弱い人に同情を迫るひとたち

ときどき観察できるのだけど、弱い人が苦しさを吐露したときに「こっちもたいへんなんだ」という人はいる。

弱い人というのは、立場が弱かったり、肉体的に弱かったり、精神的に弱かったりする人のことだ。

わたしは、たぶん、そういうことをしたことがないので、不思議だなあと思っていた。絶対ないとは言い切れない。自分がつらくて、周りが見えなかったときは、相手の状況を考えずに、ひどい言動を取っていたと思う。病気がひどくて、記憶があまりない。申し訳ないと思う。

弱い人に対して、ずるい、と思うのはなぜなんだろうか。
自分の方がもっと大変なんだ、というのは、なぜなんだろうか。それを言う相手が、自分よりも弱そうな相手になるのはなぜなんだろうか。

優越感を感じたいから?
楽をしているように見えるから?
弱い立場を利用しているように見えるから?

でもたいていの病気の人や、障害を持った人は、人生の先行きに不安を感じている人が多いような気がする。
「健康な普通の人」が持つような問題も持った上で、病気だったり、障害を持ったりしているから、普通の人よりちょっとつらいのだと思うのだ。
だから、その「ちょっとつらい」部分に対して、援助が得られたりするのだと思うのだ。
でも、それも、援助を得るまでに動いて、戦わないといけないので、別に楽をしているわけじゃない。援助をしてもらって、ちょっとつらい、が薄まるくらいなんだと思う。
だから、ずるいと思っていただくに至らない。

強い人に、同情を迫る、というのはわかる。強い人、というのは、主観だから、実際にその人が苦悩しているとか、つらさがあるとかが、わからなくてしてしまったことはわたしにもある。

強い人、というのは、地位や権力やお金や健康がありそうに見える人のことをこの場合では指そうと思う。

強い人に、その力を分けてよ、使ってよ、想像してよ、という意味で迫る、というのはわかる。

強い人が強い人であるのは、個人の努力と属性と運で決まっていると思う。そういう人に、もし余裕があれば、こういうことを気にかけてほしい、と訴えたり、構造的な問題があるから、それに向き合うべきだ、ということは良くある。わかる。

でも、失業をした人が、失業してつらい、とか、病気の人が、病気がつらい、と言ったとたんに、わらわらと「でも、こっちもつらいんだ」「努力が足りない」「こうすれば良い」「頭を使え」「自分の方が苦労している」と全然違う分野なのにも関わらず、現れてくる人がいる。

あれはいったいなんだろうと思った。

脈絡がないし、関係がないし、ただでさえ、たいへんな人に、「自分もたいへんなんだ」ということになんの意味があるのか、本当にわからないと思った。
なにしろ、それを訴えたところで、改善しない。お互いの状態が改善しない。
苦しみを持った人が、わたしはたいへんで…、というはなしをして、実は、こっちもうまくいっていると思われているけど、そうじゃなくて…、と言う話をするならわかる。お互いにお互いの話を聞いて、うまくいっている人なんていないんだ、励まし合ってやりすごそう、と助け合うのはわかる。

でも、そうじゃなくて、もっと高圧的に「それくらいで!」「もっとたいへんな人はいる!」「努力が足りていない!(自分は努力している)」「同情を集めようとするのはみっともない」「こっちの方がもっとたいへんなのに、自分のことばかりだ!」と言ってくる人は、端的に言って変だ。
たいへんな人は、そりゃあ、たくさんいるだろうが、自分がたいへんだ、というのは個人的な話なんだから、別にしたところで、文章を読んだ人の何かが減るわけでもなんでもない。

文章を書いた人は、読んでほしいとは思っているかもしれないけれど、ピンポイントで、その人に話を聞いてほしいと頼んだわけでもないんだから。

たとえ、同情を集めるのがみっともなくても、みっともないのは、本人だから、周りがみっともないよ、と教えるのも変な話だし、みっともないなあ、と自分で思っていれば良いことなんだから、人に押し付けるのは暴力だ。こっちのほうがもっとたいへんだ、というのは、話がずれているから、話題と関係がない。話題と関係ない話を怒りながらする人は、対人関係に問題があるのではないだろうか。
空気が読めていない。(と、空気が読めない病気のわたしがいうのもおかしいが)

