アセクシャルとアロマンティックの一面がある

わたしは、高校生のころ、恋愛にも性行為にも興味がなかった。知らなかった。無知だった。

興味がないから、調べる気もなかった。ほかの人と恋の話をしたこともない。

そういう意味では、成長の過程の中で、アロマンティック、アセクシャル的な過程があった。
その価値観はわたしの中で今でも根付いている。

だから、恋をしていたら、結婚をしていたら、子供を産んだら、幸せになる。恋をしなければ本当の幸せが分からない、というのは、間違っていると確信している。

今だって、パートナーの六帖さんのことは、大事に思っているし、愛してもいるけれど、恋はしていない。
六帖さんは、わたしのことを好きで好きでたまらない、恋をしているのははっきりしているけれど、その面では応えていない。

わたしの「好き」は「恋」という意味での好きと違う時もある。
もちろん、きっと「恋」をしているときもあったと思う。でも、感覚的に、恋愛にも性行為にも興味がない、という価値観に、親和性を感じる。

わたしの中には、まだ、高校生の時の自分が生きていて、それが、わたしの一つの側面である。

LGBは、恋愛を中心にしている。少なくとも、わたしに伝わってくるメッセージはそうだ。だから、彼らが、世の中に発信したい、一番のメッセージはきっとそうなんだろう。

LGBTとセクマイは一致していないというツイートを見た。本当にそうだと思う。

Tの人たちが、恋愛についてどう思っているのか、わたしには伝わってこないから、何とも言えないのだけど。

LGBTsといったときに、「s」と表現されている人たちは、付け足しなのだろうか。
彼らは、愛について、性行為について、胸中のメッセージを持てない。

恋愛至上主義に、置いていかれている気分がある。

もちろん、わたしは、恋愛至上主義に順応している。適応している。でも、はみ出している部分もやっぱりある。

好きな人がいる。でも、その好き、は「やりたい」「近づきたい」「依存したい」なのかどうかは、わからない。恋って、何かと聞かれても答えられない。

愛し合うことはきっと素晴らしいのだろう。でも、愛し合わないことも、愛し合わないまま、人と人とかかわりあっていくことも素晴らしい。そこには、恋は必然じゃない。
恋がなくても、人と人とは深くかかわれる。

わたしの高校生、大学生の時の、あのころの気持ちは、アセクシャルや、アロマンティックの人の気持ちを、わからないにしても、共感できる。

一人の人間の中にも、多様な矛盾した感情が渦巻いている。

一面的にはとても言えない。

シスジェンダー、ヘテロセクシャル、と思われている人も、セックスが気持ち悪いと思っている人や、セックスを怖いと思っている人や、恋をしない人もたくさんいる。

セクマイとセクシャルマジョリティの距離は、そこまで遠くないのではないか。

もちろん、自分について、どれだけ深く掘り下げたかで、話せることは違うのだろうけれど。

わたしの周りにいた女の子たちは、胸が大きくなることも、体が変わっていくことも、月経がはじまることも、喜んではいなかった。
おびえていた。


自分の性をあきらめ、折り合いをつけるまで

結婚や性労働が差別の再生産だという言い方にもやもやしていた。

差別をされている側が、差別の再生産をしている、という言い方は、過剰に、被差別側に求めるものが大きすぎる。
生きるためにはいろいろな妥協をしないといけない。妥協でもなく、選び取ることもある。

わたしにとって、結婚制度は、国の管理下に入ることを意味するので、今のところ避けており、籍を入れていない。
でも、そういった選択を望んでも、できない人がいることも知っている。いろいろな事情がそれぞれあるのだ。

差別の再生産をしているのは、差別している側なのに、その責任や結果を、被差別側の振る舞いに求めることは、感覚的におかしいと思う。

わたしは、以前、セックスワークについて、まったく知識がなかった。今も十分にはない。

偏見ばかりだったころに比べて、今は少しましになったかと思うが、でも、十分ではない。

アライという言葉がある。
理解者、という意味にとっている。

でも、わたしは、セクマイや、性労働者に対して、「アライ」という立場にあるよりも、同じ社会に生きる一員としてという意味での当事者としてかかわりたいと思っている。

セクマイや、性労働者は、性的規範や、社会的規範によるスティグマを押し付けられている、という軸で見ると、同じように問題を認識できる。
社会的規範が強固だから、彼らに「問題がある」という風にみなす世の中に問題があるのだ。

性労働者も、それ以外の労働者も同じ労働者なのだ、だから、いろいろな人がいる、というのがわかったことで、わたしの地平は少し広がった。

好きで仕事をしている人もいる、お金のために働いている人もいる、いやいや働いている人もいる。それは、どんな労働者でも同じだ。

ただ、性労働に関しては、労働者としての権利や、安全がないがしろにされている。そこは、みんなで考えて、解決していかなくてはならない。

以前は、性労働を購入する人に、偏見があった。性労働者は、守られるべきだ。でも、利用者は、処罰されるべきだと思っていた。
でも、もしそれを実行したとしたら、結局、性労働者は仕事を失うのだ、と考えていくうちにわかった。

わたしは、生活の中で、自分の問題を考えていきたい。そして、身の回りからでも、改善していきたいと思っている。

性労働と、生活の中でかかわることはとても少ない。しかし、女性差別を考えるうえで、避けては通れない問題だから、自分も社会の一員として、考え続けていきたいと思っている。

部外者だから、考えること自体をよくないとするのは、彼らを排除することにつながる。
自分自身に引き付けて考えることで、性労働者ではないが同じ社会に生きている自分という意味で、当事者として考えることが可能だ。

昔は、性労働者は社会の被害者だと思い込んでいた。今では、そういう人もいるし、そうではない人もいるとわかっている。

女性が、男性と同じ額のお金を稼ぐには、性労働というのは、現実的な選択の一つだ。

労働問題を考えると、女性が、男性と同じ額のお金を、同じ労働で稼げる世の中が必要だ。すべての労働者が、被害者の場合もあるし、そうではない場合もあることと同じように、性労働者について考えられるようになったのは、わたしにとって、成長だった。

考える過程で、間違えることは往々にしてある。わたしはそれを恐れたくない。

わたしは妊娠をしているから、他人からは、おそらく、「性規範に沿っている人間」と思われやすいと自覚している。
しかし、わたしなりに「女」というものに押し付けられた社会的圧力やイメージ、こうすべきだという言葉にならないなにか、社会的規範に違和感がある。それは、誰に言われたとしてもある。

シスジェンダー、ヘテロセクシャル、であっても、性について悩まないわけではない。

このような属性のわたしが、仮にセクマイであると名乗ったとしても、きっと、「お前は違うんだ」と言われるだろうという予測がある。
生きづらさはあっても、死にそうにはなっていないから。

わたしはカップル至上主義が嫌いだ。
愛があればいいとも思えない。

わたしは、何度か性暴力に遭った。治療も受け、回復した。一生の傷になるという言い方には反発したい。被害に遭っても生きていける。そういうことを生活の中で示したいと思っている。

わたしは、シスジェンダーヘテロセクシャルではあるが、社会的性差にはずっと違和感を持っていて、性規範を窮屈に思っている。
そこから、ずっと外れようともがいている。
誰に何を言われても、誰を切り捨てても、実行している。

化粧をするときもある。女性らしい服を着ることもある。わたしはおんなだということを今は受け入れている。女性らしい服装をすることは、わたしは今では楽しいが、以前はそうではなく、メンズ服を着ていることもあった。
それは、男になりたいからではなく、「女」から逃げるためには、性別を消すためには、それしか選択肢がなかったからだ。

