今の職場でのこと

新しい職場の上司は、長年、障害者採用をしてきた人だ。
だからなのか、障害者について、今まで見たことがないような考え方をする。

今日「精神障害者の人たちの中で、職場の人に配慮を求めるのは難しいという話が出るんですよ。やっぱり、ほかの人も、いわゆる普通の人も、たいへんなわけだから、余裕がないだろうし」
ということを言ったら、すごくきょとんとしていた。
「だって、知っていたら、相手のできることをしてもらうようにするでしょ?
前も、アスペルガーの人を雇ったとき、仕事が人の五倍かかる人がいて、自分なりの納得がいかないと仕事に取り掛からなかったけど、五倍かかるなりに頼んだり、納得いくように話したり、そのうえでしてもらうようにしてたよ」とのことだった。

この上司は、前の上司と違って「何をしてほしいですか?」と聞かない。
でも、わたしが仕事に慣れるまでは、出勤前に、仕事を忘れていないか、時間を間違えていないか、電話をくれたり、ほかの障害者を雇おうとするときにも、こういうサポートをする、ということを事前に説明していたりする。例えば、急な欠勤の時にも、対応するから、心配しなくていいよ、とか。

うーむ。

「いつだれが障害を持つかわからない。そういう時代でもないし」というようなことを言っていた。
障害がどう、というよりも、困っている人を見ると、どうしたらそれをクリアできるのか、考えているみたいだった。
人に対して、粘り強いというか、根気があるなあと思う。
生徒に対しても、粘り強い。

わたしも、そういう風になれるかなあ。


人のことを馬鹿だなって思ってしまう時

働くLGBTのホンネに行ってきた後から、わたしが、人のことを馬鹿だな、と思う時について考えていた。

「話が通じなくて」「いやなことをたくさん言われて」「もう話すのをやめたいとき」に相手を馬鹿だなと思うことが多いみたいだった。
自分から切り離すためにしている。自分の中に嫌な言葉を入れないようにしたいときに、この人はバカだからしょうがないとあきらめたいときに。

でも、それなら、相手を価値判断しないで、ただ「もう、話したくない相手だから、終わり」という風にするだけでいいんじゃないかな。
相手の考えが今、そうであっても、ずっとそうだとは限らないのだから、今のタイミングでは、合わなかった。
かといって、これからも、話し合ったり、相手を変えようとしたり、しなくていいんだから。

わたしにも「バカの壁」というようなものはあって、「これは理解できないし、そもそもしたくない」という「受け入れがたいもの」というのはある。
それは、自分の心を守るためであることが多い。

わたしも、マジョリティの立場の場合があるから、知らないうちに、差別的な行動をとっているときがあるだろう。
そうしたら、もしも、相手が怒って、わたしにとって、嫌な言葉をぶつけてくるときもあるだろう。
そういうとき、わたしは、どんなふうになるかな。

前、セックスワーカーについて知りたかったとき、いろいろ間違えながら、考えさせてもらった。
自分はセックスワークをしたことがない、そして、セックスワークをしたいと思わない、また、しなくてもいい立場であるから、人に嫌な思いをさせたり、差別的なふるまいをしたこともあっただろうと思う。

そういうとき、教えてもらったことはありがたかった。
教えてくれる人の負担のことも思った。

何かを知りたいとき、間違えながら、道を作るしかない時があって、最初から「正解」を分かればいいんだけど、「そもそも正解なんてない」「当事者だって全部知らない」ような時、やっぱり、わたしは「加害者」で、でも、相手のやさしさに甘えながら、考えさせてもらった。

このことに限らず、例えば、知りたいと思う前は、多分、存在に気づかないでいたこともあるだろうし、今だって、見えない存在にしている人たちがいるんだと思う。
見えなくてもいるのに。

全部知ることはできなかったり、そうしようとしたら、心が壊れてしまいそうになったりするだろうから、なるべく、気を付けながら生きるしかないんだろうな、と思う。

わたしは、攻撃的な場合がある。それを恥じたり、反省したりしない。
わたしが攻撃的になるのは、自分が危険にさらされていると思ったときや、戦いたいと思った時だから、それはいいことだと思っている。

それとは別に、自分の優位性を保ちたいからといって、人の話を聞くときに、相手を打ち負かそうとしながら聞いたり、人の話を聞きたいといいながら、揚げ足取りを取ろうとする人もいる。わたしは、そういう風になりたくない。

