運命の赤い糸はわがままに過ごしてやってくる

「嫌な席だったら、帰る」という助言を実行して六年たちます。
「帰ること自体は、誰に対しても攻撃にならない。何も言わずに帰っても大丈夫。あとで、調子悪くて、帰ったって言って、悪く思う人とは合わないから、それまで。わかってくれるなら、弁解も聞いてくれる、誤解があっても話しあえる。
帰ること自体で取り返しがつかないことになることは絶対にないけれど、嫌な席に居続けて、判断が鈍って取り返しのつかないことになることはある」と言われたから、その通りだと思って実行しました。

先日の同窓会でも、嫌だと思って帰りましたが、わたしの味方はちゃんとあとから、わたしのそばに来てくれました。
一緒に時間を過ごして、ご飯を食べるだけで、心が安らぎなごみ、励まされる相手というのは、必ずいるのだと思いました。

同窓会に行くと、やっぱり、年収が一千万円超えている人がごろごろいるので、二人で自信を失いました。
でも、やっぱり、何もない自分だと思っても、幸せな部分というは、今、築けているよね、という風に励まされました。
年収が高いことを話すのでも、さらっと伝えてくれて、こちらも、「本当に頑張ったね、すごいね、よかったね」と心から言える相手と、「そんなん言われても困る」と落ち込む相手とがいるので、やっぱり相性があると思います。

三十過ぎると、今まで健康で順風満帆にいっていたひとも、人に言いにくい苦労が出てくることもわかりました。
そういう苦労を、種類は違えど、話せて、すっきりして、励まし合える人間が、細く長く続いているのは、本当にありがたいと思いました。

もし、年収が高い子でも、何かあったら、そうじゃなくなる場面もあるだろうし、でも、そういうときに、そばから離れず、力になりたいと思える相手と付き合っていきたいと思います。

人からうらやまれるような権力や名誉を持っている人でも、人生の後半になると、人への嫉妬や恨みで頭がいっぱいになる人もいて、昔は、それでも「地位と名誉とお金があるのだからうらやましい」と思っていましたが、今では、そうは思えません。

自分自身、状況が変わらなくても、躁鬱で、心の状態が変われば、幸不幸なんて、オセロみたいにひっくり返ることがよくあります。

全部が心の持ちようだとは到底言えませんが、それでも、自分なりの矜持を持って暮らしたいと思います。

勉強してよかったと思うことは、知識を増やせたこと、視点を増やせたこと、そして、自分の周りの世界に秩序をもたらせたことです。
世界は混とんに満ちていて、それだけに、傷つき疲れることも多いです。
けれど、勉強することによって、人間の非力さを知り、無能さを知り、そして、自分の限界を知ることで、逆説的にですが、常に向学心を持つことの大事さを知りました。向学心を持つことで、混沌に流されそうになる自分を、知識や知恵が、錨のようにつなぎとめてくれるのです。
生活の面では、自分の身の回りの秩序を保つことがどれだけ大切か気が付けました。

わたしは、知識を得て、世界を広くする心地よさを知っています。そして、人を育てる仕事をしています。
わたしは、心地よさ、気持ちよさ、自分のなりたい姿になる工夫を勉強を通して、伝えていきたいと思います。

勉強ができても、心が貧しければ、それは、わたしにとっては意味がないです。
勉強は、その楽しさ、もしくは、なりたいものになるための手段であってほしいと思います。誰かを踏みつけるための道具に堕してはならないと思います。

高校生になっても、本を読解する能力に欠けている子はたくさんいます。
日本語が母語だからといっても、読む力を使わなければ、その力は育たないままです。
だから、語彙を増やし、コラムを読ませて、論説文を読む力を育て、大学に行くにしても、教科書や専門書を読み砕ける力を育てて、卒業させたいと願います。

知識は、自分に害をなす人を、遠ざける力があります。
マルチ商法やネットワークビジネスに騙されることも、知識があれば、逃げられます。
DVやモラハラをする相手を恋人にしないようにすることも、知識があれば、かなり遭遇する確率を減らせます。
嫌いな人は嫌い、好きなものを好き、自分は大切なものだ、という感覚があれば、その人たちは、あえて近寄ってくることが減ります。
空気を読めない、協調性がない、という言葉に負けてしまえば、モラハラの餌食に遭いやすくなります。
でも、空気が読めない、協調性がない、という言葉に対抗することもできます。それには知識が有効です。
本を読むことです。正しい本を選び、本から本へたどる方法を知ることが、身を守ることにつながります。

わたしは、七年間付き合った彼氏と結婚を考えていましたが、別れました。
時間にルーズで、「仕事じゃないんだから」がいいわけでした。
半日でも遅刻する、連絡をしない、SNSのほうがわたしよりも大事(ほかにもいろいろありましたが)、そういう点で、わたしを尊重していないのは明らかでしたから、わたしはさっさと別れるべきでした。
それでも、別れたときに「もったいない」と言われ、それもあり、わたしは、今のパートナーと出会うまで、ずっと「あの人と結婚していたら、少なくとも、もう子供はいたかもしれない。彼も変わったかもしれない」と引きずっていました。
引きずりながらも、出会いを探し回って、みっともなくあがいたのは、それから脱却するためによかったと思います。

