叫ぶことができるかどうかぐらいだ。

わたしが襲われたとき、叫べて、そのうえ、住民たちや、近くの通りを歩いていた人が来てくれたから、命は助かった。これはありえないほど運が良かった。普通は、怖くて出てこれない。また自分には関係ないと思うだろうから、厄介ごとに関わりたくないと思ったかもしれない。

声は出せても、相手のことを攻撃するようなことはできなかった。手に力が入らなかった。足もぐにゃぐにゃになった。殴られて首を絞められて腕の神経が切れた。それでも、最初は空気を吸うこともできず、口をパクパクさせるのが精いっぱいで、叫ぶことを思い出すのに五秒ぐらいかかったと思う。叫ぶのも、叫んだことで、犯人を刺激して刺されて死ぬかもしれないなと思い躊躇した。なにしろ、異常な行動をすでにとっているのだろうから、相手が最悪の行動をとらないと信頼できるわけがない。攻撃してこないと思う、それ自体、相手を信頼しているってことだ。でも、痴漢もそうだが、触るだとかつけるだとか、そういう異常な行動をしている以上、何一つ信頼できない。

男性には想像ができない「性犯罪の被害」の重さ

男性にとって、自分の目の前に、裸の男がおり、性器を見せている状態を想像しても、単に滑稽な光景にしか思われないかもしれない。

でも、わたしにとって、それは、ヒグマに遭うのと同じか、それ以上恐ろしいことだ。その人は、言葉や常識が通じない。社会性があれば、普通しないことを、している以上、彼には言葉も抗議も通じないのだろうと、まず判断する。

そして、社会性のない、普通なら考えられない行動をする人間が性器を見せる以上、抵抗したらそれ以上のことをされるのだろうと思う。人は、恐怖に陥ると声も出ないし、体の力も抜けてしまう。考えられなくもなる。性器を見せる男がいたら通報しろとたやすく言う人もいるが、それはもう被害が発生した後だ。被害があってからでは遅いのだ。異性に性器を見せることは加害なのだ。

犯罪者に対しても、信頼の問題が出る。犯罪はしても、これはしないだろうと信じられたら、抵抗できる。

犯罪でさえ、人と人とのつながりの問題だ。

日本のジェンダー系の学者

正しく見える理論を実践するときには、必ず考慮していなかった要素があとからでてくる。例えば、「公衆トイレ論文」だって、データ処理の手続きや、体裁は正しかった。それと同じような意味合いで、要素を考慮していない理論には現実に反映させる意味がない。

そして、その要素が、弱者に関してのもので、実践の結果弱者の健康と安全を害するならば、それはあとから訂正していけばいいものではない。取り返しがつかない。弱者は簡単なことで、命や健康や、普通の生活を失い、時には元に戻れない。

しかし、学者は、自分たちの理論が無謬のようにふるまって、違う視点から指摘されるとひどくおかしな行動をする。まるで焦っているみたいに。理論は理論として正しくても、違う分野からしたらおかしいことはよくある。また、生活の場に理論を落としていくという作業は、それこそ、様々な分野からの意見が立ち上がることに他ならないのに。

そして、女という感じは、祈っている様子を表しているのだという。

言われてみれば、わたしは祈ってばかりだ。もう、悪くならないで済むように、健康であるように、家族が平和に暮らせるように。

排除が目的なのではない。だが、わたしは、自分の属性の集団を守りたい。理論を社会に適用するには早すぎる。なぜそんなに急ぐのか。そこが恐ろしい。


なぜ男が女になりたがるのか

なぜ、男に近ければ近いほど、トランス女性は女性ですと呼びかけるのかという謎

なぜ、男が、男の体のまま、女の領域に入りたがるのか不思議だった。

それは、trans genderの言葉の意味通り。transが「越境」という意味である通りだった。

男には、男の領域がある。女には入れない(例:土俵。山。神社)。男には女の領域に入れないという建前がある。

女が土俵に入ろうとすると、物理的に排除される。男が、女の領域に入ろうとすると、物理的には排除されないが、公の力によって排除される。

そして、それを許せない男がいる。

女嫌いが強いと、女にもジブたちの領域があること自体が許せず、憎しみの対象になる

ドクター差別が示すように、男が入れない領域を女が持つこと自体を許せない男がいる。彼は、自分を女だと言って、女性専用スペースに入る。ミソジニー(女嫌い)が強いと、女が安全に過ごす場所があること自体が、認められないのだろう。

弱った女は支配しやすい

女にはいつも傷ついて、弱っていてほしいという欲望が男にはある。それは、大昔、泣きゲーというジャンルで、アビューズされた女性ヒロインが量産されたことからもわかる。傷ついて弱っていると、支配が容易である。そのため、女が健康で、安全に過ごし、安心して、自己肯定感を育むことを阻止する。自己肯定感が育まれた女は支配が容易ではない。

男は、そうした女を憎む。「強い女」と呼んで、健康な女をいじめつくす。自分たちを弱者男性と呼ぶ。そして、同情を誘って、被支配層が、正常な判断をできないように感情に訴えかけてコントロールする。これは、カップル間のモラハラの手口でもある。

男は、女の領域まで完全に支配したい

男には入れない領域があると、その場所では、女を支配下に置けていないことになる。

また、支配下に置いていない間、女が健康に過ごすこと(それ自体が反乱)を防ぐために、男は、トランスという切符で、女性の領域に越境することが必要だ。

越境とは完全な支配

初めから、trans、つまり越境することを彼らは主張していた。そのままの意味だった。わたしがなぜ、そのままの意味を理解できなかったかというと、同情心に訴えかけられ、幻惑されていたからだ。ごまかしがあった。

トランス女性は女性です、という言葉は、男が男の体のまま、女性の専用スペースに入るという意味を持つ。女が、非男のっ領域すべてを投げ入れられているのだから、GIDが去勢されることで、社会的に女として認められるのは道理がある。not man is woman だから。

元に戻れないほど、治療が進んでいる人ほど、女性の立場に立つのが不思議だった。not man is womanだ。彼らは男の体ではなくなってから、女性として生きている。

なぜ、GIDがくたばれGIDと言われるのか

GIDが「くたばれGID」とまで言われるのは、トランスジェンダーを主張する人たちにとって、彼女たちが都合の悪い存在だからだ。彼女たちは、その身体でもって、去勢されなくては女にはなれないという前例を作ったので、女の領域への切符だけがほしい人たちには、都合が悪い。

ときどき女になりたいという欲望は、女のセーフスペースを破壊したいという欲望だ。彼らは、女のセーフスペースの存在が許せない。去勢されている限り、男は、女を侵略できないという意味付けを男たちはしているから、侵略を目的にしている限り、ペニスが付いたまま女のスペースに入らなくては、侵略が達成されない。それでは意味がない。だから、男は、「トランス女性は女性です」と言わなくてはならない。

ときどき女になりたいという欲望

「トランス女性は女性です」の意味は、女の領域への侵略の宣言だ。男が、ペニスを暴力とセットに意味づけているのだから、ペニス付きで女になる。つまり、男にいつでも戻れるように可塑性を保った状態で、女になれば、完ぺきな女の支配ができる。