自分の心の動きをちゃんとみて、雑じゃないように、自分を短い言葉でごまかさないようにしたい。


病気の受容のプロセスを尊重しながら関わること

批判は、その人に対しての否定じゃないんだけど、混同する人もいるんですね。

それはそうと、生徒さんを教えていると、これはちょっと「困難を抱えているかもしれないな」と思うことがあります。
でも、自分から、そうなの?とか、病気なんじゃないの?とは聞きません。
(場合によっては困っていることある?ということは聞けるときがあるかもしれません。まれにです)

もちろん、親御さんのほうから伝えてくださることもあります。
また、情報共有のために「あの生徒さんはこういう困難を抱えているようだから、こういう対応をしよう」と相談し合うこともあります。

何度も言うようですが、精神疾患、二次障害が致死的という意見について、反対なのは、いくつか理由があります。
精神疾患に関する誤解を解くために、医療関係者や当事者がずっと働きかけてきました。

二次障害で主だったものを、私が知っている限り、羅列すると、うつ病、双極性障害、統合失調症、パニック障害、不安障害、適応障害などがあると思います。(統合失調症以外、全部診断されたことがあります。うつ病は誤診だったようです)
でも、それは必ずしも死ぬ病気ではありません。
放置していたら、確かに、死の危険が高い病です。
でも、たとえば、二次障害については、二次障害、というのだから、医者にすでに掛かっている場合が多いのでしょう。
二次障害が致死的だ、と言っているのは、医者じゃない人だったので、それを鵜呑みにしたくはありません。
医者にも、あなたの障害や病気は致死的だといわれたこともないし、医学書でも、読んだことがありません。
(だからといって、読んでない本に記述がないとまでは言いません。ただ、わたしは知らない)

二次障害になったら終わりだ、と人に思わせることはあまり良いとは思えません。
二次障害をスティグマ化したり、人を必要以上に恐怖に陥れると思うからです。

また、二次障害は避けられる、という誤解も生むと思います。
避けやすい環境を作ることは可能だと思います。避けるように心がけることも。

でも、精神疾患になった人のほとんどが、なりたくてなったわけではないでしょう。
だから、このことに関しては、慎重にならなくてはいけません。
避けられる、という話が広がると、避けずに精神疾患になった人は「心がけが悪い」「自己責任」ということになると思います。
それは、歴史がすでに証明しています。

二次障害を避けられるのならば、もちろん、避けたい。避けるべきというのはもっともです。
でも、知識があっても、なるときにはなります。
精神科の医療従事者だって、精神疾患を患うことはありますものね。

精神科の医療従事者が精神疾患になりにくいという話もきいたことがありません。知識があっても、避けられない、ということだと思います。

話を戻しますが、例えば、わたしが、親御さんに、あなたの子供は精神疾患になりかかっていますよ、ということが、是かというと、否です。

それは、わたしのような素人がしてはいけない範疇のことです。
診断と、その通知は、本人や、それを支えることになる家族にとって、受容しやすい形でなくてはなりません。
医者によっては、診断名を言わない場合もあるでしょう。

それを他人が邪魔をしてはいけないと思います。
他人が、何の資格もなく、「あなたは○○の病気だ」といったとき、それは、差別になる場合や、レッテル張りになる場合があります。
医者に言われても受け入れることが難しい人に、事前に他人から、何か言われていたら、ただでさえ難しい受容は、より、難しくなるでしょう。
それは、結果的に、子供のためにならないと思っています。

何度も書きますが、生徒さんが、なにかの病気っぽいと思うことはあります。でも、それを伝えないのは、親御さんも本人も、なんとなくおかしいと思っているが、それをまだ認められないでいるか、すでに知っているが、人に知られたくないために、隠している場合がほとんどだからです。
その気持ちは尊重しなくてはならないからです。

契約において、わたしができること、時間、場所は、はっきりしています。そのうえで信頼関係を築きます。
だから、親御さんは、わたしに、大切な子供を預けてくださるわけです。
何か問題が生じたら、契約を破棄したら、わたしとのつきあいは終わりになります。
それが、担保になるため、わたしはがんばることができるし、生徒さんも、わたしに安心して、頼ることができます。
歯止めが利かないと、とても、たいへんなことになります。

子供が、病気になった場合、支えていくのは家族です。
その家族が、最初に受け入れることができるか否かは、最初に伝える人の技量が大きくかかわります。
そこを、例えばわたしのような人間が侵してはならないのです。
また、病気だと診断された後、その子供が、どのように過ごすのか、また、学校に行くのか行かないかを相談するのは、本人、家族、医者、学校関係者などがコアメンバーとなり、決めることです。わたしの考えですが、外野は口出しをすることは、求められた場合を除いてはしないほうがいいでしょう。

