妊婦になっても幸せにはならないよ

妊婦になってから自分をコントロールできないので、自尊心がごりごり削られていく。
体調の悪さもそうだけど、体重の増加、体形の変化、そういうもので、プライドが痛む。

パートナーに代わりに生んでくれ、と何度言ったことか。

人生の設計ミスだ。
なのに、身ごもっただけで、母親という別人格になれという圧力よ。
検診、穏やかさを求められる。毒舌なわたしは、妊婦のくせに「かわいそう」とか言われるよ。
毒舌なのはもともとだ。それに、それがわたしの独自性だ。わたしは自分の独自性を情報として売っているので、商売の役に立っているのだ。そういうの削らないでくれよな。

わたしは、かわいそうだよ。妊婦なんかになっちゃって。
好きで妊娠したけどさ。だからといって、苦痛ウエルカムになるわけない。

だってさ、仕事で大変な人って自分から就職したくせに、って言われたら苦しいでしょうが。
自分から選んでも苦しいことってたくさんあるんだよ。

そういう妄想殺していきたい。

幸せになるために子供を産むわけじゃない。子供は別人格だから、わたしを幸せにするアクセサリーじゃない。
道具でもない。
勝手に産みたいんだ。その動機を忖度されるのはプライバシーの侵害だ。

しんどいのは想像していても、リアルタイムのしんどさが緩和されるわけじゃない。
文句言うな、っていうのは、自分が見たくないものを見たくないってわがままじゃないか。

社会的な問題について、問題だというと、怒る人たちは、個人的に思った、ということにしろとうるさい。
でもさ、社会的な設計のミスで苦しいんだから怒るのは当たり前だ。矮小化するなよって。
自分の苦境は自分のせいだ、と思うのは勝手だけど傲慢だよ。

自分のもろさを認められない人は、生きている感じが減ると思う。わたしの場合は、自分のもろさを感じて、それをなんとかしようとするとき、生きていると実感するよ。

子供を産むと幸せになるというイメージは全然ない。やりたいことは制限される。そういうイメージだから、不幸に近づくと思ってる。わたしは、やりたいこと多いんだ。
時間的なリミットと、好奇心で生むことにしたものの、マタニティーブルーは勝手にやってくる。

暇だから何かやりたいけど、できない。気力がわかない。ていうか、起き上がれない。でも暇。

PTSDがあるから、受動的な趣味の代表である映像作品を見ることも叶わない。

わたしには悪趣味があって、男向けのエロ漫画を読む。

そういうのには「中出しされると女は絶頂に達する」「支給校を自分の意思で占めることによって、受精を拒める。ただし快感が強い場合にはそれができない」「中だしは女にとっても気持ちがいい」「精液は子宮に直接入る」などのドリームがたくさんある。

そういうの、信じている人いるはず。

ノンフィクションとフィクションの間は、結構あいまいで、ノンフィクションと銘打たれていても、わかりやすく整理するために虚構は絶対にある。でも、そのことも知らない人は多い。

何度も同じものを見ているうちに、現実とは違っていても、それが本当だと信じる人もたくさんいる。

どぎついエロ漫画やポルノに影響軟化されないよ、という人いるけれども、刺激を求めてそうやっているうちに、そうじゃないと満足できないのって、すでに、フィクションが現実に作用している。そういうの、なしにして、区別ついていると言い張るのはおかしいよ。

妊婦に関する妄想もそれと同じで、妄想を言い続けているうちに、本当のことだと思い込んで、現実の人に押し付けているのって同じ構造だと思うよ。

そういうのを許している空気、て、社会的なものだから、個人的に言えばいいじゃないか、ってやっぱり変だし抗っていきたい。


性嫌悪やその他を妊婦や子連れにぶつけないでおくれ

新聞の投書で、二十三歳女性が、新聞に投書した内容が、「お店で授乳はおかしいという意見を知ってくれ」のがあった。

おっぱいは、性的なものだから、隠してほしい、という願いがあるように感じた。
それって、性嫌悪だったり、自分の羞恥心だったりするんだろうけど、それは、子連れの多い店でバイトをするのをやめるなり、見て見ぬふりをして解決をして、他人に何かを求めず自己解決してくれと思った。