内心は誰にも点検できないことを逆手にとって、女への憎しみを達成するために、男のまま、女の領域に行き、男の体の存在自体で、その場所を破壊する。

越境による支配

二項対立を破壊し、社会的構築物である性別の意味をなくす、ことの意味しているのは、女の文化の破壊だ。たしかに、そうすれば、差別をやめろとは女も言わなくなる。完全に支配されてしまうのだから、見た目上、差別や暴力や加害はなくなる。

トランスジェンダー自体が、女を完膚なきまでの支配下に置くことを意味している。トランスは越境や超越という意味だ。男の体のままで、女性専用スペースに入る切符だ。そのために、女たちが「安全のために女湯や女子トイレに入らないでほしい」と訴えたのに、「権利の侵害」「差別」と退けていたのは、筋が通っている。

男は安全なままだ。男が女の領域に入っても、何の危険もない。また、トランス女性だけでなく、リベラルや左翼の男性が、もろ手を挙げて賛成をして、それに異を唱える女性に過剰な攻撃をしていたことにも納得できる。

攻撃は、支配したいという欲望がそのまま表れていた。支配したければしたいほど、攻撃的だし、攻撃的な人間だから、支配したがる。表裏一体だ。

議論すれば、これらの欺瞞に気が付かれるから、「議論自体を差別だからやめろ」とののしっていたのだ。

男性は、女性を支配するために、トランス女性を使った。男は何一つ痛手を負わず、女性を支配する。

彼らは、侵略すること、すべての場所を支配することを権利だととらえている。それが叶わないことを差別だと思っている。女をどこまでも見下しているから、女が健康で安心して過ごしていること自体が許せないのだ。トランスは越境だった。確かにそうだった。最初からずっとそうだった。トランジェンダリズムとは、越境を通して、女性の最後の場所を奪い去る運動だ。


性別は生贄。女の定義が壊されても、わたしの体が残っていく。

男で、「男とは何か」で悩んでいる人はいるけど、「自分が男かどうか」で悩んでいる人あまり見ない。考えてないんだと思う。

その点、わたしは自分の性別を女と呼ぶのがどんどん難しくなってきた。

それは、ペニス付きの女を認めろと迫られているからである。

ペニス付きの女を認めるということは、女という言葉から表面をはぎ取って、生贄という本質をむき出しにする行為である。男は、女の境界を壊すことで、生贄をより生贄らしく扱うことができる。生贄から最後のプライドをはぎ取って、自分たちがより扱いやすくする。

学問的な、情緒的な正しさという砂糖衣をかぶせて。

また、それは、男が「こいつは女だ」と言及することで、自分の男らしさを確認しやすくする。男の定義もあやふやにぼやけているから、彼らが男でい続けるためには、「こいつは女だ」と示している必要がある。常に。

ペニス付きの女も女性だと認めろとは誰も言っていないというかもしれない。でも、トランス女性は女性です、ということは、トランスジェンダーが、gid以外の概念を含むのだから、ペニス付きの女性を認めろということと等しい。

「事情があってオペができないトランス女性のことも考えてください、彼らにも更衣室やトイレや公衆浴場を安全に使う権利があるんですよ」というのは現実的にはペニス付きの女を認めて受け入れて怖がったり警戒したりせずに、なおかつ、何か起きたときの被害はどうしようもないから被害者が何とかして病院に行くなりカウンセリング受けるなりして誰にも言わずに何とかしてくださいね、加害を受けたと知ってショックを受ける人もいるんですよ、みたいな話なのである。

わたしの頭の中で話が混線して一体化するとこういう話になる。異論は認める。

そんなの、もう、人間じゃなくて、生贄じゃんと思ったんでした。性別が女とかいうから、人間だと勘違いをする。地位としての性別は、生贄だ。

男も、たまには女になってみたい、欲望されたいと思うから、ときどき女装をする。女の記号を身に着ければ、女らしくなって、女として欲望されると思っている。欲望されるのは、きっとものすごく気持ちがいいんだと、妄想で、嫉妬して、女を憎む人たちがいる。

男のまま、女の姿を模して、女になることで、欲望し、欲望されるに何かになれると思うから、女の定義を変えようとする。女にもペニスがあります、という宣言は、自分が、男のまま、女にもなりたいという欲望の表現だ。

それなら、もう、実態に即して、「女」というものはなかったということにしてほしい。彼らが言うような、二項対立があるから駄目なので、二項対立をなくす、そうすると差別がなくなるというような、あんぽんたんな議論から降りたい。彼らというのは、学問的な言語空間を作り、自らその王になった人たちのことだ。

そして、わたしは、女というものはもともといなくて、それは、男に存在する虚飾にまみれた妄想であるのだとわかった。彼らは、女のイメージを自由自在に操る。その意に沿わないものを女と認めない。

その妄想の生贄になる人たちがいる。生贄たちは暴力行為を行わない。男は暴力でしか変わらない。女はどういうわけか男に対して暴力を振るわない。結果として、女の地位は、生贄のままだ。

わたしたちを「女」と呼ぶことで、「男」の地位にいる人たちは、「女」に暴力を振ることで「男らしさ」を強める。

暴力的加害を起こすのは、二十代から四十代の男たちだ。つまり、勃起能力のある男たち。

わたしは、かつて女と呼ばれていた、今はその名もぼやけて、自分の性別が分からなくなった人たちの解放運動をしたい。その人たちは、ペニスがないゆえに、衣食住のすべての世話をし、学ぶことを許されず、労働を正当に評価されず、仕事に就けず、育児だけでなく介護を無償でやらされ、オナニーの道具としてもてあそばれるのだ。そして、食事ができているのだからお前たちは幸せだろう。住むところまであるんだからイージーモードだと言われる。

二項対立は否定されていいものだと思うが、その一方で二項対立が学問的に否定されたかと言って、この体に紐づけられた意味と染みついた経験は残る。

二項対立は否定されたので明日からアップデートして、いろいろ忘れて仕切り直してくださいと言われても無駄だ。だいたい、わたしが自分を女だと思っていなくても、「あいつら」は、女だと思ってるんだから。それは、わたしが自分で規定してきた自分の体に紐づけた言葉の意味を奪われても、わたしにからだが残っているからだ。わたしたちは、からだを使って生きているから、からだに意味を持たせる他者がいる限り、その意味からは逃れられない仕組みだ。

それが女である。

Twitterでの議論が重なっていくうちに、女という言葉を使うとどんどんあやふやになるうち、「ちんこあり湯」「ちんこなし湯」と言い換えればいいんじゃないかという説も出てきた。

わたしが少し調べただけでも、ペニスがあるだけで、性犯罪だけでなく、暴力を伴った犯罪の危険は跳ね上がる。跳ね上がるというと十分じゃないな。暴力的な加害は、9割以上が男が起こす。