子供と密に接していると、子供が依存して来ようとする一瞬があります。
そうしたとき、わたしは非常に緊張します。
対応を誤ると、その後の関わりや、子供の安定に影響するからです。
もしも、共依存になってしまったら?自己を投影してしまうようになれば?
相手の人生を乗っ取ることにもなりかねません。
子供とかかわるというのは、ある意味危険なことです。
子供は、自分の領域があいまいだからです。
だから、大人が、距離をコントロールしなくてはいけません。

突然無距離になったり、距離を離したり、ということをすると、子供は混乱します。
だから、自分が維持できる距離を模索しながら、慎重に付き合わなくてはなりません。
依存させてしまったら、信頼関係は風前の灯火です。
信頼関係を維持するためには、距離を保つことが必須です。

それも、親御さんとの信頼関係があることが前提です。
都度、相談、連絡、報告をします。
こちらも、時間と場を区切って、決められた範囲でかかわること、プライベートを第一にすることを怠ると、一瞬で崩壊します。
ルール作りは大切です。

以前、生徒が、「半年間、学校に行かない」と言ってきたことがありました。学校の先生も了承し、配慮してくれたそうでした。
その半年間、週に三回から四回、一日四時間から六時間、つきっきりで勉強を教えました。
半年したら、宣言通り、学校に戻りました。
学校に戻ったら、連絡も減りました。
その間、わたしも、生徒も、親御さんも、それぞれ負担はかなり大きかったです。

わたしの場合、まず、契約があって、お金も払われたから、やり遂げることができた、相手も安心して頼れた、という側面があります。
契約が歯止めになったのです。
でも、契約を介していない場合、同じことをするのは、とても危険です。

診断と受容のプロセスは、尊重されるべきことです。


不登校について、見てきたこと

最初に断っておくけれど、わたしが知っている不登校の生徒は、少なくとも、親御さんがお金を出すことができる家庭に限られる。教育に理解があり、ある程度裕福な家庭だ。
だから、わたしがこれから書くことは、一地域の、限られた属性の人たちのことだ。
でも、大人になった人たちが、自分の子供のころを思い出して、自分の経験だけをもとに、子供に対して話すと、必ずしも適切とは言えないアドバイスになると思うので、これからプライバシーを守れる範囲で書きたい。

わたしが持つ生徒のうち、年に少なくとも二人以上の生徒は不登校だ。
最初、普通に通っている子供が、途中から「学校に行かない」と言って、実際に行かなくなることもある。
そうしたときには、わたしは「そうか、わかったー」という。
止めることもない。そのまま、受け止める。

十年ひと昔というが、今、不登校の子供はとても多い。そして、長期にまたがる不登校になる生徒は、少ない。
だいたい、半年、長くても一年で復帰する。一日中学級で授業を受けられなくても、保健室登校を始める。
案外、けろっとして登校し始めることもよくある。親御さんも昔と違って、無理やり行かせる、というおうちはかなり少ない。

生徒たちは、半年くらい休息した後、新学期や、新年度を機に、学校に戻っていく。そういうケースがほとんどだ。
この場合、勉強に関して、困ることはほとんどない。
中学生の場合、カリキュラムはゆっくりなので、半年程度の遅れなら、すぐに取り戻せる。

だから、わたしは、ことさらに「不登校にはデメリットがある」という話をしない。

ただ、不登校になると、たとえば、自営業のおうちで、一日親御さんと一緒に過ごせている環境だったり、シフト制で家にいる時間がとれるご家庭でも、生徒さんの生活リズムは、ずれていく。
生活リズムが崩れて、夜型になることが、一概に悪いとは言えないけれど。

不登校になる生徒さんは、様々な理由で学校を休む。精神的につらい、肉体的につらい、疲れた、休みたい、もしくは何となく行きたくない、学校の方針になじめない、理由はない、いろいろだ。
友達がたくさんいて、人気者であっても、行かなくなる時は行かなくなる。
勉強ができても、できなくても、どんなタイプの子供でも、行かない時には行かない。

いじめというのも、だいぶ様変わりして、表立ったいじめはほとんど聞いたことがない。押された、とか、こづかれた、とか、そっけない態度を取られた、とか、一番ひどい例でそんな感じ。
たいていのいざこざは、ラインやネット上で行われるから、高校生などは、スマホのない時代に生まれたかった、という。

