過食と熱と躁状態

過食が続いています。

おなかいっぱいだ、という感覚があるので、いつもよりましかな。
それと、躁状態になっているので、お金もないのに、メルカリで買い物をしてしまいました。
パートナーに買い物をしそう、と言って、相談したんだけど、やっぱりしてしまったので、少々落ち込んでいます。
熱は一週間以上続いていてしんどいです。

昨日、おとといはよく眠れたので、これで落ち着いてくれたらいいなという感じです。

自傷行為の代替なのはわかっているので、より安全なほうを選んでいるんだと言い聞かせているのですが、つらい時期ですね。


過食をしてしまう

過食を三日くらい続けていて、ちょっと精神的にしんどいみたいです。

パートナーが倒れて、大けがをしてしまったので、それについてのストレスなんじゃないかなと思います。

何もできないのがつらいなあ、と思います。幸い、けがの治り方は良好なので、それはよかったです。

人と暮らすと、いろいろなアクシデントがあって、それに揺さぶられます。
一緒に暮らすことで、ストレスもやはりあります。

ほとんど、ストレスにはならないし、むしろ、助かっている部分もあるのですが、なかなかバランスがとりにくい。


本を読んでも東大には入れない

本をどれだけ読んでも東大には入れない。そこには関連性はない。

t.co

これは、誘導的な質問だ。

テレビを見ていても、東京大学に入れるし、テレビを見なくても、入れないときには入れない。
受験は、体力と学力の問題だから。

ご自由にと言われて、素直に本当に自由にできる子供がどれだけいるだろうか。

家庭が、どのようなものでも、子供の「テレビを見ること」について、とやかく言うことと、関係はない。
親がオタクであっても、子供は自分自身で自分の嗜好を探っていく必要がある。
そのための子供時代だ。

親が、オタクであるからと言って、理解があるとは限らないし、誘導的な質問をしていい理由にもならない。
誘導的な質問をされると、思考が制限される。命令には反発できるが、誘導的な質問に対しては「自分の意思で選んだこと」という外見を保つからだ。

生きることは無駄だ。
生まれないでいるのが一番合理的だ。でも、誰かの都合で生まれてしまっているから、生きている。生きているから、仕方がない。

娯楽は無駄だろうか?長い人生の二年くらいテレビを見続けている時期があってもいいのではないか。
小学生の子供にとって、友達と話題を合わせて、同じ体験を共有する体験は、勉強よりも得難いことだ。

考えさせるポーズをとると、親に反発しにくくなる。それは不健康だ。命令したほうがずっといい。

親が望む答えを言うのが子供だから。子供は親を愛しているので、親の願いを察知する。

東京大学にレゴ部があると信じているような幼い子供に、東大にいくことを目標づけたのは誰の欲望なのか。子供自身の欲望と、それは区別がしにくい。

何かが得意になることをやみくもに目指して、娯楽を減らすのは、非常によくないことだ。心身の健康を壊す。
わたしは主治医にテレビドラマを見ることを勧められた。人間関係や、流行りのもの、ほかの人の考えを吸収するのに役立つからだ。

小学生の勉強は、六年生の一年ですべて取り返しのつくものだ。六年かけるのは、発育を促すためだ。

本を読んでも賢くはならない。何かの技術を身に着けることにもならない。興味があることがあって、楽しみで自発的に読むのは素晴らしい孤独な体験になるが、東京大学に入るために、本を読んだほうが自分の利益になるから本を読む、というのは、発想が貧しい。

人生は無駄の連続だ。人生には無駄があると教えてくれるのが読書のいいところだ。読書をしている間は、自分の中に起こることだけに集中できる。外部的には、じっと止まっている。外界と離れて、内面世界を豊かに育てる効果はあるが、それは、外的な出世や、目立つことには役に立たない。

わたしは、テレビの時間を一日三十分と言われていた。それは、帰宅してから、お風呂に入って、食事をして、宿題をしてから、九時に寝るためには、そうしたほうが良かったからだ。わたしは不満いっぱいだったが、納得もしていた。子供は早く寝るものだと教えられていたから。

三十分テレビが見られるということは、みんなが見ている番組の一つは見られるわけなので、「昨日あれ見た?」という会話についていけなくはなかった。漫画や本は自由に読めたので、漫画の話もできた。小学生の間は、毎日一冊から二冊読んでいて、土日は、一日五冊くらい読んでいた。