この犯罪傾向が示す事実と、社会が男によって支配されていることと無関係ではない。

あなたはヒグマだらけの折に閉じ込められて「どのヒグマがあなたを食べるかわかりませんが、平等に接してください」と言われてその通りにできるだろうか。

信頼関係を築いたヒグマとだけ仲良くするが、いつ裏切られるかもわからず、裏切られたときに非難されるのが自分だという世界で、自己防衛的にならずに暮らせるだろうか。

ペニスに暴力の意味付けをするのは男である。
男が加害の主体だから当たり前だ。被害を受けるというのは客体だということだ。客体である女に意味をつけることは許されていない。男は、女性に去勢された男という意味をつける。去勢された男は、生粋の男に対して、暴力を振るわない。反抗もしない。

男が、「男でなくなった」と嘆くのは、勃起能力が失われたときだ。そのとき、彼らはアイデンティティクライシスに陥り、自分を見つめなおすことを放棄して、バイアグラを飲み、虚無を紛らわす。

実際、性犯罪を起こすのは20代から四十代がほとんどらしいので、要するに勃起するやつらが加害する。勃起しなくなると男であっても、加害しなくなる。あきらめるんだろう。加害の舞台から退場する。

アメリカの性犯罪の割合を調べた この記事

を参考にして計算したところ、殺人についてはまだ検証していないが、性犯罪については、mtf(gidだと仮定して)は女性よりも犯罪傾向が高いが、生粋の男性よりは性犯罪を起こす割合がかなり低い、という結果が出た。女装の男の犯罪率は、生粋の男に比較的近い。
女性が、「ペニスつきの男」を恐れるのには理由があるのだ。

だから、冒頭にも書いたように「ちんこの湯」「ちんこなしの湯」というのは、理にかなっている。それがフェミニズムにとって後退だと言われようが何だろうが、わたしたちにはセーフスペースが必要なのだ。それが必要ではない、甘えだと考える人には、説明してもわからないだろう。その人にとっては、意識しなくても、常に世の中がセーフスペースだから。

男は、自分自身の性の定義で悩んだことはないのだろうか。勃起機能を失って、男じゃなくなったと嘆く以外に。

わたしはとても悩んでいる。女とはペニスがついていないほう、という風に考えてきたけど、射精でき、女をはらませることのできる「女」の存在を認めろと迫られているからだ。

なぜ、男たちは、自分が男だと確信を持っていられるのだろうか。

ペニスがついていても、女として自分が認識される。ペニス付きの女がいるということは、ペニスがついていても、女か男か確信が持てなくなるはずだ。男たちは、そうした世界は怖くないんだろうか。ペニス付きの女は、例外だと思っているから?

怖くないのだとしたら、それはただ、「考えていない」からである。彼らは当たり前に男だ。今までもそうだったし、これからもそうだ。そう感じているから、彼らは思考しない。その一方で、男の定義が空虚なので、自分の性別をはっきりさせる行為の一環として、自分と異質なものをはじき出して、女の領域に加える。

彼らが男になる、と言ったとき、それは「性行為をした」というときである。勃起と男であることを結び付けている。だから、男であることにも悩まないし、女がペニスの欠如に悩んでいると滑稽な妄想から離れない。もし、性行為をしたことがなければ、自分が男になれないのは女のせいだと恨む。一貫している。

女が、男の否定であることをやめるとき、男は自分を定義できるのか。ペニス付きの人間を男だと呼べるのか。

今、ペニス付きの人間を女だと言わせるのだから、ペニスがついているのだから男だとは言えなくなっている。

ペニスつきの人間が、男とは限らないという問いを、自分に突きつけることができないなら、わたしが突きつけよう。

「ペニス付きの人間をあなたは女と認めろと、女に迫ってきたのだから、あなたもまた、ペニスがついているからと言って男とは限らない」と。

女の記号と脱コルセット

以前、脱コルセットについて、否定的に書いたことがあった。ミソジニーの仕組みという記事だ。

わたしは変化にはまず懐疑的になる。受け入れるのに時間がかかる。ただ、否定的とはいえ脱コルセットについて、書いたのは、なんとなく大事なことらしいと思ったからだ。引っかかる部分があった。

わたしは、自分が、脱コルセット実践者よりもはるかに年上だということを意識していなかったから、自分の言動が、彼女たちに抑圧に働くと思っていなかった。謝罪したい。

わたしが彼女たちの抑圧に気が付かなかった理由

世代の差が、彼女たちが言う装飾についての感覚の理解を難しくした。

わたしが子供のとき、大人の女性で化粧をしている人は少なかった。服装にこだわっている人も少なかった。子供もおさがりやジャージなどを適当に着ていた。高校生になっても、みんなスニーカー、ジーンズ、Tシャツを着ていて、秋服と春服の区別もしておらず、中途半端な時期にはカーディガンを羽織って済ませていた。高校生くらいの時だったか、ヤマンバメイクが流行ったが、それはテレビで見るくらいだった。脱毛もしている人は周りにいなかったし、就職活動の時に、本格的にメイクをしたのが最初だった。抑圧の方向は「華美にならないようにすること」に向いていた。自分の美醜にこだわるのは、良くないことと言われていた。

あさま山荘事件で、女性らしく振舞ったから殺された人がいたのはトラウマになったし、生まれてから冷戦や、イラク・イラン戦争、ポルポトの虐殺などの報道で知る限りは、女性が丸刈りにされ、女らしくしても殺されず、おしゃれができるのは平和のあかしだと感じた。

だから、わたしは、今の若い人たちが、美醜についてどれだけ抑圧されているのか察知できていなかった。自由におしゃれできて素晴らしいとばかり思っていた。おしゃれをしても安全で大丈夫なのだと錯覚していた。彼女たちは、中学生、高校生くらいからヒールのある靴を履いて、化粧をして、髪をつやつやにして整える。脱毛も一般的らしい。もちろん、あさま山荘的なトラウマもないようだ。装飾をすることで、大丈夫ではなくなっているなんて知らなかった。自分たちの健康を害していることも知らなかった。それはわたしの怠慢だった。

脱コルセットが開放的に感じられる気持ちから遠かった。

自分が女らしかったかどうか

わたしは今まで自分の体毛をそったことが四十回くらいしかなく、化粧も週一回で、しごとも化粧しないで行く。

それで、彼女たちが切実に脱コルセットを求めていることが分からなかった。

とはいえ、それは、わたしが女の記号で自縄自縛になっていない理由にもならなかった。たぶんわたしは女らしい。

やってみないで否定するのはよくないと考えて、どうやれば脱コルセットになるのか、教えを乞うて、自分でもやってみた。髪も切った。

それで、わかった。

脱コルセットをしても、女であることは変わらない

わたしが女だということは、どうしても変わらないことだった。

わたしがどれだけ女性の記号を外そうとしても、生まれてこの方、女性として扱われた記憶は、心身に染み込んでいて、どうにも外せないということ。また、わたしはどこまでいっても女に見えるだろうということ。わたしは女に見えるだろう。そして、女として扱われるだろう。

日本において、女として扱われるということは、生贄として扱われるのと同義だ。わたしが脱コルセットをしても、それはかわらない。ただ、自分を自分で差別するのをやめることができる。