他人を変えるのが難しい、という話もあるけど、それ以上に、子供を妊娠した時点で、何もかもままならない。

わたしは、つわりでも結構食べられるほうだけど、一日に四回くらいは吐くし、吐いてもすっきりしないし、食べても胃が痛いし、食べなくても胃が痛い。
おっぱいはわけわからないくらいに膨らむ。骨盤もゆるゆるになって、不都合出まくり。

妊娠する人が、全員セクシャリティに納得しているわけじゃないんだ!
ちんこをまんこに入れたら自動的にこどもはできるので、「わたしは女であるぞ。だから、すべてのことを受け入れられるぞ」という人ばかりじゃない。それは、普通の人たちのセクシャリティがばらばらなのと同じ割合で、それぞれの「母」になった人も同じだ。
母になったらいきなり全部受け入れられる超人にメタルフォーゼするわけじゃないんだぜ。

違和感も不快感もありつつ、我慢しているだけだ。

で、自分のちょっとの我慢も耐えられず、「母」の属性を持つ人に、甘えるのは「子供」であるが、「お前を産んだ覚えはない」と言いたい。
(まだ何も生んでないけど)

葛藤がありつつ、でも、子供いたら面白いし、子供増やすためには自分の子宮を使うしかないんだ。それでもって、「女」という属性すべてを受け入れて受け止めて、メジャーな感じになるわけじゃないのだ。

変わってもらえないから仕方がないのだ。

性嫌悪があるなら、それは自分で何とかするか、仲間内で何とかするかして、見知らぬ「母親」に対処を願うのは「甘え」だ。
その甘えはいい甘えじゃない。人の自由を制限する甘えだ。

ただの個人が勝手に思うならいざ知らず、子連れ歓迎のお店にいて、その店員がそういう風にいると、「安住の地はない」と思うし、その店にはいきたくないが、どの店がそういう方針なのかわからん。店員がそういう風に言う以上、ある程度、その店ではその価値観が普遍性を帯びているのだろうと思うのだった。

母親だからって他人の要望や欲望を受け入れられるようになるどころか、どんどんぎりぎりになって狭量になるんだくらいに思ってもらわないと困る。

どうして、子供は社会の宝だと思えないのかな。
それも、よくわからない。

別に子供をリアルに好きになれとは言わないが、子供いたほうがいいじゃないか。
日本が滅ぼうと何しようとどうでもいいけど、世の中に生まれた子供ができるだけいい感じに育つように応援することが、自分の苦しみを減らすことになると思うんだけどいかがか。
自分が得られなかったものを、次の世代が得られるならそんな素晴らしいやり直しはないじゃないか。

性嫌悪でも、常識でもいいし、そういうのは、自分の内部で解決してくれ。
誰も、自分が産んだ人以外の母親にはなれないんだよ。
自分を産んだ母だって何もかもは受け入れられないんだから、甘えるのもいい加減にしろと思ったのだった。


躁鬱のやろうがわたしを殺しにかかる

躁鬱が最近悪化していて、サイクルが非常に短い。
以前は一週間くらいの入れ替わりだったのが、今では数時間単位。

身近い時間だから、躁状態の時にやらかすことは減ったものの、うつ状態の野郎が、悪さをする。

物理的に体が動かず、脂汗が出て、体が痛くて動けなくなる。
この世にいる意味などない、死んだほうがいい、死にたい、消えたい、なにもできないのだから、わたしは役立たず、そんなことがぐるぐるする。

対処法にはなれていて、芍薬甘草湯を飲んで、体の痛みを取り、ソラナックスを飲んで、精神を安定させ、体のこわばりを取るために、お風呂に入る。
入浴剤や、アロマエッセンスもかなり有効だ。とにかく、居心地をよくして、自分の居場所を確保することが大事なようだ。