精神科の主治医が「赤い糸をネットで探せばいい。ネットは世界中からパートナーを探せる。自分の周りで街コンだのなんだのしても、一度に限られた人としか話せず、自分のことを知ってもらうのも大変だ。あなたは文章が得意なのだから、それを使って、ネットで自己開示をして、それでもあなたがいいという人が出会えたら、その人にここに引っ越してきてもらえればいい。引っ越すくらいの条件を乗り越えるくらいの情熱がある人じゃないと、結婚生活もうまくいかないから、ちょっとくらい、そういうハードルがあったほうが、嫌な人を避けることにもなるよ。それに、案外近くにいるかもしれないし」と五年前言ったことは、現実になりました。

今のパートナーは、わたしのブログを全部読んで、そして、わたしに会いに来た人です。
このブログは、人と出会うためにしたものではなかったのですが、それでも、たくさんの人と出会い(そして別れ、反目、憎しみも)を生み出してくれました。

人に嫌われる理由が、自分なりに理由があればいいと思うのです。
自分が生きるためにどうしても譲れない部分が、人をいらだてるのだとしたら、その人は、自分とは合わないことがお互いにわかってよかったというフィルターとして機能します。
だから、自分が妥協できる範囲がどのくらいか、見極めることが大事です。
髪ははやすことができないかもしれないくらい、自分を変えるのが困難な部分が必ずあって、でも、それがかえって魅力に結びつく相手がいるかもしれないのです。


三十代後半のおしゃれ

今より若くて痩せていて、すらっとしていて、肌もぴかぴかだったとき、わたしはおしゃれが怖かった。
お金がなかったんじゃない。
友達に誘われなかったんじゃない。
友達に渋谷に買い物に行こうと言われて「怖い」と断った。
何が怖かったんだろう?

育った環境が悪かった。自分が女だということに、自信を失っていた。
自尊心がボロボロになっていた。
だから、おしゃれできなかった。

今、わたしは、好きな服を買って、でも、まだ、定価で買えないでいる。
わたしには定価で服を買う価値がないと思っている。
安いものが似合うとどこかで思っている。
体や見た目に似合うんじゃなくて、「貧しい状態がお似合い」だと思っている。
でも、本当はそうじゃない。
身の丈に合ったくらいで、好きな服を買って、気持ちよく暮らす「権利」がわたしにはある。

若いころ、そういうものを奪われていた。
だから、今、怒っている。すごく。
わたしをそういう貧しいものにした者たちが、具体的に存在するから、わたしは怒る。

で、わたしは爪を塗る。
化粧もする。
「どこにいくわけ?誰に見せるわけでもないでしょ。誰もあんたのことなんて見てない。ファッションショーじゃあるまいし。
色気づきやがって。塗りたくってもきれいじゃない」と吐き捨て怒鳴りつける女は、今ここにはいない。
そして、もう会わなくていい。
何度も言い聞かせないと、会わないといけないんじゃないかという圧力に負けそうになるけれど。

わたしは、おしゃれをして、みっともないかもしれないけど、気分良く暮らしたい。
ブスで不細工でデブで汚い女なのかもしれない。そう思って仕方ない時のほうが多い。
そういうときは、茫然としているか、泣いているかしていて、たぶん、メンタルのせいで認知がおかしいんだと思って、精神安定剤を飲む。

ねえ、人をブスだとかデブだとか、シミがあるとか、塗りたくっても気持ち悪いとか言われることで、こんなにも人生が狂うんだよ。
わたしは絶対に許さないよ。
死ね、苦しんで死ね、と、いつでも思っている。
で、そういう自分のほうが、昔の「みっともないのがお似合い」だと思っていた自分よりもいい感じだと思う。


朝の日課がに化粧が増えた

朝起きて、洗顔をして、着替えて、朝ごはんを作って、シーツとタオルを全部交換して、洗濯をして、その間にご飯を食べる。
それから、ウエットのシートでクイックルワイパーを家じゅうかけて、そうしていると、洗濯が終わるので、干す。
その合間に赤ちゃんをあやしたり、機嫌が良くても、短い時間しかいられないから、抱きしめたり、手をつないで「て、て、て。ててててて」と歌いながら、右手と左手を交互に動かす、という遊びと、「あんよ、あんよ、あんよの子」と言いながら足をばたばたさせるのを手伝って、それから、両足をもって、腰をぐるぐると回してあげる。
すっごく喜んで、にこにこしてくれる。解けそうな気持になる。
赤ちゃんは朝はほとんど機嫌がいい。
それから、自作のメリーゴーランドを見せる。ネムリラのオートスウィングはとっても役に立つ。

赤ちゃんの連絡帳を書いて、おむつを補充して、ガーゼを入れて、わたしがする準備は終わり。
赤ちゃんが保育園に行く時間になると、パートナーが、ひよこの着ぐるみを着せる。そうすると、保育園に行くことがわかるのか、お口がとんがって、うれしそう。

おなかがすいたら、ぴっと手をあげて教えてくれる。うれしいと手をぶんぶんふる。興奮すると「ふんすふんす」と息を荒くする。
赤ちゃんにもいろいろな感情があって、意思がある。
母乳拒否が続いていてつらいけれど、ミルクをやるときに、膝に乗せると、暖かく、柔らかく、ちょうどいい重みで、これが幸せの重みかと思う。