自分の中のミソジニーが言動を裁いて自分を傷つける

わたしは、自分に自信がないのは、自分の中にあるミソジニーが、女性である自分を攻撃しているせいだとわかってきていた。そして、自分から女の記号を身に着けることは、そのミソジニーを強化もしていた。自信がないからいろいろなものを買って、自分を補強するのだが、ベースの自信がないので、買ったところで何も変わらなかった、だから自分はバカなのだと、また自信を喪失する。バカだからいらないものを買うんだと思った。自分で買ったものを、確かに愛しているのだけれど。かわいらしい品々をこんなに愛している。

女の文化を尊重することと、脱コルセットは両立する。それは、他人に対して、侵略的にふるまわないということでもある。自分の決めたことを、自分で実行していて、誰かに認めてもらおうと思わなければ、そもそも話す必要もない。誰かを否定することもない。不当な扱いをされない限りは、誰かに、「こういう風に扱ってほしい」ということもない。

そして、男はそうしたことで悩まない。

男はあくまでも人間でいられる

彼らは、生贄ではなく人間なので、美しくなくても生きられる。優しくなくても生きられる。悩まなくても生きられる。自分が、男足りえるのかと悩んでも、男とは、いったい何によって規定されているのかでは悩まない。

女らしさはわたしを切り刻んでいく。どれだけ捨てようとしても影のように足元から消えない。女らしくあるということは、一段低くあるということだ。優しく、丁寧で、親切。思いやり。それは、自分の欲求をひとまず置いておくことだ。

男は、まず、自分を満たしてから、他人に優しくする。残り物は食べない。残り物や冷めた料理が好きだとかたくさん食べなくても平気だと思われない。

何度、男に「自分を優先してから、他人の世話をすればいい」と賢しらに言われただろう。それで済まされる性と、済まされない性。

それで最初に戻る。

男が男でいるためには、確認するための犠牲がいる

男は、教える。わたしに。お前が女だと。そして、お前が女だから、自分は男なのだ。そういう風に確認している。わたしを犠牲にすることで、彼らは考えず悩まずいられる。

盗撮の話をすれば、「そういうのがあるらしいね」と言われる。説明すれば、彼にもそういう言葉が残酷かわかるし、その残酷さに苦しみもするけれど、彼には言わなければわからない。それは、男だから。

彼だって、性的に怖い思いをした経験はあるけれど、彼には女の、つまりわたしの恐怖はわからない。他人だから。

女にはわかる。わたしの恐怖がわかる。男にはわからない。わたしの恐怖がわからない。恐怖が分からないのだから予防の重要性も気にしない。

その差がどうして生まれるのか。男は考えない。恐怖について考えないから、だからわからない。だから、恐怖を偏見と差別という言葉で塗り替えることができる。

見知らぬ彼をなぜわたしたちは男だと思うのだろうか

彼が男だと誰もが判断する。ペニスがあっても、なくても。

わたしのことを誰もが女だと判断する。わたしにペニスがあっても、なくても。

自分自身で、自分の性を、わたしが決めることができたとしても、わたしを「性別:生贄」として扱う周囲を変えることはできない。

生贄にされた者同士が集まる場所で、ようやく息をつける。安心して、とは決して言えない。でも、ずいぶん楽に息がつける。それは生きていくために絶対に必要なことだ。

だけど、これからはそうもいかないと、男たちは言うのだ。女も言う。性別は社会的構築物なので、その意味を壊していけば、差別は消えるという。

そして、わたしはこう言われた気になる。あなたの社会が十分に壊れていないから、あなたは差別するのだと。

そうではない、とわたしは思う。思うので、言う。

わたしが自分を規定する

男だって、男がなんなのかわかっていない。わかっていないけれど、男が女を規定する、その「規定する行動」をもって、自分を男とみなしている。女という生贄がいなければ、規定する相手もいないのだから、男は男でいられない。それが社会的構築物だろう。自分たちの行動のルーティンとそのルーティンを通した自己確認の循環を壊す気もなく、一方的に、わたしの社会を壊すのは、暴力に過ぎない。

男だから、安心して、境界を壊していけるのだ。その暴力が自分に向かないから、なにも不安にはならない。男は、自分に向いた暴力でしか変わらない。

ペニス付きの女はいない。

わたしが、生まれついてからずっと味わってきた、生贄としての毒を味わったことのない人にはわからない、いろいろな気持ちがある。何も言わずに済ませたい気持ちと、言わずにはおれない気持ちがある。

わたしの性別は、生贄だ。わたしはそれを意識しないようにしながら、なおかつ、それを飲み下して生きていた。わたしから女という呼び名をはぎ取った後にも、わたしの体が残る。わたしはそうして生きてきたし、これからも生きていくだろう。死なないように。

わたしの、女に生まれたが故の痛みは、わたしにしかわからないことだから、わたしはそれを愛している。苦しみながら、それがわたしだと思っている。痛みと、苦しみを慈しんでいる。それがわたしだと思っている。


公衆トイレ論文を使って主張している人たちへの批判

初めに断っておきますが、めっちゃ長い。それはわたしが怒っているからでもあります。真ん中まで読んで、この論文あてにならねーと思ってくれたら満足です。

https://www.buzzfeed.com/jp/mametaendo/transgender-matsuura

の記事について、根拠となる論文が載ってないから、検証不能だし、書き手として信用できない。あとから出してきてもその信用がた落ちだし、根拠があてにならないのだから、その結論も当てにならないという意味で、この記事に何ら価値がないのも変わらんけど、とツイッターで書いてたら

という引用リツイートが来て、「へええええ」と思いました。

別メディアで後出しで教えてきて意味あるのかな。あると思ったのかな。普通に不思議だけど。

で、われわれ(わたしと 公衆トイレ論文は信用ならない を書いた人)は買って読みました。

公衆トイレ論文は日本に適用できない

そして、この論文は、「女性専用スペースに誰もが入れるようになっても、性犯罪が増加しない」という主張を支えるには、不適格だと判断しました。

そして、驚愕の事実がわかったんですけど、遠藤まめたさん、この論文読んでないね。

ねえ、大丈夫なの?みなさん、この人の主張をうんうんうなずいてついて行ってるけど、この人のこと、少なくとも私は、信用できないよ。主張の最も重要な、根拠にしている参考文献を書かない、後出しで別メディアから放り出すように論文の名前を出すだけじゃなくて、読んでない。ほかにもこの論文を根拠にしている活動家見たけど大丈夫?読んでます?

読んでないとわたしたちが考える理由は、調査は法律の施行前後の比較なのに、彼は、法案がある都市とない都市で比較してると紹介してるよね。比較対象群がまちがってる。

これは、根幹なので間違えるのはおかしい。読んでたらうっかりでも間違えないよ。読んだけど間違えたんだとしても、こういう大事なことを間違えたまま、「犯罪は増えません。大丈夫です」って端振ってたわけですよね。支援者も、「そうなんだ」って鵜呑みにしてたんですよね。大丈夫ではないです。

この論文に突っ込みたいことはたくさんある

でね、この論文に突っ込みたいことはたくさんある。

差別禁止法・条例の内容は自治体によってまちまちなんですね.