それでも、それを実行することができないほどのうつ状態もある。
そういうときには、布団にくるまっているしかない。時間が過ぎるのを待って、うつ状態が交換するまで待つしかない。

しんどい。

躁うつ病のことを記事に描くのは難しい。工夫することも乗り越えることも、できない。自閉症は世の中とうまくやる方法が見えてきているけど、躁うつ病に関してはなにもない。

一日家に家にいて、なにもしないで、何も作らないで、何もなさずにただ生きるだけの生に、生きがいを感じられない。
ただ、絶望感に浸っているだけだ。

何でもできると思える瞬間を、ただ、心待ちにしている。

希望が何もない暗闇の中、いるのは、とてもしんどい。仕事ができている間は、それが自分の役割であり生きる意味で、誰かの役に立てていると信じることが、しやすかったのだけど。


フェミニストになったって、人生は楽にならない

わたしは、フェミニストを自認している。
人権問題に興味がある。社会に対して、義憤がある。だから、フェミニストをしている。
でも、だからといって、人生が楽になってはいない。

お仕着せの女らしさや、おんなであるために受ける不当、そういったものに対して、理論武装はできている。
でも、そのことに対して、無傷でいるわけじゃない。別に楽じゃない。

わたしは、男たちに、いいように搾取されてきたから、とても怒っている。
しかし、それらの男たちの欲望を利用してサバイブする人のいうこともわからないではない。

個人的に、女は若いほうがいい、という規範を内面化すると、年を取ったときにきつい、というのは感じるけれど、若いうちには感じない人もいるのだろう。
わたしは、若い時も、ちやほやされようが、一見チャンスに見えるものを与えられようが、全部搾取で、あとから、とりたてが激しく来ることを、恐れていたけれど。

男の暴力や、性規範を内面化した女の世間話から、心はどんどん削られていた。
男の暴力は、腕力から来るものだけでなく、彼らの地位を利用した暴言、セクハラ、モラハラ、なども入る。

何度か同棲したことがあるが、すべて、男たちはわたしに家事をやらせたうえ、雑費というものが、理解できないらしく、そうしたものを負担させて平気だった。家事をコントロールして、何をするべきか考える負担についても、「そんなのたいしたことがない」と意識にも上らせないお十が多かった。全員に出て行ってもらった。

今はたまたま、フェミニストであるわたしがいいと、選んできてくれた人がいるので、そのままのわたしでいられる。
個人的には「女子力」を磨けば磨くほど、それを期待し、女性に対してシャドウワークを平気で要求する男たちが集まる実感があるのだけど。

だからといって、さあ、こちらに来なさいとは言えない。
サバイブの方法は人の数だけある。

わたしは、結構うんざりしている。

ツイッターのフェミニストについては、「いいことを言いたい」欲望を抑えられない人が多くいて、そのために、批判に対して時間を費やし過ぎているような気がする。
批判は大事だ。一人一人に対して訴えるのも大事だ。
でも、みんなでよってたかって、わざとじゃないしても、攻撃を続けるのは見ていて、いい気分じゃない。

批判するときは一人で、批判したい。誰かの尻馬に乗って、誰かのゴーサインを見てから、批判するのは、いじめに見える。

種類の違う同調圧力載っている人を見ると、単に、女性に対する同調圧力から、フェミニスト同士の同調圧力に鞍替えしただけに見える。


アセクシャルの家族問題

Aちゃんはアセクシャルだ。
Aちゃんとかかわるようになってから、アセクシャルの家族問題について考えるようになった。

もちろん、セクシャリティにかかわらず、家族を持ちたい人もいるだろうし持ちたくない人もいるだろう。
持ちたい瞬間もあったり、やっぱりいらない、となることもあるだろう。