権力のある人に、たいへんなんだ、と訴えれば良いのに、そうはしないのだ。不思議だ。権力のある人に頼めば、良い知恵を貸してくれたり、構造を変えてくれたり、お金を出してくれる場合もあるかもしれないのに、立場が弱い人に、「こっちだってたいへんなんだ」というのは筋が通らない。意味不明だ。

思うに、権力がある人に対しては、そういう人たちは、たいへんだ、とは言わないんじゃないだろうか。権力のある人に対しては、「何の問題もないです」みたいな顔をしているんじゃないだろうか、という気がする。

なぜなら、権力のある人に対して、弱みを見せると、人生が不利になる恐れがあるからだ。わたしが上司に、「発達障害なんで、同情してくださいよ」と言わないのと同じことだと思う。仕事に配慮してもくれる可能性もあるけれど、仕事を干される可能性もあるからだ。それに、うまくいっている(ように見える人)って、人の痛みに同情してくれるのか、不安な感じがする。
そう考えると、弱い人に同情を求める人たちの考えていることに筋が通る。

とはいえ、わたしの場合は、人が困っているときに、余裕のある人ほど、合わせる余裕もある場合があるから、相手を見ながら、助けを求めるようにしている。仕事として、頼むことが一番多い。それが一番安全だ。

思うに、弱い人に同情を求める人は、仕事として、自分の苦境を助けてもらう、という習慣がないのではないだろうか。
弱い人は抵抗しなさそうだから、ただで、同情や仕事になるようなことを求めても、自分にはダメージが来ないと思っているんではないだろうか。

それは搾取だ。

弱い人に同情を求める人たちは、搾取をしている。
強い人に同情を求めれば、それは搾取にならない。

弱い人に同情を求めれば、困ることが起きない。それは保身だ。
弱い人は発言権もない場合が多いし、抵抗力も弱い。だから、好きなようにできる、と思ってるんじゃないだろうか。苦労して、つらさも知っているだろうから、自分の話もただで聞いてくれると思っているんじゃないだろうか。
病人や障害者は優しいと幻想を抱いていて、それが思った通りじゃないときに、怒るんじゃないだろうか。

そう思うと、同情を求める人たちが、求めながら、怒っていることに説明がつく。
ずるい、って、わたしのことを思っていることに説明がつく。

わたしが自分のことばかり考えているのは、わたしにとって当たり前のことだけど、それが許せない、ような気持ちになることに説明がつく。自分のことしか考えないわたしを許せないと思ったとしても、その人に利益は一ミリも生じないんだけれど、そこまで考えないみたいだ。ちょっと面白い話だ。

わたしの身近な人が、わたしが「自分のことしか考えていない」と思ったら、怒るだろうし、愛想を尽かしてしまうかもしれない。だから、わたしは周りの人のことを考える必要がある。でも、わたしは、自分の気持ちを単に文章に書くとき、身近じゃない人のことまで考えなくても良いと思っている。

わたしのことを弱いと思って、そして、人に同情を迫る人は、わたしのことをきっとずるい、と思ってるんだろう。だから、怒っているんだろう。
わたしは障害の部分では、困っていることが多いけれど、でも、理不尽な要求が突きつけられたときには、いやだ、と言える。言いたいと思っている。

弱い人に同情を求める人たちは、ぜひ、自分よりも権力がある人や、対等な人に同情を求めるように考えを変えてもらいたいと思う。それは、わたしが得をするからそう思うわけではない。
その方が、現実が変わる可能性があるからだ。

それでも、弱い人に、怒ったり、ずるいと思ったり、同情を迫る人たちは、卑怯な人間だし、抵抗できない相手から、感情労働を搾取する人に成り果ててしまうから、それはやめた方が良い。


障害者がうらやましい人

うすうす気がついていたのだけれど、障害者をうらやましいと思う人がいるらしい。

どういうことなのか、ちょっとわからない。わからないなりに、考えてみたい。
考えるのは、それが面白そうな話題だからだ。
楽しいからする。

病気になってから、「小さな花が道に咲いていることをじっくり観察する、そんな喜びを身につけないとだめよ」と言われ、何を言ってるんだくそばばあ、と思ったのは良い思い出だ。
はっきりいって、そんな問題ではないのだ。小さな幸せ探しをして埋められる問題ではなかったのだ。脳の中で幸せを受容する物質が欠乏していたんだから、小さかろうが大きかろうが、幸せを感じられなかったんだから、心の持ちようじゃなかった。