赤ちゃんが、保育園に連れられて行く間に、化粧をする。
いろいろと買い集めた化粧品の中から、一番気分に合うものを選んで、つける。
ファンデーションも、三種類持っている。
落とすのがしんどそうな日、毛穴が詰まっている日は、オンリーミネラルのミネラルファンデ。
以前は、粉のタイプで、出すのが大変だったけど、プレストタイプに変えたら、本当に楽になった。
コンパクトを付属のブラシでこすって、そのまま、顔に乗せるだけ。

毛穴を入念に消したいときは、アナスイの液体のファンデーションを塗る。
機能がいいのかはわからないけれど、バラの香りが好きだから。

それから、お粉をはたく。
いろいろ、素敵な新製品が出ていてほしくなるけれど、なかなか減らないので、もう五年くらい使っている。
化粧品は、半年で捨てろというのを読んだけれど、よく考えたら、粉、特に固まっているタイプのものには、水がないから細菌は繁殖しない。
油で固めているのも、油の中ではそれほど細菌が繁殖するとは思えない。

一番楽しみなのは、ポイントメイク。
アイシャドウを混ぜると、色が変わるのがとても好き。
MACとアナスイをよく使う。
アナスイのアイカラーデュオが好き。
色を混ぜると、不思議に変わる。
わたしはパールやラメが入っているものが好き。

口紅は、kiss、ちふれ、media、ボビイブラウンなどいろいろ持っている。
口紅も半年で捨てろと書いてあるのを読んだ時、一回泣く泣く捨てたけど、別に健康上問題がなさそうだから、まあいいや、とまた集めて使っている。

気に入っているのは、韓国コスメのティント。すごくよく染まるから、下地に使っている。

一時期はグロスがべたつくから嫌いだったけど、最近は好き。

昨日のツイキャスで紹介したアイテムをまとめました。リンク先は各メーカーの商品ページです。

https://t.co/JlMhnl5XTA

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月27日

” rel=”noopener” target=”_blank”>コスメ集

https://t.co/YcWJGADzwB

モーメントにまとめました。

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月23日

” rel=”noopener” target=”_blank”>簡単ベースメイク特集

こういうのも、読むのが楽しくなった。

化粧が終わったら、筋トレと体操ができたらする。
今は風邪をひいているから、走れないけれど、できれば走る。
運動をしないと、甘いものを無性に食べたくなる。
不思議と、運動をすると、それほど食べたくならない。
たぶん暇だと、脳に刺激がほしくなって、甘いものを欲してしまうんだと思う。

日課がスムーズにできるからと言って、鬱がないわけじゃなくて、その証拠に毎日ベーグルを焼いている。
小麦を練ったり、食べたくなるのは、たいてい鬱がひどいとき。


爪の色は誰の色?

同窓会に行くときに、爪を丹念に塗った。
紺に染めて、白いラメをグラデーションに重ねた。
重ねれば重ねるほど乾くの時間がかかり、よれてしまうから、苦労する。
赤ちゃんを見る時間をぬって、一生懸命おしゃれをした。

三次会で、世話になった先生と話せた。
「その爪は人と仲良くなる意思のある色じゃないよね。昔から協調性がない」と先生が言った。
「先生に髪がなく、自力ではやすことができないように、わたしには協調性がないんですよ」
と言い返したら、
「それはフォローしきれないな」と言ったやつがいて腹が立った。
何様だろう。
先生は、一回じゃなくて、十回以上、協調性がない、爪の色が変、こんな詰めの色なんてないと言った。
わたしは、出産してから二か月しかたっていないのに、頑張って、先生や、ほかの人に会いに来た。
わたしが一番いいと思う爪の色で来た。
出産してから、髪はぱさぱさになって、体はだるだるになって、顔も皮膚が前と違う。
自分の気に入る姿じゃない。でも、爪だけは好きな部分になるようにしていった。

ほかの人が、ほかの女性の何もしていない爪を指して、
「こういうのがいい」
「協調性がないと社会でやっていけない」と言ってきた。
そいつの妻は、中学生になる子供を連れて、その子供はずっとうつむいているのに、
「法的素養を身に着けさせたいから、宅建を受けさせたい」
「受験するから、口添えを頼みたい」と言っていた。
わたしはその夫婦が不愉快だった。同窓会の三次会に、十一時に、何を言っているのだろう。
でも、協調性がないと名指されたのはわたしだった。
わたしは、
「お前のために塗った爪じゃない」
「協調性で金が稼げるのかよ」
と言いたかったが、
「もう帰ろうかな」と言って帰った。

帰ってから、同期が来てくれて、
「ひどい席だったね、来年からはもう行かないで、うちらだけで会おう。協調性がないなんて思わない、あっちがない、その爪だってきれいじゃん」と言ってくれた。

わたしは、いやだったらいつでも帰る決断ができる自分が好きだ。
爪だって、服だって、自分が好きなものを身に着ける。
それで、自分が好きになれるんだったらいいと思う。
人のことをあれこれ言う人はそんなに立派じゃない。
協調性で飯が食えるか。


