全体分の部分

今日は学校をボイコットしている生徒さんに、溶液と溶質の割合について話した。
簡単に言えば、全体分の部分を出すだけの話だと話したら、一発で話が済んだ。

これで躓く生徒さんは多い。
でも、話は単純なのだ。

彼も、いろいろなことで悩んだり、困ったりしている。
でも、やはり、わたしと同じように「自由でいいね」と言われるそうだ。

自分で判断して、自分で行動していると、そういうことを言われる。
誰だってできるはずなのに「自分にはできない、うらやましい」と言ってくる雑音は入ってくる。
リスクを受け入れたら、誰にでもできるのに。
でも、リスクは受け入れたくないから、そういうことを言う。そして、人のことをうらやむ。

人をうらやむくらいなら、自分ですればいいのだ。

でも、人の標準世界から外れると不利益があると思い込んで、それは避けたいから、安全パイを取る人が、人のことをうらやましがる。
うらやましがるのは、簡単だ。
自分は悪くない、相手が悪い、うまくやっている人がうらやましいと思っていれば、自分を変える必要がないから。

そういうのはくだらない。

学校に行かなくても、勉強をしていれば、世界は広がる。

同世代の人とかかわるスキルや年上の人とかかわる場所がありさえすれば、学校は行かなくていい。
もちろん親御さんの経済力や余裕、家で子供がいることという大変さを受け入れる条件があるけれども。

自由でいいね、という言葉の裏側には、「私は不自由なことを我慢している」という一言が隠れている。
だから、自由でいいね、と言われてうれしくもなんともない。

自分で考えればいい。

自分で考えることには限りがあるから、本を読んで、見聞を広めて、自分の疑問を解消しながら、自分の生活や性格と折り合いをつけることがとても大事だ。

中学一年生にして、そのことができている生徒さんは安心だ。
だから、全力で知識を教えて、世界を広くする手伝いがしたい。


わたしのからだはわたしのもの

しんどいことがある。
妊娠初期の可能性があると話したら「セックスしているなんてきもちわる、と思った」と言われた。
本人は言わなきゃよかったと反省していたけど、言葉は消えない。
わたしは傷ついた。怒ってもいる。

マタハラだ。わたしを尊重していない。
ヘテロセクシャルでパートナーがいたら、セックスをするのは当たり前だ。
その当たり前を尊重されなかったら、わたしのほうでも、尊重できない。
尊重には尊重で返せるけれど、尊重されないなら、もう尊重できない。

わたしはレイプされたことがある。
友人にはいきなり、馬乗りになって、ハグをされた。
許可なくわたしの体に障られたので、わたしは茫然とした。
怖かったし、気持ち悪かった。わたしの体の領域を冒されたので。
馬乗りは、同性であっても、性被害だしレイプだ。
挿入がないだけで、体の領域を犯したことに変わりはない。

六帖さんも、その人も「茫然としているね」と言っていた。
わたしは、いろいろなことがフラッシュバックしてとても怖かった。

ハグは嫌いじゃないけれど、お互いの了承を得てするものだから、その前のアクションで予測できない行為をされたら、驚くし怖い。
それは、性別に関係がない。

妊娠初期の可能性があるのに、おめでとうじゃなくて、「気持ち悪い」と言われたのはやっぱり、許せない。その場では流したし、正直に言ってくれてありがとうと言ったけれど、やっぱり無理だ。

人とかかわるのは大変だとわかっていたけれど、礼節を守られない、ありがとうを言われない関係になってきたので、わたしの心は限界だ。
怒ってもいる。

その人が変わるかどうかは、わたしには関係がない。変わってくれたらまた仲良くできるけれど、しばらく距離を置くしかない。

大人になっている人だから、本当は何でも選べるし、幸せな状況を喜ぶこともできるのに、悲しいこと不幸なことつらいことを思い出して、それに耽溺して、わたしたちに、ちらちらと、様子をうかがっているように見える。

言語化されない感情の面倒までは見れない。
わたしは、熱もある、睡眠障害もある、二次障害で、気分がうまく操れないし、体調もいつも悪い。

何でもできるように人には思われているけれど、できることだけを必死でやってきただけだ。
それは、自分で考えて、生存戦略を立てて、自分でできることを、苦労しながら積み重ねてきたのだ。
その結果を、今すぐまねできると思われるのは心外だ。