今ではスカートも履く。でも、「男から見て心地よい女らしい服」ではなく、たとえばツモリチサトのような、形は女性らしくても、女という規範が薄いと思える服を着ている。

社会的性差には違和感があるので、社会的規範をぶち壊したい。そんなことをすると、秩序が壊れるという人もいるが、どういう秩序が壊れて、どんなふうに困るかは、示されたことがない。社会的規範があるゆえに、困っている自分の現実があるから、そんなことには耳を貸すつもりはない。

わたしは、文章を書くにあたって、なるべく自分自身が見たり聞いたり感じたことを書きたいと思っている。
自分に対して嘘をつきたくないからだ。
内外の動きによって、わたしは常に変わる。

わたしはもともと、女性の権利に興味を持った時に、最初に触れたのはウーマンリブだった。だから、学問としてのフェミニズムには、感謝はすれども、興味はなく、生活の中で実践することを通して、戦いたいと思っている。

生活に根差していたい。
わたしの感性は、いわゆる「普通」の部分が少ない。だから、共感を得られにくい。わたしの文章は、だから、遠くにまではまだ運ばれる段階にはない。

LGの人たちは、全員ではないにしろ、性自認や、性規範にもなじめている人が多い印象だ。
Tの人も、自分の性自認ははっきりしている(全員かは知らない)。だから、自分が体と心の性が噛み合ったら、きっと、性規範にもなじめる人が多いのではないのか。

わたしは性規範に違和感をもっているけれど、セクマイはきっと名乗れない。LGBTではない。
わかりやすい意味では困っていない。

学校時代でも、性を押し付けられることに反発して、標準服を着なくてはいけなかった中学生の頃も、ズボンを履いた。男性が優先されたり、女性は理系が苦手だという偏見にも反発した。
教師と何度も言い合いになった。

子供のころ、おっぱいがでかくなって、すごく嫌だった。邪魔だった。生理も嫌で、子宮を取りたかった。いつか、ちんこが生えてくると信じていた。
無性になりたかった。性に関することが汚く感じられた。自分の女というからだ、二次性徴を勝手に進めるからだが憎かった。

あのころには、女性嫌悪もあった。かといって、男性も嫌いだった。ミソジニーもあった。ミサンドリーもあった。

年齢を重ねるにつれて、運よく女性の体に折り合いがついた。
その後、わたしがなじめないのは、女の体ではなく、性規範だと、絞り込めた。それも、運がよかったから、そういう気持ちになれたのだと思っている。
わたしは、シスヘテだ。でも、それなりに性を受け入れるための葛藤の歴史があった。

わたしは性行為に興味がなかった。好きな人もいなかった。

しかし、暴力によって、自分が女だということと無関係にいられなくなった。

性行為が何をするのかも知らない状態だったのに、わたしの体は開かれて、傷つけられて、壊された。

その暴力を薄めるために、意味をなくすために、無茶をして、繰り返し繰り返し、あれは何でもなかったのだと言い聞かせるために危険なこともした。

わたしなりの冒険があった。

暴力を受けた後、すべての男が憎かった。
男たちは、わたしを性的な視線で見た。具体的には胸を凝視したり、いくらで売るのか聞いてきたり、走って逃げても追いかけられた。殴られ、首を絞められ、黙れと言われた。洗脳しようともされた。
付きまとわれ、拒絶すると、拒絶の仕方が悪いといわれたり、本当は俺のことを好きなのに、自分をごまかしているといわれて、わたしの気持ちを無視された。
そういうことが続く頃があった。

人に好意という名の、性的興味をぶつけられることが多すぎて、わたしは、精神の均衡を崩した。そうしたら、メンヘラ、と言われた。こじらせている、生きにくそう、かわいそうな人と言われた。

わたしのからだは、わたしのもの。そう言えるまでには、長い戦いがあった。今でも、わたしの体を支配されることは嫌いだ。
わたしが全部決める。

心も、体も、誰かのものにならない。所有されない。結婚を、所有と勘違いしている人はたくさんいる。恋人関係になったら、所有するという感覚の人もいる。だから、束縛する。

わたしは所有されない。それを崩されたなら、死ぬ。
悩まず、怒らず、それが幸せだという人もいる。常に怒っているわたしを見て、気にしなければいいのに、という人もいる。
大きなお世話だ。わたしは怒っていたい。それが幸せだ。わたしは自分の死を拒絶する。

性労働者に惹かれるのは、自分の体や自分の心を自分のもだと、売っているのはサービスだと、言葉にしてくれた方がいたからだ。

わたしが奪われたのは、心や体ではなく、相手の妄想による、なにか。わたしの所持する、自己肯定感だ。

わたしを、怒っているばかりで幸せそうじゃないと揶揄する人がいる。でも、わたしの幸せは私が決める。
わたしにとっての幸せは怒ることを通して、自分の境界を常に明らかにすることだ。それが前提だ。怒らずともわたしの境界を尊重してくれる人に対しては怒らずに済む。
わたしが怒るのは、わたしの作る境界を壊す人に対してだから、そういうことをする人が悪い。

疑問を持ち、戦い、表現し、考え、その繰り返しによって、わたしは自分の世界を広げてきた。それがわたしの幸せだ。

わたしは、性や恋に興味がなかった。でも、暴力的に介入され、暴力行為をした人を好きになれ、愛せと強制された。私の心はバラバラになり、乖離した。

それに比べて、怒っているわたしはどれだけ幸せだろうか。

強姦され、わたしはどうあがいても女だと思い知らされた。女だということを憎んだこともあったが、男を憎むほうが健全だとわかったので、男を憎んだ。

性欲があるからと言って、男の暴力は肯定される。わたしはそれを壊したい。

そして、わたしは女として生きることになった。
女の戦い方を知りたかった。
自分の体は自分のものだという感覚を、失って、そこから、自分の体という感覚、すみずみまで、わたしの体だ、という感覚を取り戻すまで、長い戦いがあった。

その渦中、やり方が悪い、訴え方が悪い、伝わらないように言わないといけない、もっと女らしくあれと言われた。優しく伝えろ、というのは、わたしには女らしくあれと響いた。そんなことはご免だった。

わたしは女かもしれない。でも、期待されるような、男の妄想に合わせた女になるつもりはなかった。

やり方にあれこれ言う人は、わたしの苦しみを知らない。
わたしは死を考え、ひりひりと生きた。着るもの、動作、話し方すべて、何もかもから、彼らはわたしが女だというメッセージを妄想的に受け取った。わたしは、わたしのすることすべて、形を、自分のものだというために戦いたかった。

戦いの結果、今では強姦のことを思いだしても、つらくなることはあれども、フラッシュバックはほとんどしない。つらい思いはそのままでも、戦いの意味があった。
戦わなくては、生きられない。そういう人間もいる。

わたしがターゲットにされた理由を、聞く人がいる。わたしの瑕疵を知りたがる人もいる。わたしはそれについて考えたくない。
考えない。

大人に性被害を訴えたとき、未成年だったわたしに「女として魅力があるということじゃない?ポジティブに考えなきゃ」という人や「被害を聞いて興奮した」という人や、「ネガティブに考えると損だよ」という人がいた。

性被害の告白を自慢に取った人もいた。男に欲望され求められているじゃないかと。私はそういう人たちを捨てた。

わたしは、あのころのわたしのために考えたいのだ。

殺されかかった経験も、わたしは水に流せない。水に流せばいい、忘れればいいという人がいるが、しょせん他人事だ。
何をしてくれるわけじゃない。ただ、そういう現実から目をそらして、きれいな世界を維持したいだけなのだ。