心の持ちようと言うのは一理あって、自分を追いつめないようにしようとか、自分をだめだと思わないようにしようとか、そういう面では大事だった。
具体的に、具体的というのが大事なのだが、できる範囲で、時間的な負担を減らすことだとか、もしくは引きこもっていたら社会との接点の時間を増やして、自分の時間と社会との時間の調整を計ることが大事だ。それは心の持ちよう、心をマネジメントするための工夫だ。

障害者がうらやましい人、というのは、障害者に対して、現実的ではないイメージを持っているようだ。障害のこと以外では悩んでいないみたいなイメージを持っているみたいだ。
そしたら、それは確かに楽そうに見えるだろうと思う。

でも、適切なたとえではないけれど、アディクションに苦しんでいる人は、「このアディクションさえ収まれば、バラ色の人生があるはずなのに」と思い、治療をし、そのあとで、アディクションがない人生の空虚さに愕然とすることがあるらしい。

障害もそんな感じで、障害にだけスポットを当てていると、障害を克服するだけの人生になってしまって、それ以外のことがまっさらだ、ということに気がつくと愕然としてしまう。
それから逃げるためにわたしは必死だ。工夫をしている。
工夫をしているので、端から見ると楽しそうに見えるかもしれない。
それはそれで、作戦がうまくいっているので、嬉しい。

障害と格闘していることは本来の意味では充実とは言えないのだけれど。
でも、それがうらやましいと思う人がいるのかもしれない。
でも、それをうらやましいと思う人は、わたし以上にさみしくて、空虚なんじゃないかと邪推してしまう。

なにか、問題を抱えていると、そのことに一生懸命になるので、人生に向き合わなくてすむ。それには副作用があって、それが解決されてしまうと、空虚な自分が牙を剥く瞬間がある。
問題が解決されてから人生が始まる。

わたしは症状が落ち着いてから、自分の人生を取り戻すために必死だ。
失った時間は戻ってこない。そのことに何度も苦しんだ。
時間はまっすぐ流れていく。若い頃には戻らない。
失った時間の価値は大きく感じられる。
無意味に病気だったんだと思う。わたしは犠牲になったのだ。
悔しい。憎しみでいっぱいになる。

わたしが観察するに、人生が表面上うまくいっている人は、自分と向き合わずにすんでいる。だから、自分が本当に欲していることじゃないことで、毎日が満たされていて、だから、瞬間的に虚しくなることがあるように見える。なにか、物足りない、となるときがあるのかもしれない。想像だけれども。

病気をしていると充実する。そのことを考えるし、それを通して、自分が一番優先したいことを考えるし、工夫するから。自分の本当に欲するものに対して、研ぎすまされる。絶対にしたいことと、そうでもないことを選り分ける。だから、純粋になれる。
腹も座る。そうするしかないから。

そうでもしないと、生きていて楽しくないし、楽しくないと言う気持ちは死に直結する。

別に死んでもかまわないのだけど、死んだら生き返らないので、とりあえず生きていたい。死んでもかまわない、というより、必ず死ぬから、そのことは考えても意味がない。死んだら苦痛から逃れられると思っていた時期もあるけれど、薬のおかげと、生活の工夫のおかげで、死ぬほどの苦痛からは逃れられた。死ぬ以外の方法で、苦しみから逃れられることができるなんて、現代医療は偉大だ。痛くないなら、生きていてもいい。楽しいこともときどきはあるし、その瞬間があれば、なんとか希望が持てる。

とはいえ、体力がないとか、精神が病気だとかは、基本的には快適ではない。快適ではないから病気なのだ。その中で工夫しているのだ。

障害者がうらやましい人は、その舞台裏が見えていない気がする。
障害者、というのは、健常者が大勢の国で、その人たちのために設計されたシステムからこぼれ落ちた人なので、存在するだけで生きづらい。それは、選択の問題でもなく、努力の問題でもなく、構造的な問題。

構造的な問題から逃れられている人のことを、わたしはうらやましいと思う。よけいな手順がひとつ少ないわけだから。

でも、そのことを考えずに、障害者をうらやましいと思い、あまつさえ、「健常者の苦しみもわかれ」と言ってくる人がいるようなので、ちょっとその浅はかさに驚く。
構造的な部分が見えていないのか、障害者は障害のことだけに苦しんでいて、ほかの、普遍的な苦しみから自由だと思い込んでいるのか、両方なのか。その能天気がうらやましいとわたしは思うのだけど。