中には、法律の本や、戯曲、シェイクスピア、心理学の本や、そのときどきで興味のあるアート系の本も読んだ。タイトルしか見ないで本を選んでいたので、作者が同じ人を表すラベルだと知ったのは、十歳くらいのことだった。それくらい、早く本を借りたかったし、たくさん読んだ。作者に興味を持つのが遅れたくらいに。明治、大正、昭和の主だった小説はこのころ読んだ。全集が学校の図書館にあったのは幸運だった。

それは、勉強のくだらなさを教えてくれたし、今、うまくいっていなくても、人生は長いということを教えてくれた。エリートになっても、苦悩はあるし、身を持ち崩す人もいる。病気になって、不遇をかこつ人も致し、戦争で死ぬ人もいた。運良く生きられる人もいて、何もかも運なのだと思った。

好きだったのは、リンドグレーン、ミヒャエルエンデ、G・マクドナルド、そういう児童文学も好きだった。エルマーと龍も懐かしい。親にどの本を読め、これは役に立つといわれたことはなかった。お年玉で、SFを買いあさった。

本を読んでいるばかりなので、親は心配して、運動させたり、自然と接するように、いろいろなイベントを企画して、連れて行ってくれた。幼稚園児のころには、糸鋸を使って工作をした。裁縫も習った。編み物もできる。農業もした。泥遊びも随分した。走ることは苦手だったけれど、木登りは得意だった。DIYは今でも楽しい。花の名前や美しさ、はかなさ、自然の厳しさ、五感を使う経験があったから、本を読んだ経験が、実際のものとして感じられた。

木の上で、桑の実を食べながら、夕焼けを見たこと。風に吹かれて眠ったこと。

影法師を眺めて、影送りをしたこと。
友達同士集まって、漫画を読みふけった午後。
夏休みに見た、怖い話の特集。朝寝坊。
沢蟹をとってきて、廊下で競争させたこと。
松脂で爆弾を作ったこと。神社でかくれんぼをしていたら、見つけてもらえなくなったこと。けんか、いざこざ。
帰り道の、夕日に照らされた線路のラインと警報機のカンカンという音。

暗くなる前に帰らなきゃという、縛りの中で遊んだこと。いつまでも眠ってぼんやりしていたこと。蝉の声を聞きながら、暑さにうだって、ブナの木を眺めていたこと。
それらは、無駄な時間だろうか。無駄って何だろうか。楽しい経験があれば、つらい出来事に直面しても、生きていける。

無駄って何だろうか。本を読んでも、役に立つ、お金に直結するスキルは身につかない。
テレビを見ると、自分の家庭のおかしいところに気づく契機になる。それは、無駄なことではない。相対化するためには、メディアと接することが必要だ。多感な時期に、面白い番組を見ること、音楽を聴くこと、PVを見て、映像の撮り方には個性があって、音とハーモニーを重ねて、たった五分で一つの世界を表現できるのだと知ること。それらはすべて無駄であり、無駄じゃない。

何を無駄かということを、誰が軸に置くのだろうか。誘導的な質問を重ねても、その答えは出てこない。
自分自身の中で、腑に落ちるためには、少しずつ、様々な経験を積んでいくことが必要だ。

何も考えない時間は、何もしない時間は、無駄だろうか。生きるためには必要なことだ。生きることは必要なことだろうか。わたしは生きることは無駄だと何度でも言いたい。

子供は先のことが分からない。分からないうちは、誘導的な質問をするべきではない。そもそも、東京大学に入るのは、有益なことだろうか。無駄なことだろうか。それも、わたしにはわからない。

勉強は、大人になってからでもできる。そもそも、読書は無益なことだ。何も得意にはならない。
世界を広げること。それだって無駄なことだ。
決められたことを効率よくして暮らすのが、無駄のない生き方だ。誰にでもうらやましいといわれるような大学に入って、うらやましいといわれるような職業についたら、安心かもしれない。
でも、安心のその先には何があるのだろう。疑問に思わない生き方もそれもいいのかもしれない。生産性が高いのだから。
誰にとって、生産性が高いのか、ということまで考えることが大切だ。