親に感謝する必要も許す必要もない

子供を出産してわかったのは、親に一切感謝しなくていいということだ。
わたしは、自分の子に、感謝してほしいと思わない。
何もかも当たり前に受け取ってほしいと思っている。

わたしが勝手に産みたくて産んだ。
育てたくて育てている。
喜んでほしい、笑ってほしい、声を聞かせてほしい、手を握ってほしい、そう思うからいろいろなことをする。
泣いてほしくない、鳴き声を聞いているのはしんどいから、あやす。
飲むところがかわいいから母乳やミルクをやる。
小さいままでいてほしいけれど、できることが一つずつ増えていくことがうれしいから、いろいろな刺激を与える。
今は、こぶしをしゃぶれるようになった。がらがらに振り向くようになった。
手をつないで歌を歌いながら動かすと、「きゃしゃー」と声をあげて笑う。
腹ばいにすることができるようになった。頭を持ち上げることができるようになった。全部うれしい。
外に連れ出すと、必死で回りを見る。のけぞってまでしてみる。
だから、散歩に連れ出したい。
毎日、一つでも幸せであり、喜ばしいことを感じられるようにと思う。
大学資金を貯めて、勉強をしてほしいと願うのは、勉強の面白さを味わってほしいから。

全部、わたしがしたいこと。
だから、感謝なんてしなくていい。してもらったらさみしいかもしれない。

わたしは、「親に会わせないなんてかわいそう」と言われた。
でも、彼らはわたしが会いたくなくなるようなことをした。
感謝しないといけないと思わされていた。
いうことを聞かされて、彼らが自慢できるような人間になって、自分の意思を踏みにじられ、身体的特徴を笑われ、そして「わたしたちはいい親だ」と言われてきた。
みじめな思い、つらい思い、裏切り、虐待、そういう目に遭って、彼らはそれを自覚してもおらず、なじっても決して反省せず、認めない、謝ることなんて遠い、そういう人たちに語る言葉はもうないのだ。

死にゆく人たちに関わるよりも、わたしは、自分が愛する存在、これから生きていく存在にエネルギーを向けたい。
親なんて早く死んでくれて結構だ。死んでくれ。もう悩まなくて済むから。

わたしは、父方の祖母にひどくなじられたので、二度と会わず、葬式にもいかなかった。
母方の祖母の葬式には呼ばれなかった。
親戚なんて、都合の良い時には労働力として頼ってくるが、こちらが困っても無視する。
あいつらは早く死んでほしい。
パートナーの親とだって、わたしは無関係だから付き合わない。彼の親であってわたしの親じゃない。知り合いでもない。

わたしが会いたい人、関わりたい人とだけ関わる。それでいい。


買ってはいけないと言われていた服を大人だから買った

ふわふわのシャギーのセーターと、やはりふわふわのワンピを買った。
実家では、自分の好きな服を買ってもけなされ、返して来いと言われていたので、おしゃれをするのが怖かった。
ふわふわのニットなんて、わたしには似合わないと思い込んでいた。

一緒に大学生活を送った友達は、ずっと渋谷で買い物をしよう、これも似合うよ、とかわいい服を勧めてくれたのに、わたしは「怖い」と言って断っていた。
それほど、わたしの心の中は母親に占められていた。

子供を産んで、わたしの親は、本当にひどいことをわたしにしていたのだとわかった。
柔らかくふわふわといい匂いのする赤ちゃんが、最近はよく笑う。
手をつないで、歌を歌うだけで喜んで遊んでくれる。散歩にも連れていく。きれいな服を着せる。
こんなに美しい生き物に、ひどいことをできたあの人たちはやはり異常者だった。それがよくわかった。
子供を産むと親の気持ちがわかるというが、わたしには余計わからなくなった。
産む前のほうが、「わたしにはわからない事情があったのだろう」と思えた。
実際に子育てをして、彼らの悪質さが、際立つ。どうしたって、この弱い生き物に、あれができることが理解できない。

ボロボロの服は、自尊心を削られた。
どう考えても、貧乏ではないのに、誰も着ていないような、時代遅れの服はつらかった。みじめだった。

ふわふわした服は、汚れる、誰が洗うんだ、似合わない、ファッションショーに行くわけでもあるまいし、色気づきやがって、など罵倒された。

わたしは、それが似合わないものだと思っていた。
時間は二度と戻らない。そのことを思うと、心がびゅっと穴が開いたような気がする。

それでも、わたしはこわごわと、ふわふわした服を買った。そんなに高価でもない。でも、わたしはとても幸せだ。

前述の友達はわたしに、「お母さんに子供を会わせないなんてかわいそう」と言った。
「かわいそうなのはわたしだ。会わせたいような親じゃないんだから、自業自得だ」と言い返せた。
でも、わたしは、やっぱりつらくなって、パニックになって、家で暴れた。

自分の人生を取り戻すことなんてできないかもしれない。
失った時間は絶対に帰ってこない。
今、あのとき着たかった服を着ても、気持ちは成仏しない。
あの時は着たかった事実は変わらない。その気持ちも消えない。

それでも、わたしは、服を買って、大事に着る。
わたしの傷は今も生々しい。わたしの青春も、一番柔らかな感受性を持っていたころ、みじめだった事実も、一番きれいだったころ、みっともない姿でいたことも、消えない。癒えない。