今、家族は恋愛を基本にして、出来上がることが多い。

でも、性欲を基本にしなくても、家族にはなれる。

たとえば、わたしはAちゃんに性欲はない。パートナーである六帖さんも、Aちゃんに対して、性欲はない。
だから、わたしたち三人は、家族としてやっていける。

もちろん、Aちゃんが嫌になれば、どんなことも選べる。

アセクシャルは、恋愛やセックスをしない。
でも、たとえば、ヘテロセクシャルや、同性愛者と家族になることも、実際にはできると思う。

わたしは、マッチョなロン毛の男とセックスをしたいと思っているけれど、そうした男性といい家族になれる気がまったくしない。

だから、もし、セックスしたくなってセックスしたとしても、家族は六帖さんと築いたままにする。

ポリアモリーの人の中には、人を所有したくないから絶対に結婚はしないという人もいる。一理ある。
でも、家族になることを所有と思わなければ、別に両立するんじゃないかと思っている。

アセクシャルの人が、一生を過ごす伴侶として、誰かを選ぶとして、その相手が、Aちゃんを性の対象にしなければ、家族になることは十分に可能だ。

セックスをする相手を外に求めることだって、本当は自由にしていいんだと思う。
セックスをしたい相手と暮らしたい相手は別だということだ。
それは、よく、男性が言う「女房は、抱けない、家族だから女として見れない」という戯言と違って、それぞれの性質に合わせた、家族の形があるべきだということだ。

法律上、結婚することはそれほど重要だとは思えない。国家の管理下になると、税金上優遇されたり、病院に行けたり、相続の問題がスムーズにいく。でも、逆に言えば結婚のメリットはそれだけなのだ。

結婚しても、離婚をして、家族が解散することはよくある。

だから、その時々に合わせて、自分にあった家族を選ぶことは大事だ。

セクシャリティで、家族をあきらめなくてもいいといいたい。家族がいらない人も尊重されるべきだ。

アセクシャルの人の孤独を、Aちゃんに出会うまで知らなかった。
でも、性欲なしの家族の可能性は、気が合う相手を見つけることができれば、きっとできるんだと思う。

実際、わたしたちは、今のところ、家族のようなものだと思っているしね。
恋愛至上主義からはじまる家族が破たんするのはよく見るんだから、恋愛なしの信頼感に結ばれた家族や居場所、一緒に時間を過ごす人が、そういう場所が、たくさんできるといいと思う。

人生は、冒険だ。実践しながら、切り開いていくことができる。

アセクシャルの人に関していうと、その人に対して、性欲が向かない相手となら、家族になれる。
気が合って、生活を共に出来さえすれば。


世界が終わったと感じたら

急に気分が落ち込んで、世界が終わった、もうだめだ、みんなに嘲笑されていると思った。
実際そうなのかどうでもいいんだけど、なんとかしないといけない。

そういうわけで、まず、ソラナックスを飲んだ。精神安定剤は案外効く。気分障害だから、気分がすぐ上下するのだ。
エビリファイとサインバルタは今も飲んでいる。

サインバルタを飲み忘れると、つわりもひどくなるから、気分とつわりはかんけいあるのかもしれない。

そして、お風呂に入る。つわりでつらいのは、のぼせで、冷えているのに汗をだらだらかいて、足元が冷えていることだから、お風呂に入って全身を温めるのは効果がある。

今お気に入りなのはクナイプだ。今日は、ジャスミンとロータスにした。とても癒された。
こういう、むだみたいなものが、すごく効く。
効率をもとめて、心地よいことを削っていくと、お金はたまるかもしれないが、何のために生きているのか見しなってしまう。
そういう病気だし。

世界が終わったと感じるのは気分だ。
絶対にそんなことはない。悲しい出来事がなくても、勝手に、自動的にそういう気分になってしまうから、そういう気分をなんとかする手段は多ければ多いほどいい。