自分のしたいことを、自分のやりたいようにするのが、わたしにとっての幸せなのだけれど、幸せと、「生産性」という言葉は結び付きにくい。

その先を考えるために、世界を広げることが大事なのだ。それは無駄だ。無駄は、脆弱性を防ぐ。できることや、得意になることが増えなくても大丈夫だ。


操作性の強い人

「この人といると、気持ちの上下が激しい」「取り乱したのに、受け止めてくれた」という体験があったとしたら、考え直さなくてはなりません。

それは、情熱的なのではなくて、相手が、「取り乱すこと」を誘発しているのかもしれません。

取り乱したところをケアしてもらえれば、相手に、恩を感じます。

操作性の強い人はそれを熟知しているので、相手が取り乱すようにこっそり仕向けます。そして、取り乱したところを、ケアします。マッチポンプです。

無視をすることも操作の一つです。操作性の強い人は、相手の価値観を壊して、自分の価値観が強いと植えつけます。操作される側は、その人に対して恩を感じているので、その人のことを周りに対しても、自分に対しても、正当化します。

支配から離れようとする人に対して、弱音を吐いたり、弱いところを見せたり、不安定になったりするのも操作性の強い人の特徴です。そうすると、操作されている人は、操作する人のケアをします。自分のしたいことを後回しにします。それは、危険な兆候です。

本当に、愛があれば、相手のしたいことを邪魔することはないからです。

そういうことを繰り返しているうちに、依存関係に入ります。
しかし、その依存関係は、相手が作り出したものです。ケアし、ケアされることが、濃い関係であって、愛情のあかしだと勘違いしてしまうのですが、それは、偽物の感情です。

愛というものは、お互いを慈しむものです。相手を非難したり、困らせたりすることは愛ではありません。

お互い自立していたら、甘えることが怖くなくなるでしょう。
自分の境界線がはっきりしている人は、自分なりの線引きがあるので、そちらのほうで甘えすぎをきっちり拒絶してくれます。
だから、怖くないのです。できないことをできる、というのは、境界線を崩されて、操作されている証です。

大人同士の関係で、お互い尊重しあっていたら、取り乱すことはありません。つらい経験も、今は起こらないと受け止めてくれるのが優しさです。何度もつらい思い出を思い出さそうとしたり、無理を「無理じゃないでしょう」と言って、強いてくる人は操作性の強い人です。

操作性の強い人は、自分の支配力を楽しみます。
彼らは空虚な人なので、満たされて満足することがありません。


女の子問題

大学生の時に、一番興味があったのは、女の子の問題についてだった。
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女性の問題は、言語化されていない部分がある。それを発見して、ここにこんな苦しみがある、問題があると発見することが、わたしの役割なんだと思う。

このエントリを読むと、「女の子は、期待に応えようとする。だから、子供のころは勉強する。中高生になると、頭からっぽでかわいいことが素晴らしいという価値観によって、馬鹿な女の子という期待に応えてしまう。
そのため、勉強をすることに力を向けづらくなる。ピンクカラー(女性がやることが多い仕事で、賃金の安い仕事)を選んでいくうちに、一人で経済的自立をすることが難しくなって、より生きにくくなり、たとえば、理系は女の子の勉強することじゃないという社会規範によって、どちらかというと高収入の理系の仕事につきにくい、という問題や、社会側も、女性が理系の仕事を探そうとしても、「女の子にはその仕事は無理だからさせないし、就職させない」という現実もある。

わたしが考えるに、自己肯定感を育てるためには、お金と、自分自身で努力した結果、勉強ができるようになって、世界の仕組みがわかるようになって、自活することが夢ではなくなる状態を作ることは、エンパワメントになる。

お金がすべてではないが、お金は人生のスタートに必要なことだ。そして、女の子はそれを奪われているので、生きるために、結婚をしたり、依存を前提にして生きることが往々にしてある。
依存を前提にすると、自分らしく生きることや、自分が幸せになってもいい存在だという感覚を失ってしまう。

女の子のする望ましい仕事は、接客や、バックオフィスなど、単価が低い仕事だ。
単価が低い仕事を選ぶように、仕向けられている部分があるので、わたしは塾の仕事では、それを避けられるように、言い方は悪いけれど、誘導している。

今の女性の学生の取り巻く環境は厳しい。その厳しさの中で、「女の子だから社会に追い詰められている部分」というものは、社会を変えられないにしても、サバイバルしないといけない。
サバイバルするためには、力がいる。