そんなわたしが、母に会うことはできない。
おしゃれは無価値なもの、おしゃれをするわたしをののしり、みっともない生き物だと思い込ませたあの人のそばにはいきたくない。

今でも悲しい。
ずっと悲しい。
悲しくて気が狂いそうな気持を、忘れようとしても、忘れることはできない。
波が押し寄せて、流されまいと、生活に縋り付いているだけ。錨のように、今持っている美しいものがわたしにはあるけれど、鏡に映るわたしは、中年で、フェイスラインも、体のラインも崩れている。
あの頃、わたしは美しくありたかった。きれいな、かわいい、気に入った服を着たかった。

わたしは、爪を塗る。朝起きたら、化粧をする。取り戻したいから。何をかわからない。
自己決定権のようなものかと思う。
でも、取り戻せない。むなしさに胸がかきむしられる。
それでも、続けるしかない。
わたしがわたしであるという戦いのために。

苦しく、悔しく、みじめな戦いだ。
絶対に取り戻せないものに抗って、頭の中の記憶はいつでも無差別に襲う。
そのたびに、わたしは狂う。


千田先生の「発達障害発言」関連についての考えたこと

ツイートを読んでからずっと苦しかった。
千田先生の言葉で、わたしは、また自分の頭がおかしいんじゃないかと思った。
わたしは、文化の外にいて、文化摩擦を起こす異物で、理解していないうちに、自覚していないうちに、人にモラハラをして傷つけているのかと思った。

でも、やっぱり、そうじゃないから、同じように苦しんでいる人、主に、自分のために書こうと思う。


研究者がこういう風に言うと、ただでさえ、話がうまく進まないとき「アスペ」とののしられる現状に、裏付けがされてしまう。
多数者、マジョリティに合わせろ、というのは、とても乱暴だ。
端的に言って差別だ。


わたしのパートナーは、前の結婚の時に、「アスペ野郎にカサンドラ症候群になるまで追い詰められた」とののしられていた。カサンドラ症候群とされている人たちのパートナーが、全員発達障害だとも思わない。
定型発達の人が、ただ単に、くずなモラハラ野郎なだけなのに、「発達障害」ということにされている例はあるはずだ。
多いんじゃないかとも思う。


こういうことをするのは、ASDの特徴ではない。
わたしも、パートナーも、自分の理論を押し付けたりはしない。どちらかというと、自分が間違っていると思って、混乱してしまう。
そして、壊れて病気になる。


ストーカー行為をするのも、モラハラをするのも、発達障害の男性がするとは限らないけれど、これを読むと、わたしには、ストーカー、モラハラは発達障害の特徴と結びついていると読めてしまった。
だから、とても苦しい。


この部分は、本当に読んでいてしんどかった。
これは、わたしの読解が間違っていなかったら、千田先生が話したがっていないのに、話そうとしている、「相手が話したがっていない時には対話が成り立たない」という暗黙の了解を理解できていない、ということらしいのだけど、わたしの解釈だと、「差別に対する抗議」に対して、それを援用してしまえば、抗議自体が成り立たないと思う。
そして、その抗議の仕方を「発達障害だから」不適切、だという風にしてしまえば、わたしたちは口をふさがれてしまう。

発達障害はこうだ、という偏見に抗議したいのに、発達障害だからコミュニケーションがおかしい、よって、この対話は無効だ、とされてしまうなら。

大多数に合わせるほうがお得なら、あらゆる差別はそうだろう。
千田先生は、「家庭内では、発達障害の夫のほうが力を持つから、一般社会でのマイノリティ性は関係がない」というけれど、それは必ずしもそうじゃない。
定型発達の人と、自閉症の人が密室にいたとき、自閉症を追い詰めるのはたやすい。
自己コントロールを失わせるだけで、一人の時間を奪うだけで、感覚過敏をないことにして扱うだけで、わたしたちは容易に狂う。


これも、発達障害は関係なく、ただ思いやりのないモラハラ野郎なんじゃないかと思う。
そのモラハラ野郎が、本当に発達障害なんだろうか?
発達障害で、なおかつ、心の優しい人はたくさんいる。例外がたくさんある以上、このような言い回しは避けてほしい。
なぜなら、差別を助長するから。

アスペルガーあるある、と書いてあるけれど、わたしは、アスペルガーにこういう特徴があると、寡聞にも知らない。
聞いたことがない。本当にこれはアスペルガー(ASD)の特徴なの?