わたしは、子供のころ弱かった。でも今も生きている。そういう意味で強い。逃げられなかった。あの頃でも、わたしは死ななかった。

男には性欲がある。だから、強姦する。というのも、性規範の一つだ。性規範は毒だ。害だ。
これは、わたしの人生だ。わたしの命の戦いだ。


定型の人の無防備さ

定型の人は、外部から得た価値観を内面化して、鵜呑みにして、苦しんでいるように見える。
自分の中の意見よりも、周りの価値観を大事にするから、そこからはみ出した事態になったときに、行き詰まる。
わたしには、生きにくさは、そういう意味ではない。
自分しかいない世界なので、自分の価値観だけに準じて生きている。

こうしなければいけないといわれたら、それを鵜呑みにして、「なんで?」と思わないから、外部からの価値観を疑えない。
そして、なんでと言われることが嫌い。
自分で自分を不自由にしている。

わたしは、疑問を持ったり、怒ったりする。そうすると、生きづらそう、もっと穏やかになればいい、適応したらいい、と言われるけれど、それはわたしの快適じゃない。疑問を持ったほうが、自分らしく生きるための指針が建てられるので楽だ。

定型の人の中には、疑問を持つ他人を見ただけで腹を立てる。常識に対してとても素直だと思う。
そして、生きづらくなっている。

目に見えないものを信じて、幽霊みたいな世間体に沿って、嫌なことを我慢する。
我慢してもいいことがないのに。そして、自由そうなわたしを攻撃することだってある。

定型の人は自分たちの気持ちをお互い察することができると夢見ているけれど、そんなことはないんじゃないか。
よく愚痴を聞くもの。
お互い話し合って自己開示すれば避けられることも多そうだし、嫌なことをさっさとやめればいい場面でも我慢するから何十年でも無駄にする。

わたしは、嫌なことはちっとも我慢しない。すぐに逃げてしまう。

自閉症が障害だといわれる。そう、もちろん、障害特性に沿った生きづらさはある。
でも、定型の人に生きづらさがないかというとそうじゃない。
自分で認識できない分、苦しいのではないかと思う。


家族は出入り自由な、血からも恋愛からも関係ないものであれ

家族は自分が一緒にいたい相手と自由にいられたらよい。
子供の時代はそうではないけれど。

Aちゃんは、アセクシャルで、恋愛を経由して、家族を求めることができない属性だ。
家族という概念に対しても、いやな感情を抱いていた。

わたしがAちゃんをスカウトしたのは、Aちゃんが困っているときだったから。
それで、家族になってもらった。でも、もちろん、Aちゃんが嫌になったら家族をやめてもらっていい。

恋愛を経由しないと家族になれないと思っていたり、血縁じゃないと家族になれないと思っていたりするのは不自由だ。
恋愛感情を持つのは、とても面白い経験だと個人的には思っているけれど、そのことと家族の要件を、わたしは切り離している。
だって、好きだったらパートナーになる、といっても、いくら魅力的に感じても、破滅的な人と家族になりたくない。そういう打算がある時点で、恋愛だけで家族を選んでいることにはならない。だから、打算だけで家族を選んでも、もちろんよいはずだ。

うちにいる六帖さん(パートナー)に対しても、もちろん、最初は、恋愛感情はなかった。
わたしを好きで好きでたまらないうえに、貧乏で、行く当てがなかったから、じゃあ、うちにいたら?と言っただけだ。
その時点で、恋愛感情があるわけがない。
今では、もちろん、好きは好きだ。でも、わたしには他のも好きな人がいる。六帖さんは、それを承知で家に来たのだから、それを曲げる気もない。
母親になるからと言って、わたしが六帖さん以外にも好きな人をいる現実を変えようとは思わない。
世の中には、不倫をする人を、人間として信頼できないとまでいう人もいるようだけれど。
六帖さんとわたしの間で了解が取れているからそれでよいのだ。

妊娠して、いろいろなことが変わった。
つわりがひどく、体全身がだるくて、起きていられず、仕事も思うようにできていない。
お客さんに待ってもらっていたり、仕事を変わってもらったりしている。
申し訳ないと思いつつ、どうしようもない。
親になるなら我慢しないといけないと、人様にわざわざ言わなくても、体は逃げられないのだから、必然的に我慢している。
我慢は勝手にやってくるので、買ってまではしない。
それがわたしのモットーだ。

子供は親を選べない。わたしも、子供を選べない。わたしが選べたのは子供を持つかどうかだけだ。
すべては偶然だ。
私の子供をかわいそうだと思う人もいるだろうし、いいなあと思う人もいるだろう。
わたしの意思とは関係なく、子供は、わたしのもとで、苦しんだり、楽しかったりして、育つだろう。

大人になったら、家族を選べる。それまでは、わたしの子供は家族を選べない。否応なく、わたしたちのもとにいるしかない。

子供が大人になって(無事に生まれて無事に育てば)、もし、わたしや六帖さんやAちゃんのことが嫌になって出ていくことになっても、受け入れる。そうするしかない。そうしたくもある。そして、また戻ってきたければ、戻って来られるようにしたい。

お金を稼ぐようになれば、どこに住んで、誰と過ごすか、全部自分で決められる。
家族を持たないことを選ぶのも、家族がいると便利だと思う人も、たくさんいる。

家族はロマンチックなものでなくてよい。機能的なものだったら良い。おまけに、気持ちが通い合えばもっと良い。
気持ちが通い合うための条件に、血縁も、恋愛感情も、不必要だ。


あなたはベビーカーの何を恐れるのか

ネット上の言葉を読むと、「ベビーカーは迷惑」「子供の泣き声を聞かせるな」というメッセージが飛び交う。
ベビーカーの部分には、病人、身体障碍者、精神障碍者、病気とは言えなくても、体調が悪い人、などを入れてもらってもいい。
成年健常者たちは、弱い人たちを恐れている。なんなら、弱い人たちが、自分たちの権利を邪魔し、はく奪するような強迫観念を抱いているように見える。
弱者を恐れているから、だから、攻撃的になるのだという風にも見えるし、弱者はやり返してくる可能性が低いから、うっぷん晴らしにいくらでも攻撃できるのだと思っているようにも見える。

わたしは、今は比較的健康だが、以前は、電車の中で貧血や吐き気、めまい、などに悩まされやすかった。
首都圏の電車内でも、席を譲ってもらうことは多く、譲ってくれる人は、たいてい、若い女性や若い男性だった。
いわゆる、中年の人には譲ってもらったことがない。一度、高齢者にも譲ってもらったことがある。七十代だっただろうか。
中年の人、特にスーツを着た男性は、周りを一切見ないので、周りに誰がいようと気が付かない様子だった。

十年ほど前、電車の中で、どのくらいの人たちが、性的な刺激をのあるものを電車内で読んでいるか数えたことがあった。
五日間ほど数えていたけれど、たいていの場合、男性の六割から八割が、性的な刺激のあるものを電車内で広げていた。

スーツを着た男性に突き飛ばされたり、ぶつかられたりしたことはたくさんある。絶対に彼らは謝らない。こちらをにらみつける。ぶつかったのは、そちらなのに、そこにいた、わたしが悪いかのようににらむ。

電車の中のトラブルは多く、男性に怒鳴りつけられたり、大声を出されたり、車両を変えても追い掛け回されたりすることはよくあった。
痴漢もいた。

首都圏には、独特の電車マナーがあって、それに合わない人間は、いくらでも、危害を与えても、よい、と彼らは思っているようだった。

成年男性というグループがある。もちろん、彼らがひとりひとりみんな同じ人間だとは思っていない。
思っていないが、彼らに対して、身構える気分がある。

居酒屋に入れば、痴漢を日常的にしている、と自慢げに語る男性はいる。
気に入らない女にこんな風にしてやった、と武勇伝を語る男性がいる。
男性全体がそうではない、といくら言われても、やはり恐怖を抱く。