子供と普段接していないと、中学生を大人だと思いたかったり、大人扱いすることがいいと思っている人がいるようだ。
でも、子ども扱いしつつ、意思を尊重することが大事だ。
なぜなら、子供には判断力がないから。
だから、大人は子供を保護する必要がある。

子供に、独学を期待するのは、難しい。
中学生に限っても、きっと、平方根の概念で躓くだろうな、二次方程式や因数分解が分からないだろうな、二次関数になるとお手上げだろうな、英語の単語を覚えることや、英文を覚えること、英訳が正しいかどうか確かめること、漢字練習をすることが難しいだろうなと思う。
理科は暗記科目だと思われているけど、今のカリキュラムだと、考えさせる問題がほとんどだから、たとえば実験を経験していないと、何を目的とした操作で、何を確かめるのか理解しないままだと、学習も、テストもわからなくなる。
漢字の書き取りを自発的にする生徒も見たことがない。
社会も、今や暗記科目ではない。意味もなく覚えることは苦痛だから、ほとんどの生徒は、意味が分からないままだと、社会を勉強できない。

高校生になっても、教科書の大事な部分を読まないとか、参考書を読んでも、大事なところを大事だと気付かないだとか、難しい問題に取り組んで、何時間もぼんやりした挙句、教科ごと嫌いになるとか、そういう不合理なことをよくする。

わたしの知っている中学生は、勉強がどんなにできても、独学をすることができない。
偏差値がほとんどの科目で70前後の生徒を教えたこともあるけれど、その子だって宿題以外はしなかった。

勉強しないことのデメリットは、ほとんどの子供が、子供なりに分かっている。でも、ほとんどの子供は勉強を自発的にはしない。

学校から長期的に離れている生徒を教えたことも、何度もある。
そうした場合、当日のキャンセルが非常に多くなる。当日、具合が悪いことがわかるからだ。
こちらも、日程変更に応じられることもあるが、できないこともある。
相手も、気まずくなるらしく、結局塾をやめてしまう。
塾を転々としたり、学校を転々としたりする生徒にとって、新しい先生に会うことは、負担になる。
だから、そうした生徒は、塾もあきらめていく。

中学生向けの塾を、大きく三つに分けると、集団塾、少人数体制の塾、一対一の塾および家庭教師になる。
集団塾は、学校で一度習ったことを前提に勉強をする。質問をする時間もほとんどない。たいていは、学校の授業をまねしたものだ。
少人数体制の塾の多くは、パーテーションで区切った机に子供を座らせて、一度に三人くらい見ながら、先生が巡回するスタイルだ。
つきっきりで教えてくれるわけじゃない。
だから、一対一の塾や、家庭教師を選ぶ家庭が多い。
ただ、そういう塾は値段が高い。
たとえば、安い家庭教師を見つけられたとしても、時給は二千円くらいだ。
二時間で四千円。
週一だったら、一万六千円。
二時間で中学生の科目を教えられるのは、詰めても三教科までだ。でも、演習、先週の復習をする余裕はない。
そして、三教科しかできないから、ほかの教科をする時間がない。
週二に増やしたら、三万二千円。少し、払うにはきつい額だ。
頼んだとしても、前述したように、長期に不登校を続けている生徒は、その週二の授業を休まずにすることが難しい。

高校に行かないとなると、なおさら、話は難しくなる。
高認は高校に一年でも通った生徒にとっては、とても簡単だけど、そうじゃない人には難しい。
高校の数学だけとっても、独学で連立不等式や、判別式のつかいかたなどで、学年で言うと高1の五月あたりでつまずく生徒がとても多い。
もし、独学がたやすいのだったら、わたしとしては、とてもありがたい話だけど、実際にはそうじゃない。
偏差値が高い生徒でも、難しいと感じる人は多い。
高校生の教科を一から教えられる講師は非常に少ない。
予備校も今では減少している。
また、予備校は、一から教える場所でもない。
かといって、家庭教師で、高校生の複数の教科を教えられる人も少ない。
いたとしても、値段が高い。
値段が高くなくても、複数の教科にまたがって教えるとなると、やっぱりそれなりの値段になる。
そのうえで、普段の生活をリズムよく過ごしながら、自律して、勉強を進めることで、やっと、学習できるかどうか。

勉強は、単に知識を与えるだけじゃなくて、脳を使うことで、脳の能力を広げる目的もある。
教えているとそれが分かる。
知識が増えるだけじゃなくて、理解力や想像力が上がるのだ。