つまり、比較するなら同じ法律で犯罪だってことになってないと、そもそも比較が成り立たない。

同じ法律で比較できてない

例えば、覗きが犯罪になるA自治体と、犯罪にならないB自治体では、同じ覗きが起きても、Aでは犯罪1になるけど、Bでは犯罪0になるのね。同じ事実があっても、片方は1で片方は0ですよ。でも、刑事事件での比較なので、この1の違いは大きい。サンプル数が小さいので、1の及ぼす影響は大きい。

皆さんご存知のように、ただでさえ、性犯罪は、検挙数も立件数も低い。ハードル高い。苦情数ベースでやるところ。

でも、この論文は、自治体に「犯罪数を教えてください」って手紙書いて、送ってきてもらったのを図にしたものなのです。それだけ。論文の体裁は整っているから、なんかすごいことしたみたいだけど、手紙書いて、データ送ってもらって、計算して比べた。という研究です。

そして、送ってくれた自治体もあるし、くれなかった自治体もある。比較している自治体も、裁くための法律が違うから、同じ行為でも、犯罪になるものとならないものがある。

自治体も大きい自治体じゃない。マサチューセッツの中の自治体の話だから、例えると、多摩の中で、立川と武蔵野と青海の公衆トイレの犯罪数をそれぞれ警察に問い合わせて、教えてもらった結果、法の施行前後で犯罪は増えませんでした、みたいなことです。人口規模がそんな感じ。で、それをだからほかの国でも適用できます、と言われて、納得がいくでしょうか。

多摩地域のトイレ事情を世界に適用できる????

(多摩に住んでいるひとごめんなさい)

環境の質的な差が考慮されていない

公衆トイレも、山の中にポツンとあるものと、町の中で人の目があるものと危険度がどう違うのか知りたくないですか。でも、そういうのが考慮されてないのですこの論文。

それぞれの固有の状況が質的に評価されていなくて、数だけ見て「そうなんだ」と思えますか?

それに、自治体によって、治安も同じではないですよね。多摩地域で例えると、小金井市と町田市の治安の差とか気になりませんか????

どっちが治安悪いとか。人口密度の差とか。この論文ではそうしたことが考慮されていません。一応条件が似ている自治体と書かれていますが、どんな風に似ているかわかりません。そして、マサチューセッツという狭い地域の中のことが、日本にそのまま持ってこれるのか、文化的歴史的背景が違いすぎます。

また、

法律の施行前後で犯罪数自体が変わる

という指摘があるように、法の施行前は、「男性が、女子トイレに立ち入ること」が犯罪でも、法の施行後は、犯罪じゃなくなるので、前後で「女子トイレへの男性の立ち入り」が起きても、犯罪数は、1から0に減ります。

自治体によって、集計の差が出ることも、論文の著者は認めています。集計の仕方が違ったり、法律が違ったりすれば当然です。

法律が周知されていなかった場合

そして苺畑さんが指摘したように、法律が周知されていなかった場合も考えておくべきでしょう。

法案が周知されていなかったら、法が施行された後も、今まで通り、表示通りに、男性は男性のトイレへ女性は女性のトイレに入っていたとします。そうしたら、問題は起きません。犯罪件数に変化があるわけがありません。

性犯罪の種類がひとまとめになっている

この論文の調査では、どのような犯罪がそれぞれどのくらい起きたのか、明確ではありません。性犯罪の刑事事件数です。ざっくりしてます。

アメリカでは覗きはあまりないかもしれません。後述しますが、覗きが問題になっていない理由が文化的背景からいくつかあります。また、日本では汚物をあさる、性器を見せる、音を聞く、覗く、などもよくあることですが、それらは、犯罪として計上されているでしょうか(一応そういう事件数を調べたと書いていますけど、アメリカ人にそういうhentaiがたくさんいるんだろうか。そういうので興奮する人とか)。通報しやすい環境でしょうか。検挙された後、ちゃんと起訴されているでしょうか。この差別防止法案が通るときには、かなり性急だったようです。強引に法案を通す地域で、取り合ってもらえると確信できるでしょうか?確信できなかったら、泣き寝入りするかもしれません。

アメリカにはhentaiはいるのか

そういうこともこの論文からはわかりません。アメリカにはそういうhentaiはいませんでした、という素敵な結果になるかもしれませんし、そうなると、やっぱり日本とは違いすぎて、使える根拠にはなりません。

日本の法律の場合

日本では、女子トイレの男性の立ち入りを、「建築物不法侵入罪」によって罪にしています。これは、管理者の意に添わぬ使い方をした時に使えるものです。だから、もし、日本で女子トイレにも性自認が女性な人はみんな入れよう、という風にした時には、罪に問えません。というのは、管理者の意に添わぬ、という部分が使えなくなるからです。

ほかにも、問題はあります。

2016年にマサチューセッツで、公共施設利用差別禁止の州法が成立しましたが、これはその時の調査ではありません。

それ以前の2014年にすでに性自認による公共施設利用の差別禁止法が制定されている自治体での調査です。どちらかというと、2016年の時の調査が知りたいですね。

報告されていない事件は含まれない

論文にもありますが、


一つは、データとして警察の犯罪記録を使っていることだ。この記録は信頼できるものの、報告されていない事件は含まれていない。性的暴行については30-35%しか報告がないという調査もある。

http://rokujo.org/2019/01/12/1589/

という部分を理解したうえで、犯罪報告数がもともと1とか0で、施行後もそれとあまり変わらない結果をみて「犯罪増えないんだな。よかったよかった」と思えるでしょうか。わたしは思えません。

だから、わたしは、この論文を根拠にして「性犯罪は増えない」とは絶対に言えません。日本に適用できません。

日本でも、管理者に対応してもらえばいいというけど、労働者としては不安しかない

TRA(trans rights activist)は「不審者がいたら、管理者を呼んで対処してもらえばいい」と言います。わたしは言われました。冷静に人を呼べないで恐怖に震えてたらトランスフォビアだって言われました。なんでや?

LGBT差別解消推進法案が通ると小さいお店もパート従業員は困る

「事業者が適切な対処をしなかったら、指導、公表される」としたら、そのとき、その事業者というのがたまたまいなくて、管理者としては、バイトやパートの人しかいなかったら、こんなに重い決断や判断をしないといけないのは、適切でしょうか?