ベビーカー論争という恥ずかしい論争が、おおっぴらに行われている。
ベビーカーは必需品だ。それに論議は必要ない。ベビーカーは存在する。赤ん坊や子供も存在する。気に入らなくてもだ。
気に入ろうが気に入らなかろうが、彼らは存在する。

身ごもってからうんざりするのだが、身ごもっただけで、「母親扱い」されることが増えた。
「母親なら、子供のために我慢しないといけない」と言われる。

「自分のことをあきらめられないのなら、子供は生まないほうがいい」とまで。すでに身ごもっているのだから、もう、おろすしかないのだが。そう、わたしは、さらさら、子供のために自分のことをあきらめるつもりはない。

わたしの中に、子供がいようがいまいが、わたしの人格にも、やりたいことにも、劇的な変化はなく、以前のわたしのままだ。
エコーに映る子供の姿をかわいいと思える運の良さはあったものの、それ以外はいたって変わらない。
つわり、うざい、早く辞めたい、だるい、というようなことを連呼しながら、ダラダラ暮らしている。

人は、子供を産んだら、豹変して、すべてが子供中心になって、子供のために生きて、自分のことはあきらめるようになるのだと思い込んでいるようだ。

しかし、もちろん、わたしは身ごもっているだけの、今まで通りの人間だ。そんなに簡単には変わりはしない。

子供を産んでも愛せないかもしれない。愛せないとしても、死なないように育てようとは思っている。でも、したいことをこれからあきらめるつもりはない。あきらめるつもりがないから、子育てを手伝ってくれそうな家族を増やした。
パートナー以外にも、セクマイのAちゃんを自分の家の近くに呼び寄せた。彼女は、自分は子供を産むつもりは一切ないが、育てることには参加したいという。だから、Aちゃんとわたしたちは同盟関係のような家族だ。子供を身ごもっている間は、わたしにしかできないことばかりだが、生まれたら、人と交代できる。交代できる範囲で、わたしはしたいことをしたい。考え通りにうまくいくとは限らないが。

ベビーカーが電車に乗ると、邪魔だという人がいる。
邪魔なのは、自分だ、とは思わないらしい。電車は通勤のための道具ではない。誰にでも開かれた移動手段だから、誰がどんな形で移動しても、何か言われる筋合いはない。
ベビーカーを使って移動する人に文句を言うなら、自分がベビーカーを見たら、違う電車に乗り換えればいいのだけれど、ベビーカーが邪魔だという人は、自分ではなく、子持ちの女性に、「電車に乗る時間を考えろ。ベビーカーを使って、電車に乗るな」というようなことを主張する。成年健常者だって、場所はとる。邪魔だ。
病人だったり、けがをしているとき、元気そうな人が全部邪魔に見えた。でも、邪魔だから全員降りろとは、主張しなかった。それは変だからだ。
でも、成年健常者の方々は、そういうことを平気でおっしゃる。

けがをしていてよろよろしていたり、病気で動けないと、弱い人間だとみなされて、思う存分攻撃される。首都圏の成年健常者たちは、弱さを見たら、助けようと思うよりも、攻撃してもいい相手だ、と認識する割合がとても多い。
女性ならば、男性に、突き飛ばされたりぶつかられたり、電車の中でお尻や胸に何か当たることが今までに一度はあるのではないか。
男性に聞いたところ、胸や尻に、偶然カバンがしつこく当たることは一度もないといっていた。あれは、混雑によるやむを得ないものではないのだと知ったとき驚いた。

ベビーカーに対する嫌悪は、年々度を越している。新聞でも、ベビーカーの是非を問題とするアンケートが取られる。
ベビーカーの是非?そこに子供が乗っていたら、人権問題だし、乗っていなかったら、電車にもちこむ所持品をチェックされることにつながる。やっぱり人権問題だ。

新年が明けて、ある寺がベビーカー自粛を呼び掛けていた。
いろいろ意見を読んだ。寺からの言い分もあった。
今までベビーカーユーザーを優遇していたけれど、もめごとがあったので、やめ、自粛を呼びかけたのだと。
ネットでは、新年の参拝をしなくても死にはしないのだから、数年、あきらめればいい、という意見を見た。

どうして、子持ちになると、行動範囲を狭めなくてはいけないのか。
親が自分の判断で「面倒くさいから、今年は、いいや」と思うことと、他人が「行かなくても死なないんだから自粛しろ」というのでは大きく違う。
誰も、参拝しなくても死なない。死なないが行きたい。参拝しなくても死なない、という条件は同じでも、子連れにはそういうことを言える。

親になった人間は、人間に見なされなくなる。子供も、人間扱いされない。

そういうことじゃないのか。

妊娠してからだけでも、いろいろなことを言われた。
わたしの子供を身ごもった理由は面白そうだからだ。
どんな理由でも、わたしの理由だから、誰に何を言われる筋合いもない。
金も手も出さない人の言うことに価値は一つもないからだ。

身ごもってから、親に対する意見が目に入りやすくなった。
子供を産まないと将来寂しい、子供を産まないと介護をしてもらえない、そんな風に言っている人たちがいた。
子供の人生を、自分の利己的な理由のために使うということは、子供を人間扱いしていないということだ。

わたしは子供に、幸せも祈りたくない。
子供自身が、幸せとはどういうことかわかって、自分がどういう状態か知って、そうしたら、ようやく、子供が幸せになれる手伝いができると思っている。子供という他人の幸せを、他人であるわたしが規定することは、害だと思っている。もちろん、幸せでいてほしいと思わないわけじゃないが、わたしの思う、幸せの形を押し付けることは不幸の始まりだと思っている。

ベビーカーを自粛するべき、という人たちは、自分と他人との区別がついていない。
自分にとっての邪魔は排除したい、それだけを考えていて、相手にも都合があることも、相手も人間だということがすっぽり抜けている。

上記の寺は、配慮した状態から、自粛に至る経緯があるにしても、配慮から自粛は、両極端に飛びすぎだ。
混雑していたら、ベビーカー以外にも、きっともめごとはあっただろう。
ベビーカーにだけ、自粛を呼びかける背景には、「ベビーカーに自粛を求めても、それを是とする人が多い」という無意識の判断があったのではないか。
反発されることを、寺側は予測していなかったという。
反発されないと思っていたのだ。ベビーカーだから。

乳幼児だろうが、子供だろうが、人間だ。人間だからどこに行く自由もある。親側が、「混雑して危ないから行くのはよそう」と思うことと、混雑している場の人間が「混雑しているから来るな。子供がかわいそうだろ、それもわからないなんて、親失格だ」というのとは全く次元が違うことだ。それなのに、それを混同している人が多い。

どうして、ベビーカーが、こんなにも攻撃されるのか。
それは、ベビーカーに付属するイメージを恐れているからなのか、弱い立場から攻撃のはけ口にしてもいいと思っているからかなのか。

子供を持つことに対する、憎しみのようなものを感じることがある。
パートナーがいること、幸せそうなこと、性行為をした結果であること、いろいろな気持ちを見る。ネット上で。
現実でも、親ならこうするべき、親なら子供を泣かせないようにするべき、そういった言葉を見たり聞いたりする。
そうした憎しみの前では「あなたも以前子供だった」と言っても、心に伝わらないようだ。

自分が健常者だと思いたがっている大人は、自分が弱い人間であることを認めることが怖くて、おびえているように見える。
自分が強いことをなんとか確保したくて、弱い人間を攻撃することで、上に建てるような錯覚を摂取して、何とか生きようとしているように見えることがある。
健常者だろうが、成年だろうが、どこかに誰もが弱さを抱えている。
しかし、特に成年男性は、自分の弱さを受け入れることが特に苦手なようだ。
だから、弱さを見ると、自分の弱さを連想することが怖くて、それを目の前から消したいあまり、いらいらして、攻撃に至るんじゃないかと感じる。