また、独学はモチベーションの維持が難しい。
どういう風に使われるのか、どういう面白さがあるのか、語ってもらったり、フィードバッグがあったり、同世代と切磋琢磨することが、モチベーションになる場合が多い。

私が見ている世界では、中学生が毎日自発的に、まんべんなく、好き嫌いなく勉強をし、正しい知識の身に着け方をし、モチベーションを持ち続ける、ということができそうな子にはまだ、出会ったことがない。
どんなに勉強ができる生徒にも、やっぱりそれは難しい。
未成年は、まだ自律ができないのだ。

わたしは、生徒が学校に行かない、と言っても、止めたことはない。困ったことがあったら、職務の中で、できるだけのことはしてきたつもりだ。

それは、本人と親御さんと、学校の先生、医者が決めることで、わたしが口を出すことじゃないからだ。

二次障害が、致死的なものだ、という言説には反対だ。
鬱や躁鬱、統合失調症、パニック障害、不安障害、そういうものにかかると、必ず死ぬというのは、それは、スティグマを新たに作り上げることにつながるし、脅しとしても機能するからだ。
治療やサポートを受けなければ、死に至る場合もあるだろう。でも、二次障害、という言葉を使う場合、すでに医者にかかっていることが前提だから、死ぬということは考えにくい。
わたしは医師に、病気や障害を言い訳にして、それに逃げて、チャレンジをしないことを厳しく止められている。
たとえ、失敗したとしても、いろいろな経験を積むこと、失敗も経験のうちだといわれている。

不登校を選ぶことは失敗じゃない。もちろん。
でも、長期的な不登校となると、チャレンジや経験を恐れやすい心理状況になる場合が多い。見た範囲では。

二次障害を避けることができるならどんなにいいだろう。でも、避けられない。無理をしないことで、避けられるのだ、ということが確実ならば、そうする人もいるのかもしれないが、それで、人生が制限されていくことが、よいとはやはり思えない。
病気には、なるときには、なる。ならないときには、ならない。
二次障害の知識があっても、二次障害になるときにはなる。

わたしが持つ、二次障害への考えが、気に入らない人もいるだろう。
でも、実際、一人の力では何もかもできない。
仮に、信頼関係を築いてある、子供が、わたしに「死にたい」と言ってきたとき、わたしができるのは、親御さんに伝えることだけだ。それも、直接伝えるのではなくて、上司を介して伝えるだろう。
親御さんの気持ちを考えると、直接伝えるのは、適切ではないからだ。

家族の領域を侵害しない。子供への距離を詰めすぎない。距離を詰めたり話したりすることは、子供を不安定にする。
家庭の決定は尊重する。それくらいしか、わたしにはできない。それ以上のことをするのは、子供をかえって危険にさらす。

わたしは、死にたいと訴える人に、選択を迫ること自体が、避けるべきことだと思う。
大きな決断をするのは、少し元気を取り戻してからのことだ。
デメリットや、メリットを伝えるのは、そのあとでもいい。元気を取り戻したら、デメリットやメリットを伝える必要自体が、たいていの場合、消失している。

家族が閉鎖的になるのは、もっとも避けるべきことだ。
長期的な不登校を選ぶ場合、家庭が閉鎖的になる。
そうなると、子供自体に学校以外の別の負担と、親御さんにとっての負担が非常に増える。
学校に少しでもかかわっていると、子供自体が、福祉につながる可能性が生まれる。養護の先生は保健師さんだ。
保健師さんは、支援につなげる役割と知識を持つ。

親御さんの立場になってみると、というか、わたしの知っている親御さんが、もし、自分の子供が、ネット上の知らない男性に相談したということを知ったら、非常に不安になり、心配になるだろう。
そして、できれば、それはやめてくれ、というだろう。

見ず知らずの人に、子供が自分で頼んだとしても、そのあとの影響を引き受けるのは、家庭だから、家庭はそれを嫌がるだろう。

子供の訴え、というのは、デリケートなものだから、距離の遠い人間は、見守りながら、関わりを自粛しないといけない。
人を巻き込めば巻き込むほどいいというわけじゃない。
訓練を積んだ専門家、親御さん、子供、医療関係者、そうした人がコアになって、もしもできることがあれば、言ってもらうのを待つ以上のことは、たいていの場合できない。もしも、そこに無理やり押し入ってしまうと、それは、コアメンバーの連帯を壊すことになる。