自分が労働者という立場で、例えば、フィットネスクラブで、時給800円でバイトしているときに、更衣室に不審者が出たけど、本人は女性だと言っている、うまく対処しなければ裁判になるかもしれないし、でも、何もしなければ、女性の退会者が出るかもしれない、そういう状況になります。わたしは絶対無理ですね。上の人に電話をして聞ければいいですけど、そんな風にできない状況なんていくらでもありますから。

LGBT差別解消推進法案が通ったら、小さいお店や、古くからやっているお店みたいなので、こういうのがとっさにできなかったら、指導勧告公表となるようですが、普通に、労働者として、それに対応できるでしょうか。

アメリカのトイレの背景

アメリカのトイレの扉は、下に四十センチくらいの隙間があるあります。また、公衆トイレが撤去済みです。

それは、レイプが多発したため、公衆トイレ自体が犯罪の温床になるからです。扉の上下を短くして、どんな人が入っているか見て確認できるようにしてあります。もしくは、公衆トイレ自体、撤去されれています。公衆トイレがあるところは、そもそも治安が良いです。

それに、たいていの公衆トイレは、有料で、もしくはお店のトイレです。アメリカで公衆トイレと言ったら、大学のトイレ、スタバのトイレ、マクドナルドのトイレ、デパートのトイレ、駅のトイレなどを指すようです。

わたしが旅行に行った時には、警備員かお店の人が、誰が入っているか、問題が起きていないか、さりげなく注意している様子でした。誰も入れないように、鍵をかけてあって、使う人が商品を購入したら、鍵を手渡す形式のところも多かったです。

そういう文化のトイレと、日本とはだいぶ違うので、公衆トイレ論文を根拠に「犯罪は増えない」というのは無理じゃないかと思います。

アメリカではトイレは人権問題

日本のツイッターでしている議論って、アメリカでの後追いなんですよね。仕組まれている感じがすっごいんですけど、

こういう事例もあって、

かいつまんで言うと、ワシントンのスターバックスで、何も購入していない黒人男性二人が、トイレのキーを求め、スタバは応じなかった、という事件がありました。公衆トイレも、人種差別の文脈で語られます。

また、公衆トイレは、ホームレスの人権問題としての側面を持っていて、それはどうしてかというと、ホームレスの健康を保つためには、公衆トイレが必要だということです。アメリカでは先ほど説明したように、公衆トイレが撤去されているので、お店のトイレを使うしかありません。でも、使えなかったので、肝炎で14人亡くなったという事件もあって、人権問題としても扱われます。

日本と違うことは覚えておいてもいいかもしれません。

アメリカの公衆トイレは日本とだいぶ違います

そもそも、アメリカの店舗で、トイレのカギがロックされているのは、店舗のトイレが、売春や薬物使用の場となるからです。

ロサンゼルスの公衆トイレ、portland looは、ブルーライトで薬物が使用しにくくなっているうえ、周りから警察が監視できるデザインです。

日本とだいぶ違うでしょう。こういうデザインが必然性をもって設置される国と、日本とを比較できるでしょうか。

トルコでは、公衆トイレには必ず管理人がいて、チップを払ってはいるようになっていました。

国によって、トイレ事情はかなり異なるので、外国の事例をそのまま適用するのは難しいですね!

ロンドンでは、2017年に中立トイレを作るように提言された。それで、障害者や高齢者、幼児連れの家族も利用できるようになりました。

日本で、女子トイレにトランス女性を入れるか、入れないかで論争しているのと同じ問題が、各国でも起きているんです。

(日本のフェミはだからダメなんだという理不尽な非難はつらいですよね)

ほかの権利運動と比較すると

わたしは障害者運動とLGBTの運動を比較したいんですが、障害者運動は「困ってるからなんとかしろ。何とかしないなら破壊してやる。泣き落としもする。わたしたちの要求を通せば、結果的に全員に利益もあるかもしれないが、それはあくまで結果的な話だからとにかく整備しろ」というスタンスで、LGBTは「同情してほしい。こちらのいうとおりにしても、別に損はないんだから差別をするべきではない」みたいなスタンスな気がします。文化が違う。

これを偏見だと思われるかもしれませんが、十年くらい「アライ」になろうとしてなれなかったからそう思うんですよね。わたしは、後天的障害者当事者です、ちなみに。

障害者運動では、支援者も、支援者という当事者、傍観者も傍観者という当事者だという考え方があって、支援者もケアされるべきだし、障害者と支援者の立場は違うから求めることも違う、ということがある程度共通認識としてある気がします。家族会もあるし。お互い立ち入らない部分があるというか。支援者も自分の利益を追求していい雰囲気がある。

でも、「アライ」はゴールがないというか、学んでも「学び足りてない」みたいに突き放されて「なんでもイエスといいなりにならないと認められないんか?」という気持ちになりました。自分の利益を追求してはいけないみたいな。むしろ不利益になっても、「相手のほうがマイノリティなんだから」と自分の要求を引っ込めさせる文化がありますよね。アライが人間として尊重されている感じがしないんですけど。うなずきマシーンとしてしか認められてないじゃない?

それにしても、今のシス女性とトランス女性の関係。なんで男性は上からモノ言うのかまじでわからないですけど。一番むかつく。

結論

結論としては、この論文はあてにならないし、日本に当てはめるには文化が違いすぎるし、これを根拠に「性犯罪は増えません」って言っている人を信じたらいけません!ということです。


TRAとの権利の衝突(トランス女性のトイレ、女湯問題)

TRA(trans right activist)と女性が対立している。

この女性という表現が、問題だ。

  • 女性の定義の問題
  • 権利の衝突の問題

今回問題になっているのはこの二つだ。

女性の権利の問題

サイードがチョムスキーか、どっちかが言っていたことを表にするとこうなる。

結局のところ、性別を定義できるのが、「男」だけの特権だから、女は、「女とは何か」を思い悩む羽目になる。男は、女が自分たちで、「これが女だ」というと、「いやいや、ペニスもある女もいるんですよ」と言ってくるし、逆に「こいつは男だ」といって女を持ち上げて、連れ去ってしまうからだ。

上の図を利用して書いたのが下の図である。

性別の振り分け決定権が偏っている

男は、女が何者か知っている。それは、男が主体で女が客体だということに社会が規定しているからだ。社会通念上、男が主体で女は客体だ。だから、このばかばかしい図が現実に通用してしまう。女が、いかに、自分自身を知っていても、「知らないだろう」と言ってのけてしまう、そういう権力を、男は持っている。

そこが問題だ。女同士で、これは女だあれは女だといくら論争していても、最終的にひっくり返されるのは、この構図があるためだ。この「女同士」というのは、当然、セルフIDでの女性を含む。また、ひっくり返すのは、セルフIDがどちらであっても、結局男として生まれ扱われてきた人たちだ。

女と女の戦いを高みの見物して、ときどき、土星を投げかける男たちの醜悪さ。

権利の衝突の問題

断っておくけれど、わたしはすべての人間に権利があると理解している。だから、トランスジェンダーだから権利がないだとか、権利を得るための活動をやめろとかそういうことを言ってきてはいないし、思ってもいない。

ただ、わたしの権利と衝突するので、自分の権利の主張をしている。

自分の権利の主張は、ほかの人に代わってもらうことができないので、そうする。それは、わたしのニーズを、わたし以外が認識することができないからだ。

権利の衝突のことをコンフリクトと言ったり、conflictと言ったりする。

相反する権利が衝突するというのはどうしたってある。Aにとって利益であっても、Bにとって不利益だったりとか、たった一つのものを二人で奪い合ったりというときに起きる。それは、どちらが悪いとか良いとかではない。どちらも正しいが、両方が成り立たない場合がある。ただ、そういうものだってだけだ。