弱さを受けれることができない人間に、「あなたも子供だった」「あなたもいずれ、弱くなる」「病気にもなる、老人にもなる」ということを言っても響かないのは、そもそも、自分の弱さを真正面から見つめられないからではないか。

本当は、誰もが弱い。
けれど、自分の中の弱さを認められない。
だから、弱い人間の象徴である、ベビーカーに乗る乳幼児や、それを連れている人に対して、いらだち、攻撃するのではないか。
それを恐れる人がいるのではないか。
弱い人間は存在を許されない、という規範が、自分自身をさいなみながら、他人にまで、その価値観がいたるのではないか。だから、ベビーカーに対して、あんなにも、理屈を超えた反応を示すのではないか。


慰安婦問題で意見の違う人とは仲良くしたくない

慰安婦像でもめているようだ。

慰安婦じゃなくて、性奴隷、性虐待、だと思うけど。

慰安婦はねつ造だと言い張る人がいる。
彼らは、慰安婦などいなかったということにすると、何か、助かる部分があるのだろう。

わたしの推測では、その根本に「瑕疵のあるものは愛せない」という気持ちがあるように思う。

自分の所属する国と、自分が一体になってしまっているから、自分の国が、過去に、犯罪をしたことが認められないのだ。

日本は、過去、朝鮮から男女問わず人を拉致して、働かせて、用済みになったら殺した、という歴史がある。
松代地下壕づくりに、朝鮮の人たちが連れられてきて、死ぬまで働かされて、戦争が終わったら、国に返された。ほとんど無一文で。
女性は、慰安婦にされた。

日本は「謝った」と主張しているけれども、謝る、というのは、自分のしたことを認める、ということなのに、なぜか、慰安婦像の撤去を求めている。悪いと思ったのなら、日本からの虐待や加害の歴史を記憶するための像もちろん受け入れるのが筋だ。
謝ったのだから、自分を責めることを二度とするな、というのはいじめっこの主張だ。
また、慰安婦像の撤去は、どうも、もとからの約束に含まれていなかったようだし。

日本にも、広島や長崎の原爆博物館がある。それは、自分たちに起きたことを語り継ぐためだ。それは必要で、韓国には慰安婦像が必要じゃないとは、筋が通っていない。

慰安婦像があることで、いらだつ人たちは、どうして、いらだつのだろうか。
不都合だということか。
自分たちがした、犯罪のシンボルが目に入ると、不愉快になる、という時点で、誤っていることにならない。

強姦されて、相手が謝ったからと言って、相手の主張を全部飲めるだろうか?飲めないだろう。
相手が謝ったから何もかも許すのはおかしいしできもしない。
なのに、慰安婦像のことを言う人たちは、謝ったのだから、という。謝ったのに慰安婦像を撤去しないのは、おかしい、という。
どうしておかしいんだ。

瑕疵のないものにあこがれている人が多すぎる。
健康で、罪を犯さず、迷惑をかけない。そういう像を、幻想を保つために、現実のほうをゆがめる。なかったことにして、理想の自分や、理想の国を維持していたいんだ。
そのために、他人にした差別や加害を謝らない、ということが発生する。
実際にはしていても、認めないことで、なかったことにして、自分の世界を保っている。

複雑なことを嫌う人がいる。
世の中も現実も過去も複雑だ。
それを主張したり表現しただけで、「押しつけがましい、不愉快」という人がいる。
そのような人は、複雑さに弱いために、周りが決めたことや、狭い箱に入って、その中で適応しようとする。そうして、狭い世界しか知らないままだ。
だから、不自由であっても、箱の中から逃れようとしない。箱のことをそもそも認識していないからだ。思い込みが自分を縛っているのに。

慰安婦は、ねつ造と主張して、見ないことにして、どうなるんだろう。自分の弱さを認めないままいられるかもしれないが、それ以上のことは起きないだろう。

謝ったからといって、許されるとは限らない。
謝ったのだから、すべてをちゃらにしろ、被害を受けたことを忘れろ、というのは横暴で幼稚で、情けない。


人が否定するものを一緒になって否定すると受ける

田嶋さんが怒るのも分かるけど、私は逃げ恥が面白かったです。
というエントリを読んで、これは違うなあと思ったので書きます。

まず、田嶋さんが、「フェミは怖い」というイメージを作った、という風に書いてあるように、わたしは読めたのだけど、それは違っていて、田嶋さんが、フェミだから、「怖い女」扱いされたんだと思っています。因果が逆。スケープごーどにされたんだと思う。

実際には田嶋さんは、地位も、名誉も、経済力も、趣味と楽しい人生を送っているから、人生の成功者と言って違いないと思う。
友達が「そんなんじゃ、田嶋陽子みたいになっちゃうよ」と言われたときに「田嶋先生みたいになれるものならなりたいですよ!」と返したそうだけれどその通りだと思う。

フェミはけなしていいもの、というコモンセンスがかつてあって、その渦中に飛び込んだのだから、田嶋さんが「ぶす」「怖い」「いつも怒っている人」という風にみられるようになったのよな。

でも、わたしが見ていた田嶋さんは、周りが敵だらけでも委縮せず、自分の主張をしていた。なかなかできることじゃない。みんな、そういうとき、にこにこして、なんとかその場を潜り抜けようとするものね。

田嶋さん、というみんなが否定しやすいものを一緒になって否定するのは楽だろう。みんなと同じ意見を持っていれば、人を安心させられる。ほかの人の意見を補強できる。

でも、わたしはそういうことをしたくないのだ。

田嶋さんは怖い門番かな。でも、他人の戦い方を、その人がそのときそれを選んだことを尊重せずに、あれこれいうのは、簡単だけど、わたしは是としない。
田嶋さんが、怒るヒステリックな女、と言われるリスクを覚悟して、表舞台に出たことを、過小評価はできないよ。
彼女が、ヒステリックな女として理解されるのは、彼女が人前で女の権利を語る女だったから。それだけの理由。
ヒステリーって、みんなが知っているように子宮からくる理不尽なキレ、のことだよ。女に特有の。
女が自分の権利を語るのはおんなに特有だから、男たちがそのことで不自由を感じていなかったのに、そんな風に言うから、マジョリティの人たちは「理不尽に切れている女がいる」って思ったんだと思う。

みんなが嫌いなものをみんなでたたけば、連帯感が生まれるよね。そうしたことに、彼女は利用されやすかった。
彼女を怖いと思った人は、怖いと思いたかったんだと思うよ。

そして、怖いからってなんだっつの。

優しく丁寧にわかるように説明しても、わかってもらえないよ。わたしの人生だけでもそう。
どんないい方でもわかる人はわかるし、わかりたがらない人はわかりたがらない。
怖い言い方しか選べない場合もある。
でも、それを、女性という、殴られている性の側が、がんばることなのかな?と思う。
理解を求めるなら、戦略的に、優しくあれ、という人はいるよね。
でも、それでうまくいくのか?
うまくいってないんじゃないかな。わたしの狭い観測範囲だけど。図に乗るだけだよ、相手が。

田嶋さんが押し付けられているイメージが問題であって、それを彼女に背負わせているのは誰なのってはなし。
怖い、ヒステリック、怒る、って誰が彼女に対してイメージを植え付けたの?彼女の話し方を編集した人たちじゃないの。