これは、「優れているところがあるなら、生存を認めてやろう」ではないのかしら。
優れたところがなくても、生存は認められなくてはならない。

そして、たいていの発達障碍者は言語的弱者だと思う。
(わたしは言語的には強いけれど、支配されやすいので、家庭内では、言い負かされ、気持ちを踏みにじられる)
文化摩擦については、わたしも本当に疲れている。

今、現在、千田先生のツイッターというコミュニケーションによる、文化摩擦に消耗している。言語的強者である千田先生に、弱らされている。
じゃあ、これは攻撃なんだろうか……。揚げ足を取るつもりではなくて、これが、本心ならば、たいていの人は、千田先生よりも言葉がうまくないので、千田先生が、こうした偏見を助長する発言をすることは、マイノリティに対する攻撃になるわけです。


時と場合によるけれど、この場合、差別的な意図にとれる発言に、回答しないのはそっちのほうがおかしいと思う。
そして、それって変ですよ、と言語化することがそんなにもたいへんなら、わたしたちが定型に合わせることがどれだけ大変かわかってほしい。
裏を返せば、「それって変ですよ」と言語化する以上のことをわたしたちは常にしているので。


これは、いつも、自分の気持ちを踏みにじられ続けてきたから、相手を説得するために、使う場合も多い。
少なくともわたしの場合はそう。
「心がない」と言われて育ったから、「それはいやだ」で済む話を「それはいやだ」だけで伝わると思えないから、いろいろな権威を持ち出さざるを得ない。

ただでさえ、アスペと言われる。
そして、反論すると「アスペだから空気読まずに反論する」と言われる(丁寧に書かれていますが、そういう意味にとれました)。

定型に合わせたほうが得と言われても「それって変ですよ」と千田先生が言うことがたいへんなように、それ以上にそれが難しいから障害です。
そして、ずっと定型に合わせようとして、二次障害になった人、命を落とした人がたくさんいます。
わたしもその一人で、双極性障害をはじめとして、適応障害、パニック障害の治療を今も受けています。
だから、簡単に「合わせたら得」と言わないでほしい。
できるのなら、障害じゃないのだから。

それに、自分が「それって変ですよ」ということで、発達障碍者に合わせることがたいへんだとわかるのなら、逆のことも想像してほしいです。


これって、本当に残酷で、わたしは気分が悪くなった。
「お前は発達障害だからわからないかもしれないが、これが常識である」というメッセージは、わたしを打ちのめした。
そして、これが通れば、わたしが抗議したいことがあっても、「発達障害だからいろいろな意見が流せない」ということになってしまい、わたしの苦痛は無効化される。

このツイートが一番悪質だと思った。

批判されたら、スペクトラムだからと言うことも。気に入らない人にラベルを付けているだけに見える。

「暗黙の了解で、対話は、相手が話してもいいと思う時だけ成立する」のなら、抗議者が語れる機会は永久に来ない。
だったら、その「暗黙の了解」の正当性を疑うことが重要だと思う。
その「暗黙の了解」は、本当に、存在するものなのか、そして、その了解によって起きている不利益がないのかどうか、考える機会になるから。

わたしがほかの人と違うのはわかります。
でも、どう違うのか、わからない。必死で、疲れきるまで、「文化」のパターンを覚え、それにそうようにしていて、疲れ切って、わたしは双極性障害になりました。
覚えれば得、という言葉を言える立場との断絶がある。大多数に合わせられれば、得なんだろう、でもできないんだよ。

知らないからやらないのではなくて、知っていても、できないから、障害なのです。
子供のころから、「違う」といじめられてきて、「わたしはほかの人と違う」といえば「違わない」「自意識過剰」と言われて、出口がなかった。
どれだけ、「普通」になろうとしても、頑張れば頑張るほど「差異」が明らかになり、「自分勝手」「自分のことしか考えていない」と言われ続けてきた。

あっさり、ものすごく違えば、「そういう人」と認識されるけれど「ちょっと違う」と攻撃対象になる。
その絶望と一緒に、ときどき死にたいと願いながら、なんとか生きているときに「大多数の文化を知っていたほうが得」「文化の違い」と言われてしまうと、本当にしんどい。削れる。ただの文化の差で、わたしは死にたいほど追い詰められているのか。文化の差なら、定型の人はわたしたちを尊重してくれるのか。

そして、「発達障碍者」と言われている人は、定型の人にとって都合の悪い行動をとっている人を「この行動や性質は発達障害だろう」という風に箱にしまって、言っている気がする。
わたしは違うといっても「自覚していないだけ」「自覚していないのが証拠」と言われてしまう。
これは、言われたことがないとわからないかもしれないけれど、本当に残酷な言い方だ。
話しても話しても、伝わらなくて、水中の中で、空気がないのに、呼吸をしようとしてあえぐような、溺れて水の中に沈んで行ってしまうような気持に似ている。

わたしからすると、「定型発達だ」ということを自覚していないのは「定型発達のほう」です。
でも、違う、おかしい、というと「おかしいと思うのがおかしい証拠、普通ではない証拠、自覚がないのが病気の証拠」といわれてしまう。
わたしの価値観は、狂っているのかとずっと悩んできた。

これを書くのは、千田先生のツイートを読んで、自分の頭が狂っているのじゃないかと、苦しんでいる仲間のためです。


例外が多いのならば、発達障害の名前をラベルとして使わないでほしい。
医学的に定義がなく、スペクトラムだから、例外もあるのなら、発達障害を出すことで、差別が助長される危険のほうが大きい。

千田先生の一連のツイートを、たぶん全部読んだのだが、「発達障害者はしゃべるな」ということに集約される。
暗黙の了解が分からない、っていうのは、そういうことだと思う。
こんなことを言われたら、抗議できない。