わたしが、辛辣で口が悪いのは、わかっている。わかっているけれど、この件に関しては面白い。

障害、と言うのは生きづらさだ。
社会に適応できていないから、その特性が障害と呼ばれるのだ。役に立つ場合もあるし、それほど害のあることじゃないのに。

でも、邪魔になることがある。
それは社会の設計ミスだと思う。
それなのに、設計ミスで、うまくいっていない人に対して、「普通の人にも得手不得手があって、普通の人の苦しみをわかっていない」という人が現れるのが面白い。どちらかというと、普通の人は、今の世界を設計している側の人だから、自分自身にあった設計をすれば良いのにと思う。健常者は数が多いので、民主主義の世の中だとそれが可能なのだ。

もし、発達障害者がマジョリティだったら、発達障害者にあわせて世界が設計されるので、定型の人は生きづらくなり、その人たちが、障害者と呼ばれるだろう。

それは愉快なことだし、実現可能だ。だけど、わたしにうらやましいオーラを出す人は、そこまでのことは望んでいないだろう。いいとこどりをしたいのだろうと、考えてしまう。ちょっと面白い。矛盾がある。愉快だ。

障害者に対して、うらやましい、と思ってしまう人は、生きづらい、という点で、わたしと共通点がある。
共通点があるけれど、和解できない。
そして、和解できないなりに、共生できるのが、嬉しいことだと思う。世の中に希望が持てる。
楽しいことだ。


見知らぬ普通の人の面倒は見ない

わたしは発達障害者だということを公言して書いている。

だから、「普通の人」のことを考えていない、自分のことだけを考えていると言われたらその通りだ。
わたしがこのブログに関して、普通の人を考察する文章を書いたとしても無意味だからだ。無意味だし、不正確な内容になるので、意義がない。

普通の人もつらいんだ、と、発達障害だと名乗っている人に迫るのって、発達障害者が発達障害にだけ苦しんでいるだけみたいじゃないか。迫るというと語弊があるかもしれない。指摘、すること。

普通の人もつらいんだ、わかって、と言ってくる行為は甘えだからむっとする。
甘えは良いものだ。だけど、見知らぬ人に、ぽいっと投げて良いものでもない。
戸惑わせるし、驚かせる。
弱い立場の人に、強い立場の人が甘えるというケースは良くある。
わたしが弱い立場で、ネットの向こうの自称普通の人が強い立場なのかはよくわからないけれど、そういうケースだと仮定する。
甘えは、弱い人に強い(と無自覚に思っている)人がしたときには悪いものになる。

普通の人の苦悩もわかった方が良いとはなんのことだろう。普通の人とは誰だろう。それは今その文章を書いたあなたに関してのことかな、と思う。
あなたは普通の人を代表しているのですかとも思う。それはできないはずだから、普通の人とはきっとあなたのことなんだろう、と想像する。
あなたが個人的にわたしに甘えたいということだろうか、と思う。

恵まれているように見える人にも苦悩があるよ、と教えてくれる人との区別はついている。そういう人は好きだ。わたしが無為に人をうらやましがって消耗をするのを防いでくれることは親切だからだ。

そうではなくて、「あなたは自分のことばかりだ」という人のことは好きにはならない。

誤解があると思う。
精神疾患や、発達障害がある人はそのことだけについて、悩んでいると思っている人がいるようだ。
そうではない。
たいていの患者は、病気だけについてではなくて、人生全体に苦しみを感じているように、思える。
全員に聞いたわけじゃないし、「この病気さえ治れば、バラ色の人生が開かれているのに」とわたし自身思って歴史はあるので、断言はできないけれど、「この病気さえ治れば」という極端な思想に走ること自体が病気の一部だと思うので、やはり、人生全体の問題だと思う。

発達障害の人は、自分の人生の行く末に悩んだり、ステップに悩んだり、パートナーシップに悩んだり、感情の処理に困ったり、お金に困ったり、仕事に困ったり、家庭内の不和に困ったり、コミュニケーションに困ったり、手先の不器用さに困ったり、感覚過敏に困ったりする。

それに、発達障害だからと言って、人生の様々な問題が免除されるわけじゃないから、介護問題や姑問題や離婚や子育てに悩んでいたり、キャリアに悩んでいたり、仕事のスキルや人間関係に悩んでいる人はたくさんいると思う。