察する能力と「呪い」の乱用

ツイッターのフェミニストたちが、「この人はたたいてもいい」という見えない合意を形成したとき、一斉に同じ人を攻撃する。

最近は「そのツイートは呪いだ」という言い方が流行っている。

若い女性が、社会的規範を内面化することはよくある。
そして、それに基づいて、発言することもある。
そうしたときに、「呪い」という言葉を使って、何が伝わるのかというと、何も伝わらない。

その人にはその人なりの、生存戦略があり、社会的規範がある以上、それに適応するか、それを拒否するか、その選択はそれぞれにしろ、じぶんなりに生きていくために、社会的規範を意識せざるを得ない。意識の仕方が、内面化するのか、批判対象にするのか、その違いはある。
でも、そのことは他人が責められない。

わたしは、大学時代に人権をこってり勉強したから、人権について考えたいと思う。
今日本では女性の人権は制限されている。だから、それについて、批判する。
その、女性の人権を制限することで、既得権益を得ている層のことも、批判する。

ただ、数を頼んで、たたいてもいいと判定した人を一斉にたたくのは、おかしい。人は一人だ。自分の判断でするべきだ。それがたまたま重なって、同時に同じことを同じように思った人が多かった、と言い切るには、あの現象は不自然だ。

信じやすさや素直さが凶器に代わることがある。

今は、呪いという言葉を使えば、何か言ったようになっている。
でも、呪いなんて、そんなものじゃないものが、世の中を支配している。

呪いってなんだ?
呪いはあるのかないのか、わからない。
それに引き換え、社会的機構や、社会的規範は、厳然として存在する。呪いなんてあやふやな言葉を使わずに、社会的規範を内面化しないほうが楽に生きられるといえばいいんじゃないのか。
いや、これも、語弊がある。社会的規範に反して生きると、生きにくい。そうだ。
人と違うことを恐れる人が多いのだから、そういう人にとっては、社会的規範に反する生き方はしんどいのだ。

規範を批判すること、規範を発信している人、規範の言葉それを批判することと、生き延びるために規範を内面化する人をたたくことは似ていながら違う。

個人的には規範を内面化する生き方はしんどい。今だって、自分が理想の体重ではないことを、わたしは責めている。
責めることで、わたしの幸せは減っている。わたしの体重がどうであれ、わたしはわたしなのに。そういう意味でわたしはしんどい。

だから、規範を内面化して、それをきっちり守ろうと生きている人を、批判するほどわたしはできた人間じゃない。

コミュニケーション能力の高い人は、自分の意見よりも、所属しているコミュニティの意向を優先する。
自分の考えを深めるよりも、影響を重視する。
一緒にいる人の考えに合わせている。
自分が何を言えば受けるのか、評判がよくなるのか、計算しながら、それを優先する。

人の判断を重んじて行って、独自性を失い、道を間違えていく。そうした人と、規範を内面化した人との違いは、ない。

自分自身も、周りの人の意見に影響されて、それを内面化しているのに、ほかの人が違う規範を内面化していることを、たたくのは、矛盾している。人の言うとおりにしている点でどこも違わない。言っている内容が違うだけで、行動様式は同じだ。

同調圧力に負けてるという点で同じじゃないか。
それが社会的規範なのか、コミュニティーの総意なのかの違いだけで。

コミュニケーション能力の高さは諸刃の剣だ。
人の言ったことを察したつもりになって、相手を見ないで、相手の言ったことを理解したような気になって、雑な結論を出し、相手に「こういう風に言いたかったんだよね」と勝手に結論付ける。ずれていても、察する能力に自信があるものだから、訂正は利かない。

察する能力が高いと自負している人は、たとえば、わたしのような人間を、こどものように扱う。
察する、ということをした結果、それが相手の意に沿っているかなんて、察している側の本人にはわかるはずもないのに、彼らはいつも自信ありげだ。だから、彼らを修正することはできない。

コミュニケーション能力の高い人は、わたしを子供のように扱い、諭して、導こうとする。それが大人の世界なのだと。
彼らは、コミュニケーション能力が高いはずなのに、自分ではそういうのに、わたしの不快に気付かない。
彼らはわたしの不快は察しない。そんな中途半端な能力を自信ありげに語る。
話を最後まで聞かない。