千田先生の言う、アスペルガーや発達障害の特徴としてあげられるもののほとんどを、わたしは聞いたこともない。
知らない。
見たこともなければ、会ったこともないです。
わたしは、ASD診断を受け、それをオープンにしているい人と交流してきたけど、本当に見たことがない。
本当にそうなのか疑問です。
(あるあるというなら、発達障害をオープンにしている人にたくさん会わないといけない。もし、「この人はそうかも」と思ったとしても、診断はとても難しく多岐にわたっていて、何時間もかかるものだから、決めつけて言うしかないけれど、その決めつけ自体が差別であり偏見だから)

たぶん、千田先生が、嫌な人にあったときに「この人はきっと発達障害なんだろうな」という納得をしてきたのだろうと思います。(それ自体が差別ですが)

ということなので、リプライを送ることはしない。


人の性暴力被害を利用するな

菅野氏の裁判で、ゴヒエツコ氏側が出した声明がある。
わたしは、それにすごくむかついている。
菅野完氏から受けた性的被害に対して損害賠償を認めた東京地裁判決(8/8言渡) 及び同判決に関する被告側の態度についての声明

>>本件ブログには、事実でないことや被告の一方的な解釈によることがあたかも事実であるかのように多数記載されており、被告にとって都合の悪い事実には触れられておらず、非公開で行われている裁判所での和解協議の経緯が、不必要に詳細にしかも不正確に記述されている。

事実でないことが書いてあれば、具体的に書けばいい。
こっちの声明こそが、あいまいなことを書いている。
何がどう不正確か書けないのではないのか。

被告代理人が本件ブログをインターネット上に掲載したことで原告の個人情報や事実無根の情報がネット上で拡散される事態となり、原告は精神的苦痛を受け、再び体調を崩し、被害が拡大している。

個人情報や事実無根の情報というのは、具体的には、わたしのこのブログを指すのだと思うが、事実無根ではない。
ゴヒエツコ氏がした加害、つまりわたしの被害をなかったことにすることが、本当に許せない。
性暴力被害者というが、ゴヒエツコ氏が、わたしや、ほかの性暴力被害者にした行為は許されるものではない。
自分のしたわたしへの精神的暴力を棚に上げて、菅野氏は加害者だと言い募るのは、矛盾している態度だ。

くじけそうになったとき私に勇気をくれた詩織さんと同じように、この結果が、黙らされている誰かに勇気を与えられると信じたいです。

一番腹が立ったのは、この部分だ。
ゴヒエツコ氏は、どこも詩織さんと一緒じゃない。
自分で何もせず、わたしにブログ記事を書かせ、そして、わたしに加害したことを問いただせば、逃亡して、知らない顔をしたばかりか、この声明で、わたしをさらに踏みにじった。
詩織さんが、自分以外の性暴力被害者を利用したり、踏みにじったりしただろうか。
詩織さんの名前を出すことは、本質的には、わたしという性暴力被害者の経験から出た言葉を利用した行為と同じだ。
おぞましい。

原告は「言論制約のために裁判を起こして」などいない。

ゴヒエツコ氏本人は、わたしに「社会的制裁をしたい」「社会的に滅殺したい」と言ってきたけどね。

少しでも性暴力について声を上げられる社会になることを願います。

絶対におかしいだろう。
もし、そう思うのなら、わたしに菅野完氏を誹謗中傷した記事を書かせ、その責任を全部取らせて、わたしを言葉で傷つけて、対話をしなかった行為を反省しろ。わたしの口をふさいだのはゴヒエツコ、あなたじゃないか。

菅野完氏の講演会に、電話をして中止させる人たちも同様だ。
ゴヒエツコ氏の被害を利用しているんじゃないのか。
自分が遭ったわけじゃない被害を利用しているんじゃないか。
いいことをしているつもりかもしれないが、最低だ。

わたしは、性暴力に遭った。加害者のことは憎いが、だからといって、わたしが何をしても許されるとは思っていない。
まして、ゴヒエツコ氏は、わたしや、わたし以外の性暴力被害者を踏みにじって、自分だけが傷ついているような声明を出した。
こんなことは許されない。そして、彼女のために動いている人や、菅野氏の講演会を中止するために動いている人たちも同罪だ。

性暴力被害者を利用するな。


性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで

まず、言いたいことは、性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで、話したいと願ったときか、もしくは、治療上必要な時、安全な場面で、本人が納得したうえでということです。

もしも、性暴力被害者ではない人が、性暴力について語るならば、そのひどい実態はすでに語られたものを調べて知るべきで、被害者に語ってくれと呼びかけるべきじゃないです。それは、それ自体がすでに暴力です。
ほかにも、いろいろな側面で語ることができますから、性暴力被害を防ぐために、男性ができることを話し合うとか、もし、加害を見つけたらどういって阻止するか、男性同士の意識改革をどう進めるかとか、そういうトピックスを選んで話してほしいです。
そういう関わり方ができるはずです。模索してほしいです。

ツイッターの、狭い範囲のことですが、性被害について、カジュアルに語ろうという動きがあるようです。
それは、性暴力被害者、当事者からあったわけじゃなくて、ある男性が言い始めたようです。

わたしは、そのツイート群を見ているうちに、だんだん具合が悪くなってきました。
最初は気づかなかったのですけれど、夜にひどいフラッシュバックが起きました。

語り合おう、と言われると、自動的に、「ああいうこともあった」「こういうこともあった」「もし話すならば、こういうことを話すのだろうか」「ほかの人はこういことを経験したのか」そういうことを想起します。