無償労働をしていたら、素晴らしい人なのかもしれないけれど、そこで失われる「自分の人生を自分で生きる感覚」というのは、失われやすい。
今かかわっている子供たちには、自分らしく生きてもらいたい。
だから、女の子問題についても、わたしは語っていこうと思う。そうして、自分人生の方向性を、違う視点で考えるチャンスを与えられたらというのが、最近の目標だ。

働くうえで、苦しみを感じるのは、男性も女性も変わらない。
女性がより働くようになって、男性側も扶養しなくてはならないというプレッシャーから解放されたら、どちらも生きやすいのではないかと思う。

生きているうちに得た、傷にひかれあうことは仕方がない。仕方がないけれど、そこに飛び込んで、傷を理解しようとするよりは、世界の美しさやバイタリティのある人とかかわって、相対的に傷を小さく感じて、傷を持ちながら、新しい回路を作ることは可能だと思う。
女の子の生きにくさを言語化して、発見するのが、わたしの役割だ。
女性の生きにくさ問題
www.vesii.jp

男性の生きにくさ問題
www.vesii.jp
心の傷は、心の傷を持つ人と引き合うけれど、そうではなくて、傷を持ちながら、外に気持ちが向かっている人とかかわることで、傷が相対化されて、結果的に生きやすくなることは往々にしてある。


世界との約束が奪われたとき

暴力を受けると、世界との信頼関係が失われます。

どこを、何をよりどころにしていいのか、見失って、呆然としているうちに、世界との紐帯が切れて、地面との接点がなくなってしまいます。
何が正しいのかわからなくなって、一から構築し始めます。

美しいこと、いとおしいこと、優しいことが大事ではないと思うようになって、暴力やみじめさの中にこそ、真理があるように感じられてしまいます。
なぜ、暴力を振るわれたのか、振るう人がいるのか、理解したくなって、考え始めます。その分、世界の美しさや暖かさについて、感じる時間が少なくなります。本当は、考えなくても良いことなのに。あらゆることを考えます。自衛が足りなかったのか、自分が間違っていたのか、相手の暴力は、本当は自分のために振るわれたものじゃないのかと。

暴力をふるう相手を愛するようになります。そして、慣れ親しんだ環境として、暴力を選ぶようになります。そして自分の創造力を失うのです。

一から考え始めると、それまで自明のことして、「喜び」「楽しさ」「幸せさ」を選ぶように指向していたのに、それをしなくなります。暴力に触れることで、ほかの世界を知ってしまうのです。ほかの世界といっても、そこには広がりがありません。

選択することが恐ろしくなって、選択しないことで、悪い力に引きずられるようになります。選択しないという不自由さに気づきにくくなるのです。それは動きを遅くします。

植物が、日光を求めるように、わたしたちは、幸せや自分らしさを指向していくのが本当だと思います。それには理由がなくてよいはずです。
しかし、暴力は、そのことに理由を求めます。「どうして幸せになりたいんだ?」と。
その問いは、「どうして生きているの?」「死んだほうがいいんじゃないの?」に続いていきます。

生きるから生きるだったはずなのに、暴力はさまざまな問いを発生させます。暴力がなければ、違う真理や不思議を追及していけたはずの時間を奪っていきます。

暴力は世界との信頼に傷をつけて、切り裂きます。そうして、より良く生きることを妨げていきます。つらいことを選ばせるように、暴力はささやいてきます。そうすると、生きることが不自由になります。自分のしたいことや、楽しいことがわからなくなるように、暴力は仕向けてきます。

暴力は、人の動きを止めて、思考を奪います。暴力を受けると、世界の輪郭が歪んで、わからなくなるような感覚を得ます。今まで、当たり前だと思っていた風景が違って見えます。何もかもが自分の敵だったのだと真っ暗な気持ちで思い知らされます。いつでも、臨戦態勢になって、人と信頼関係を結ぶことが難しくなります。信じたら、裏切られるのが当たり前なのだから、誰も信じないと思えば、日常生活の些末なことも難しくなります。人と接することが怖くなります。

暴力は強い力です。安心できるものがないと、強い力に惹かれてしまいます。暴力は、安心を奪うので、暴力を振るわれた人は、強い力である暴力に懐きます。次第に暴力に親しんでいきます。そこから抜け出すことは大変です。

わたしたちは、暴力に対して、自衛することができません。暴力を管理し、罰することができたら、どんなにかいいかもしれませんが、今の社会では難しいようです。ただ、暴力から、距離をできるだけ置くように心がけることはできるのかもしれません。