普通の人の苦しみ、プラス、発達障害、というイメージでいてもらったら良いと思う。

発達障害というのは、人格全体にかぶって来たり、二次障害と言って、精神病にもかかりやすくなっていたりするので、「ここだけピンポイントで困る」という風ではなく、人生全体に困る感じになるようだ。自分の経験と、本に書いてあることを読むと、そういうことらしい。

こういう悩みは普通の人と変わらないと思う。

普通の人もつらいんだ、とわたしは知っているけれど、普通の人をわかって、ケアしないといけないとは思わない。
なぜなら、わたしはその人の親でも恋人でも友人でも何でもないから。

だから、わたしに、わざわざ普通の人もつらいんだ、と伝えてくる意味が分からない。

意味があるとすると、わたしが不愉快な気持ちになる、ということだ。
もしくは、わたしにはそれを知らないみたいだから、教えて上げよう、ということかもしれないし、自分が不愉快になった、ということを表明したかっただけかもしれない。教える、ということだったら上下関係が自然に発生するので、大きなお世話、とも思う。

ただ、わたしは、反応としては、少し動揺した。

それはどうして不愉快になるかと言うと、わたしと自分を障害の有無で分けているのは自分のくせに、わたしにたいして、わたしがどうしようもない部分であるところ、自分の感情にだけ敏感だと責めてくる、責めてくる、という言い回しが感情的だとすると、指摘する、態度が、自ら「健常者=普通の人」「障害者=普通じゃない人」と分けている行為だと思うからだ。

分けられた側は良い気がしない。
分けられて、普通じゃない、と言われた方は不愉快な気持ちになる。それを想像したことがありますか?
それは自分中心じゃないですか?

その上で、普通の人の気持ちも考えろ、と、ハンデを負っている(しかも感情的なことを理解する能力がないとされている)相手に、指摘するのは、図々しくないですか。
わたしは普通じゃないのだろうか。
どこがおかしい?
おかしくない。

他人の感情に無神経だ、と言えるあなたは、わたしの感情に対して無神経ではないのですか、と思う。

疑問を抱かないのですか。

わたしは容量が大きくないので、数人のケアしかできない。
だから、見知らぬ、自称、普通の人の面倒は見ない。


”普通の人”のつらさの重み

昨日書いたエントリにブックマークがついた。

わたしは自分の感情に敏感で、他者の感情に鈍感らしい。

それはその通りだ。そういう障害があるのだから。
そういう障害があるから、自分の感情に敏感で、他人の感情に鈍感なのだ。わたしにはどうすることもできない。自分では「人の悲しみに対してブログの記事を書いたのだから、少なくともブログを書くぐらいには人の感情に興味を持っているのだろう」と思っていた。

自分の感情に敏感で、他人の感情に鈍感なことは悪いことだと思わない。
できないことを悪いと思っても仕方がないのもあるけれど、自分の感情に鈍感で、他人の感情に敏感なよりも、自分にとっては良いと思う。わたしには、他人の感情がわからないのだ。考えてもわからない。だから、ブログを書いて、自分の感情を開陳して、他人の感情に触れようとしている。わたしなりに努力している。

わたしは自分のことを普通の人だと思っていた。思いたかったから、自分が変だということはずっと認めずにいた。だから、普通の人として生きるつらさはそれなりにわかっていると思う。
なにしろ、わたしは自分に障害があることを未だに疑っているのだから。

障害があっても、普通の人としての苦しみが減るわけじゃない。わたしには普通の人としての一面がある。働いているし、職場の人との付き合いもある。恋愛もしている。十分普通の社会人としての役割を果たしている。だから、障害者としてのわたしとしての苦しみだけではなくて、「障害のない面」についての苦しみも自分の中にあるつもりだ。

わたしには能力的にでこぼこはあるものの、知的な能力の障害はない。だから、感情的、社会的な発達の遅れを補うことは可能ではないかと考えている。実行もしている。するしかない。人間付き合いからは逃れられないし、障害をカミングアウトしているわけじゃないから、みんなわたしを普通の人として扱う。わたしが障害を自由に発揮しているのはこのブログの中だけだ。

知的能力を使って、感情面や社会面を推理して、ふさわしい態度を暗記して実行しているつもりだけれど、もともと持っているはずの能力の代用なので、それなりの疲れ方はする。そして、現実はいつも流動的なので、初めて遭遇する場面では、うまく反応できない。