積み重ねが大切なのに、それをすっとばして、結果だけ見て、わたしが幸せそうだと思われるのは、友達だったら、わたしの事情を分かってもらわないことには、どうしようもない。

時間をかけてもわかってもらえなかったら、それはやっぱり、友達ではいられないということだ。

わたしの体も、わたしの選択も、わたしのつらさに対する対処も、わたしが戦い抜いて、得たものだ。
簡単じゃない。

自分のほうがつらいとアピールされても、自分で何とかしてもらうしかない。

わたしだって、つらかったんだから。つらいけど、弱いながらも、強くあろうとしてきただけだ。
わたしは、最初から強かったわけじゃない。
強くなることを決めて、明るい面を見ることに決めて、できる範囲のことを模索しながら生き延びたのだ。
それがわたしだ。
わたしはわたしのものだ。その思いがあるから、生きてきた。
それをわかってもらえない人とは一緒にいられない。


自由でいいね、って言われること

わたしは自由でいいね、と言われるし、そういわれるようにふるまっている。
キャラを作って、モードを分けている。
人と接するときのわたしと、人と接しない時のわたしでは違う。
モードを張っているときは、疲れる。だから一人の時間がいる。

わたしの人生は過酷で、不倫で小学生の時に父親は出ていくし、そのことは人に秘密にしろと言われるし、中学生の時には子宮内膜症で、内臓が癒着していた。
だから、あまり学校になじめなかった。
そして、発達障害だということもわからなかったから、いじめも受けていた。
高校になったら、レイプされて半年脅された。
学校に行けなくなり、受験も失敗した。

希望の進路も、不倫相手のせいであきらめざるを得なかったし、体が弱くて、普通には働けなかった。

だから、自分にできることを探して、自分のいい面ばかり考えて過ごしている。

人にも自分の目ぐ荒れているところを話す。

そうするといわれるのだ「いいね。うらやましい、恵まれているね」と。

わたしが血を吐くような思いで、実践していることを簡単なように言われて、挙句の果てには「自分のほうがつらい」だの、「うらやましい」だの「わたしのきもちはわからないよね」だの言われる。

わたしの気持ちを誰かにわかってほしい時には文章に書いたり話したりする。
その努力もしないでわかってもらいたいという人は怠惰だ。

わたしは誰かを支える余裕なんてないし、病気も重い。
甘えられるのは、迷惑だ。自分で解決してほしい。
自分で解決できないことを、わたしを傷つけることで、解消するのはやめてほしい。

わたしは明るい面を見ることに決めた。それだけだ。つらいことがなかったわけじゃない。

でも、楽しそうにふるまっていると、そういうのがまとわりつく。

わたしは、最後まで笑っていたい。
そして、許さない。


子供を生きている人

子供時代を生産できていないと、いつまでも、心の中の子供が不安がって、今の人生に支障をきたす。

大人として反応すれば、どうということもないことでも、子供が前面に出ていると、とても傷ついてしまう。
子供が傷ついたままだから。

それは、周りがどうすることもできなくて、大人として、生きるという覚悟がないとできない。
本人次第、ということになる。

今が、大人だということ、環境は自分で変えることができるということ、そういうことを自分で言い聞かせて、子供に語り掛けないと、ずっと子供のままだ。

周りはもちろん、大人として、扱うから齟齬が起きる。

友人が子供に戻ってしまったのでいろいろ頑張ったけれど、やはり本人がそこを見つめないとどうにもできないと思った。

わたしは疲弊してしまった。精神的にも肉体的にも疲れ果てて、休養を取らないといけない。
相手にも悪い感情が起きて、ああいうことも言われたこういうことも言われた、と負の感情がたまってしまう。

わたしの子供時代もあまり恵まれたものではなかった。
だから、わたしはそれを必死でなんとかしようとしてきた。
整理しようとしてきた。

言語化して、自分の中の子供を納得させて安心させて成長できるようにしてきた。

人によって、つらさは感じるままだから比較はできないけれど、だれでも限界になりながら今を生きている。
だから、他人をどうこうする余力はない。

語ってくれるならば、話を聞くこともできるけれど、黙していて、子供に帰っているときには離れているのが良いのかなと思った。