幻想の中に生きている。

自分は優れているという幻想だ。

わたしはコミュニケーションは苦手だが、バカじゃない。でも、コミュニケーションが得意な人は、それができないひとを、バカ扱いする。

察するというのは、ときとして、暴力になる。相手の気持ちを無視する暴力だ。

だから、察するのが得意だという人とかかわると気分が悪くなる。

察するという能力があると信じている人たちが、ある、コミュニティを形成すると、暴力が始まり、それを止める人がいなくなる。
同調圧力を批判している人たちさえ、そうなる。

だから、わたしは一人でいい。

呪いなんて言葉は、便利かもしれないけれど、何も表していない。
同調圧力を感じることができる人たちだけの暗号だ。誰にも何も伝わらない。その狭い世界だけで流通する言葉だ。

察することができる、そういう能力があると信じている人たちの暴走が、目に余る。
わたしは絶対に加わらない。加わりたくない。

パターナリズムを批判していても、パターナリズムを発動する人たちもよく見てきた。
あなたのため、よくするため、もっと言い伝え方がある、これはだめ、あれはよい、そんなことを言われることにはうんざりだ。
わたしは間違っていても、自分で考えていきたい。
だから、間違えながら進む人に対しても、ずっと応援したい。


苦しみという中身がなくなった後の空っぽを埋める

苦しみがある間は、現実を見なくていいから、ある意味で楽だ。

苦痛から逃れるためになにかに依存していると、それが問題になるから、現実を見なくていい。
でも、依存をやめると、現実が一気に押し寄せてくる。

仕事がない、孤独、家族がいない、そういうことと向き合わなくてはいけなくなる。
人間は弱いから、また新しい依存を探して、そのことで苦しむことによって、いろいろな現実から逃れることができる。
でも、それを繰り返していたら、豊かな人生はやってこない。

やっとの思いで依存をやめたあと、それからの地獄が長い。
自分で考えて、一つ一つクリアしていかないといけない。

わたしは、過食をしやすい。食べ過ぎて死ぬことはないから、比較的安全な依存だ。それでも太るからみじめにはなる。

過去のトラウマを見つめて、そこから離れようとすると、現実に対処しなくてはならなくなるから、安全な依存先を増やさないといけない。

いつまでも、過去に拘泥しているように見える人は、そうした苦しみから逃れたいのだと思う。

それは、生きる上で必要な場合もあるけれど、人生を狭めるので、勇気を出さなくてはいけない。その勇気は、継続が必要な勇気だ。

ずっと、あのことが悲しかった、つらかった、というのはもちろん当然のことなのだ。
でも、それをしていたらわたしの人生は終わってしまう。自分の人生を生きられない。

いなくなった人に対して、恨んでもしかたがない、というのは、別にえらいことでもなんでもなく、ただの生存戦略だ。
わたしは、恨んでも殺したくても、実際の世界では殺せないから、あきらめただけだ。

得になるかならないかで、自分の進路を決められるほど、わたしは強くないつもりだったけれど、自分の人生を生きたいという欲があるから、なんとか、バランスをとっている。


体調の悪さ

心因性の体調の悪さは、対処しやすくていいと思う。
苦しいけど、薬も効くし、寝込むという方針が見えている。精神的なつらさは、気づかないうちに悪化しやすい。

今日は一日脂汗だか冷や汗だかを流しながら、横になるしかなかった。
リバースしたかったけど、うまく吐けず。いたづらに、腹筋と胃が痙攣するにとどまった。

母親になるのは怖い部分もあるのだけど、死なない程度に育てられたらいいな、と思っている。
いろいろなご家庭をみることができたせいかもしれないのだけど、親御さんと子供は似ていない。
子供は子供なりに一生懸命やっている。親御さんが一生懸命な子ほど、勉強に関していえば、伸び悩む傾向にあると思う。