フェミニズムは死んだとか後退したとか言われて、もうゾンビ状態なのではないか、だったら不死なんじゃないかと冗談を言いたいくらいだけど、TRAの主張と、フェミニズムの主張は、コンフリクトをうむ。そして、生まれつきの女性(この言い方はものすごく忌々しい)は、コンフリクトの際には、優しく譲らされてきた。

トイレの問題

今、トイレと公衆浴場で、激論が交わされているが、どうしてそこが論点になるかというと、そこがお互いにどうしても譲れない点だからだ。

調べたところ、外国では、用を足すことは、権利問題になっていた。それを解決するために、日本と同じように論争が起きて、TRAが権利を勝ち取るという流れになっている。2017年では、ロンドンで、中立トイレを普及させるという声明が出た。アメリカでは、自認に沿ったトイレを使いたい、という流れになっている。けれど、それも、最初はかなり慎重な運用をしていて、個別に配慮をして、話し合いをし、お互いの了解を得る、という傾向がみられたようだ。

日本のTRAの主張の根拠に使われる(Gender Identity Nondiscrimination Laws in Public Accommodations: a Review of Evidence Regarding Safety and Privacy in Public Restrooms, Locker Rooms, and Changing Rooms)が日本でそのまま根拠として使えるかについては、いくつか欠点がある。

(この上記論文については、購入して、詳しく検討したブログをあとで示します。)

追記 ; <a href =”http://rokujo.org/2019/01/12/1589/”>
公衆トイレ論文は信用ならない</a> この記事です。お金出して論文を購入して、英訳して分析して検証したので読んでください。これが、遠藤まめたさんのバズフィードの記事の根拠になった論文が信用できない理由を書いたもので、これが信用できないということは、TRA側の主張、すなわち共有トイレにしても犯罪は増えないということが揺らぎます。

その一つとして、あげられるのはトイレの文化的、歴史的背景の違いだ。

アメリカでのトイレとの違いは大きい。アメリカでは、日本語でイメージする公衆トイレはレイプなどの犯罪が多発したため、撤去されており、残っている公衆トイレは、治安が非常に良い場所にあるそうだ。また、ショッピングモールや、駅、デパートのトイレもpublic toiletらしい。スターバックスのような、店員がカギを持っていて、逐一わたすようなタイプのトイレも、アメリカのトイレだという声明を出した(購入しなかった黒人男性にトイレを貸さなかったことがあったため)。このような環境のトイレと、日本のトイレと、そのまま比較して、日本のトイレにあてはめることはできない。

「安全に用を足したい」は健康のための権利である

この権利は、当然、女性にも、トランス女性にもある。ただ、女子トイレのルールを変えるにしても、変えないにしても、どちらの権利をもみたすのは無理だ。

ただ、女性が安全に用を足したい、ということと、mtf(この言葉が指す人も非常にあいまいになってしまっているけれど)が安全に用を足したい、ということは、そもそも衝突するのか、という問題はある。

外国の公衆トイレ事情やTRAが示した論文を今調べて、検討しているところだが、日本と安易に比較できるものではなかった。状況が違いすぎるのだ。

外野のつもりの男たち

女性が安全に用を足したい、女湯に入りたいという声を、男性たちは、「男には、差別をなくせと要求する癖に自分がいざ差別をなくせと要求されると、断るんだな」という風に揶揄している。

考えてみてほしい。「就労機会も賃金も不公正だから、平等にすべき」という主張と、「自分が安全に用を足したい」という主張が、同じレベルだろうか。

男性のほうが就労しやすく、賃金が高いのは、不公正のせいだが、安全に用を足したい、という欲求は不公正ではない。また、用が足せなければ健康を害す。就労は下駄を外されて困る男はいるだろうが。

アメリカでは公衆トイレは、ホームレスの権利であり、健康を守るためにどうしても必要だという文脈で語られる。肝炎で14人亡くなった年があり、その結果を受けて、議論が起こった。アメリカでの公衆トイレは、人種とホームレス、貧困、またレイプや麻薬、売春との組み合わせで語られることが多い。だから、アメリカの公衆トイレは、近くに警備員や、店員がいて、誰が入っているか、問題が起きないか、なんとなく把握しているような状況が多い。

また、自分たちが、安全なトイレを作れないことも原因の一つなのに、彼らは、トランス女性と女性の対立をあおっている。今こそ、モノ言う女を叩き潰す機会とばかりに。

衝突するように仕向けられているんじゃないかという気もする。

たとえば、今ツイッターでは「中立トイレ」を提案すること自体が、差別的だとののしられる。トランス女性を含めた、すべての女性が、女性用のトイレで用を足すことができるようにしなければ差別的ということになっている。

でも、それは、多くの人が言っているように不可能だ。

そして、日本で、TRAが主張するように、すべてのトランス女性が女子トイレを利用するようになったら、現実には、すべての女性が女子トイレを利用できるとはいえなくなるだろう。男の記号を身に着けた人を怖い人は、トイレに行けなくなってしまうからだ。また、厄介なことに、TRAは散々加害的なことを言って、女性を怖がらせた。

属性による性犯罪を起こす割合とその非対称性

性転換手術をしても変わらない男性の狂暴性 このサイトはかなり参考にさせていただきました。根拠が明確で勉強になります。
上記の根拠となる記事

ジェイミーはさらに、公衆トイレや更衣室及び試着室における事件に関して何年にも渡り何百という時間をついやしてネット検索をし、1000件に渡る事件を収集した。これらの事件で1000件中952件までが生物学的に男性による犯罪だった。

その内訳は、大人の男性839件、少年70件、女装男25件、MTF7件、大人女性25件、FTM1件、少女12件。女性による犯罪は性犯罪は非常に稀であるが、犯罪の犠牲者は女性が大半を占める。

ジェイミーはこれらの調査結果から、女性が女性施設に男性が立ち入ることを恐れるのは正当な感情であり、女性たちが安全な場所を要求するのは全く当然のことだと語っている。

そして、人口比に対する性犯罪を起こす割合で言うと、生まれつきの男は、生まれつきの女よりも、性犯罪を起こす。女性が、女性に安心を覚えるのには根拠がある。

上記のURLの調査によると、USAのトランスジェンダーの割合は、GIDの場合、0.39%。

この調査では、女性の性犯罪率が、約6.6%なので、mtfの起こした性犯罪は、女性と比較して、1000×0.0039×0.066≒2.6以下くらいでなくては安心できないが、これは誤差と言える範囲だろう。

訂正:mtfが女性と同じくらいの頻度で性犯罪の起こすなら、性犯罪の発生は、1000件中、1000×0.0039×0.066≒0.26人でなくてはいけない。実際には、7人いるので、27倍になる。

これは、mtfが女性と比較するとはるかに高い確率で犯罪を起こすと言える。ちなみに男性は、女性よりも1287倍性犯罪を起こす。 訂正終わり


ただ、GIDの人口比が0.39%だから、mtfはこれより少ないはずだ。本来は、0.00039よりも少ない数でかけるべき。ただ、この7人は、身も心も男性が起こす性犯罪の比率から導き出した人数よりは少ない。というのは、男性が起こす性犯罪の比率通りで計算すると1000×0.0039×0.93≒36 だからだ。