フェミニズムが楽しくないなら、楽しくしたらいいよ。田嶋さんの名前を挙げる必要もなく、自分でそうして動けばいい。

フェミでヒステリー、というイメージが先に合って、それを背負わされてきた先人がいる。
それに対してリスペクトできないなら、わたしはフェミなんか、どうだっていいよ。それが、これからのフェミだと仮定するならね。

優しくにこにこして、相手にいたくないように理解を迫るべきだ、というのは、男社会が、女に要請していることを踏襲しているだけだ。
それを女たちが改めて、フェミニストに要請しなおすなんて、どんな冗談だろう。

逃げるは恥だが役に立つ、だけど、結局あれは、性別による社会的不均衡を前提にした物語なんだよね。
みくりが就職できなかったのはおそらく、女性だったから。

男だったら多分就職できた。

平匡はさ、転職市場でも強者だよ。
お金がある。それは権力だ。

ほのぼのとした恋愛が描いてあったから、それはもちろん楽しめたけれど、危険ははらんでいる。だってね、外からお金を稼げている人の気分次第で、みくりは、犯されたり、出ていかざるを得ずに、職を失っていたよね。
個人契約だから、何の保証もない。

あの契約結婚はリスク高い。
もし、平匡が、ちょっと間違えたら、「妊娠出産をいくらで請け負ってくれる?」ということもありえただろう。普通の結婚もそうだよね。

セックスについての問題も出てくる。両思いだったから、直面しなかった問題だけどさ。

交渉を迫られるだけでも、いやでしょう、普通。平匡の善意一つで全部決まるというのは怖い物語だよ。

労働者として権利を守れる、守ってもらえる、というところが、雇用主の善意にかかっているのはリスキーだ。外部を排除しているからなおさらだ。

だから、田嶋さんは最終回しか見ていなかったとしても、これらのことは、ううん、それ以上のことは瞬時に考えたはずだから、全部見ないと批判すべきじゃない、というのは当たらないんじゃないかな。
本や映画なら、全編見ることはできると思うけど、ドラマって、見るの、すごく制約があって難しいよ。

田嶋さんが背負わされているものは、大きい。
今、フェミが活性化していなかった理由を彼女に求められることも多い。
でも、それは、新しい世代のフェミニストの課題であって、田嶋さんに帰結を求めることじゃない。
そんなの情けないよ。
矜持を持とう。わたしは世界を変えるつもりだ。


迷いながらのフェミニズム

以前、性暴力サバイバーだということに付け込まれて、非常に傷ついたことがあった。
傷ついたわたしは、利用してきた相手を口汚くののしった。
そうしたら、「そんな言い方はよくない。後で自分が後悔する」と言って来たり、「ホームページのリンクの色を直したほうがいいですよ」と水を差すことによって、冷静になるか試してきたりする相手がいた。

それは、パターナリズムだと思った。父権的だ。
「正しくあれ」という声は、わたしが傷つきいたぶられたときの叫びを無効化する。わたしの語りを無化する。

反差別を標榜する人が、「あの人は差別者だから、リツイートしてはいけない。かかわってはいけない」というようなことを言ってくるときがあった。関わったら、離れる、あっち側の仲間とみなす、というような。

でも、自分が話したい相手と話したい。

コントロールしてくる相手を、信頼するのは無理だ。
反差別のご高説を語る人は、人の瑕疵を許せないようだ。
自分の論理が完璧だと思っているのか、それはわからないけれど、フェミニストを名乗るわたしを仲間かどうか、見定めている感触があった。

でも、わたしに言わせれば、自分が正しいと決め込んで、人が試行錯誤しているのを、高みの見物でジャッジする人は、卑怯であり、権力志向である。
権力志向ならば、否定しているはずの家父長制となんら変わりのない構造ではないだろうか。

差別に加担していると、批判されるのならばいいが、ただ、本当に傷ついて命の危険を感じるような精神状態の時に「より良い振る舞い方をするべきだ」と言ってくるのだったら、わたしに加害してきた相手にアプローチするべきじゃないのか。
ツイッター上で、普段、誰かが一人、この人は間違っていると糾弾し始めると、アリがたかるように、一斉に、糾弾し始めることに、嫌悪感がある。自分が、おかしいと思っているだけじゃなくて、ほかの人も言っていると安心してから言及し始める人が多すぎる。わたしはそう感じる。

良い子でいられなくて、振り絞るように相手を攻撃することを、あなたのためによくないといってくるのは、わたしの口をふさいでいるだけ。
わたしの苦しみは、体の中に押しとどめられて、わたしをいつまでも攻撃する。そんなことよりも、わたしは、ちゃんと相手を攻撃したい。
攻撃されて傷ついたら、きちんと殴り返すべきだと、わたしは思っているから。
コントロールする欲望を、抑えられない、いうだけの反差別者は、理論上は完璧なのかもしれないが、血が通っていない。
フェミニズムは、主義であり、運動であり、活動である。学問的な側面は、そう、一部に過ぎないのだ。

フェミニズムと権力は相いれない。運動や活動は、指導者を欲しやすいが、指導者を欲した時点で、フェミニストの戦いは、地に落ちる。

正しいことが分からなくても、自分の苦しみを探って、不自由なことをなくすために試行錯誤することも、また、フェミニストとしての戦いだと思う。

わたしは、自分の戦いを、正しいか正しくないか、他人にジャッジされたくない。
わたしが感じたこと、怒り、それが攻撃になって表現されることを、誰に非難されても、やめるつもりはない。
差別されたとき、不当な扱いを受けたとき、やり返すことは、自分を守るために必要なことだ。
攻撃が不毛だと思う人はそうすればいい。でも、わたしは生きる力を守るために、どうしても必要不可欠なことだと思っている。
攻撃され、みじめに泣いているよりも、攻撃し返しているほうが、生きる活力が湧く。泣いているよりも、怒っていたい。
怒っていたら、非難される。我慢しろということだ。我慢したくない。泣いていれば、慰められる。でも、そんなことを待っていたくない。

わたしは、この人生で、まったく我慢したくない。そう決めている。我慢することが美徳だ、という考えは、それは抑圧だ。よくある、女性とは、攻撃的であってはいけない、我慢が美徳だ、という古めかしい、呪詛だ。

そんな伝統を唾棄してから、長いことがたつのに、フェミニストを名乗る人や、反差別だという人から、「そんなことは言ってはいけない」「やりすぎだ」というような、ことを言われるという現実。

どんなご高説を唱え、その理論に隙がなくとも、実践していなければ、意味がない。フェミニズムも反差別も実践だから。

正しいだけのことなら、いくらでも言える。楽だ。
でも、そうやって、人を締め付けるばかりでは、立派な言葉もなんの役にも立たない。差別を指摘したら、差別だと言い返し、もっとより良い方法がある、受けれられるように努力すべきだ、という人たちと、「口汚い言葉でののしると後悔するよ」と言ってくる人との距離は、主張の距離と反して、とても近い。

フェミニズムには反対だ、理解できない、という人でも、フェミニズムの恩恵は受けている場合が多いだろう。
もし、ウーマンリブがなければ、憲法の男女平等も、参政権も、なかったのだから。
フェミニストじゃない、といった時に得られるのは、男性からの庇護だ。

フェミニストであっても、「よい言葉をつかえ」という人の言葉に沿えば、きっと庇護を得られるのだろう。
でも、庇護を得たいがために生きているわけじゃない。だから、言うことなんて聞かない。
わたしの中の混沌、心を切り裂いていく渦の痛みを、知ろうともしない人に、付き合う義理はない。