世界との約束が奪われたとき、わたしは、選択をできなくなりました。
選択した結果、どうなるのかが全く予想できなくなるからです。
一から世界との信頼関係を構築するところから始めることになりました。何かを選ぶことが恐ろしかったのです。失敗したらどうしようと思いました。本当は失敗しても、どうってことはないのですが、世界との信頼が途切れているとき、失敗は、死よりも恐ろしい何かのように思われました。

美しいもの、優しいもの、いとおしいものに触れていくうちに、少しずつ回復して、長い時間をかけて、ようやく昼間の世界が、どれだけ美しいのか、暖かくて力を持っているのか、感じられるようになりました。


加害者は被害者の顔をしている

加害者はいつでも「不幸だ」という顔をしています。
人生において、常に被害者だったと主張します。

でも、だからといって、加害してはいけなかったのです。
加害しないように自制していなくてはなりません。

加害をしても、自分の被害は取り戻せません。

加害されたことで、奪われたことは、悲しいことに、自分自身で対処したり、セラピーを受けたり、長い時間をかけて、治癒していけなくてはなりません。
加害者は、被害者に何もしてくれません。愛する人や、愛してくれる人も、何もできません。
加害を受けたら、自分一人で、変化していかなくてはなりません。

それは、孤独です。
つまらない、マイナスをゼロに戻す戦いです。わたしは何度か加害を受けました。そのたびに、加害者を呪いました。
呪うことは必要でした。でも、わたしはたぶん、誰かを加害せずに踏みとどまれたと思います。
いや、しかし、わたしは気づかないうちに加害をしたのではないかと怖くもあります。

害を加える人は、自分の力に恐怖を覚えないようです。
いつも、「自分は弱い」と言っているように見えます。世の中に裏切られたとか、生きにくいだとか、言っています。被害者に対して、自分を癒せとさえ言ってきます。被害者は暴力を受けたショックで、その要請に従ってしまうことさえあります。

暴力は判断力を奪います。被害者は加害者を理解しようとします。その過程で愛そうとすらします。なぜならば、自分の受けたことが、無意味なことだとは思いたくないから。相手から学びたいと思うから。二度と加害を受けたくないと思うためには、相手のことを研究しないといけないと思うから。

でも、実際には、被害者は加害者を癒せません。彼らは乾いた魂で、いつも、飢えて、愛の泉を探しています。だからといって、被害者が、愛の泉の水を飲ませようとしなくてよいのです。加害者を許さなくても良い、いつまでも、憎んでいても良い。

加害者は、ときとして、魅力的です。その魅力をえさにして、人を惹きつけるのです。
彼らはそのことに特化しています。それが、彼らの生きるすべだからです。

だから、被害を受けた人は、魅力を感じた人が、自分自身にひどいことをしたという事実がなかなか納得できません。

周りの人は、悪い人についていったことを、責めるでしょう。彼らの魅力を理解しないでしょう。

魅力ある人が、ときとしてひどいことをする、という前提に立たなくてはなりません。そこからしか、治癒は生まれません。

ひどいことをする人に、魅力を感じた自分を責めずにいてほしい。責めるということが妥当でないとしたら、魅力を感じた自分を否定しなくても、肯定しても、ただ、そこに被害があった、そして、被害を受けたことに気づいたら、ただ、速やかに立ち去って、近づかず、遠いところから、考えることが望ましいと思います。

加害者を理解しようとして、近づけば、いつまでたっても、加害されます。そこには、どぶがあって、どぶを理解しようとしても、やっぱりどぶくさくなることはさけられません。

加害者の中には、泉ではなく、どぶがあります。誰の中にもある、どぶを彼らは刺激してきます。自分の中のどぶについて、内省しようとする人は、そのことを付け込まれます。

どんなに引っ張られないようにしても、引っ張ることを決めている人の力には抗えないものだと思います。

だから、逃げること、逃げた先で、自分を癒すことが大事なのだと思います。悪は、いつでもあって、消すことができないのです。

加害を受けるとびっくりします。びっくりして、動けなくなります。そこを付け込まれます。
いろいろなことを加害者は言います。自分を理解してといいます。
被害者はびっくりしたことを解消するために、自分の被害を無意味にしたくないために、加害者の言うことを聞きます。

加害者は、飢えた、乾いた魂を持っているだけなので、何も理解はできないです。