たとえば、今日、わたしは教師交代になった。それは、生徒さんと親御さんに気に入られなかった、と言うことを指すので、結構がっくりする。収入も減る。死活問題だ。それは、”普通の人”としての苦しみだと思う。

そして、「なぜ気に入られなかったのか」を思うときに「障害があるから、場面にそぐわない不適切な発言や態度を取ってしまったのかもしれない」という選択肢がわたしの中で生まれる。それは、わたしが障害を持っているからの不利な面だ。

精神的に不安定でもある。”普通の人”がわたしと同じ程度に精神的に不安定なのだったら、それは病気だから、悪いことは言わないので、精神科に受診した方が良いと思う。わたしは自分が”普通の人”のつもりだったときに、精神科を受診している。だから、わたしと”普通の人”に、精神科を受診する敷き居の高さに差はなかったはずだ。

発達障害は、雑に言うと、精神的に幼い、ということだ。うまく社会的に発達できていない。だから、大人として行動できないし、社会的に期待されている役割を遂行できなかったりもする。
だから、障害がわかってから、わたしは自分自身に対して、ハードルを下げた。

”普通の人”の苦しみは、自分自身に対するハードルの高さからも生まれている気がする。わたしが”普通の人”だった頃、わたしは自分自身に対するハードルがとても高かった。自分に期待していた。良い会社に就職して、五年くらいしたら結婚して、家事分担できる相手と、家庭と仕事を両立する人として働く、そして、勉強も続ける、などと考えていた。

でも、それはうまくいかなかったので、とても落ち込んだ。恋人とはうまくいかず、別れて、未練たらたらでやけっぱちになったりもしたし、仕事もうまくいかなかった。人間関係も、良い友人に恵まれていたけれども、世話をかけすぎて、愛想を尽かされたりもした。

まあ、しかたがないな、失敗してもしかたがないな、と思えるようになったのは成長だ。これは”普通の人”っぽい思考だ、と思って、自分で気に入っている。

”普通の人”が、仕事や人間関係で苦しんだり、恋愛がうまくいかなかったりして、苦しんでいるのは知っている。知っているけれど、わたしはその人になれないので、本当にはその気持ちがわからない。想像するだけだ。想像して、考えるけれども、あまりここには書かない。それは、書いてもしかたがないからだ。

”普通の人”なんて、いない、とも言えるし、いる、とも言える。誰でもマジョリティとしての一面があるし、マイノリティとしての一面がある。それはその人が抱えているもので、わたしは何も言えない。

わたしには、わたしが抱えているものの重さしかわからない。他の人と比べられない。わたしから見てうらやましい人がわたしよりもずっと苦しんでいる、ということはよくあるはずだ。わたしをうらやむひともたくさんいる、ということもわたしは知っている。わたしには持っているものがたくさんある。持っていないものもたくさんある。

でも、わたしには見えない。その人はきっとわたしにそれを打ち明けるほど親しくない。そして、わたしは言葉で言われないと気づけない。

”普通の人”のつらさの重みも、”障害者”のつらさの重みもわからない。

質も違うし、取り出すこともできない。”障害者”の人にも、”健常者”の一面がある。健常者の人にも、病気の一面がある。
そういう風にわたしは考えている。

視野が今よりもさらに狭かったときに、人のことをうらやましがってばかりいた。その人なりの苦しみがあると言うことを知ったのは最近のことだ。

わたしの成長は他の人よりも時間がかかるらしい。そういうものらしい。検査で結果が出たから仕方がない。

だから、わたしの視野が狭いことに対しては、大目に見てほしい。それは、わたしが障害者だからじゃなくて、ただ単に、精神的に未熟な人間だからだ。それは、引っ張れば伸びるものじゃないので、そっとしておくしかない。

そういう風に、わたしは自分のことを思っているし、他人に対しても思っている。

お互いに、あまり期待しない方が幸運だ。


あなたは間違っていない


とある自活できてない非正規社員のこれまで – さらさら録

わたしは自活できていない。人に話すのが面倒くさいから、援助を得ていることは人に話していない。
年金はもらっていない。もらえば自活できるけれど、主治医がそれに反対している。父が援助できなくなったら、主治医に相談しようと思う。