自分で、よし、考えようと決意して考えるわけじゃなくて、自動的に頭の中を映像や音や生々しい感触とともに、どんどん思い出していきます。そうすると、いつの間にか、感情の渦が巻き込まれます。

この、フェミニズムの真ん中という言葉がとても大事なことです。
性暴力をなくそう、そのために男性に関心を持ってもらう……。
このことは全然間違いじゃないです。
だって、性暴力加害者の99.7%は男性だから、そもそも、男性の問題です。
わたしは、被害者ですが、お金を出して本を買って読んで言葉を得て、こういう風に時間や感情を使って、文章を書いて、人に伝えようとしています。
でも、加害者の性別の人たちは、別にお金を出して勉強もしないし、知ろうとしないし、無関心です。
そして、女の人が言っても「嘘」「おおげさ」「盛っている」と思っている男性が多いです。
だから、男性が声を出して「語ろう!」というと、やはり、厳しい批判を浴びることにはなります。だって、本来は男性が負担すべき事柄なのに、被害者が勉強して語ってきたことを、なかったことのように扱って、男性が言い始めて、ようやく「そんなひどいのか」ってわかってもらうなんて、わたしの気持ちとしては、不条理を感じます。

性暴力加害者の99.7%が男性なのに「男が性暴力を振るう」という表現を使うと「男という主語が大きい」「犯罪を犯さない男もいる」と言われて非難されてきました。
だから、いちいち「制度上の男」という言い方をして、但し書きをつけて、注意しながら書いてきました。
でも、同じことを男性がすると、ほめられ、多少の言い方は見過ごされ、そして、雑に性被害について語り、自分の被害でもないのに、他人の被害を集めて、男性同士で話し合うっていう状況です。

わたしが言いたいのは、被害者は、それに協力する必要がないということです。
わたしは、男性同士が話し合うことについて、邪魔しません。
でも、性被害について、新たに、被害者に語ろうと呼びかけることはやめてほしいと思います。
すでに、いろいろな人が、わたしを含めて、語ってきました。
ネット上でも、書籍でも、性暴力についてたくさんの人が語っています。

勇気があるとか尊敬するとか言われたくて書いているわけじゃなくて、身を切るように、自分がこういう目に遭ったということをなかったことにしたくない一心で、書いてきたわけです。
人に「語ろう」と労力を再び差し出させるようなことをするのは、非常に権力的な行為です。
自分が労力を割こうとするのではなくて、他人の労力を借りるということに、すでに暴力性が存在しています。
また、性被害を思い出させることについて、配慮が欠けています。
クローズな、安全な場所をつくることは、最低限必要です。

男性が、興味を持ったことをありがたいと思う人がいるのは、それはそれで当然だと思いますが、批判が生じるのが当たり前だということも、またわかってほしいと思います。
(わたしも電子書籍で書きました。下記リンクはアフィリエイトです)


訓練することで見えてくるもの

保育園に見学に行きました。
そこで、四歳くらいの子供の絵を見ました。
遠足に行った時のことを描いた絵だとわかりました。
「バス」「おべんとう」「人がいて」「楽しい」ということが表現されていました。
これは、物事を記憶して、抽象化して、時間ごとに起きたことを切り離せて、しかも、それを平面に表現して、並べることができ、思ったように線画できるという能力がある、と判断できる材料になります。

それで、わたしは「上手だねえ」「すごいねえ」といえます。
わたしがこのようなものの見方をするのは、普段、中高生に勉強を教えているからです。
彼らに、何ができて何ができないのか、あるできなさには、どういう困難があるのか、そういうことを考えながら見ます。
知識がないのか、知識を得る手段がないのか、発育がそれに伴っていないのか、知識を生かす前提がないのか、字を読むことに困難があるか、あるとしたら、目が見えにくいか、字を認識しにくいか、手がうまく動くか、動いたとして、たとえば筆算をそろえて書くことの意義を理解できているか、できていたうえでやれないのか、そういうことを細かく見ていきます。

わたしは基本的にケアレスミスというのは存在しないと思っています。だいたいは、本質的なミスです。
文末まで読む習慣がないとか、文末の意味を理解して、覚えておくことができないか、そういうことで間違えているだとか、そういうことを考えるために「ケアレスミス」という思い込みがあると、その子が何に困っているか、どういう対応をすればいいかが見えなくなるからです。
ケアレスミスは本人がぼーっとしているから起きるというニュアンスがあります。
ボーっとしているとしたら、注意できるようにするために、具体的にどんなことを手伝えばいいのか、そういうことを本来は考えないといけませんが、そこまで考える人はまれな気がします。
だいたいは「気を付けないとだめでしょ!」のようなことを言って終わります。

なんの解決にもならない。

勉強一つとっても、その子の困りごとを解決するために手伝う、そういう姿勢が必要です。
そういう姿勢でいると、見えてくることがあって、その子供の、人格的な側面や、情緒的な成長や、人柄が、非常に影響してくることや、一つの表れを、細かく分解しながら考えていき、どう手伝えばいいのか、考えていくことが大事だということが分かってきます。