とはいえ、わたしが見ている生徒は、みんな、親御さんが塾に入れる意欲のあるうちの子ばかりだから、偏っているけれど。


子供が少ないのは女のせいか

少子化が問題になっている。
個人的には、日本の子供が少なくなったとしても自業自得なので、子供が減るのは当然だと思っている。

少子化対策と銘打たれているものは、すべて、女の責任を問い、結婚を促進すれば子供が生まれるとの考えの上で、動いている。

女が子供を産むとき、さまざまな苦痛を直面する。

つわり、体の変化、妊婦の間のだるさ、仕事を思うようにできないこと、母親になったとたん、人格を剥奪され「母親」らしく生きることを強制される。そんな強制などないといえる人はおめでたいだろう。

結婚をしなくても、子供はできる。ちんこをまんこに突っ込めば、子供はできる。
でも、生むかどうかは、女が決める。

婚外子が少ないから、結婚することで、子供を増やそうとするのは間違いだ。婚外子が差別されない状態で、男と暮らさなくてもいい状況だったら、生んでもいい、ケアや助けがあれば産んでもいいと思っている人もいるだろう。でも、そういう人たちは、「あばずれ」「常識知らず」と責められる。苦境に立っても、自分の決断のせいだと、言われる。

女に子育てを任せることで、男社会は、そこにフリーライドする。
女性を雇っている会社は、出産や子育てにかかるコストを負担する。男性を雇っている会社はそのコストを負担しない。その分利益を上げることができる。リスクを負担したくない会社が多いだろうから、女性を雇用することを避ける。

女が子供を産まないと、二十年後に労働者の数が減る。だから、男社会は女を責める。
実際には、女がフリーライドされることを忌避しているだけなのだが。子供を産み育てるというコストを払わず、出来上がった成年を社会人として雇用する人々は、子供を育てるというコストから逃れ、成果物だけを受け取る。フリーライドしている。

男と女が子供を作る。でも、その後、男は、その負担自体に気づかない。そして、女は生産性が低いと責める。女が産まないせいで、少子化だとも責める。

子供は社会が育てるものだ。男性も、もちろん社会の成員なのだから、育てることに加わらないといけない。
男性が、子育てにかかわることで、フリーライドは緩和される。

女が子供を産まないのは、男社会のせいだ。
女が自分の力で生きていけない社会構造を作り上げたのは、男だ。

母親になろうとなるまいと、おんなには女の、それまでの歴史から培った人格がある。母親だということをアイデンティティにする人もいる。でも、もちろん、そうじゃない人もいる。そうじゃない人も子供を産んだり、産まなかったりする。

妊娠出産の苦痛を肩代わりをすることをできない男ができるのは、母親になった人のケアをすることだけだ。それでも、変わることはできないのだけど。

自分の人生を自分らしく生きることが人生の目的だと思っているわたしは、「母親」という属性になったとしても、人格を放棄するつもりはない。子供の成長がかわいくても、それとは別に、わたしにも人生がある。

子供に人生を押し付けたら、子供は窒息するだろう。

女が子供を産まないのは、女のせいではない。
女は、生き方を選べる。
そのことに気が付かないまま、少子化対策をしても、何も変わらないだろう。

結婚は、小づくりとイコールじゃない。何の担保にもならない。結婚をして、子供を産んでしまえば、男が、横暴でも逃げることが難しくなる。そのリスクをわかっていたら、子供を産むことに踏み切るのは難しい。

身体的な苦痛と、精神的な苦痛、経済的な損失を考えて、子供を産まないのは、合理的な決断だ。

いくら、女を脅しても、そのことは消えない。

身体的な苦痛を、軽減することはできなくても、ほかのことは社会が動けば変わる。

基本的に少子化に問題を感じないが、もし、本当に、少子化を何とかしたいのであれば、女のせいだ、と責めることをやめなくては、何も始まらないだろう。