結論としては、mtfが一緒に使う女子トイレは、生まれつきの女性だけよりは少し安心ではないが、男性も入るよりもずっと安心だということが言える。心配している人は少なかったかもしれないが、計算していてほっとした。

mtfがことさらに性犯罪を起こすわけではない。

人口比を考えなければ、女性の起こす性犯罪数と、女装+mtfの起こす性犯罪数は同じくらいだ。

しかし、人口比の問題があるので、犯罪数は、32/1000となる。ただ、今のトランスジェンダーの定義では、女装も含む。TRAの主張通りなら、女装の男性を含んだ割合で計算しないといけないが、どのくらいの割合か、調べることができなかった。

しかし、女装の男性は、女性よりも、性犯罪を起こしやすいというのは、わかる。なぜなら、女装の男性が女性と同数いるとは到底言えないからだ。だから、これは、女性の恐れが、識者の言う偏見ではないことを示す。

女性らしく見える人同士では、生まれつきの女性(いい加減言い方がどうにかならないものだろうか)同士よりは安心ではないが、男性が入ってくるよりも安全だということが分かった。

女子トイレを誰が使うか

では、女性らしく見える人だけ、女子トイレを使うことになったらどうか?

パス度を高めにくい状況の人もいる。例えば身長や骨格の問題、金銭面、健康面、あらゆる意味で、パス度が低いまま暮らす人がいるのも確かなので、そうした人の用を足す権利は守られない。その人たちは、危険だと言われる男子トイレに行ってもらうことになる。

(疑問として、男性たちは自分たちの使うトイレを安全にする気がないんだろうか)

女性らしく見える人が、女子トイレを使う状況なら、その人たちは、女子トイレを使える。けれど、そうすると、女性らしく見えない女性は、女子トイレを使うことができない。つまり、あらゆる女性が女子トイレを使うことは達成できない。

結局、議論の最初に戻るとmtfを含む、女性らしく見える人たちが女子トイレを使っている分には、今よりも悪くなることはあまりないが、男性たちに女子トイレに入る口実を与えると危険だという話の振出しに戻ってしまう。

TRAは、いざというときには、建物の管理者が判断すればいいというけれど、小規模な店舗で、もしくは大きな店舗であっても、パートタイムの労働者が、たまたま責任者をしている状況が多い日本で、適切な対応がなされると思うのだろうか。判断の丸投げだと思う。そして、適切な対応でなかったら、そのような店舗は、ネットでの評判を落とされたり、訴訟されるリスクを負う。それを防ぐためには、定義やルールを明確化するしかないと思う。

今、日本では、女子トイレへの侵入を不法侵入罪か迷惑防止条例でしか検挙できない。不法侵入罪は、建物の管理者の意にそぐわない使い方をされたときに発生する。これは、犯罪になるかどうかが、管理者の判断に任せられることを意味する。このとき、犯罪にすることのリスクが高いと判断した経営者がいても責められないし、また、そういったとき、女性の安全は守られない。

識者は、女性の恐れをトランスへの偏見というけれど

女性らしく見えない人も女子トイレを使うとなれば、男性は、性犯罪目的で、今よりもずっと侵入してくるだろうから(これを否定する論文としてTRAから示された論文は今読んで検討しているところです)。

結局のところ、どこかで切断するしかない。そういう決断を迫られると、衝突が起き、敵対することになる。わたしはそれを文化人や、TRAがあおっていると思う。

意味通りのことだけが起きる、わけがない

とある学者は、トイレは用を足すところだから、みんな用を足しに来る。だから、他人の性器を見ることもない。気持ちはわかるけれど、恐れは偏見だということを書いていた。

こういうのを見ると、生まれつきの体の属性によって、経験してきたことの差が出るなと思う。

それなら、学校では勉強をする場所だから暴行もアカハラも起きないし、会社は働くところだから、みんな働きに言っているので、セクハラもパワハラもいじめも起きない。みんなが意味を共有して、その意味を果たしにいっているからそうなるはずだ。

現実は、そうはなっていない。

わたしはトイレの個室に、男性が入ってきて、男性器を見せられたことがある。これは現実の話である。わたしは誰にも今まで一度も言わなかった。初めてこうやって人に伝える。もちろん、通報なんてしてない。苦情さえ言っていない。それは、男女兼用トイレで起きた。

わたしは、これを防ぎたい。今でさえ起きている。

異性の性器を見せることは、犯罪だ。子供は特に守らなくてはいけない。男性が、女性よりも、性犯罪を圧倒的に起こすのは明らかだ。起きてからでは遅いのだ。一度も起きては困る。特に、大人の都合の変更によって、誰の子供でも、被害に遭ったら、絶対にわたしは、世界を許せない。

定義をあいまいにしていくか、男の否定としての「女」しかない

社会学や哲学が、どれだけ女性の定義の意味をあいまいにぼかしていくことで、性別なんて社会的構築物に過ぎないと意味を作り上げていっても、サクリファイスとしての体は残る。体の意味も残る。この体の持つ意味は、誰かに対しての生贄ということだ。なぜならばわたしがジェンダーを手放しても、女としての価値を失ったとしても、死ぬまで暴行の危険から逃れられない。

女性という言葉が、学者や、活動家、文化人、識者に奪われて、意味が剥奪されたので、わたしは女だ、と安心して名乗ることができなくなった。

これは、学問が、女という言葉の意味を、あいまいさではぐらかすか、男の否定としてしか示さなかったことに帰結する。学者たちが作り上げてきた学問が、わたしの身体を表す言葉を奪い去ったので、わたしは彼らが授けようとする何かを拒絶するしかない。わたしはもう何者でもないので、学ぶこともできない。それに、わたしは、グロテスクであっても、自分の性別が「生贄」だということに納得してしまった。女という大きな集団に、男が自分とは違うものを投げ込んでいって、その中のコアに生贄という属性があるというイメージだ。

本来は、誰もが安全、自分は安全だという感覚をもって、生活できるべきだ。男でも、女でも、自分がどれに属そうと属すまいと、安全安心、健康にに暮らせるのが一番だ。

だから、本当は、今の現実に即して中立トイレ(ロンドンのように高齢者、幼児連れの親、障害者も入れる)の数を増やすくらいの落としどころになれば一番いいけれど、議論はそうならない。

わたしは心を痛めているけれど、どうにもならない。自分が属する集団の権利を主張していきたい。

生贄にされるわたしのこの体の名前を、わたしは失った。

ペニスを恐れるのは偏見だという。男の持つ筋力や自信、傲慢なしぐさを、恐れるのは偏見だという。

わたしの周りに満ちる、男から傷つけられた人々の怨嗟の声は、聞こえないのだろうか。
それならば、わたしは、意味の剥ぎ取られたこの体を、どう名付けようか。学問的な意味で、社会的構築物になってしまったわたしの肉体は、暴行され、トロフィーとして、男の力の証明として捧げられる。男からの暴行の相手に選ばれる意味が、この体に残る。この体の名前は失われた。生贄としての意味だけが残った。