試行錯誤、間違えること、現実とのすり合わせの中に闘争がある。
立場が違う人、たとえば、わたしが右翼の方と話すこと、そういうことで、世界を広げること。
左翼によっては、反差別だったら、右翼と付き合ってはいけない、というような人もいる。
でも、話をして、意見を交換することくらい、いいじゃないか。
そして、左翼が、わたしに何をしてくれただろう?
フェミニズムは、左翼の鬼子として産まれた。
日本のフェミニズムは、左翼の運動体が、女をシャドウワークに従事させ、セックスの客体としか見なかったときに、その反発として生まれた力だ。

フェミニズムは、生活の中の一つ一つの慣習や伝統に、疑問を持つことから始まる。
間違っても、矛盾しても、生活の中で発見して、言葉を探り、そして、近くの人に、伝え、少しずつ行動することで、力を持つ。
どんな小さなことでも、それが戦いだ。
わたしのフェミニズムは、間違いながら戦うためのもの。そのよりどころ。わたしが生きていくための道具。
誰かにジャッジなんてされたくない。わたしはそれを拒絶する。

正しくあれと言われても、未熟なわたしには不可能だ。そして、未熟さが許されないのなら。わたしは誰にも組み入らない。
傷つき、叫ぶとき、そのやり方ではいけないよ、という人が、わたしのために何をしてくれるのか。
もっと良い子でいるべきだ、というとき、それは、わたしを抑圧する。

抗議した側の手続きが悪いというとき、攻撃した側は透明になる。
偏りがある。
間違ったやり方で戦う時がある。攻撃的になる。なりふり構わなくなる。それを止められたら、わたしの悲鳴はどこにも届かない。
届かないものは、なかったことにされる。
ここに血の吹き出す、傷口があるのに。


面白いブログを書きたい

新年あけましておめでとうございます。

今年は、ずっと吐き気に悩まされて、ずっともどしていました。
めまいは少し和らぎましたが、横になっている時間が長いので、体がむくんであちこち痛いです。

面白いブログを書きたいなあと思います。
久しぶりに前まで巡回していたブログを読んで、「ああわたしにはこういうのは書けないなあ」と改めて思いました。

わたしはけんか腰なことも多いですし、シリアスで、重い内容のものが多いです。
でも、本当は、面白くてクスッと笑えるものを書けたらいいなとずっと思っているのです。

しかし、やりたいこととできることは違っているので、できることをするだけです。

昔自分が書いた文章を改めて読むと、本当に文章が下手です。恥ずかしくなります。恥ずかしくなったということは少しでもましになったのかな……と思います。

わたしは、あまり有名にもなれそうもないです。
でも、有名になってみたいという欲望はあります。有名になったからといっていいことはあまりないと思うのですが、有名になることの利点で、わたしの思想の伝達する距離は稼げるので、わたしの言っていることが届く射程範囲を広げたいという理由です。

わたしが困っていることは、誰かも困っていることである……。
それについて、書くことで、人の気持ちを楽にしたいということがあります。

そして、わたし自身の自己表現をすることで、わたしは自分を解き放っていきたい、という理由もあります。

最近は、困っていることがあまりないのですが、つまらない内容でも、コンスタントに書くことで、だんだん書くことが見つかるという側面もあるので、つまらない、面白くない、役に立たない、ということを恐れずに書いていきたいと思います。

ときどき、書籍化している人や、お金をうんと稼いでいる人のことがうらやましくてたまらなくなります。

なんのために生きているのかわからないこともあります。
そうしたときは、飛び降りて死にたいと思います。

今、減薬をしているので余計、死にたい気持ちが高まります。
でも、それは、単なる症状だ、ということもわかっているので、遠くにおいてやり過ごすこともできています。
わたしの本心から死にたいと思っているわけじゃなくて、病気の症状がそれをさせているということです。

減薬をすることによって、躁うつ病がひどく悪さをして、気分障害が重く出ています。人が変わったようで、人格の一貫性が不安定になり、自分が自分でなくなったようで、非常に怖いと思います。

ただ、わたしは人に恵まれているので、いろいろな人が、そんなわたしを受け入れて、「死にたい」と言っても「いなくなったら困るよ」と言ってくれています。

文章を書くことも、お医者さんが、いつか誰かの役に立つかもしれない、自分を助けるかもしれないからぜひ続けて、と言ってくれるので続けられます。
自分だけの気持ちだと、こんなには続かなかったと思います。

外界に接触する機会が減って、書きたいことが減るかもしれません。そう思ったこともあります。
でも、頭の中はいつも自由で、いろいろなことを考えられます。

外界になにもなくても、わたしの頭の中が自由であれば、きっと書きたいことも浮かんでくるでしょう。

自分の中にこもらないで、考えたことを発信しながら、続けたいと思います。

「この人どうしてこんなにいつも怒っているの?幸せになれなさそう」というようなことを言われたこともあります。
でも、わたしは社会的不正義について、いつも怒っていたいのです。
気にしなくてもいいと思いますといわれますが、気にしたいのです。
わたしは自分だけよければいいとは思いません。そして、嫌なことをされたら、報復するという基本原則によって生きています。それは、ちっともかわいそうじゃないのです。

自分の怒りを押し殺して、さも、幸せですよ、と取り作ることが幸せだとはどうしても思えないのです。
今、日本では、人に合わせて波風を絶たせないことが幸せだ、というようなことが流行っているように見えますが、わたしの幸せはそこにはありません。

わたしの幸せは、自分の感情を好きなように表現し、好きなようにふるまうことにあります。
他人に幸せかどうか決めてもらうつもりは一切ありません。
気にしなくていいよ、というのも、余計なお世話です。余計なお世話をする暇のある人が多いと感じます。

わたしは、自分の感情を大事にして生きていたいです。
何のために生まれたのかを考えると、我慢するために生まれたわけじゃないからです。幸せになるために生まれてきました。
我慢をしていいことは一つもありません。

わたしは、人の好かれるために生きているわけじゃないので、誰に嫌われても怖くないです。
余計なお世話を焼く人や、わたしをけなす人、差別する人、押し付けてくる人には、断固戦っていく予定です。
そのために、わたしは文章を書きます。


障碍者の親と当事者の軋轢

一年前、モビゾウさんともめたことがあった。

発達障害は楽しいこともある……
上記の記事を書いた。
モビゾウさんのツイートを一番上に張っていたが、モビゾウさんからリプライが来て削除を求められた。
なんで削除しないといけないのかさっぱりわからなかったが、ひどいコメントがいっぱいついた。
削除してからも、モビゾウさんとフォロワー関係の人同士がリプライを送り合ってわたしの悪口を書いていた。
「削除されたみたいですね」とわたしがわざわざ削除したのに、自然現象みたいに書かれた。

今読み直しているとこの記事に悪いところなんてない。
この問題のコアは、「親が障碍者を育てる大変さ」と「当事者の大変さ」を書いていたところに、親御さんのほうから「こっちの大変さも考えてよ!」と言ってきたことにある。

でも、当事者に「あなたも育てにくかったはずだから親のことを言うなんて」というのは、暴力だ。

障害があってたいへんだから、支援がある。
当事者のための支援だ。親が大変なら親のための支援もいろいろある。

障害の診断をつけるということは支援に結びつくために必要であって、支援しないほうを選ぶのなら、そもそも診断を受ける必要もない。それならそれでいい。障害があっても健常者のように育てるという方針なら。

でも、いちいち「支援を受け入れることに決めました」と悲壮な風に言われても、こっちは「はあ?」ってなる。
支援は当事者が楽になるためのものだから、親が苦しいだの、決断が必要だったっだの、言う必要はないんじゃないか。見ず知らずの当事者に向かって言うのは、甘えだ。暴力だ。カウンセリングを受けたほうがいい。