自活できていないことは恥ずかしい。
恋人にも話せていない。わたしが人ごみやうるさいことが苦手なことは知っているけれど、障害のことも話していない。

障害が見つかるまでは、生きることがなんだか苦しいなあと思っていた。

他の人はわたしほど苦しそうに見えなかったけれど、見えないところで苦労しているのかと思った。

障害が発見されてから、適切な薬を飲むようになり、援助ももらうようになって、精神が安定した。
生きるのがこれほど楽なのかと驚いた。
これで、もともと精神の障害がない人はどれだけ楽に行きているんだろうかと驚いた。そして、今までの人生を思うと、なんてうらやましいんだと思った。

わたしは障害がなければ、上場企業に入って、ばりばり働いて、年収一千万円とかになりたかった。それとも、大学の先生になりたかった。わたしはそこそこ有名な私学に入っていて、研究者になることも勧められた。その先生は、今まで研究者になることを人にすすめるのは初めてだと言った。簡単に損なことは言わない人だった。わたしがドクターになる頃に、その先生が退職するので、うまくいけばポジションを譲れるとやんわり言われた。結婚はできないかもしれないし、人生はばくちになるけれどと。

でも、わたしは要領が悪くて、その道を選ばなかった。今でも少しみれんがある。
勉強は楽しいし、生きることは喜びだ。でも、わたしはきっと研究者になること自体は楽しめただろうけれど、ストレスには弱いから、つらかったかもしれないなあと思う。

あのころ、世界は開けていた。勉強をすることの喜び、世界をより良きものにするための思考、勉強をすればするほど、目の前が広がっていて、遠い景色まで見通せる。そして、人の役にも立つ。わたしは革命を起こしたかった。とても透明な世界でわたしは生きていた。
その一方、対人関係は歪んでいた。お金のこともわからなかった。生かされていた。

わたしは男女平等の世界を作りたかった。その一助になれたらと願っていた。

わたしは今は少しだけど、自分の力で生きている。
研究者になりたかった。向いていただろう。今は、教える仕事をしている。研究者ではないけれど、やはり勉強をしている。勉強会では自分が研究していることについて話す。それは簡単なレジュメと短い発表にすぎないけれど、舞台が変わってもわたしがしていることは同じだし、世界をより良きものに変えたいという願いのために働いているのは同じだ。

塾で、生徒さんに、いつか自活するための力になることを願って、勉強を教えている。自活するための職業選択のヒントになるようなことも話している。
わたし自身は、自活できていないけれど、未来のある人が、そんな暮らしができるように手伝えれば、それだけでも、わたしの願いは叶う気がしている。

もしかしたら、このまま働いていたら、仕事にも慣れて、研究を続けることができるかもしれない。わたしの専門は、本さえあれば、できる研究だから、別に設備は必要ない。教えることが好きだから、大学で教鞭をとることも、塾で教えることもきっと同じだろう。

大きく違うのは収入だ。もし、あの大学で教えることができたら、毎年二千万円ほど稼げた計算になる。でも、ポジションを譲ってくれる、という話が本当に実現したかわからない。ライバルは現れるだろうし、わたしが研究に行き詰まった可能性だってある。

選択肢はいつもある。
毎回とっさの判断で選ぶ。

間違っていることもある。うまくいくこともある。

わたしは今まで間違え続けていたと思っていた。

発達障害の診断が出るまで、からだが弱くて、少しずつ調子が悪くて、障害でもなく、大病でもなく、でも働けないし、家族に支配されて、自分の意志で行動できない、そんな惨めな状態が続いていた。

ある、大きな事件があった。わたしはそのときに二十キロ太るようなストレスを受けた。生きるか死ぬか、思い詰めるほどのストレスがあって、わたしはそこをくぐり抜けるために入院した。その先の主治医が、たまたま発達障害の専門家だったせいで、初心のときに、わたしの話し方がおかしいことに気づいて、発達障害を疑われて、検査して、診断が降りて、わたしは初めて障害者になった。

障害者になる前となった後で、わたしは何も変わらない。
だけど、周りが変わった。わたしは自分自身について研究することにした。

このブログはその研究の成果を発表する場でもある。

わたしは惨めなときもある。

でも惨めじゃない日もある。
だから良かったと思う。

援助を受ける受けないは、たいしたことじゃない。
たいしたことではあるのだけど、でも、生きるために、利用できるものは利用すれば良いと思う。
利用と言うと、誤解を受けるかもしれない。
感謝している。
卑屈になる必要もない。
わたしが誰かを助けられるとき助けたいと思う。

わたしは人からだまされて、大きな傷を受けたこともある。
わたしは人を大きく傷つけたこともある。
両方ある。でも償うために死んだりしない。生きている。
それは楽しいからじゃない。
嬉しいからでもない。
死ぬという発想がないからでもない。

わたしはIQが高い。それは、障害のせいだ。障害がなければ、IQも人並みだっただろう。
もっとIQが高ければ、ひとと話が合わなくて、苦労するらしい。だから、これくらいの誤差で良かったと言われた。わたしのIQの高さは、誤差の範囲らしい。だから、少しだけ得をしているらしい。
IQに関してだけ。IQが高いと言われると、確かに嬉しい。嬉しいけれど、嬉しいだけだ。
人付き合いがうまい方が、世の中をうまく渡れると思うし、生きやすいと思う。
わたしの場合は、IQと記憶力の良さで、障害の弱点を補っているらしい。
だから、いつも疲れていて、気分が良くないのだそうだ。
正直に言って、疲れていて、気分が良くなく、精神が病気なのは不快なことなので、IQが高いよりは、人付き合いがうまい方が快適に暮らせると思う。

わたしは人付き合いが苦手だ。テレビも見られない。光と音がうるさいことと、悲しい話や気持ちが揺れる出来事が多く放映されているからだ。蛍光灯の音にいらいらすることもあるし、色彩がまぶしいと感じることもある。足を踏み入れることさえできないことも多いし、一回目に入った会社ではセクハラをうまく捌けなくて退職するはめになった。

IQが人より高いことよりも、人付き合いがうまい方が、現実的には有利な特性だ。
だから、そちらの方が良いと思うときもある。

だけど、現実のわたしは人付き合いが苦手だ。人からは頭が良くていいとうらやましがられる一方で、変わり者だと笑われる。頭の良さを褒められると嫌みか、とも思う。わたしには頭の良さがなんなのか、本当にはわからない。

でも、頭が良いと言われる。排除された気分になる。別の生き物、と言われたような気がする。

わたしにはできないことがたくさんある。
わたしには役に立たないけれどできることもある。文書を書くとか、勉強をするとかは、役に立たないけれど、できることだ。

つらいことはたくさんある。
でも、つらいことがあるからといって、それが、間違いの結果だとは思わない。

わたしは間違ったから、つらかったわけじゃない。

わたしがわたしで、世界が世界で、それぞれそりが合わなかったから、わたしがつらかった。

わたしは自分を知ることによって、少しずつつらさを減らしつつある。

研究者になりたかった。なれなかった。でも、こつこつ勉強をしたり、教えたり、文章を書いたり、したかった、という志は達成できた。

自活できるようになりたかった。でも、なれていない。だけど、これからできるようになるかもしれない。ならないかもしれない。なれなくても、はずかしいことじゃない。わたしが、間違ったから、自活できなかったわけじゃないから。間違ったとしても、恥ずかしいことじゃない。

間違っている人はたくさんいる。でも、その人たちが、みんな自分を恥じているわけじゃない。

恥じ入る瞬間はあるにしても、たいていのときには忘れているようだ。

だから、そういう良いところは見習って、わたしも忘れることにしたいと思う。
働くことは喜びだ。社会の中にとけ込んでいる気持ちになるから。
楽しいから、働いている。
生活のためでもあるけれど、でも、楽しいからしている。
立派だから働いているわけじゃない。

わたしはコンビニと塾で働いている。コンビニで働いてから、少なくとも六時間は、休憩できる。休憩しながら働くことがあっているようだ。だから、そうしている。立派だからそうしているわけじゃない。体力がないから、精神力もないから、それにあわせて工夫している。

だから、あなたも、忘れてほしい。
都合の悪いことは忘れて、楽しんで、暮らしてほしい。
病が許す範囲で、楽しんでほしい。


恋人のことを好きなこと

恋人のことを日に日に好きになっていきます。いいところがたくさんある人だなあと思います。
一緒にいていやな思いをすることもないし、いらいらすることもないです。

つきあいはじめだからかもしれないし、そうじゃないかもしれません。

でも、自分から手をつないでくれる人は初めてです。とても嬉しいです。

恋人のことを考えると、ふわふわして、わくわくした気分になります。
なすのあげびたしをヘルパーさんに教わったのですが、食べさせたいなあと思いました。

ヘルパーさんは仕事を初めて半年の人です。
でも、元気があって仕事熱心で良い人だなあと思います。
新しくきた人なので、緊張しました。

わたしは、料理を作ったり相似をしたりが苦手ですが、がんばりたいです。