あのことも、障碍者差別の一環だったと思う。障碍者は親の批判をしてはいけない、モノを言ってはいけない、というような。
親だって苦労しているんだ!と当事者にいうとき、そこには何が発生するのか。

「味方になるはずだった人を敵に回すなんて」ということもコメントに書かれた。
でも、いきなり敵視してきたのはモビゾウさんやその周りの人だ。モビゾウさんとその周りの人はリプライで「ブログにコメントしておきましたよ!」「ありがとうございます」というやりとりをしていた。
モビゾウさんはわたしに「晒された」と言っていたけど、モビゾウさんは数を頼んで、わたしを攻撃してきた。
モビゾウさんが「ありがとうございます」と言わなかったら、コメントを付けた人個人の問題だったけれど、モビゾウさんがわざわざお礼を言っていたとなると意味が変わってくる。

モビゾウさんはご子息の写真や、習い事や、いろいろなことを公開している。子供にも人権はある。
モビゾウさん自身が、言葉を封じさせるという形で、わたしの人格を認めず、わたしを差別した。

わたしは彼女が発信した以上のことを知るはずがない。それ以上のことは何もわからないのに「曲解された」という風に言われた。
何がどう曲解なのかわたしにはいまだにわからない。
ことの発端としてツイートをリンクしただけで、本文にはモビゾウさんのことは何も書いていなかったから。
でも「モビゾウさんのツイートなしでは成立しない記事。モビゾウさんのツイートを利用してアクセス数を増やそうとしている」とまで言われた。読んでいないのはそちらじゃないか、と思った。

当事者でなくても、当事者の親じゃなくても、発達障害を理解し味方になってくれる人はたくさんいる。
逆に当事者であっても当事者の親でも差別審がある人はいっぱいいる。

わたしなりに、発達障害だということを受け止めようとしているさなかに、「今まで療育を受けられなかったからこれから療育をしていきたい」と書いたことが、どうしてモビゾウさんを腹立てさせたのか。それは、わたしの中にある問題ではなくモビゾウさんの中の問題だ。

発達障碍者の親の気持ちはわからない。そこで見下される理由もわからない。
たいへんだったら、支援を求める。そんなの当たり前のことなのに。
そういう風に言われるとむっとするのは、支援を受けることに抵抗があるのではないか。抵抗がある、ということは、そこに偏見があるからだ。
支援を受けると現実になってしまうようだとか、認めることになるだとか。
障害を認められないのは、障害は悪いこと、下に見られるようなことだ、という差別があるからだ。

障害は、もう、すでにあるものだから、認めるしかない。
当事者は認めるしかない。
認めないで生きていくこともできるが、相当ハードモードだ。
工夫ができない。ずれのことを説明できない。そうした手段を奪うことは暴力だ。

わたしはこんな風に穿っている。
モビゾウさんは自分のことをかわいそうだと思いたいんじゃないかって。発達障害がかわいそうじゃないと、自分が子供の支援をしている大義名分がなくなる。子供がかわいそうな子、ということにしないと、その子を育てている自分もかわいそう、ということに続かないから。
モビゾウさんは、自分のご子息が、発達障害だということを認めきっていないように見える。だから、そこで葛藤が起きて、第三者の、わたしのブログのようなどうでもいい話にも反応するんじゃないか。

上記の記事について、モビゾウさんは「ブログにブログ主の偏見が反映されている。障害がアイデンティティになっている。障害に固執している」という風にツイッターに書いていた。

わたしは障碍者だから、障害がアイデンティティの一部にもなる。
大きな特徴だからそこだけ認めないのはかえっておかしい。わたしに「障害に固執しているかわいそうな人」みたいなことを書くのは差別や暴力だと思う。

むしろ、障碍者の親だということに、アイデンティティをおいて、固執しているのはそっちじゃないのか。

わたしは固執しようがしまいが、自分について回る性質から逃れられない。診断されて、数年目だったから、あのころ自分が自分の障害について考えるのはそんなに不自然じゃなかった。それなのに「障害に固執している」と言われて、わたしはショックだった。
そんなことを言われたら、わたしは考えることも許されないんじゃないか。

療育は、発達障碍者本人を楽にするため。親のほうがつらい、それは手間暇の面でそうかもしれないけれど親自身が悲鳴を上げるほど大変なら、親のほうも支援を受ければいい。

大変な人が支援を受けるのだから。

わたしは障害がある、わたしはこういう風に考えていると書いただけで、どうして、あんなにモビゾウさんがかき乱されたのか、全然いまでもわからない。

親御さんがどんなに大変か想像もつかないけど、療育はやっぱり本人のためのもの。
わたしは「大人になってから、療育を受けられなかった自分が、自分なりに自分を療育したい」と書いたことをあんなに馬鹿にされ、矛盾だといわれたことがいまでもわからない。
療育を受けてなくても、大人になってからでも、やり直しは効くということを書きたかったのに。
それがどうして、あんなふうになるのか。大人になったら療育に近づいたらいけないのか。
わたしたちは線形に発達しないから、長い時間をかけて一生発達していく。
それを否定されたら、わたしは生きていけない。

療育を受けられるというのはチャンスなのだから親が悲壮になるのは理解できない。しんどかったらゆっくりやればいい。
モビゾウさんは四歳になる前にお金や暇を注ぎ込まないと後悔するみたいなツイートをしていた。それについて、わたしは反応したわけだけど。

悲壮になるのは親のエゴで、「普通にしたい」という欲求があるのだと思う・
療育を子供に受けさせたら子供も親も楽になるんじゃないかと思う。
健常者のためのルールを学べるのだから。
(世の中が発達障害の人ばかりだったら、別に療育はいらない)

どうして、わたし側に偏見があるという飛躍になるのか。

障碍者はたくさんいる。普通にいる。普通のことだ。どうして、親がかわいそう、という話になるのか。百歩譲っても「親の苦労を分かれ」とわたしに言ってくる理由には一つもならない。

モビゾウさんは「子供が健常だったら、娘とピアノの連弾をしているところを見れたかもしれないのに」という趣旨のツイートをしていた。
それだって、ご子息が発達障害であろうとなかろうと、かなうかかなわないかわからない話で、そして、連弾ができたら、子供が幸せになるかというと、結びつかない。やっぱり、そういう子供を育てたい、という親のエゴに見えるのだ。

わたしは、大人になったら療育を受けられない、ということは否定したい。
もしそうなら、絶望しかないから。
今は、療育を受けられる世界で、その世界では四歳までにすることで将来が決まる、ということになっているらしいけれど、それだって、先のことはわからない。
今、実際わたしは生き延びてきたわけだから。
わたしが書いた記事に「療育否定だ」と言ってきたのはモビゾウさん。わたしは大人になってからでも間に合うと言いたかった。
それを否定してきたのはモビゾウさんのほうだ。


モビゾウさんは、わたしに謝らないまま、ツイッターをやめた。
曲解されたり、人の悪意にさらされたからとのこと。

わたしは、モビゾウさんから悪意を向けられたと思っている。
人の視点によって見える景色は違う。

「みつばさん」がツイッターをやめたから、ということが理由みたいだ。
でも、「みつばさん」は人に堕胎をさせた側のくせに、女には堕胎をさせればいい、ということを言っているような人だ。
女の権利として、堕胎はある。そして、悪いことじゃない。けれど、心身の苦しみは、させた側にはどうにも償えないものだ。妊娠した時点で、とりかえしがつかないものだ。生むにしろ、堕胎するにしろ。完ぺきな責任なんて取りようがない。
そんな人を、好きだと思い、その人がネットの悪意でいなくなるをえない、みたいに言えるモビゾウさんとは善悪の価値観が根本的に違うんだなと思う。

この件については、発達障害かどうかは関係なく、倫理観の問題だと思う。